当時は新聞紙法があった。
日本軍は記事を検閲し、都合の悪い情報はすべて禁止にできた。
当時の朝日新聞記事には「南京の捕虜は1万4777人」とある。

敗戦で日本軍は新聞社に不許可写真の焼却を命令。
記録映画フィルムも大量に焼却した。
毎日新聞大阪支社は命令を無視しひそかに写真を保存した。

「1937年12月16日、
数日間何も食わせず監禁した5000人の中国人を。
女子供老人もいる。飢餓で草を食ったり、小便を飲んでいた。
全員を後手に縛り、夜、揚子江沿岸に集め、
機関銃乱射で虐殺。逃げようとする中国人の人の山は高さ3mにもなった。
その後銃剣で死体も瀕死もかまわず突き刺してとどめを刺し
数千の死体を川に流した」

「12月17日夜は別の揚子江岸で1万人を機関銃乱射、銃剣とどめで虐殺」

16日の虐殺現場は揚子江岸の海軍倉庫の周辺。
幕府山を右に見て、上元門という集落を左折してむかう。
捕虜は飲まず食わずでヨロヨロ。
列から逃げ出すやつは即射殺。
午前中に倉庫の壁に穴をいくつも開けて
機関銃の発射口をつくる。外から見たら何かはわからない。
倉庫内に電話を引いた。これは簡単にできる。
兵士は隠語で虐殺を「お客さんを処理する」と言い換えた。
捕虜は川の方を向いて5000人が座らされた。
川には海軍の軍艦が停泊。
ピー、という笛の音を合図に乱射開始。
1分600発。それを15〜20分続けた。
銃口が熱で真っ赤になった。
こうなると弾が暴発するので、翌日は濡れた軍服を巻いた。