その書籍を当たるとさらなる元ネタの本が判明した。
1969年出版の「郷土部隊戦記」。
第65聯隊の出身地である福島県の遺族会の編著書だった。
この本で上記事実を主張しているのが
65聯隊の聯隊長だった両角(もろずみ)業作(長野出身?)だ。
彼の文章は1962年の福島県の地元新聞の連載記事の転載だった。
「捕虜を解放したものの大混乱になり、いくら制止しても聞かないので
仕方なく発砲した。日本兵7人が死亡した」とある。
番組は会津若松市へ。自衛隊資料館にある当時の第65聯隊組織図でも
両角の存在を確認できた。
両角は新聞連載直後の1963年に死亡。
さらに本人の日記?が残る。
そこには
「12月17日、南京入城式。捕虜解放。」とある。
12月16日には「虐殺」も「解放」も記されていない。
この日の数千人の捕虜の行方がなぜ書かれていないのか?

実は両角は南京入城式に出ていて、虐殺現場にはいなかった。
現場の指揮は、両角の部下、田山大隊長がとっていた。

田山の護衛兵だった上等兵の日記。
「12月16日、2500名殺す」
「12月17日、俺たちは今日も捕虜始末。1万5000」
インタビュービデオの証言。
「敗戦後内地に戻ってから田山から
『たのむからあの事だけは喋らないでくれ』と頼まれた。
戦犯になるのを恐れていた。
第一、載せる船もないのに解放する、などと下手な嘘をつくのは
とんでもない詭弁。」