日中戦争の「不都合な真実」: 戦争を望んだ中国 望まなかった日本
著者: 北村稔、林思雲

 日本は、日露戦争後の一九○六年十一月に南満州鉄道株式会社(略称ー満鉄)を設立し、満州で得た
権益の独占化をめざした。この事態は、アメリカとの間に緊張を高めた。アメリカはすでに一八九九年に、
列強諸国が中国内に勢力圏を設定することに反対する門戸開放宣言を発表していた。 そしてアメリカは
日露戦争にさいして、ロシア勢力を満州から排除するために日本を支援した。さらにアメリカは日露戦争
終結の調停役を務め、これを契機に満州への進出を狙っていた。
 このような状況下、一九○五年九月にポーツマス条約が調印された後、首相の桂太郎と来日中の
アメリカの実業家ハリマンとの間には、日本がロシアから獲得した満州の鉄道権益をアメリカと共同経営
する予備的覚書(桂・ハリマン協定)が作成されていた。しかしポーツマス条約を調印し、ハリマンの離日と
入れ代わりにアメリカから帰国した外務大臣の小村寿太郎が大反対し、この予備的覚書は日本政府により
破棄される。その結果、アメリカでは反日の機運が勃興する。
 もしも日本が、日露戦争後の満州開発にアメリカを引き込んでおれば、その後の歴史展開は甚だ興味
ぶかいものになったのではないか。中国のナショナリズムは、反日だけには向かわずに分断されたであろう。
また資金力のあるアメリカなら、蒋介石の国民政府が一九三○年代に推進する経済建設を飲み込む形で、
満州を開発できたのではないか。そうであるならば、一九三七年に始まる日中間の全面戦争と、その後の
日米戦争は発生したであろうか。その結果として、共産党の中国は出現したであろうか。 (続く)