◆第二次世界大戦で日米開戦を回避するには?◆
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アメリカの策略に嵌められたとも言われる日米開戦。
開戦ギリギリまで対米平和外交をしていたのにも関わらず、無情にも突入してしまった日米戦。
これを回避することができたのであろうか? >>515
そんな絵空事を信じる 米英ではない
第二次上海事変が分水嶺になり
南部仏印進駐が決定打になったのは
間違い無い >>516
北進の可能性をのこしつつ、東南アジアに展開するだけにとどめてしまうと、
ソビエトがシベリアから本土に兵をまわせず、
ドイツが勝っちゃうかもしれないから、全然歴史が変わる可能性がある。 >>517
ドイツが勝つことがあり得ない
日本がシベリアに攻め込んでも
せいぜいイルクーツク止まり
それもシベリア鉄道沿いの都市のみ
確保が精一杯 >>517
極東からヨーロッパに戦力を回した後も
日本陸軍が諦める程度にはソ連軍が駐留してた
シベリア出兵でバイカル湖も無理だったところ差し引いてもいいところ
大勢の兵隊を養うには機械化された輸送部隊が必要になるが日本にそんなものはなく
シベリアの野原で立ち往生がいいところかと 迫る中国「シャープパワー」(複眼) クライブ・ハミルトン氏/周永生氏/高原明生氏
ttps://www.nikkei.com/article/DGXKZO36500590V11C18A0TCR000/
■合法活動 誤った脅威論 中国 外交学院国際関係研究所教授 周永生氏
「60%現象」という言葉がある。ある国の国内総生産(GDP)が米国の60%に達すると、米国はあらゆる力を
使ってその国をつぶしにかかるという経験則だ。
歴史を振り返れば、それはかなり当たっている。
1960年代末から70年代初めにかけて、ソ連のGDPは米国の60%になった。米国が全力でソ連たたき始めた
のはそのころからだ。88年に日本がソ連を追い抜くと、こんどは日本が米国の主要な脅威となる。日本への攻撃
は、バブル経済が崩壊したあとの94年ごろまで続いた。
そしていま、中国のGDPは米国のおよそ60%である。米国は中国を怖いと思うようになっている。それは
中国の経済的な実力に対してだけではない。中国社会の性格や制度にも向けられている。放っておけば世界が、
米国と異質な中国で染まってしまうという危機感である。
こうした観点は中国文化の本質を無視していると言わざるを得ない。中国人の体には孔子や孟子の教えが染み
込んでいる。特に孟... 山縣を長岡でガトリング砲の餌にしとけば。
英米型の軍制なら外征は基本できないぞ。
上流階級の士官、労働者階級の下士官兵。
ケケ中や経団連お好みの格差社会で。 制度的に政府が軍部抑えられないんだからどうしようもない
明治の憲法制定からやり直せ
それか元老連中を不死身にしろ 歴史街道 2018年12月号
特集1 日米開戦・七十七年目の真実
ttps://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/?unique_issue_id=84368
【総論】
戦争が起きる「メカニズム」を検証 五十年間、危機の連続だった日米開戦が破綻した“本当の理由”とは
中西輝政
そこから「ソ連を崩壊させてなるものか」という思いが、ルーズベルト大統領にあの大きな決断をさせたのだと思われます。
その「決断」とは、日本の北進をやめさせ、逆に南進させようという目的で、対日石油禁輸と在米日本資産の凍結を行ったこと
です。ルーズベルトはこれによって日本を挑発し、日米開戦を経て、米独戦争、つまりアメリカのヨーロッパ参戦と、英ソの
直接救援を可能にせんとしたのです。
戦後の日本では、「日本軍の南部仏印進駐への対抗として、石油禁輸と資産凍結が発動された」と我々は教えられてきました。
ところが、最近、明らかになったイギリスの暗号解読文書を読むと、すでに1941年6月末の時点で、英米は7月末の日本による
南部仏印進駐をいち早くつかんでおり、これを口実として対日石油禁輸へ踏み込もうという動きが出てきます。これは、石油禁輸
をされた日本は必ず南方の資源を求め、対英米武力行使に出ると見て、日本に「最初の一撃」を撃たせようとしたわけです。
しかし、日本は、対米開戦だけは何としても避けようとして、近衛−ルーズベルト会談を提案したり、日米交渉でギリギリの
対米譲歩案(暫定案)を提案したりしました。 >>526
廃止を強制された「戦争調査会」、そこでは日本人自らが原因を探っていた
井上寿一
調査会の中で、昭和15年(1940)から陸軍省整備局整備課長をしていた岡田菊三郎は、「アメリカの態度を硬くし、戦争が避け
がたくなってきたと思わせたという点では、南部仏印進駐が非常に重大な転換点だった」と指摘している。
なぜ、アメリカが態度を硬化させたのか。南部仏印に日本軍の基地ができると、アメリカ領だったフィリピン、イギリス領だった
シンガポールに、日本の爆撃機や戦闘機が直接、行けるようになり、それを脅威に感じたのだというのが、岡田の見解だ。
では、なぜ、日本はそんなことをしてしまったのか。これについては、当時の首相だった近衛文麿が遺書の中で書いている。
それによると、昭和16年6月22日に独ソ戦が始まり、当初はドイツの調子がいいように見えたので、「ここでソ連を叩くべきだ」と
陸軍が主張していた。近衛はその陸軍をソ連と戦わせないために、南方に目を向けさせる目的で仏印進駐を決めたのだという。
(中略)
これを踏まえて、「野村駐米大使の日米交渉路線をメインにしていれば、日米戦争は避けられた。松岡の三国同盟路線が
なければ良かった」と言われてきたわけだ。
ところが戦争調査会において、野村自身が「三国同盟があったことによって、日米交渉は途中までうまくいった」と語っている。
野村によると、三国同盟の圧力を背景にしてアメリカ側に強く出ることができて、アメリカ側も譲歩の姿勢をみせた。ところが、
独ソ戦でドイツが劣勢になり始める。すると今度はアメリカが強く出るようになり、日米交渉が挫折したという。 ソ連が日本侵略の為に作ったのが日本共産党
その広報誌がアカヒ新聞
盛んに日米決戦を国民に煽った
こいつらを抹殺しておけば日本は安泰だった
今からでも遅くない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています