イタリア軍総合スレッド part8
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>>395
イタリア軍相手なら歴史が変わったね。マンデラ、ガンジー、ネール、孫文は建国の父に
ならなかったかもね。 :::::::::::::::::::::``ヽ
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`` ?---? 'い
http://blog.livedoor.jp/nachi_ibuki/
09058644384 >>395 >>397
イタリア軍は大敗の後、うまく交渉して追い討ちをかけられないで撤退できれば大成功。 イギリス軍やフランス軍は一時的に敗北し、苦戦しても最終的に植民地戦争に
勝利してきたが(アメリカ独立戦争は別にして)イタリアは完敗して「土人にも負ける
イタリア」と評判がた落ちだった。 日本軍がインド洋作戦に消極的になったのは、開戦前に既に東アフリカのイタリア軍が負け続け、日本が参戦した12月8日にはインド洋方面の拠点を失っていました。 イタリア人は日本人以上に
戦に向いていないw
頑張れ! イ・タ〜リア!! イタリアは結局敗戦国なのか戦勝国なのか
ドイツと日本に宣戦布告し賠償請求もしたよね
もちろん日独は払ってないけど 敗戦国だろw
それと賠償は経済援助など
各種兆の単位で日独遣ってますわw 航空機に関しては
チェコやスウェーデンクラスだね
イ・タ〜リア!!wがんばりますw Dday当時
もうイタリアの半分が占領されてて
今日の番組観て泣いたw イタリア軍に匹敵する武将が日本にいた。頼朝、義経の叔父、新宮の十郎行家である。
百戦百敗の戦下手として有名だったらしい。 よく百戦も出来たなあw
経理や兵站で頑張ったのでしょうw 源平合戦の話が出たので、富士川の合戦で水鳥の羽ばたく音に怯えて敗走した平家は
イタリア軍ぽい話だよね。 最初は敗戦でしょげるムッソリーニを励ましていたヒトラーもあまりに敗戦が続くイタリアに
苛立ちムッソリーニにきびしく指摘するようになった。そしてそれでも負け続けるイタリアに
ついに金切り声をあげてムッソリーニを叱りつけるようになったとさ。 信じられないだろうが30年代イタリアは
フランス以上の軍事力と言われていた。
エチオピアとスペインで(実態はどうであれ)評価されていた。 >>446
no=3やno=4読んだんか?
[「縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け
継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が
縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。」
「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。
沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。」
「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたの
です。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説
『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出て
きた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が
集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは
否定できない」出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は
「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。…
第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)
が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降と
いうものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』
だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は
弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、
大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。
のモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた
新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。
この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と
斎藤教授は説く。] >>446
昭和期の埴原和郎氏が生体計測資料から、
「人類学教室の助手助手をしている河内まき子さんが、いろいろ統計学的に
スクリーニングをして、信用できる計測値だけを選び出して、全国的な傾向を見ると
いう研究をつい最近完成しました。
これでみると、近畿から山陽、九州の一部、四国の一部というのはかなり似ていて、
日本の中心部を占める人たちはかなり朝鮮系に似ている。
そのほか東海、関東、東北、北陸、山陰、九州の真ん中あたり、これがちょっと
違いまして、この地方の人たちを河内さんは周辺部の特徴を示す人たちといって、
かなりはっきり区別してます。…これを時代とともに追ってゆくと、中心部の人たちの
特徴が時代とともにだんだん周辺部にも及んでいることがはっきりわかる。…
古くから関西は朝鮮系、関東、東北はアイヌ系といわれていますが、アイヌ系、
朝鮮系という表現法はともかく国内における地域差はそうとうはっきりと
出ています。」
じゃが、朝鮮人の人骨サンプルは、埴原和郎氏が「北朝鮮系の人たちの骨とだと
思いますが」とされるよう北朝鮮系の人骨で、朝鮮南部人骨なら、多少日本の
周辺部に近うなるんじゃなぁかのう。 >>447
軍板じゃ、ヘタリアじゃの弱兵のイメージで語られるイタリアじゃが、北イタリアの
アルプス側の アルピーニ山岳師団兵は精強中の精強じゃけぇのう。
{1943年1月にソ連軍はスターリングラード占領作戦「鉄輪」と平行して、小土星作戦の
完了に向けて大規模な援軍を送り込んだ。司令官フョードル・イシドロヴィッチ・
クズネツォフ大将は まずイタリア第8軍残余と共に陣地を固守していたハンガリー
第2軍に攻撃を行い、スヴォボダ村で ハンガリー第2軍は壊滅的な打撃を受けて退却
した。クズネツォフ大将は次に山岳陣地に 立て篭もるアルピーニ師団に攻撃を行った。
山岳師団は決して後退せずに陣地を守ったが、ハンガリーに続いてドイツ軍第35軍団の
残存部隊が後退を強いられる。側面部隊の退却によってアルピーニ兵の陣地はドン川
に取り残され、1月13日に包囲下に置かれた。この時点でも司令部はアルピーニに
「飛び地陣地」の防衛をソ連軍牽制の為に熱望したが、既に最初の攻勢と二度目の
攻勢でさしもの山岳師団も多くの死者を出していた。ジュリオ・マルツィナト少将は
非現実的な命令を拒絶したが、それでも二日間は完全な包囲下で ソ連軍を退け
続けた。…1月15日、マルツィナト少将は降伏を避けるべく、包囲網突破による
ベルグラード市への後退を決断する。既にソ連軍はアルピーニ陣地から後方150kmまで
を占領しており、突破は殆ど不可能と見られていた。また包囲時点で
『トリデンティーナ』は未だ健在だったが、『ユリア』 『クネーンゼ』は半壊状態に
あった。兵員も4万名にまで減っていたが、少数ながらドイツ軍から受領した戦車など
対戦車手段は残されていた。 1月15日、突破攻撃を開始したアルピーニ師団は後方の
村々を占領していたソ連軍を各所で破って進軍した。ステップ地方の異常な厳寒の中、
徒歩による150kmの進軍は何度もソ連軍によって捕捉された。22回に渡って行われた
軍の追撃部隊との交戦を退け、零下40度という真冬の平原で野宿を挟んで強行軍が
続けられた。行軍の中で『ユリア』『クネーンゼ』師団の兵員は全滅して
少将も戦死したが、『トリデンティーナ』師団はルイジ・リベルエーリ師団長を
指揮官に、諦めずソ連軍の追撃を撃退して突破を続けた。 …} >>447
>>450の続き。
{1月26日、『トリデンティーナ』師団は枢軸軍が新たな前線としていたベルゴロード
近郊のニコラエフカ村に到達した。そこはソ連軍にとっても前線であり、取り分け
強固な防衛線が敷かれていた。『トリデンティーナ』は最後の戦力を投入して攻撃を
開始、激戦を制してニコラエフカ村を奪取した。だがソ連軍の抵抗も激しく、増援を
得てニコラエフカ村に猛攻を加えてアルピーニ兵から村落を奪還した。絶望的な
状況に陥った兵士達にリベルエーリ准将は「Tridentina、Avanti!
(トリデンティーナ、前進!)」と号令し、自ら先頭に立って陣地への歩兵突撃を
敢行した。 雪崩れ込むアルピーニ兵の突撃にソ連軍は頑強な抵抗を見せて
アルピーニ兵も多くが倒れたが、陣地に到達した部隊の攻撃に大きな打撃を蒙った。
ニコラエフカ村は陥落して、戦線に穴を開けたトリデンティーナ師団は2月1日に
ベルゴラード市の枢軸軍陣地に到達した。奇跡的な突破だったがその代償として
4万名の兵士の内3万名が戦死し、その一人でもあった司令官の ジュリオ・
マルツィナト少将に対してはドイツ軍から騎士鉄十字勲章が追贈された。}
他所でものう。
https://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1440581115/
90 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん@転載は禁止:2015/09/05(土) 09:49:55.25 ID:84c1h7CL
ここでもこきおろされるイタリア軍が哀しい
92 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU @転載は禁止:2015/09/06(日) 00:28:36.17 ID:K8dm6E/B
イタリアのアルプス地域の山岳兵は強いど。 >>429
南北朝期にゃ、播磨の悪党軍に散々負けた関東に新田義貞軍とか、河内の悪党の
楠木軍に、苦戦する関東兵は近畿兵たぁ弱いし、近代郷土兵団の戦績からも、
近畿兵団の方が、関東地方の兵団よりも強かったたぁ云えるけどのう。 >>452
われが嘘云う根拠たぁなんなら。久しぶりに軍板で書きよったら、東アジア板並みの
トンデモカルト全開じゃなぁか。
じゃが山岳地域はイタリアのアルピーニ兵を含め、スコットランド高地聯隊、
ネパールのグルカ兵、台湾の高砂兵、>>451の中国の広西兵にしても強いよ。
逆に日本じゃ平野部が広い関東地方の兵隊が一番弱いけど。 >>455
わしゃ、東国系の血族が濃いい安芸国人衆系じゃが、安芸国人衆は血族たぁ、山がちな
広島県の土地柄ゆえ広島県へ移住したら強いし、土地の狭さから機敏で隙のない
日本最強の将兵を産んだんよ。 >>457
村上水軍は契約含め規模が大きかったが、瀬戸内は島単位でも南蛮船が通行料徴収の
カスリ払わんゆえ、強奪した蒲刈水軍ら島々に海賊衆がおったよ。倉橋島は関東から
移住した領主の多賀谷氏の元で契約した多賀谷水軍がおったし、広島湾や呉湾にも
大小の海賊衆がおったよ。後に芸南東部は関東から移住した小早川氏の元に
小早川水軍の規模も増えたけぇのう。広島県の内陸も契約で複数の主君に使えた
国人衆武士団がおったし、対長宗我部の四国、対島津の九州征伐や朝鮮出兵の
イケイケ加藤・小西の九州勢を撃破した遼東軍の親分李如松勢を、「碧蹄館の戦い」
で一番苦闘の正面ガチンコで撃退したんが小早川隆景に率いられた広島県の
安芸国人衆じゃけぇ、近代郷土部隊の広島師団も常に正面のガチンコ戦に投入された
歴史的伝統よのう。九州勢は薩摩のオカマ戦法の吊り野伏戦法のように側面、
後方迂回でオカマ掘る戦闘しか出来んし、ガチンコ正面激闘や膠着戦に脆いけぇのう。
要するに九州勢は「戦さの品格」に欠けるわけじゃ。じゃけぇ小早川隆景さんは、
九州立花勢は側面からの奇襲に使い、最も負担も犠牲も覚悟の正面は信頼出来る
地元の安芸国人衆なら加藤・小西の九州勢と違い広島県勢なら絶対崩れん自信も
あったろうのう。
https://sengokumiman.com/hekiteikannotatakai.jpg >>458
そりゃあ、偏見と先入観よのう。イタリアの山地の連中は強いよ。
まあ、地域別じゃ日本でも中国でも強弱があるよ。しかも郷土地域で兵隊の気質も違う。
イタリアのラテン的ルーズに近いんは日本じゃ九州兵団よ。
九州兵の方が、
他部隊や敵から糧量や武器を掠奪、強盗したりして、凶暴度が断然ラテン系たぁ、
比べもんにならんほど上回っとるよ。九州兵はラテン系のノリじゃけど
同地域の(九州島は朝鮮半島の延長上にある)韓国兵の性格に近い。過去スレから、
森金千秋氏が広島39Dから、熊本58Dへ転属された時の記述で、
「広島兵団の厳正な軍紀と対照的に、規律はきわめてルーズであった。
第三十九師団(広島)では 想像もできないことであったが、この部隊では、
古参兵たちが、日夕点呼の、のち夜おそくまで酒を飲む風習があった。
このため、初年兵は夜おそくなってから鶏料理をつくらされたり、
羅店の町に酒を買いにやらされたりした。」と。
元熊本第六師団の半澤幸親氏は、
「夜も酒と女で賑わう盛り場が方々にあって、第一線帰りで血の気の多い
九州男児が、一個師団もまとまって駐留しているとなれば、何がしかの "コト"が
起こるのは必然である。この赤鬼軍団は、夜戦にも強く、規律維持 に当たる
憲兵や兵站部隊相手に、平素からの不平不満を酒の勢いで爆発させ、乱暴狼藉を
働く者もあとを絶たなかったようだ」と。
まあ、権威を持つ憲兵相手に暴れてもええけど、兵站部隊相手じゃ弱い者虐めに
なりますね。
九州兵はラテン系の乗りですから規律なんか守りませんよ。ガ島でも九州の
久留米兵団とインド兵は規律が苦手で守れず、味方の同じ日本軍の他師団の糧量を
泥棒してましたし(笑)。九州人は、自分の物は自分の物、人の物も自分の物と
手癖が悪りいわけじゃし(笑)。 >>458
福岡連隊じゃった高崎伝氏は、泥棒部隊であったことを誇らしゅう書いておられる
けど。ほいから、敵を武器を奪うなんか、広島師団が南寧戦で武器がのうなって
竹槍を造って、敵兵を刺し殺して武器を奪い戦闘を継続したよう、中国地方や四国、
九州の機敏な特質を持つ兵団しか出来る芸当じゃないよ。鈍重な東北や北陸の兵は
無理じゃし、関東や東海の兵も得意じゃ ないけんのう。
高崎伝氏の文から要点を抽出しとこう。
『糧秣受領にゆくというのは、ドロホーにゆくという、百二十四連隊の暗号で、
他部隊の者はおそらく誰も知らなかっただろう。兵隊たちは掴まりそうになったら
カシの棒で警備の兵隊をぶん殴って気絶させたそうである。
「おい戦友、堪忍やぜ。俺を恨むなよ。恨むなら、うちの親分を恨めよ。警備に
立ったら、日本兵やからとて油断するなよ。これも訓練の一つだ。こんど
来たときゃァ、素直に盗らせてくれよな」まさに説教強盗も顔負けである。
工藤軍曹の話。「昨夜、道端に輜重の兵隊が脳天を割られて、血だらけで倒れていた。
もういまごろは死んでるじゃろう」手口から見て、犯人はどこの部隊か、おおかた
わかるような気かした。まさに「ああ壮烈!ドロボー部隊」と辻参謀が戦記に
川口支隊(福岡124i)をドロボー部隊と書いた気持ちもわからぬでもない。泥棒は
日本兵だけでなく、高射砲の印度兵も また同じであった。暗闇の中で、変な日本語で、
「ヘイ!マスター、ドロボーか、ワタシモドロボー、ナカヨクネ」
「おう、ユー・インドか。うまくやれよ。」そういって別れた。
まあ、軍隊じゃあ、同じ日本軍でも、ぽさっとしよって盗られる方が悪いけえ、
九州兵の云われることは概ね正しいよ。まあ、九州兵とインド兵に規律を求めても無理じゃ。
隙さえあれば、味方の物でも盗むけんのう。ガ島じゃあ東北や北海道の兵士も多かったけぇ、
そりゃあ盗り易かろうて。 じゃが九州兵はマレー戦じゃエースの機敏な広島師団から盗めんで
残念じゃのう。 平家の落人の住む島々w
なるほどそれで全てのレスが繋がる
反日の原点それが平家の落人!!w >>462
平家伝説じゃの広島県は少ない方なんも浄土真宗の影響もあろう。
平家自称子孫の広島県東部の備後杉原氏のことか?
https://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/history/1412873391/753
[まあ、杉原氏にゃ九州人は首ようけ取られたのう。
「胤平の子、又太郎信平、又次郎為平兄弟は建武三年春(1336)足利尊氏の西国下向を伝え
聞き、これに従って、筑前多々良ケ浜で菊池の軍と戦い、 兄又太郎は敵七騎と伏首十三を取り、
為平も相劣らず無数の功を挙げ、 尊氏自らが筆を取り、兄弟の浅黄の母衣に「西国一番の働
無比類者也」と 大文字で書き付けたといわれる。この功により備後国御調郡の内十三の村、
本郷庄、木梨庄の地頭職に補せられた。」 九州勢は広島から見ると弱過ぎで相手にならんよ。
広島県から見たら九州は大して強うも無ぁし、ハッタリで強がるだけじゃろう] >>462
朝鮮隷属奴隷根性の九州の本質に触れたら反日扱いしても、九州の熊襲、隼人も
大和民族じゃ無あし。
>>464
何で松浦党が出てくるんか。松浦党は元寇でも瀬戸内水軍を率いた河野氏の元寇での
奮戦も正面ガチンコの「後築地」でオカマ戦法の戦さの品格も無ぁ九州勢、松浦党も
元、高麗の敵さんが船舶で寝とった寝込み襲う品格の無ぁ戦法しか出来んよのう(笑)。
[1281年の弘安の役では、河野通有率いる水軍衆は博多の海岸に陣を敷くが、有名な
博多の石塁(元寇防塁)の前方にある砂浜に布陣し、石塁を背後とした
この不退転の意気込みを「河野の後築地(うしろついじ)」と呼び、島津氏を
はじめとする九州諸将は、通有に一目置いた緒戦で通有は伯父の河野通時とともに
元軍の船に襲撃をかけ、伯父の通時は討死し、通有本人も石弓により重傷を負うも、
朝鮮の将を討ち取る武勲を挙げた] 九州から広島更に神戸に異動した説w
結局潰された雑魚だったw
菊部隊でも証明されてるしなw >>467
>九州から広島更に神戸に異動した説w」云うて誰が?
> 結局潰された雑魚だったw 菊部隊でも証明されてるしなw」ほりゃあ、ほうよ。
>>461-462の久留米の菊は手癖の悪りい泥棒しか取り柄の無ぁ、戦闘じゃ負け戦
ばっかしの自虐自慢の負け犬根性しとか無ぁんじゃけぇ。唯一の激戦勝利のコタバルでも、
犠牲者が多過ぎて、正面ガチンコのエースの広島師団に一支隊貸して呉れと泣き入れるくらい
じゃけぇ。シンガポールじゃ正面ガチンコのエース広島師団の抜け駆けして
久留米の菊は一番乗りを目指すも、英軍の反攻に大村聯隊はほぼ壊滅の敗戦いで
夢去りぬよ。結局正面ガチンコの広島師団に英軍は降伏白旗じゃったし。
>>468
イタリアも地域によって強弱が違うし、日本でも一緒で。日本最弱の関東地方もお笑い
ネタじゃなぁか。辻政信氏も、「第一師団(東京)の統率訓練は、外面の粉飾を
事として内容充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、その戦力は支那軍にも劣る」
「東京師団だけに狡さがあり、ただ表面だけを繕えばよいと考えていた。
送迎のサービスはさすがに垢抜けしていた。実弾を以て射撃の成績もさっぱり
振るわない」と酷評じゃし、中国軍も「東京師団なら何べんでも戦ってやる」と
舐められよったけぇのう。
元東京101師団103連隊の坂田甚蔵氏「私らの部隊は、戦闘に弱いけど、悪いことでは
天下一品だった。だから鬼部隊と呼ばれてね。… 街に入ったら強い。なにしろ略奪や
強姦はお手のもので、部隊にちゃんと火付け班までできていたんだからね。二階に
避難民を押し上げて、はしごをはずして火をつけたこともある」まさに
「麻布暴力団」と呼ばれただけあって、戦さは、弱いが、武装しとらん住民にゃ強い。 >>468
ほいから、東京師団はイタリアの一番弱い師団と同レベルなんはこっちものう。
関東の兵団は毎度弱かったけど、前代未聞の日本の恥を晒して仕舞うたよ。
日露戦争じゃ北関東兵士も 東京第一師団じゃったし、日露戦争の戦闘行動ものう…。
http://www.geocities.jp/takesanwind/book/siba/sakanoue72.html#top
■乃木軍の大潰乱と大敗走は公表を禁じられてきた
「乃木軍の大潰乱と大敗走がおこなわれたのはこの第一師団においてである。
これほどの大潰乱は日露戦争以来、日本陸軍においてはじめて発生したもので、
その後ながく世間では公表を禁じられてきた。」
乃木軍参謀津野田是重が実際に見た情景をかれの文章によって写すと、
「敗兵のほとんど全部は銃を捨て、剣もなく、ある者は背嚢も帽子ももっていない。
甚だしいのになると脚絆も靴もなく、まったくはだしの者もあった。……
予は狂奔し、大声疾呼して退却部隊に停止を命じたが、一人としてこれに応ずる
ものはない。
この潰乱敗走は、一個師団という大きな兵力単位托準這われたという点、
未曾有のことであった。日本陸軍にあっては西南戦争の大阪鎮台が弱兵で、その後の
兵制による大阪の第四師団がもっとも弱いとされ、東京の第一師団がこれに次ぐと
されたが、日露戦争にあっては第四師団に問題はなく、第一師団がそれをやって
しまった。」
「ロシア兵の突撃、皆で逃げれは怖くない 」云うわけか(笑)。 >>469
出雲の尼子も岡山の備前、備中国衆軍団らも、毛利勢の安芸国衆軍団に攻略されたんを、
へこさか(真逆)云うてもつまらんわ。 >>473
イタリアの山地強兵地域なら>>470-471のヘタレ東京師団が勝てんのは当然じゃが、
イタリアの弱兵地域と日本の弱兵地域たる東京師団の関東兵はどっちが
劇弱なんじゃろうか(笑)? 戦時中何処で何をしていたか
さっぱり分からない地域の人々w
これに尽きるw >>475
東京師団も第一師団は北支戦線で3分の2の死傷者を出して、南方戦線じゃ日本最弱
東京第一師団も逃げ道が無ぁゆえ、久留米の菊や龍が中国軍からと同様の
米軍から敢闘賞の同情リップサービスは受けとんじゃが、ほとんど突撃の経験は
あるまあ。
実際、都会兵の人らは突撃経験が無ぁんがほとんどで、日下公人氏も[「ただ歩いた
だけです。敵の弾が飛んできたこともありません。私も撃ったことがありません」と
大部分がそういう話だ。他の人に「突撃したという人がいましたよ。その人は
一回目は忘れたけど二回目は確か南寧攻略、三回目はシンガポールでした(戦闘歴から
広島師団の可能性が極めて強い)」と言うと、「そんな人が生きているはずがない。
本当に三回突撃して生きていたら、信じられないことだ」と言った人がいた。
「突撃なんて、あんた軍事教練で朝から晩まで戦争ごっこやっているんだけど、
実際やったらほとんど死んじゃうんです」と言っていた。]
後方配属の戦場掃除部隊体験談ならそういうもんじゃが、最前線は殺るか殺られるか
じゃし。最前線知らん後方の都会兵の体験者が自分に突撃が出来んけぇ、出来るわけ
無ぁじゃの思い込みの大嘘こくわけじゃ。 >>475広島師団の南寧戦から。
{伴木上等兵の大きな声が聞こえた。「小隊長殿、前へ出て来てください。後の方で
刀を抜いておっても敵は斬れませんでぇ」 小隊長も気後れして後ろにいたわけではなく、
いかに戦闘指揮するか判断しかねた状況であったと思われる。しかし戦場では
第一線指揮官(小隊長)はその事情がどうであれ先頭にいなければならないのである。
伴木上等兵は息もつかせず、 「前へ出んさいや!!」と繰り返し怒鳴った。彼は古参の
上等兵でこの日も分隊員を叱咤激励していた。過去の戦闘で彼がこれほどまでに
興奮した例は今まで経験したことがない。林少尉に否はなかった。兵隊たちも
突撃準備態勢に入り着剣した。手榴弾を腰からはずして敵をめがけて投げつけた。
敵もこれに応じて手榴弾を投げ返して来た。横目でチラリと誰かが倒れるのが見えた。
修羅場というのはこのことか。生死を境にして敵味方入り乱れて戦う凄惨さはもはや
たとえようがない。 どのくらい時間が経ったのか。気づいて見れば敵の姿がなかった。
我々は勝ったのである。万歳する余力もなかった。お互いの顔を見合わせて呆然と
していた。誰の顔も真っ赤であった。 (ようも死なずに来れたもんじゃ)(不思議に弾が
当たらんかった)(何がどうなったかさっぱり分らん) しかし林少尉の姿がないのは
誰も知っていた。ハッと気が付けば、先陣の伴木上等兵がいない。…激しい格闘の
末絶命したものであろうか伴木上等兵の顔面は無惨なほど損傷が大きかった。}
林少尉も伴木上等兵も戦死されたんじゃが、最前線は修羅場の連続よ。 言い訳だらけの戦績w
菊部隊の爪の垢でも煎じて呑めよw 208 名前:名無し三等兵 :2018/01/20(土) 03:17:13.88 ID:vhJBq+Vi
フランス、徴兵制復活だってよ
やっと キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! w 645 名前:逝け袋キター!愚痴 [sage] :2018/01/20(土) 11:58:44.88 ID:3YHlpem9
>>628
18~21歳の男女に一ヶ月間の兵役を課する案を検討する段階げな。
効果を疑問視したり、多額の資金が必要とする意見もあるらしい。
一ヶ月間の兵役って体験ツアーとか隊内研修の長いバージョンだもんねぇ。 川重、NY地下鉄1600両受注へ=過去最大の4000億円
1/20(土) 10:01配信 時事通信
【ニューヨーク時事】川崎重工業が米ニューヨークの地下鉄車両約1600両を受注する見通しとなったことが19日、分かった。
受注額は約4000億円と、同社にとって過去最大規模となる。
ニューヨーク州交通局(MTA)傘下のニューヨーク市交通局(NYCT)が、新型車両「R211」を川重に発注する方針を固めた。早ければ24日のMTAの役員会で承認される見通し。
米メディアによると、当初の契約分は約500両で、約1100両がオプション(追加発注)契約となる。川重は2020年7月に納入を開始する。 >>478
戦績が憐れで、泥棒と強姦部隊として名高い、久留米の18D(菊)の爪の垢じゃの飲む
馬鹿垂れはおらんよ。久留米師団ファンは吐いた唾だきゃ飲みよるのう。
九州部隊の戦記は白兵戦の記述がほとんど無ぁわのう。熊本師団鹿児島聯隊の
川崎春彦氏も、白兵戦じゃのほとんど無かったと云われるし、久留米師団福岡聯隊の
高崎伝氏も、捕虜や非戦闘員にゃ首を斬っても、対峙する敵たぁ白兵戦せんで、
九州名物の鉄帽ぬいで立ち撃ちよ。九州兵団は正面で距離を詰めて白兵戦で
勝負出来んけぇのう。
>>480
イタリアを都市部の弱兵地域に限定するんなら、日本も都会兵の関東地方部隊に
代表させたら、>>470-471の巧言令色の敵前逃亡の臆病云うことんなろう。
まあ、臆病なら九州の部隊も距離詰めづっと銃撃するわけじゃが、九州人自体は
立ち撃ちこそ勇猛じゃと思い込んじょるけぇのう(笑)。 >>484-486
ほいで、イタリアの弱い地域と日本最弱の関東地方部隊とどっちが弱い思うとん? >>488
南九州の熊本58D自体、衡陽城攻略の強襲でほぼ壊滅し、それ以降の58Dは、全国から
集めた雑軍になったのう。関西を弱兵と罵る元熊本58D鹿児島聯隊の川崎春彦氏も
都合が悪いせいか、 大陸打通最大の激戦衡陽作戦に触れてない。
衡陽城攻略で緒戦から、粘り強く闘い、武勲を立てたんは、関西の大阪や京都の
師団 じゃし。第二次攻撃の熊本58Dは、強襲突撃でほぼ壊滅され、南九州の
熊本58Dは、兵員不足ゆえ、全国各地の兵を集めた混成部隊に成って仕舞うた
けぇのう。
軍が期待しとらん時の近畿地方の部隊は意外に強い云う評価通りじゃが、
大阪師団は意外に強いことから「シ江作戦」の前線に投入したら、戦闘開始前に
「部隊はオトリとして使用される」噂で、仮病入院患者続出の出動拒否で、実際、
「シ江作戦」戦場じゃ、大阪師団は大打撃の敗北で、入院して仮病出動拒否の兵隊は、
それみたことかと、戦闘に参加した真面目な兵隊は「何の為に参加したんや」と
ボロクソに貶され阿呆と馬鹿にされた。これが戦場実力は大したこと無ぁのに
鼻息だけ荒い九州部隊なら、「戦場に参加せず、それでも九州人か」と
入院仮病の方が貶されるけぇのう。これが、近畿と九州の中間地域の日本最強
広島部隊なら、「命の惜しいもんは残れ、命のいらんもんは行くど!」よのう。
九州の集団主義のような強要はせんし、個人の判断を大切にするし、戦場でも、
指揮官たぁ下士官、兵隊の独断で判断するんが個人主義の発達した広島の兵隊よ。
広島の兵隊は「戦闘は馬鹿にならにゃあ出来んが、戦闘は馬鹿のままじゃ勝てん」
云う思考で、低脳馬鹿なままの負け癖九州兵や、合理的で馬鹿に成れきれん
時々善戦の近畿兵との違いよのう。 >>491
九州勢は正面ガチンコが苦手で出来んけぇのう。
939 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU :2017/02/08(水) 01:55:05.51
九州ローカル最強の熊本師団が日本最強の広島師団以上に共に戦うた戦いで武勲が
上回った事例が一度でもあるんなら、その戦闘名を明記してみんさいや(笑)。
193 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU :2014/08/16(土) 00:29:03.16 ID:g/r0DuBY0
南九州の熊本師団が広島師団と共に闘い、広島師団以上の武勲立てたことなんかあったんか?(笑)。
過去スレから。 「広島五師団の陣地攻略の巧みさは日露戦争までさかのぼってみると
まず大石橋付近の戦闘がある。広島五師団は名古屋第三師団、大阪第四師団、 熊本第六師団と共に
第二軍で闘ったが、敵塁は堅固で各隊は固着し進展せず、 広島五師団の夜襲で勝利を呼び込む。
この戦闘は天聴に達し、第二軍は勅語を拝受した。
「第ニ軍ハ大石橋付近ニ於テ優勢ナル敵ヲ攻撃シ次テ第五師団ヲシテ夜襲ヲナサシメ
遂ニ之ヲ破リ防御堅固ナル陣地ヲ陥レ併セテ営口ヲ占領シ水路ノ利ヲ占ム朕深ク毎戦能ク
其功ヲ奏シタルヲ嘉ス」
奥ニ軍司令官の五師団に対しての賞詞文にも
「明治三十七年七月二十四日五師団ハ(中略)堅固ナル敵陣地ニ対シ攻撃ヲ実施セシニ敵ノ頑固
ナル抵抗ニ由リ日暮一旦戦斗ヲ中止セシモ夜長更ニ全力ヲ挙テ決意敵塁ニ突入シ以テ其拠点ヲ
奪取セリ子此夜襲ノ効果ハ我軍全般ノ作戦ヲ有利ナラシメタルモノニシテ敵ノ主力カ敗退セシハ
蓋シ 此勇敢ナル動作ニヨルモノ多カルヘシ仍テ本職ハ特ニ五師団ノ功績ヲ 賞賛シ(中略)」
明治天皇も、「第五師団ヲシテ夜襲ヲナサシメ (中略)朕深ク毎戦能ク 其功ヲ奏シタルヲ嘉ス」
九州人の奥司令官も、「仍テ本職ハ 特ニ五師団ノ功績ヲ 賞賛シ」
と明治天皇にも九州人司令官にも名があからん熊本師団は、駄目じゃのう(笑)。 >>492
日本の最多人口の関東地方兵が>>470-471が如く弱わあけぇ、
>>450-451のアルピーニにゃ到底勝てんよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています