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軍板じゃ、ヘタリアじゃの弱兵のイメージで語られるイタリアじゃが、北イタリアの
アルプス側の アルピーニ山岳師団兵は精強中の精強じゃけぇのう。
{1943年1月にソ連軍はスターリングラード占領作戦「鉄輪」と平行して、小土星作戦の
完了に向けて大規模な援軍を送り込んだ。司令官フョードル・イシドロヴィッチ・
クズネツォフ大将は まずイタリア第8軍残余と共に陣地を固守していたハンガリー
第2軍に攻撃を行い、スヴォボダ村で ハンガリー第2軍は壊滅的な打撃を受けて退却
した。クズネツォフ大将は次に山岳陣地に 立て篭もるアルピーニ師団に攻撃を行った。
山岳師団は決して後退せずに陣地を守ったが、ハンガリーに続いてドイツ軍第35軍団の
残存部隊が後退を強いられる。側面部隊の退却によってアルピーニ兵の陣地はドン川
に取り残され、1月13日に包囲下に置かれた。この時点でも司令部はアルピーニに
「飛び地陣地」の防衛をソ連軍牽制の為に熱望したが、既に最初の攻勢と二度目の
攻勢でさしもの山岳師団も多くの死者を出していた。ジュリオ・マルツィナト少将は
非現実的な命令を拒絶したが、それでも二日間は完全な包囲下で ソ連軍を退け
続けた。…1月15日、マルツィナト少将は降伏を避けるべく、包囲網突破による
ベルグラード市への後退を決断する。既にソ連軍はアルピーニ陣地から後方150kmまで
を占領しており、突破は殆ど不可能と見られていた。また包囲時点で
『トリデンティーナ』は未だ健在だったが、『ユリア』 『クネーンゼ』は半壊状態に
あった。兵員も4万名にまで減っていたが、少数ながらドイツ軍から受領した戦車など
対戦車手段は残されていた。 1月15日、突破攻撃を開始したアルピーニ師団は後方の
村々を占領していたソ連軍を各所で破って進軍した。ステップ地方の異常な厳寒の中、
徒歩による150kmの進軍は何度もソ連軍によって捕捉された。22回に渡って行われた
軍の追撃部隊との交戦を退け、零下40度という真冬の平原で野宿を挟んで強行軍が
続けられた。行軍の中で『ユリア』『クネーンゼ』師団の兵員は全滅して
少将も戦死したが、『トリデンティーナ』師団はルイジ・リベルエーリ師団長を
指揮官に、諦めずソ連軍の追撃を撃退して突破を続けた。 …}