【昭和陸軍】川田稔 愛読者スレ【永田鉄山】 [無断転載禁止]©2ch.net
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近著
『昭和陸軍の軌跡――永田鉄山の構想とその分岐』(中公新書)
『戦前日本の安全保障』(講談社現代新書)
『昭和陸軍全史 1〜3』(講談社現代新書)
『石原莞爾の世界戦略構想』(祥伝社新書) >>2
これは昭和陸軍“前史”って感じだな
WW1の山県有朋の構想から永田鉄山まで >>3
陸軍で山県有朋は、権力を長く持ち過ぎたね。(陸軍の近代化が遅れた) 山県はロシアと組もうとしてたんだけど革命で台無しになったんだよね アマゾンのクラシカ大好き母とかいう馬鹿は近代史板の永田信者と同一人物か? どう見ても山縣有朋はいちばん有能で、永田も石原もそれに続く軍人はクソばかり。 昭和初期のダメダメな政治家の仕事を軍人がやろうとしたから無理が出た。
明治時代の政治家そっくり50年延命できれば問題無かった!(お 山縣有朋の長州閥は陸軍や参謀本部だけの派閥ではない、内務省宮内省貴族院
と省庁議会宮中まで横断して存在する派閥で、在籍者は国家的視点をキチンと
持っていた。陸軍内部だけの、永田や石原東条などのような連中は国家を指導
する器など持って無い、小物に過ぎない。 >>10
小物しか残せなかった責任は?
「ちゃんと後継の軍人・官僚・政治家を育てなかった」という批難が相応しいな。 >>11
後継者は育てたよ、田中義一山梨半造宇垣一成白川義則渡邊錠太郎、みんな殺されるか
排除されたけどな。 永田や石原は世代を考えても山縣の後継者じゃないし
悪い意味で特殊すぎる人種
こいつらの跋扈を許す人物しか育てなかったと言いたいのか? 政治に絶望した国民の後押しなんだろうなあ結局。
>>悪い意味で特殊過ぎる人種
が暴走した理由。 この人は専門家の間では評価されてるのかな?
経歴を見る限り(失礼だが)なんでこんなに本を出しているのか不思議でならない 81回目の午前9時40分まで、3時間を切りました。
まもなくその時がきます。 [BSプレミアム]
2016年8月18日(木) 午後5:00〜午後6:00(60分)
幕末、雄藩と幕府の対立が高まる中で政局の行方を左右する存在として注目を浴びた佐賀藩主・鍋島閑叟。技術を開発し独力で作り上げた幕末最強の軍をどう使うか、葛藤する。
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】岩下哲典,佐渡島庸平,中野信子,鈴木一義,【語り】松重豊 一夕会は長州閥に反抗する東北閥にすぎなかったのだろうか? >>20
一夕会が出来た頃は、長州閥なんてもう無い。この連中は幼年学校閥を作って、
猟官運動しただけ。 >>22
中でも団結力が強いのが騎兵科(少数精鋭の科だからね) 皇道派が実権握って対ソ開戦してたほうが帝国滅亡を防げたような気がしてならない 皇道派の対ソ開戦
統制派の中国侵略
ろくな選択肢がない 皇道派は「ソ連に備えろ」というだけで、開戦しろなんて言ってないよ。 >>24
シベリア出兵の二の舞になのますね
皇道派の小畑敏四郎が、ソ連が五ヵ年計画で極東ソ連軍が強力にならぬ前に、機会をとらえてソ連軍を撃破しておく
予防戦争論を唱えていますね。(小規模な戦争で日本の力を見せつけるということでしょうね) >>27
その場合、機会が捉えられないので戦争にならないよな。
石原が要職について初めて戦力差を知って愕然としていたし。 >>27
それは統制派が流したウソ話ですよ。小畑は、タンネンベルクの戦いを参考に
満州防衛を考えたので、ソ連軍が満州に侵攻して来るのを想定してる。日本軍
から仕掛けるなんて考えてません。 >>29
統帥派が流した嘘という根拠はなんですか?(昭和史に関する書籍を読みましたが、その様な事は聞いたことがないので)
小畑敏四郎が作戦の鬼と呼ばれるくらい、軍令能力に秀でているのは知っていますが。 >>30
小畑が対ソ連予防戦争を主張した、という話は西園寺公望の秘書だった原田熊雄
の日記が出典ですよ。原田は小畑から直接聞いたわけではなく、永田の話をその
まま書いたに過ぎません。要するに伝聞です。実際、満州の防衛計画を見てみれ
ば、攻撃的な要素は無く、タンネンベルクの戦いのように、侵攻して来るソ連軍
を迎え撃つ作戦計画に過ぎません。日記の記述と実際の防衛計画が食い違ってい
ます。永田は元老重臣を統制派の味方に付けて、中国と戦争したかったという事
です。関東軍の数が、極東ソ連軍の数の三分の一を上回った事は一度もありませ
ん。関特演で最高に数が増えた時でもソ連軍の三分の一以下です。だいたい日本
が満洲を占領した時点で、大きくなる前に叩くも何も、すでにソ連軍は十分大き
すぎて、日本から攻撃を仕掛けられるような状態ではありませんでした。 昭和陸軍全史に荒木が閣議で対ソ連予防戦争を主張したって書いてなかったっけ? 荒木日記によれば小畑・永田の対ソ戦略は大差ないが対支戦略に違いがあって省部首脳会議では小畑案を採用したとある
ちなみに会議最終日に永田が提出した文書(根本国策並対策大綱)では予防戦争論が批判されている
この後1933年10月の五相会議で陸軍が提出した資料(帝国国策、国策理由書)では対ソ強硬論が主張されていて1936年までに対ソ軍備を整えようと書いてある
原田や片倉衷の回想を無視するとしても小畑・荒木らが対ソ予防戦争を企図していたことをうかがわせる状況証拠は存在する >>31
小畑に関してのことはわかりました。貴重な情報をありがとうございます。
ただ、>>永田が中国と戦争したかったという事です>>に関しては、間違っていると思います。
支那一撃論を言ったとされているからですか?(永田の肩をもつわけではないですが) >>33
何のスレと思ってるんだ
あなたが参考にしたのって別宮サイトでしょ >>36
何が別宮だよ。原田熊雄日記は何度も出版されてるだろ。 会津・庄内は売国奴
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/images/2016/09/21/M16092112178/efc636fa3839ddca1fa39fdeffab7c06.jpg
戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から
資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、
五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で
具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば
実現していた可能性がある」とみる。
これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年
7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと
みられていた。
その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では
ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り
込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から
6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立
歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として
与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の
土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の
蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点
確保に向けた意図が読み取れる。
当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の
形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)
09/21 17:15 更新
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html これまでは 土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと
みられていた。
その後 宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では
ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。 >>38 >>39 >>40
スレッドと関係ない話するな 川田さんの本を読むと、ドイツ側の事情も研究したくなりますね
ドイツの先走りや世界戦略構想のズレがその後に与えた影響は大きいのでは、と 【再稼働】子供は癌センターへ≪山本太郎、憤慨≫若者は戦場へ【戦争法】
マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。
彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。
福島県民は発電所が閉鎖されれば1年か2年で戻って来られるでしょう。
日本の福島では多くの子どもたちが癌をもたらす量の放射能を内部被ばくしています。
多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、彼らは幻想の中に生きています。
健康上のリスクは福島に近づくほど、高まります。
汚染されたかもしれない食料品は廃棄すべきです。
日本の近海から採れた食料を食べることは、それほど安全ではありません。
問題は、日本政府が、日本の原子力産業と連携して、
日本の原子力産業を終わらせるおそれのあることを何も認めようとしないことです。
【新時代リーダー】山本太郎、三宅洋平、窪塚洋介【ゲスヨク撲滅】
日本国民はどう対処すればいいのか。
抑制のない成長に基づく現在の経済政策は終焉を見るでしょう。
新しい政権は民意を反映し、食糧、住宅、健康、教育、
そして最後に防衛です。
国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。
民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。 永田が生きていれば・・・ってよく聞くけども
逆に永田が生まれていなければどうなったのだろうと最近おもう 永田が生きていてもガチ北シナの資源確保に走るだろう 永田鉄山なんかより、田中義一の失脚の方が日本にとっては重大だった。彼は
政府と軍をまとめて指導出来る最後の人物だった。 本庄繁の日記を読んだ人いますか?
林が永田を外国に飛ばすつもりでったって書いてるそうですけど本当? 『柳田国男』(ちくま新書) 1,600円+税
軍事関連ではないですが、川田さんの最新本が出たので掲げておきます >>50
本庄繁の日記は読んでいないが
他のその文献を参考にした書籍で悪いが
林が永田にしきりに、外遊を進めていたのは事実のようだよ 初歩的な質問で申し訳ないけど
永田亡き後の一夕会(統制派)領袖って誰になるの? 一夕会=統制派ではない。この会に居た連中が皇道派統制派に分かれて雲散霧消した。 永田が出世していた頃には同床異夢で既にバラバラ。
しかして、強いて言えば武藤章かな。 戦略面で永田と小畑敏四郎との間で、対立したが原因と色々な関係者が証言しているね。
この二人の仲を保っていた、岡村寧次が近くにいなかったのが、人事上の間違えだった。 武藤率いる軍務局と田中率いる作戦部ですれ違いがあったんだよね
バーデン=バーデンの3人は個人的な仲な想いについてよく触れられるけど
この2人はどうだったのかな?性格が合わなかったりしたんだろうか >>58
武藤、田中、富永と・・・永田、小畑、岡村と似たようなもんさ。
偉くなれば喧嘩別れ。完了出世の物語を繰り返しただけ。 >>58
川田稔の著書では、武藤は永田の影響があり、田中は石原莞爾の影響があると記載している。
結局のところ、軍政面から見た立場と軍令面から見た立場の違いによるものですね。(>>59の言われる通りもあるでしょうが) 武藤と田中の仲は、武藤軍務局長回想録に収められた同期の柳勇中将や日米交渉でお馴染み石井秋穂大佐の手記などで伺い知る事が出来る
数ある話の中でも、柳と武藤が、大学生相手に喧嘩を始めた泥酔状態の田中を必死で押し止めて代わりに謝罪したというエピソードなんかは実に微笑ましい
まぁ田中はこんな性格だから、ガ島の例の件で佐藤賢了ぶん殴ったり東條を面罵したのも、演技じゃなくて本気だったのだろうな "つかさ会談"の陸軍省軍務局5人衆(武藤、真田、佐藤、西浦、石井)の中でも特に90代後半まで長生きした石井大佐の証言は、日米開戦直前の陸軍省軍務局と参謀本部の関係を表す貴重な記録としてしばしば引用される
勿論陸軍全史3にも度々出てくる
殴り合い寸前まで発展する"巨頭"会談は、1941年武藤(陸軍省)と田中(参本)の険悪さを示す石井手記の有名な一説だが、だからと言って、武藤と田中は個人的に憎しみあっていた訳では無かったらしい
石井の終戦後の東京裁判に関する回想で、二宮義清からの伝聞として田中が「武藤は気の毒だ、武藤は気の毒だ」と言っていたという話がある
また、先述の柳中将もシベリアから帰還した後、田中と対面して「武藤は日本民族の犠牲になったのだ」との言葉を直接聞いている
何より、田中本人が、自身の回想(大戦突入の真相)の中で「(作戦部長更迭後1943年3月)スマトラに居た武藤に今生の別れを告げに行った」と書いている ただ、女性目線と徹底した御家族への取材などで武藤のパーソナルな部分に迫った澤地久枝の「暗い暦」によれば、
「武藤は両田中にやられたというひそひそ話」「武藤を陥れたのは田中隆吉ではなく"田中ちがいだ"という説」の根拠として、次のような史料が提示されている
ウエッブ裁判長
「もし陸軍省が、参謀本部によって要求された所の人員、資材或いはその他のものを、供給することを拒絶したら、どういうことになるか」
田中新一検察側証人
「拒絶をしたならば、参謀本部の考えておる作戦計画は成り立たないのでありますから、陸軍省が保障する所の人員や、作戦資材の範囲内で、何とかやってゆくというほかありません」
結局東京裁判の結果、開戦時の陸軍省首脳東條-木村-武藤-佐藤ラインに罪を押し付けて統帥部は裁きを免れる
戦争指導班の機密戦争日誌などの史料がこの裁判の間に日の目を見ていれば、或いは東京裁判の結末や意義も多少はましな物であったかもしれない 石井や柳が記す戦後の田中の姿と、澤地の考える田中像は随分違うようだ
もっとも、杉山総長が自決し塚田次長は中支で戦死、田辺次長は南方で処刑、岡本第2部長はスイスで自決している中で、
東京裁判において"名誉ある"A級として訴追された陸軍省東條木村武藤佐藤に匹敵する参本側の開戦時高官は田中第1部長しか居なかった訳で…
田中としては、武藤との個人的友情よりも優先して、参謀本部の有力な生き残りとして組織の面子をかけて、部下同僚の為に行動せざるを得なかったのかもしれない
背負っている"モノ"の重さという観点で、新一と隆吉は分けて考えるべきだろう 武藤の巣鴨手記は特に比島14方面軍参謀長時代、東京裁判時代に関して細かく書かれているが、そこに新一に関する記述は存在しない
隆吉については笹川良一に「取り憑いて狂い死にさせてやる」と言う程憎んでいたようだが、
かつての同期、事変拡大時の盟友、そして立場を入れ換えて日米交渉時にはライバルとして火花を散らし合い、
開戦後は互いに中央を離れてスマトラで再会し、戦争と祖国の将来を語り合ったであろう新一に対して、被告席の武藤は何を思い何を感じていたのだろうか 3巻よむのがつらいなら昭和陸軍の軌跡1冊でいいんじゃない 昨日、書店で新書版がでていたので3巻買って一気読みしてしまった・・・ >>70
すごく資料にあたっている。恐ろしいほど。
そして人間が若い頃に叩き込まれた教育や指導から逃れられないという事実。
自由で柔軟な発想と行動は凡人にはできないという真理。 >>71
なるほど。
確かに、若い時の教育による、ある種の洗脳のうなことは、強烈ですからね。 >>72
一夕会の総力戦に対する妄念の強さが恐ろしいほどなのです。 一夕会が上層部は無能とかほざいて下剋上行為に及んだのって井口省吾の影響もあるのか?
こいつ左遷先の陸大で自分に都合のいいことを吹聴してたらしいですね。
機密日露戦戦史はその影響とか >>73
総力戦に関しては、一夕会という団体というより、永田鉄山の思想が横死後に、本人の思惑とは違うように解釈されて、進めれたようですよ。
>>74
それも影響があると推測できますね。
井口省吾は陸大同期で親友の東條英教(東條英機の父)と一緒に、長州閥による人事の弊害を批判して、長州閥の頭領の山縣有朋に睨まれて、共に左遷しているので。
陸大校長を約六年もしていたので。 井口が左遷されたのは実力相応の扱いだろ
実戦で軍才絶無と判明したから干された。本人はそれを認めず長州閥がどうのこうのと喚きだした
東條英教と息子は井口を真に受けちゃったみたい 永田鉄山が暗殺されなきゃ一夕会の認識も違った方向に行けたんだろうなあ。 永田が死んだの一夕会が崩壊した後だろ
陸パンで表明された永田の方針はその後も継承されてる あ、いや生きてりゃ潰れた一夕会のイメージも変わったのかな、と。
英米との衝突望んでたわけじゃないし。 >>74
確かに機密日露戦争史はその影響だと思う。
ただ川田氏の本を読む限りでは一夕会は「反宇垣(反長州)」ではあるが
井口省吾との関連は指摘されていないようだ。 >>75
>総力戦に関しては、一夕会という団体というより、永田鉄山の思想が横死後に、本人の思惑とは違うように解釈されて、進めれたようですよ。
いろいとな解釈はあると思うが、川田氏の解釈は総力戦思想が継承されたということだね。 >>81
産んだのは総力戦体制の構築と言うレトリックによる夜下克上システムだけのような気がするが? >>82
それだけだと川田氏のもう一つのテーマであるなぜ対米開戦なのか?
というのが説明できない。下克上の結果なぜ対米開戦になったのか、
それが総力戦思想の行き着いた先というのが昭和陸軍全史の
内容。 >>83
説明できるでしょ。無責任に戦火を広げることと対米不戦が成り立つと考えていた。
正しくは、政治も外交も考えていないまま日本を各々が引きずったわけだ。
操り人形の首相がいれば新東亜秩序が思い通りになると。相手があるのに。。。 >>84
いや、川田氏によれば対米不戦が成り立つとは考えていなかったんだよ。
総力戦体制構築のためなら対米戦もアリ。
というのが一夕会末裔の考え方。 総力戦体制なんて、一夕会だろうが統制派だろうが皇道派だろうが創れないよ。
この連中は長州閥憎しで出てきたが、結局、明治憲法体制では内閣を尊重して
協調していく山県有朋のやり方が正しい。実際、東条英機が首相と陸相と参謀
総長を兼ねても総力戦体制なんか出来なかった。 山縣有朋は、陸大出身者を陸軍省に入れなかったことを、永田鉄山がよく思っていたと、どの書籍忘れてしまったのだが。 >>86
そりゃあ総力戦体制なんて妄想というか幻想だよ。
たが当時の軍人はWW1を研究して、次の世界大戦も総力戦になる、と
判断して突っ走ってしまった。またそれを抑える政治家も居なかった。 >>89
永田と小畑は考えが違いすぎる
間を取りまとめている 岡村寧次が調整役でいないと
追伸・なんだか かつての自民党のYKKトリオに似ている >>90
同床異夢だよ。それぞれが要職に就くと組織利益を優先して仲違い。
武藤と田中新も同じケース。
宇垣系が陸軍を握っていたほうが統制が取れてよかったよな。 >>91
しかし宇垣系も、畑英太郎が死んだあたりで弾切れだろ。
軍政経験のない南次郎を陸軍大臣に据えるとか。
杉山元、小磯国昭では、その後を見ても、とうてい宇垣の後釜はつとまらない。 育てることができなかったのではなく、後継者にするつもりだった
津野一輔や畑英太郎が早死にしてしまったと、日記で嘆いているじゃん。 宇垣軍縮なんて馬鹿な事やったヤツに付いていく人間なんか居ない。 たしかに宇垣はやりすぎた。政治に野心があったとも言われるが・・・・ 宇垣軍縮の時に、学校教練制度を政策立案したのが永田だったね。
杉森久英の「夕陽将軍」で、石原莞爾が宇垣軍縮で知り合いの軍人が人員整理されたことを恨んでいて。
そのことなども踏まえて、宇垣内閣を阻止したとなっているね。(理性より感情が走ったのだろうね) 軍縮といったって、日露戦争で陸士16期以降の生徒を大量採用しすぎたせいでしょ。
欧米の軍隊みたいに一般大学に通う高学歴者を、戦時には初級士官にするシステムだったら、
日露戦争後の復員で数を大幅に減らせたはず。
太平洋戦争中の海軍兵学校の大量採用にしても、日本の軍隊は兵科士官を軍学校卒業者で埋める
ことにこだわりすぎ。
海軍なんて、もし海軍が廃止されていなかったら、戦争中に大量採用した連中をどうする
つもりだったんだろう? 陸士を減らしたら減らしたで中国との戦争の大動員で大パニック
陸軍は兵科士官がたりなくて輜重出身でも連隊長にしている。
海軍は天下り先があるんだろうね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています