しかし、相当な意気込みで挑んだ明軍でしたが、九州勢のみの日本軍に敗退します。この時点で明軍に勝算はなかったと明側でも認識していた
例えば『明史』朝鮮伝によると「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、
百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息)とある。

また、明朝廷の国家予算が四百万両であるのに対して、明側がこの戦役で費やした戦費は780万両に及び財政も極度に悪化していた。
『明史』王徳完伝「寧夏用兵(ボハイの乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」

さらに、明軍の敵は日本軍だけではなかった。この頃には、満洲の女真族のヌルハチがたびたび明に侵攻を繰り返し、
対日本戦の明軍を割いてまで、ヌルハチに備えなければならない状況にあった。
『朝鮮王朝実録・宣祖実録』「西路?子, 與老乙可赤, 約與合勢, 開元、瀋陽、遼東、鴨壕齶謌ネ西等地, 欲爲搶掠云云。」 軍門已抄李芳春、牛伯英等撤送, 使之防守。 」

このように、戦争が続いたとしても日本軍が撃退される可能性はほぼ喪失していたため、日本軍は朝鮮に居座っただろう。
ただし、秀吉が朝鮮の制圧を目指していたかは別問題です。秀吉は文禄の役の講和条件に「勘合貿易の復活」を挙げており、
それを認めさせれば朝鮮から手を引いた可能性も十分ある。