秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part11 [無断転載禁止]©2ch.net
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南蛮人が献上した日本が大きい地球儀を見て計画を立てたんでしょう 朝鮮から遼東半島のつけねを経て山海関〜北京へのみちのりは
途方もない距離なんだが、秀吉にとっては都から博多くらい程度しか想像してなかったのではないかな。
現実は不毛の地で、明の兵隊が朝鮮に援軍を送るに当たっても随分と朝鮮側が接待というか
明への給与に苦心したらしいな。
行長が行き詰るのもわかるわ。 いまの地政学的見地からすると北京を攻めるのに
朝鮮〜陸路〜北京
は愚策で、
朝鮮〜遼東半島(旅順)〜山海関
という海路の進撃が効率的に見えるけれど、
そういう発想がなかったのは、清正があさってのオランカイの方向に行ってるのをみれば分かる。
あくまで陸路で行こうとしていたのだよ。 このスレは重複スレです。
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秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
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ありがとうございました
もう書き込まないでください >>141
オランカイへの出撃は地元勢力からの要請と
女真族に対する威力偵察の目的だから
それは違うな
的外れ >>138
そのために兵力を充実させるために
秀次を粛清せずに減封にとどめて
渡海させて派兵させるべきだったな 家康を渡海させていたら、
朝鮮征伐がどうなっていたか? >>145
結果論で言えば家康が困るけど、そもそも秀吉は勝利する気で居たんだから家康を送り込むこたぁない 結局失敗だったのか?
日本が圧倒的に優れているのは忍者の存在だと思う >>147
目標は大陸進行でその準備が朝鮮征伐だからね。
朝鮮征伐に手間取ってる時点で失敗リ結局グダグダして何もできず帰ってきたわけだし
だから朝鮮&明の勝ちだけど防衛戦なんて勝っても利益がない訳で、誰一人利益がなかったのが朝鮮征伐 >>148
目標達成を断念したんじゃなくて秀吉の死で目標自体がリセットされたんだから失敗でもなんでもない
クビライが健在なのに元寇に失敗・断念した元朝と違い、オゴデイの死でヨーロッパ侵攻を中断したモンゴル帝国と同じ
明と朝鮮の国土防衛も自力で勝ち得た成果ではなく、秀吉の死で日本が帰ったから負けずに済んだだけで勝ってない
元寇にて実力で元軍を蹴散らし勝利した日本とは全然違う 秀吉一人の死で継戦能力を失い全占領地放棄せざるをえないほど惰弱で不安定な政権だったってことだ >>149
トップが一人死んで全部おじゃんになるとかそれはもう作戦自体が失敗に近いんじゃ
つうか元寇もさほど実力で蹴散らしたわけでもないしなぁ このスレは重複スレです。
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もう書き込まないでください >>150
豊臣政権が秀吉ありきのワンマン体制だったのは確かだが、
消失したのは継戦意思であって継戦能力ではないし、日本の軍事力が明朝鮮より上だった事実は変わらんぞ
>>151
トップ一人の死で軍事外交がひっくり返るのは前近代ではよくある話で朝鮮征伐もその一例に過ぎんよ
それと元寇での成果は完全に九州武士団の実力によるもの。まさか未だに台風説や威力偵察説を真に受けていまいね? >>153
だが、秀次を完膚なきまでに粛清したのは失策だったぞ
石高を減らしたうえで、渡海させて城普請させてペナルティを課すだけでもよかったかも >>153
継戦の意思喪失って敗戦とほぼ同義なのでは?
アメリカのベトナム戦争敗戦を敗戦ではないと主張するのに似ている。 >>155
被る場合もあるが基本的には同義ではない
上でも書いたが、クビライ自身が健在にもかかわらず継戦能力がない事で継戦断念したのと、
継戦能力も意思もある秀吉が戦場とは無縁の場所で病死したのは別の話だぞ
専制君主制の多かった前近代と民主制の多い近代以降を同列に語るのは難しい >>156
日本の敗北ではなくて、豊臣の敗北が正しいということか 軍事力比較したら明が勝つんじゃね
投入戦力の比較なら日本が上かもしれんが >>153
元寇って一回目は「勝ったり負けたりしてるうちに相手が集まってきたしトップが負傷したからとりあえず帰ろうぜ」だし、
二回目は「相手の用意が良くて攻めあぐねてたら疫病と台風が来たから戦意喪失で将校撤退」と、両方まだ継戦能力はあるが戦意喪失で元寇側が引いてるわけで、
「戦意喪失で引いたのは負けではない」
理論なら元寇は失敗じゃないってことになるよ?
と言うか敵国に攻める側が負けたといえる基準って結局「なんらかの理由で戦意喪失して撤退」か「一人残らず皆殺し」しか無いわけで、これを失敗や負けにしないのなら攻める側にはほとんど失敗なんかないし守る側が勝つことなんかほとんど無いわと。 順天倭城のある半島の付け根を誰に抑えられてた?
劉テイ以外に敵勢力がいたの? >>160
船で来たから船で帰らないと帰れず。
陸には明軍も朝鮮軍も植えた朝鮮民(朝鮮の官は収奪するし明軍も略奪するから)もいる。
陸路は治安悪すぎ。 >>129
米軍も鉄道以外の交通インフラの劣悪さに音を上げて
たびたび徒歩行軍を強いられては往生したそうな 田原坂なんか今でも二車線六メートル道路なんだがこれが当時は九州の大動脈だったというから驚く
それほど街道が貧弱な九州の大名ですら朝鮮半島の“街道”には驚いたというからあとはおさっし
大臣将軍が一輪車に乗る国はさすがに別格だといえよう 陸路で釜山を目指すって
順天の持ち船捨てて陸路で釜山に着いても
そこで乗る船が無い状況が考えられるだろ このスレは重複スレです。
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もう書き込まないでください 当時の交通と通信の技術では、補給を確保し続けるのは難しい。
現地調達って、やはり難しいんだよ、いつの時代でも。
とくに十万以上の大軍となると、よけいにな。
当時は世界中どこでも広い農村に人口多く散らばっていて
一か所に人が集まる都市がなかったから。
漢城(ソウル)でも十万人くらいでしょう?
だから、十万の軍隊に食料供給しようにも、
現地の物流を利用しないといけないけど
その現地の物流が侵略軍に食料をよこさなかったら、
どうすることもできない。 露梁海戦は小西軍救出という目的を日本側は完璧に果たした。
対する明・朝鮮では朝鮮水軍トップの李舜臣が打ち取られ
明水軍ナンバー2のケ子龍も打ち取られるという大打撃を受けた。
これらの事実からして日本側の勝利という以外有り得ない。 明主将の陳燐(当て字)も死にかけてるしな
一方日本側は誰も死んでないという
まぁ中国人と朝鮮人で出来た軍隊の割には頑張ったんじゃない?
和議破りに待ち伏せまでしといて逆撃食らって首狩りされるとか中国人らしい結果だが 死んでないってのはそういう明確な記述がないってだけで日本側も多数の戦死者がでたって記述がある。
Wikipediaは「日本軍は不利ながら善戦した。結果としては痛み分け」的な形にしてるけど、実際そんなところなんじゃないかな >>171
記述がないのではなく日本側で身分の高い人間は実際に死んでない。
兵卒の死傷数と指揮官の死傷数は大よそ比例するので
大量の武将が死傷した明・朝鮮側では兵卒の死傷者も日本側以上に多かったのは確実。
何よりも戦略目的を達成したのは日本側なので露梁海戦は日本側の勝利といえる。 焙烙玉を持っていってたら楽勝できたろう?
海戦は大砲よりも焙烙玉だよ。 このスレは重複スレです。
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もう書き込まないでください >>172
撤退戦だと損害の大きさに対して将が死なないってことがよくある。
撤退戦で撤退できたんだから日本の勝ちだろうけど、じゃあどの程度の勝利かつうと疑問じゃないかなと言いたいのよ。
朝鮮側では日本の船を200近く落としたと記録してるし、日本側も被害が大きいと嘆いてる記録がちらほらあるから、精々「際どいが勝った」位だったんじゃないかと 露梁海戦は撤退戦でなはなく、小西軍救出戦。
勝敗は目的を達成したかどうかで決まる。
小西軍救出という目的を完璧に達成したのだから日本側の勝利以外有り得ない。 >>176
>撤退戦だと損害の大きさに対して将が死なないってことがよくある。
しかし、追撃(して当然)側の将の死傷の方が多い、ってのは希だろうな。 >>176
日本側から見た被害はともかく
朝鮮・明側の資料なんて精々1/10か1/100にして見るべきじゃね。
戦果を少しでも挙げた事にしないと粛清される連中が書いたもんだぞ。 露梁海戦は実質的に日本側勝利だが
幸州山城の戦いや鳴梁海戦についても目的を達成したのは日本側であり
実質的勝利は日本側だと言える。 >>180
つまり全体として日本の目的は世界征服、後に朝鮮南部の確保
朝鮮の目的は日本を追い返す。
朝鮮大勝利って事か >>176
撤退せんということではなく、追撃を受けて崩れたかどうかじゃない?
真田昌幸みたいに、兄達が長篠で戦死したから後継者となったような話が露梁や他の朝鮮の戦では出てこないからな。
中川兄が鷹狩り中に死んだから弟が継いだとか、島津兄が死んだから弟が出征したとか。
戦死で聞く話だと来島ぐらい? 朝鮮征伐は直接の戦闘ではほとんど負けていない日本の実質勝利と言える。 戦争の勝敗は、戦闘の勝敗で決まるものではないという基本を百万遍繰り返さんといかんね >>183
大陸打通で圧倒的勝利に終わっておきながら全員捕虜となる憂き目にあっても、
それが実質的勝利と言えるかなぁ? 戦略的成功を繰り返していた日本軍。
それに対して明・朝鮮軍は戦略的失敗の連続であった。 そもそも大戦略がどうしようもない程にスカポンタンな日本 戦略も戦術も政治も全部駄目な相手なら何も問題はないな 朝鮮四道割譲が成ったとした場合、大陸最前線の朝鮮四道と九州の
武将・領土配置を固める事が豊臣政権にとっては最重要に成る訳だ。
中国は毛利領
四国南部は長曽我部領
四国北部は吉川領
九州北部は小早川領
九州南部は島津領
朝鮮・全羅道は小西領
朝鮮・慶尚道は加藤領
朝鮮・京畿道は宇喜多領
朝鮮・江原道は黒田領
で。 朝鮮半島国家は、元寇でボコられて、応永の外寇で対馬単独でボコられて、
朝鮮役ではボコボコで、20世紀頭には欧米の植民地になるところを
日本に救済合併してもらってたっけ。(・∀・) >>194
応永の外寇はWikiが編集され直されてるけど、先に対馬による朝鮮半島襲撃があり、
それに対する朝鮮側の対馬に対する報復が応永の外寇と呼ばれている。
対馬の倭寇2千人は浙江省を襲おうとしたが、途中で食料が尽き、朝鮮半島を襲った。
そして遼東半島の望海禍で明軍に待ち伏せされ全滅する。
彼らの供述のおかげで明南部を襲った倭寇たちの航路がおおよそ想像がつく。
倭寇は半島沿いに一旦北上してシナ沿岸沿いに南下するという航路を採ったと思う。 取られたら困るからって、肝心の本土(主に東北地方)や工業犠牲にして金掛けるんじゃ本末転倒なんで
まだ弱小なアメリカ辺りににでも売り飛ばしたらよかったのに。 >196
日露戦争で人が死にすぎたからな
アメリカに売り飛ばしたりしたら日比谷焼き討ち事件が再発・拡大しかねない。 >>191
白村江以外でボコられたって認識は無いと思う
現場では勝って勝って勝ち尽くした上でのお家事情or他の外敵にヤラレて降伏、撤退だから
ちょうど、モンゴル帝国の欧州攻めに似てる。 >>194
日本みたいな貧乏国に併合されたのが朝鮮の運のつきだな その貧乏国より遥かに超貧乏だったからね
金だけじゃなく文明も無いにひとしかったし 日本じゃなくてロシアに併合されてたら史実以上に酷くなってた事必至だな >>201
朝鮮人はそれを強く望んでいるんだけどな。 >>195
2000人が全滅してなお万越えの朝鮮軍を追い払った宗氏、無双過ぎだろw
常識的に考えれば遼東半島にまで出張ったのはフツーに偽倭なんじゃないの。 >>200
そんな土地が欲しくて必死こいてた劣等民族がいたんですよ フツーに偽倭?
応永の外寇のWiki見たか?ご丁寧に 太字で ハッキリ クッキリと 対馬人 と書かれてる。
たぶん編集したのは韓国人だろう。
島中飢饉だったので、遠方に”出稼ぎ”に行かざるを得なかった当時の苦しい状況がヒシヒシと伝わってくる。 >>204
ロシアにとっては不凍港ってだけでも相当な価値があるからな >>203
一方、本土では下から数えた方が早い模様。
朝鮮が弱すぎただけじゃないかなぁ・・・
それでも全体として見ればいい勝負ってところだし 向こうの記録にあるだけで、宗氏文書がそれこそ山ほど残ってる
対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
2000人も死んでりゃ、いわば対馬の壮青年の大半が死んじまったという
話になるハズなんだし。 対馬側が全滅した元寇と違って独力で追い返してるので、
まぁ、朝鮮が弱すぎというのは間違いはなさそうだね。 日本人ですら帝国の圧政に苦しんでたのに半島人が感謝するわけないじゃん そりゃ戦乱期の侍と平和になれた朝鮮兵じゃ差もでるだろう >>207
対馬側が全滅した元寇と違って独力で追い返してるので、
まぁ、朝鮮が弱すぎというのは間違いはなさそうだね。 >>戦乱期の侍
平安時代かな?
上杉謙信も源平武者はお前らみたいな軟弱者とは大違いだったんやでと言ってたし
侍のお家芸は弓馬の道だから通りすがりを弓で射って日ごろから鍛錬しろだとか
北條氏の敵対御家人十連続族滅だとかみてると
殺生関白なんて極普通だし切腹のあとの族滅なんて鎌倉時代の日常ぐらいにか感じなくなる 戦国時代のほうが平安時代よりも鎌倉時代よりも南北朝よりもはるかに平和だったという事実
血が滴る生首がないと酒がまずいとかいうサイコキラーとかもいて草もはえない >>対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
略奪の記録など残す馬鹿がいるか?戦果の誇張はあれども対馬の連中だよ。
さもなければ、長専側に捕まった捕虜が嘘をついたということ。
いずれにせよ、朝鮮側の対馬征伐はその結果を受けて行われてたもの。 天皇は木や金でいい発言したのも上皇リンチしたのも南北朝時代だしな 生産性が低かったのは、李氏朝鮮の官僚たちの私田が、
汚職政治の影響から京畿限定だったのが全羅、慶尚、
忠清に拡大して、徹底した収奪が行われてことも関係しているし、
農機具や田植え法が劣っていたことも要因のひとつだな。
適切に公田として維持されてた初期は年貢も
農業法が日本より劣っていたとはいえ、それなりの収穫量があったから、
統治者次第だね。
まぁ、それができなかったのが朝鮮民族なわけだが。
南部住民は日本の大名に統治されていたほうが幸せだったかもなw
九州からコメの輸送、商人の往来、農業技術の伝播もあるし(朝鮮は水車も作れなかった) じゃあ、おい、↓これは嘘か?
^ 以下は捕まった倭寇の証言および後に対馬官吏たちが朝鮮政府へ上げる報告。
※捕まった倭寇の証言(史料原文):吾係對馬島人。島中飢饉, 以船數十艘, 只緣乏糧, 侵突庇仁
※仇里安の報告:封內之民侵犯大國之邊鄙
※時応界都の報告:餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 朝鮮側からの連絡で明側は望海禍で倭寇を待ち伏せた。
双方で連携してるから信ぴょう性は高い。生擒857名。朝鮮人は混ざってないようだぞ。
http://baike.baidu.com/view/2335708.htm そもそも、Wikipediaの応永の外寇の記事の“対馬侵攻の決定”の項を見りゃ判るけど、
その倭寇が全滅したという望海堝の戦い(6/14)以前に、朝鮮西岸を荒らし回る倭寇への
直接対応そっちのけで、倭寇の襲来からわずか一週間後の5/14にはもう対馬遠征を
決定しているという極めて不自然な時系列なんだわ。
で、常備軍が無きに等しいはずの朝鮮がその決定から一ヶ月でもう早々と外征準備を
終えているという手際の良さ。
↓これは応永の外寇についての三日月城通信の考察だけど、朝鮮史料の言い分よりはよほど腑に落ちるね。
ttp://take8592goole.wiki.fc2.com/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87%EF%BC%88%E4%B8%89%E6%97%A5%E6%9C%88%E5%9F%8E%E9%80%9A%E4%BF%A1%EF%BC%89
つまるところ、応永の外寇ってのは、倭寇に事寄せての領土欲からの対馬侵攻だったんでないの。
まさかの大惨敗を喫したので誤魔化しただけでさ。 倭寇って海賊、今風に言う武装勢力の類なんだから海賊退治なんてきりがない追いかけっこより相手の本拠地叩くって判断しただけじゃないの?
兵隊だってかき集めるだけなら一月だって無理でもないし(まともに用意してないから負けてしまったと言うのもあるだろうね)
そもそも外征たって朝鮮→対馬は対馬→本土よりも近いからなw 単品だと信憑性に問題があるから書いた陣営が違う文書を2つは探せという話。
この場合だと口裏を合わせた可能性がある対馬→朝鮮の報告書じゃなくて幕府の文書を示すとかだな。
正直そこまでするまでもないどうでもいい話題だと思うが 倭寇って海賊、今風に言う武装勢力の類なんだから海賊退治なんてきりがない追いかけっこより相手の本拠地叩くって判断しただけじゃないの?
兵隊だってかき集めるだけなら一月だって無理でもないし(まともに用意してないから負けてしまったと言うのもあるだろうね)
そもそも外征たって朝鮮→対馬は対馬→本土よりも近いからなw >>208
2千もそうだけど
そもそもの文禄の役での5千は更にどーよって話だよ
あの畑主力で1〜2万石の石高と経済力で2千とか5千とか動員できるものなの 文禄の役の宗氏は軍役5000人だが人数書だと2000人ちょいやね
本島2万石、薩摩入地1万石、役米1万石の4万石の5人役で2千人だからこんなもんやろね >>228
宗氏は10石格なので文禄の役では五人役相当で定数5000人で、
八掛けとしても4000人だけど、実数ではそこまで出してないでしょ。
実高が3万石ほどだから外征ならせいぜいで1500人、慶長の役では
一気に1000人まで減らされてるので、実力としてはそんなもんなのでは
ないかな。やはり脇坂が3万石で文禄1500人、慶長1200人だったし。 対馬だけじゃなく壱岐の連中も加わってるぞ。
餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 >>230
十万石格なんてない。それは江戸時代の序列。
収穫が一万石で移入分の一万石と合わせて最大人口は二万人といったところ。 2000で総力戦って感じだな
>>195は相当盛ってると思う そう言われても、実際に宗氏は朝鮮役における九州の大名の軍役である
五人役(本役)を課されてるので、5000人から逆算して豊臣政権下から
10万石と見なされていたことに違いはないよ。 っていうか本島が2万石じゃ対馬のみじゃ1千名が精々だな
2千名なんてあり得ない話になるな。 北島万次氏の主張である
>「慶尚道南岸にある倭城の守りを固め、朝鮮の穀倉地帯である全羅道攻略に当面の狙いを絞り、
>ついで忠清道、さらに京畿道へと進撃せよというものであった」と訳し、
これなら当然仕置きの城の場所が南岸に限られるのもうなづけるが。
ただ、これだと実際の歴史の経過と相違してくる。
実際には、倭城の守りを固める余裕もなく、また、全羅道攻略に当面の狙いを絞るでもなく、
慶長二年七月から左軍と右軍に分かれ、 左軍が赤国の攻略を 右軍が青国の攻略を 同時進行でおこなっている。
だから北島氏が上記の様に主張したのならば、自説を補強する為に実際の歴史を
曲解したことになる。 壱岐は松浦さんとこのテリトリーなのに手伝いに行ってのか 対馬が飢饉ということは壱岐だって飢饉だったんじゃないの?
1419年の九州方面の天候状態どうだったんだろう? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています