秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part11 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>200
そんな土地が欲しくて必死こいてた劣等民族がいたんですよ フツーに偽倭?
応永の外寇のWiki見たか?ご丁寧に 太字で ハッキリ クッキリと 対馬人 と書かれてる。
たぶん編集したのは韓国人だろう。
島中飢饉だったので、遠方に”出稼ぎ”に行かざるを得なかった当時の苦しい状況がヒシヒシと伝わってくる。 >>204
ロシアにとっては不凍港ってだけでも相当な価値があるからな >>203
一方、本土では下から数えた方が早い模様。
朝鮮が弱すぎただけじゃないかなぁ・・・
それでも全体として見ればいい勝負ってところだし 向こうの記録にあるだけで、宗氏文書がそれこそ山ほど残ってる
対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
2000人も死んでりゃ、いわば対馬の壮青年の大半が死んじまったという
話になるハズなんだし。 対馬側が全滅した元寇と違って独力で追い返してるので、
まぁ、朝鮮が弱すぎというのは間違いはなさそうだね。 日本人ですら帝国の圧政に苦しんでたのに半島人が感謝するわけないじゃん そりゃ戦乱期の侍と平和になれた朝鮮兵じゃ差もでるだろう >>207
対馬側が全滅した元寇と違って独力で追い返してるので、
まぁ、朝鮮が弱すぎというのは間違いはなさそうだね。 >>戦乱期の侍
平安時代かな?
上杉謙信も源平武者はお前らみたいな軟弱者とは大違いだったんやでと言ってたし
侍のお家芸は弓馬の道だから通りすがりを弓で射って日ごろから鍛錬しろだとか
北條氏の敵対御家人十連続族滅だとかみてると
殺生関白なんて極普通だし切腹のあとの族滅なんて鎌倉時代の日常ぐらいにか感じなくなる 戦国時代のほうが平安時代よりも鎌倉時代よりも南北朝よりもはるかに平和だったという事実
血が滴る生首がないと酒がまずいとかいうサイコキラーとかもいて草もはえない >>対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
略奪の記録など残す馬鹿がいるか?戦果の誇張はあれども対馬の連中だよ。
さもなければ、長専側に捕まった捕虜が嘘をついたということ。
いずれにせよ、朝鮮側の対馬征伐はその結果を受けて行われてたもの。 天皇は木や金でいい発言したのも上皇リンチしたのも南北朝時代だしな 生産性が低かったのは、李氏朝鮮の官僚たちの私田が、
汚職政治の影響から京畿限定だったのが全羅、慶尚、
忠清に拡大して、徹底した収奪が行われてことも関係しているし、
農機具や田植え法が劣っていたことも要因のひとつだな。
適切に公田として維持されてた初期は年貢も
農業法が日本より劣っていたとはいえ、それなりの収穫量があったから、
統治者次第だね。
まぁ、それができなかったのが朝鮮民族なわけだが。
南部住民は日本の大名に統治されていたほうが幸せだったかもなw
九州からコメの輸送、商人の往来、農業技術の伝播もあるし(朝鮮は水車も作れなかった) じゃあ、おい、↓これは嘘か?
^ 以下は捕まった倭寇の証言および後に対馬官吏たちが朝鮮政府へ上げる報告。
※捕まった倭寇の証言(史料原文):吾係對馬島人。島中飢饉, 以船數十艘, 只緣乏糧, 侵突庇仁
※仇里安の報告:封內之民侵犯大國之邊鄙
※時応界都の報告:餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 朝鮮側からの連絡で明側は望海禍で倭寇を待ち伏せた。
双方で連携してるから信ぴょう性は高い。生擒857名。朝鮮人は混ざってないようだぞ。
http://baike.baidu.com/view/2335708.htm そもそも、Wikipediaの応永の外寇の記事の“対馬侵攻の決定”の項を見りゃ判るけど、
その倭寇が全滅したという望海堝の戦い(6/14)以前に、朝鮮西岸を荒らし回る倭寇への
直接対応そっちのけで、倭寇の襲来からわずか一週間後の5/14にはもう対馬遠征を
決定しているという極めて不自然な時系列なんだわ。
で、常備軍が無きに等しいはずの朝鮮がその決定から一ヶ月でもう早々と外征準備を
終えているという手際の良さ。
↓これは応永の外寇についての三日月城通信の考察だけど、朝鮮史料の言い分よりはよほど腑に落ちるね。
ttp://take8592goole.wiki.fc2.com/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87%EF%BC%88%E4%B8%89%E6%97%A5%E6%9C%88%E5%9F%8E%E9%80%9A%E4%BF%A1%EF%BC%89
つまるところ、応永の外寇ってのは、倭寇に事寄せての領土欲からの対馬侵攻だったんでないの。
まさかの大惨敗を喫したので誤魔化しただけでさ。 倭寇って海賊、今風に言う武装勢力の類なんだから海賊退治なんてきりがない追いかけっこより相手の本拠地叩くって判断しただけじゃないの?
兵隊だってかき集めるだけなら一月だって無理でもないし(まともに用意してないから負けてしまったと言うのもあるだろうね)
そもそも外征たって朝鮮→対馬は対馬→本土よりも近いからなw 単品だと信憑性に問題があるから書いた陣営が違う文書を2つは探せという話。
この場合だと口裏を合わせた可能性がある対馬→朝鮮の報告書じゃなくて幕府の文書を示すとかだな。
正直そこまでするまでもないどうでもいい話題だと思うが 倭寇って海賊、今風に言う武装勢力の類なんだから海賊退治なんてきりがない追いかけっこより相手の本拠地叩くって判断しただけじゃないの?
兵隊だってかき集めるだけなら一月だって無理でもないし(まともに用意してないから負けてしまったと言うのもあるだろうね)
そもそも外征たって朝鮮→対馬は対馬→本土よりも近いからなw >>208
2千もそうだけど
そもそもの文禄の役での5千は更にどーよって話だよ
あの畑主力で1〜2万石の石高と経済力で2千とか5千とか動員できるものなの 文禄の役の宗氏は軍役5000人だが人数書だと2000人ちょいやね
本島2万石、薩摩入地1万石、役米1万石の4万石の5人役で2千人だからこんなもんやろね >>228
宗氏は10石格なので文禄の役では五人役相当で定数5000人で、
八掛けとしても4000人だけど、実数ではそこまで出してないでしょ。
実高が3万石ほどだから外征ならせいぜいで1500人、慶長の役では
一気に1000人まで減らされてるので、実力としてはそんなもんなのでは
ないかな。やはり脇坂が3万石で文禄1500人、慶長1200人だったし。 対馬だけじゃなく壱岐の連中も加わってるぞ。
餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 >>230
十万石格なんてない。それは江戸時代の序列。
収穫が一万石で移入分の一万石と合わせて最大人口は二万人といったところ。 2000で総力戦って感じだな
>>195は相当盛ってると思う そう言われても、実際に宗氏は朝鮮役における九州の大名の軍役である
五人役(本役)を課されてるので、5000人から逆算して豊臣政権下から
10万石と見なされていたことに違いはないよ。 っていうか本島が2万石じゃ対馬のみじゃ1千名が精々だな
2千名なんてあり得ない話になるな。 北島万次氏の主張である
>「慶尚道南岸にある倭城の守りを固め、朝鮮の穀倉地帯である全羅道攻略に当面の狙いを絞り、
>ついで忠清道、さらに京畿道へと進撃せよというものであった」と訳し、
これなら当然仕置きの城の場所が南岸に限られるのもうなづけるが。
ただ、これだと実際の歴史の経過と相違してくる。
実際には、倭城の守りを固める余裕もなく、また、全羅道攻略に当面の狙いを絞るでもなく、
慶長二年七月から左軍と右軍に分かれ、 左軍が赤国の攻略を 右軍が青国の攻略を 同時進行でおこなっている。
だから北島氏が上記の様に主張したのならば、自説を補強する為に実際の歴史を
曲解したことになる。 壱岐は松浦さんとこのテリトリーなのに手伝いに行ってのか 対馬が飢饉ということは壱岐だって飢饉だったんじゃないの?
1419年の九州方面の天候状態どうだったんだろう? あのさあ、このスレとpart12スレとどちらが本スレ? >>239
ここに決まってるだろ
向こうは池沼荒らしが立てたスレ 柳成竜『懲録』
「明国軍が碧蹄で敗れ、李如松が臆病風に吹かれる」
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
・(李如松)提督が、自分が〔本国に送る〕奏達文の草稿をとり出して示したが、その中に、
「賊兵、都城に在る者二十余万。衆寡敵せず」とあり、また文末に、
「臣、病甚だし。他の人をもってその任に代えんことを請う」ともあった。私は驚いて、
手でその部分を指して言った。「賊兵は甚だ少ない。どうして二十万にもなりましょうか」と。
提督は、「私がどうしてそれを知り得よう。おまえの国のものが言ったのだ」と言ったが、
どうも口実のようであった。
李如梅のあんちゃんも相手が強いとなると仮病を使って任から離れようとしたり
数が多いので無理ですとか過大申告しようとしたのを朝鮮人に軽蔑されてるくらいだからなあ >>239
前スレで次スレとしてアナウンスがあったのはpart12スレだし、
part12スレから転載と明示せずに投稿者もレス番も無茶苦茶で
無断転載しているキティ常駐なのがこっちだから、向こうが
本スレでしょ。 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカムを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化し使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕に南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全ては自分の出来心から起きた事で、どこに訴えて出ると言う訳にもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 秀吉は東アジアの華夷秩序さえ知らんかったのに、よくもまぁ明国征服とか志向できたもんだ。
初歩的知識さえあれば、朝鮮に明国侵攻の先導役を要求する間抜け外交もせんかったろうに。
基本的な国際常識さえ無いから、明国から「日本国王」に封じられて激怒する無知蒙昧。
トップが馬鹿だと、必ず当該政策は失敗する典型例が、秀吉の唐入り。
信長の撫民政策から何にも学んでないから、草の根から反乱を起こされて、現地の統治さえままならず、無様な撤退で政権崩壊。 >>246
そんな日本に一方的にやられっぱなしのまま、
秀吉死去というラッキーイベントで一命を取り留めた明朝鮮の方こそが無様だわw
それと247も言うように豊臣政権崩壊は秀吉が死んだからであり明朝鮮は無関係 >>248
そもそも豊臣や徳川も織田の家来、配下と考えたら、
大きな意味での織田家由来の政権自体は内紛こそすれ滅んでないしな。
織田家由来の政権滅んだのは米帝様が乗り込んで来たからだから。 徳川政権は、豊臣政権衰退の決定打となった
朝鮮の役の失敗を繰り返すのは嫌がっていたからな
家康にもう少し視野が広ければ、台湾や北海道や樺太まで
江戸幕府の勢力を拡大することも可能だったであろうにな
鄭成功の支援依頼すら、結局、無視して台湾を明の支配下にするのだし >>248
秀吉の妄想では明国征服どころか世界征服のハズなのに、多大な戦力を浪費しても明国に届かず
朝鮮の寸土すら盗れず惨めに逃げ出したのは無様じゃないと >>250
そんなことする暇と金があれば国内開発に投資すべき >>251
まあ、確かに失敗だったよね
結局、結果が全てだ。
朝鮮の割譲すら出来なかったのだしね
それは認めるけど 徳川政権も台湾征伐していたはずだが?
長崎奉行にやらせていたような それなら関が原でも石田、小西を助けに5千ほど率いて助けに行けよ、と
勝敗も変わったかもしれん >>246
激怒したのは後世の創作
交渉が決裂したのは朝鮮が人質を拒否したから
秀吉自身は日本国王を否定してない そうなの?
宗、松浦、有馬、大村とか第1軍のメンバーが朝鮮同様に戦ってれば東軍は容易に壊滅していたろうに 大公儀の御威光(笑)で上杉征伐軍諸将が大阪へ馳せ参じ坂東に攻め込む予定が
一人残らず徳川に与力し東海道は素通りで最終防衛線の岐阜城も瞬く間に落城
この状況下で反徳川で兵を挙げるバカがいたらびっくりのぽんだよ そもそも太閤殿下の妹婿で一族衆筆頭であり秀頼君の御名代の徳川内府と
年寄衆の一員でありながら勝手に領国に帰った毛利や政局で敗北して隠居した石田ごときと
どちらが正統でどちらが謀反人かといえば謀反人は毛利石田のほうだろう そもそも秀頼みたいな幼児に自分達の領土の安全をたくす方が不自然だわ
秀吉が死んだら次の実力者である家康にのりかえる
それだけの話 主力軍の毛利軍が分裂してる状況じゃ勝ち目はない
まぁ豊臣家を守る戦いなのに毛利家だよりな時点で西軍は終わってるんだが ×豊臣家を守る戦い
○毛利上杉宇喜多石田らが私利私欲のためにおこしたクーデター
そもそも秀頼成人まで諸大名の子女は十年以上処女童貞でいろというのが無茶だっただけ
それ以外は徳川内府が完璧にやってたし実際徳川家が優秀すぎて石田は首になったわけだし
勝手に領国に帰った毛利上杉なぞ論外なわけでそもそも挙兵の大義名分がない
だいたい徳川の専横とやらに何か根拠があるのか?縁組云々以外全部いいがかりじゃないか >>263
朝鮮の役や秀次誅殺のような事がなければ、豊臣政権の命脈は続いていたかも知れない
そもそも豊臣家では、秀吉以外では唯一残っていた成人男子の秀次を誅すなど
愚挙も良いところだ。
封建制は血統による支配なのだから、一族のものが失われたら
それだけ弱体化する。
源頼朝が、義経ら自身の兄弟を次々と粛清した結果、源氏は三代で滅んだ前例があるように
秀吉の行動は明らかな失敗だ このスレは重複スレです。
以下に移動してください。
秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/army/1477577591/l50
よっこらしょ。
∧_∧ ミ _ ドスッ
( )┌─┴┴─┐
/ つ. 終 了 |
:/o /´ .└─┬┬─┘
(_(_) ;;、`;。;`| |
このスレは無事に終了しました
ありがとうございました
もう書き込まないでください 秀頼が、2代目の江戸幕府将軍になってたら、
徳川秀頼って名前になってたのか? むしろ秀次が粛清された時点で終わってる。
後継者を政府機能ごと粛清すれば、そら忠臣以外下剋上起こすわ
まして成り上がりで権威もないのに むしろ秀次が粛清された時点で終わってる。
後継者を政府機能ごと粛清すれば、そら忠臣以外下剋上起こすわ
まして成り上がりで権威もないのに 変わらんだろ
主力軍の毛利軍が分裂してる状況じゃ勝ち目はない
まぁ豊臣家を守る戦いなのに毛利家だよりな時点で西軍は終わってるんだが そういわれれば秀次死亡は野ブタだ死亡と同じくらいの重要事項なんだな 秀頼を三法師ポジションに見立てると確かにしっくりくる 秀勝も秀保も秀秋も重要だったんだな。
秀勝、秀康、秀家と血縁ない奴のほうが優秀そうなのが辛いが もし秀次が関白位を続けたら
秀吉の実子が三代目になれたかと言えば、難しかっただろうな
秀吉が生きている間に三代目への代替わりが出来たならともかく
さすがにそれは難しかっただろうし >実子
まさに実のところビミョーだけどな。
それでも豊臣政権が存続してることがが前提なら、、その辺は
五大老にでも言い残しておけばどうにでもなったんでないの。 秀頼の実父が秀吉ではない大野治長では無いとの俗説は、豊臣時代の当時から存在した
もっとも有力候補として大野治長が存在する。
秀吉の側室らは、ねねが面倒を見ていたから、不義など出来なかったとの説もあるけど
海外で女子受刑者が、その国の法律で、妊娠している受刑者は刑務所から出れるので
それを目当てに、精液をこっそり手に入れて受精した受刑者も存在したそうだし。
その気になれば、幾らでも可能だよね
淀君は、信長の命令と言っても、弟を秀吉に殺され
母親も自害に追いやられたのだし
妻にされたといっても、内心では秀吉を憎んでいても何も不思議はない
秀吉への復讐のためにも、秀吉が得た権力を奪いとってやるために子供を生みたかった
何て野望のために、どんな事でもやったかも知れないな。
まあ、想像の世界の話だけど。 >>280
秀次が殊勝な性格で、叔父であり義父である秀吉の命令を
彼の死後まで忠実に従うような、殊勝な性格であるなら
自身の跡継ぎを秀頼にする事もあったかも知れないけど
それより甥を密かに殺して、関白の座を守るって未来図の方が
ずっと現実感があるけど
五大老も豊臣政権が磐石であるなら、それを覆すような事はやるまい
ま、為政者としての秀次の技量がどれほどによるかにもかかってくることだが
秀次が秀吉亡き後も、政権をしっかりと守れる技量があるなら
少々、おかしなことがあっても、その程度のことは目をつぶるしかなかったのではないかね 本当の問題は、後継にもその対立候補にも家臣団があり、また家臣団にも出身地や官僚・武将の間で派閥があって、神輿なり旗なりが自分の意思だけでは動けないって事だよ。
織田信長にせよ豊臣秀吉にせよ、取り敢えず日本を統一するところまでは行ってたが、その後をどうするかって構想は中途だったし、その実現に着手する前に滅びてしまった。
例えば織田信長に関して言えば、自身の一族を京都を中心にして配備し、家臣団を日本各地に転付して治めるという、戦国武将そのままの感覚で統治しようとしていた。
豊臣秀吉は、少なくとも恭順する者には惣無事を許していたが、まだ長宗我部や北条、徳川、島津や伊達など、各地で領土拡大と地域の統一を目指す勢力が跋扈していた。
フランスだってルイ14世までは、有力な官僚のマザランやフーケーなどが幅を利かせており、絶対王政にはなってなかったーー日本の将軍は、絶対王政までは行ってないし。
国家の組織を完全に完成させるには、維新後の日本もそうであったように、一定の期間が必要なんだよ。 このスレは重複スレです。
以下に移動してください。
秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/army/1477577591/l50
よっこらしょ。
∧_∧ ミ _ ドスッ
( )┌─┴┴─┐
/ つ. 終 了 |
:/o /´ .└─┬┬─┘
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このスレは無事に終了しました
ありがとうございました
もう書き込まないでください マザランやフーケーが幅を利かせてたから云々って意味不明なんだが
モロトフが幅を利かせてたからスターリンは独裁者じゃないとか
周恩来が幅を利かせてたから毛沢東は独裁者じゃないといわれても何言ってんだお前としかいいようがない 少なくともルイ14世はマザランであれ誰であれやろうと思えば冤罪で処刑するぐらいできただろう
まして徳川将軍なら老中の一人や二人切腹させるぐらいわけないが 『殺生関白』は誇張にしても、罪人の拷問や処刑を見るのが好みと、ルイス・フロイスの記録にもあったし、話半分でも人格者とは言えなかったのは確実だよ。
才能そのものはなかなかで、武芸や教養を身につけるのに熱心だったそうだけどね。 戦国武将には、少々、ネジが外れたのが多かった
信長が浅井親子の髑髏を金の盃にしたのは有名な話だし
秀吉を初め、他の戦国武将にもこうした残虐譚が残されている
まあ、罪人の処刑を鑑賞して喜ぶくらいなら、まだマシかも知れないな
摂政関白に関しては、江戸時代になって言われたことだし
あまりアテになる話ではないな 頭蓋骨の杯は俗説で頭蓋骨に漆を塗っただけって聞いたが 漆で金箔を貼り付けて箔濃(はくだみ)にしたのを、内輪での祝いの席で披露したと、信長公記に書かれているが、作者の太田牛一も含めて、周囲もあまり驚いてはいないみたいだね。
この頭蓋骨の箔濃は中国由来の祭儀用らしくて、あまり一般的でもなくば好まれた訳ではないにせよ、非道な仕打ちと非難を受けるほどの事ではなかったみたい。
と言うより、当時の状況では、本物の生首を並べる事だってあったんだろうから…… でも義理堅い武将もいるから教育かな?
秀吉が秀次、秀勝、秀保を枕元に呼び毛利元就のようにサンフレッチェな教えを説いていれば歴史は変わったかもしれない。
初めからこの3人がいなかった方が安定したような気もするが 秀吉は織田家の内紛を利用して天下を獲ったから、同じ事を防ぐために一貫した
行動を取ってる。鶴松が生まれると秀長とその周辺を遠ざけ、秀長は病死だが生
きていたら殺されただろう、秀長と政務を執った千利休切腹はその余波だ。秀頼
が生まれると、今度は秀次とその一族と周辺を退けた。退けられた側に何か落ち
度があったのではなく、秀吉は後継者を一人に絞る事で豊臣家は安泰になると考
えていたに過ぎない。徳川はこれを見て反面教師にして長続きした。 大阪城も献上し。
豊臣家は十万石程度の国主大名の1人程度に落ち着ければ
あるいは豊臣家の存続を、家康は容認したかも知れないがね
家康は、宿敵だった武田家。それに織田家の存続も認めているし
もっとも両方とも、一万石や二万石程度の外様大名に転落したが >>292
魏の武帝
つまり曹操は、皇族が力を持てば皇族同士が争い
混乱が生じるだけと考え
皇帝以外の皇族には力を持たせないように国づくりをした
その結果、司馬仲達が容易に魏の政権をひっくり返した。
その反省から、司馬は皇族それぞれの力を強化する事にしたが
結果、晋だったかな?内紛続きだった
この辺のさじ加減は難しいのよ 実は家康は、豊臣方と事を構える前に、下克上にならないかと側近に相談し、その正当性を確かめたりしてるからね。
少なくとも秀吉のように、有力な後継者を滅ぼすようは事はしなかったろうし、それこそが人質と大阪城引き渡しの要求だったんだろ。
いくら恭順したところで転付は免れなかったろうし、それはイコール大阪城の引き渡しになるんだから。 素直に東国(安房・上総あたりか)への国替えをのんでいれば普通に安泰だったでしょう。 三代将軍家光の時代まで幕府は数多くの大名を取り潰した
幕藩体制を固めるためになりふり構わず
武断政治を実行に移してきたのだが
政権末期に起こった由井正雪の乱から、その方針が転換された
大名を潰して国中に溢れた浪人が反乱を狙ったのだ。
幕藩体制を固める事を目的として行った事が、かえって逆効果になりだしたと認識したわけで
コレ以降、幕府は大名の取り潰しを大きく減らすことになった。
豊臣恩顧の大名も、加賀藩前田家を除いて片っ端から潰されていったし
仙台藩の伊達家も取り潰す計画があったとの話もある
この時代になるまでは、豊臣家が存続したとしたら安泰といえなかったのは間違いないな 大名のままじゃ無理、公家にでもなってなきゃ豊臣は残れなかったよ。 徳川家としては豊臣の家名を残して、徳川から養子と家臣を送り込み
家を継がせ豊臣本家を事実上の徳川の分家に作り変えるって手も有るな。
直系の血統は、まあ適当な手段で絶えさせてしまえばよし。 末期の豊臣家は淀殿とか織田有楽斎が支配する実質の織田家なので豊臣は秀吉一代とみれば
丹波篠山の小名として存続できたな >>301
秀次事件は文禄の役の失敗と関係がある。秀吉は朝鮮出兵が上手く進捗してたら
秀次に日本は任せて、秀頼を連れてシナ大陸に移動したはずだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています