秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part11 [無断転載禁止]©2ch.net
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戦争自体は日本の負けだろ?
好きなだけ暴れられて飽きたら帰られた明・朝鮮側が恥ずかしくて勝ったとか自慢できないだけで。 アレで日本の勝利だというのなら、日本=倭寇だよw
海賊も同然 >>80
その理屈に従えば目的を達成できなかった日本は、明・朝鮮に敗北したことになる 結局、この戦争に勝敗はない
秀吉の死という戦争とは無関係な要因で終了したノーゲーム 野球に例えるなら雨天でノーゲームになった試合のようなもの。
ただ途中経過をみるなら明らかに日本側が圧倒しているのも事実。 >>86
で、日本は半島を撤退した後、400年近くカムバックできなかったわけで
その400年の間に、日本は豊臣、徳川が滅び、中国は明が滅亡した。
というわけで、400年間健在の李氏朝鮮の大勝利!\<`∀´>/ >>87
パクられておいてスマンが・・・
300年近くの間違いだった^^; >>87
新井白石
「日本が和を結んでやったことで朝鮮は国を再造することができた」
「この再造の恩を忘れるな」 >>87
朝廷「徳川は国家元首じゃねーから。殺すぞ弱小国」 中国の軍隊って、補給不足とか、後背の集積地を攻められ兵糧が枯渇って事例が、やたら多いんだよな。
古代〜中世の戦争なんて、戦場の霧と摩擦で、ナポレオン軍みたいに複雑な運用は出来ないんだから、勝つために大量動員するのは理解できる。
何せ紀元前にもなる秦の始皇帝の時代から、何十万人と動員しており、三国志の曹操は最盛期で100万人の兵士を動員できた。
けどその動員兵力を、食わせていく努力が足りないのは理解できない。 陸を支配していない水軍は活動がきわめて制限される時代性がある。
水軍の長距離侵攻は無理。攻撃圏だけ考えても李舜臣が失敗した釜山侵攻が距離的限界では?
衣食住が揃っている近代船舶と違って当時の水軍は頻繁にオカに上がる必要があった。
食事、給水、睡眠、打合せ、その他補給など。 南原城の戦いの明朝側の兵力ってどれくらいだったのだろうか?
日本語wikipediaだと 明軍3,000 朝鮮軍1,000
朝鮮語wikipediaだと 軍民7000人 全裸病魔群(※翻訳おかしい)5000人 明軍3000人 総兵力1万1000人
英語版wikipediaだと Korea: 7,000 men,5,000+ civilians,Ming:3,000 men
どれもソースがわからない 征明朝鮮役に限った事ではないと思うけど、
当時の日本みたいに、普段は外国との戦争が無い国は、
朝鮮、明兵との戦い方や相手の装備などについて雑兵・武将にいたるまで全く知識が無かったと思いますが、
戦役に入る前に日本側全体として、何らかの打ち合わせをしたんでしょうか?
日本側は初戦から 朝鮮兵相手には鎧袖一触だった所を見ると(殆ど苦戦してないですよね?)、
とても初めての相手と戦ったとは思えないのですが。
逆に明兵に関しては情報が少なくて、対抗戦術が確立出来ずに、
平壌以後押し込まれたような感じもしますが、どうでしょうか どうも朝鮮水軍は日本水軍を質で圧倒していたらしい。
>日本軍は、その優秀な装備(多数の銃、槍、弓矢)を頼み、わずかの船しか持たぬ朝鮮の海賊を求めて出撃した。
>
>かねて朝鮮人らは日本の船舶を血眼で探していたので、彼ら(日本軍)に遭遇すると大声をあげ、喜んで船を率いて
>日本の艦隊を襲撃した。朝鮮の船舶は堂々として頑丈にできていたので、日本人を威圧した。
>まず朝鮮人の方から、火薬鍋による攻撃があったが、これは日本人を散々にてこずらせ悩ませた
(中略)
>この海戦はかなり長く続行したが、日本軍はすでに意気消沈し、戦況はますます彼らにとって不利になっていった。
>この遭遇戦で虎之助側の一人の指揮官が戦死した。中略 他の指揮官も敗北し、万策尽きたと見るや、敵の手に陥るに先立って切腹した。
>この戦いで、朝鮮人は、日本艦隊の七十般を奪い、兵士の大部分を殺害した。日本の残余の艦隊は命からがら逃げのびた。
>
>他の多くの出来事については割愛するが、日本軍は海戦の知識に乏しく、敵を撃退するための火器が不足し、海上ではつねに不利な状況に立たされていた。
完訳・フロイス日本史5巻 中公文庫 海戦の敗因は大砲不足だね
>これに先だって李舜臣は亀甲船を創造していた。船の上を板で張りつめ、その形は穹窿状
>で亀に似ている。戦士や漕ぎ手はみな船内におり、左右前後には火砲を多く載せ、縦横に動
>き回ること機織の竣のようで、賊船に遭遇すれば、いっせいに大砲を放って、これを撃ち砕
>くものであった。このような亀甲船をはじめ諸船が一時に勢いを合わせて攻めたので、烟焔
>がみなぎり、賊船を焚焼すること数知れなかった。
>
>賊将は高さ数丈の楼船上におり、物見櫓を立て、紅や色とりどりの幔幕を、その外周に張
>りめぐらせていたが、この船もまた大砲で撃ち破られ、賊はことごとく水に陥って死んだ。
>その後、賊は連戦して、みな敗れ、ついに遁走して釜山・巨済に入り込んだままふたたび出
>てこなかった。
戦国水軍の興亡 宇田川武久 『懲録』より 朝鮮役の英語版wikiは長らく朝鮮人の電波炸裂の酷い有様だったが、少しずつ修正されてきてるな
蔚山城の日本の援軍8万人→1万3千人と正しい数字に変わってるし、
幸州山城の日本側戦死者1万5千人とか意味不明な数字に「要出典」が付きはじめた
釜山浦の戦いも日本軍の勝利とはっきり書かれてる
(他方、陸で義兵が日本兵3800人をぶっ殺したなどと電波な文章も多いがw) 宣祖は実は結構有能だったのでは?
バックグラウンドがないからピンチでも派閥のバランスを維持しないと行けないし、
独走しても臣下や宗主国の明に押し込められる危険性あったし。
それでいて恐怖にかってギリギリ亡命しなかったし。
ダメな環境でできる範囲で有能さを発揮したと思う。 キタ島卍の「秀吉の朝鮮侵略と民衆」斜め読みした
まあ、あちこちにデタラメ記述が多いこと多いこと
例えば鳴梁海戦記述
「高山公実録」の記述から朝鮮水軍が現地の地理に詳しく勝利したとか言ってるんだが
実際の「高山公実録」の記述は
朝鮮水軍のほうが現地の地理に詳しかったので
朝鮮水軍が逃げていくのを追撃することが困難だったって書いてるだけ
こんなインチキよくできたものだと読んでて呆れたわ 宣祖実録 36巻 1593年 3月 8日
薊遼兵7万
宣府兵3万
大同兵3万
苗蛮兵8万
天津留鎮軍6万
山西兵3万
陜西兵3万
浙江砲手7万
ちょっと明軍多すぎじゃない? 韓国の国民レベルの認識では、
朝鮮の役は、国王が逃げて明軍は略奪にいそしんでいる中
民衆が戦って、日本軍を追い出した
って事になっているね。
そこまで気骨のある国民性なら、何で数百年も李朝朝鮮の支配下にあったか
そっちの方が訪ねたいが >>95
対馬の宗氏は朝鮮の事など詳しいから
そこから知識を得ていたようだし
あと、中国やポルトガルなどの外国人商人から情報を得ていたと聞いているが
ただ、日本軍に対して無知だったのは、明軍や朝鮮軍も一緒だったようだな 日本人だってアメリカに解放されるまで天皇か武家に支配されてたわけだし
アジアの特徴 >>78
想像で補うってのは必要だし見てて楽しいけれど…、それ裏付けある?
川上久国泗川御陣記
唐船ハ小舟ニテ用二立ソフニモナク候
どの史料にも露梁海戦での敗因として敵が大船であったことが書いてある
船舶の知識で考えれば船が大きいほど水面から上に出た部分が増える為に高さが得られる
高さが得られれば有利に戦うことができるからこの部分よく納得できるんだが
もし明船の圧力に押され分断されたとすると明船は小さくて役に立たないと書いてあるのに
その役に立たない船に負けたと言う事だろうか 川上久国の雑録に立花船が屋根の上に兵を置き警戒をしていたのに対し
島津船はそうしていなかったことで戦果が上がらなかったことが書いてある
また
伊藤貞昌覚書
(樺山や喜入は)番船共取巻候て籠の内の鳥の如く難遁躰に候由
とも書いてある
警戒を怠り突出し潜んでいた船に囲まれ潰されたと考えた方が自然では? 伊藤の方は城に逃げた後の話なんだが結局のところ終始湾の支配をされ続けていることを示している
分断されたから船を捨てるってのはどう言う事かわからない
挟撃の機会を自ら放棄したってことだろうか
さらに明史も征韓録も劣勢の明水軍の救援に赴き李舜臣が死亡したと書いてある
どの史料を見てもその解釈と相反するがどう考えるか? >>106
『川上久国泗川御陣記』に唐船は小舟で役に立ちそうにないとあり、
露梁の敗因は敵船が大船だったからであって、故に明軍ではなく
大船であるところの朝鮮水軍によって負けた、という主張のようだけれど、
日朝共に大中小それぞれ取りそろえているのに、明水軍だけが
小舟だけなどと言うことはあり得ないでしょ。
実際、『宇都宮高麗帰陣物語』には明船として描写されているのが
長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
そもそも『川上久国泗川御陣記』にある「唐船」が明船を指しているのかは
疑問のあるところで、当時は唐=明では必ずしもなく、唐が朝鮮を指したり、
明・朝鮮を区別していないという用例も多い。『川上久国泗川御陣記』も
陸戦に関しては「漢南人」と記しているのに海戦では「唐船」となっているので、
これは明朝の区別ではなく、板屋船相当の大型船=高麗船、挟船・鮑作船相当の
中・小型=唐船としている可能性も否定できないと思う。
それから、裏付けを要求してるけど、やはり『宇都宮高麗帰陣物語』に
南海城で収容した四,五十人の島津兵からの聞き取りとして、
「朝鮮の番船」に乗り移ったものの敵(上述のように朝鮮兵のはずが
ここでは「唐人」と記述)は階下に閉じ籠もったので焦れている内に
朝鮮船が「唐人船」の中に漕ぎ入れ、間近で半弓で射殺されたので
海に飛び込んで南海城に逃れ入ったというものがある。
数の上からも当然だけれど、露梁海戦は朝鮮水軍ではなくあくまで
北の明水軍が主力であって、その北からの圧力で島津本隊他の諸将は
海峡を突破することなく引き返し、海峡を突破して孤立した島津の
前衛は船を捨てて南側の南海島に逃げ込んだというのが実相でしょ。
また、前述の唐船の大きさに関しても、この「唐人船」は決して
小舟ではなく、板屋船の甲板上の島津兵を射殺せるだけの高さが
ある船だったという証左でもあるな。 あと、>107をみると露梁海戦の両軍の基本的な序列や配置を理解してない
ようだけど、露梁海峡を挟んで北に明水軍、南に朝鮮水軍での挟撃であり、
李舜臣が助けようとした明将・ケ子龍は本来は督戦のために朝鮮水軍に
派遣されており、主従で乗り込んだ朝鮮船一隻の単船であって
麾下の艦隊は持ってないよ。 >>108自己訂正
資料読み直したら、陳リンは分派の際にケ子龍に巨艦3隻兵千人を与えてますな。
記憶違いしてたようでどうも失礼。
でも死んだのは家士二百人と乗り込んだ朝鮮船というのには変わりなし。 @…日本軍の計画の成功と明軍の挫折
慶長の役は日本軍は始めから苦戦したという虚構が流布しているが、慶長の役は出兵以前に練られていた計画通りにことを運んでいた。
慶長2年2月21日に諸大名に発布した戦争計画によりますと、今度は「占領」を目的とはせずに、出兵を繰り返して明・朝鮮軍に打撃を与え最終的に屈服させるというもの
。これは、文禄の役で「占領」にこだわったために、拠点と拠点との間の兵糧の補給路の安全・確保に支障をきたし、慢性的な兵糧不足に陥った苦い経験から得た新たな戦略。
その戦略変換を基に具体的な計画が発布される。
@明・朝鮮軍の軍事拠点となっていた「全羅道」の
明・朝鮮軍を徹底的に撃滅し、忠清道の明・朝鮮軍もなるべく同様にすること
Aそれが、済めば撤収し、日本軍が補給の届きやすい沿岸部に築いていた倭城群を、
さらに拡大させ築城・補強し、防衛体制が整えば、在番を除いて日本本土に帰還し、新たな出兵計画に備えること
Bもし、明・朝鮮軍が日本軍の防衛網に侵入すれば、徹底的に撃滅すること(慶長2年2月21日書状 立花文書)
いざ慶長の役が勃発すると、全羅道の明軍が守る南原城を陥落させ、黄石山城も陥落させるなどして全羅道の明・朝鮮軍を一掃し、
忠清道に進んだ日本軍は稷山で明軍と遭遇するも、圧倒的兵力差で明軍を後退させ忠清道の掃討にも成功し、@は達成される。 ここで、@を達成した日本軍は、防衛網に撤収し、築城・補強を開始しました。しかし、築城中の蔚山城に明から大増援を得た明軍が襲撃を掛ける。
これに対して、日本軍は苦戦するも明軍六万のうち、二万もの兵を打ち取って大勝。
『明史』朝鮮伝「鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬」
ここで、慶長の役の作戦の成功を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計画し、
さらに明・朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で休息をとっていた日本軍を1599年に再度朝鮮に派遣する号令を発する。
『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたようだ。
さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めていた(島津家文書、鍋島文書等)
そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計画は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計画していた明軍は
本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかったが大敗。
理由A…明軍の疲弊
戦争末期には明側は極度に疲弊し、戦争を続行することは困難でした。三路の戦いで九州勢のみにより明・朝鮮軍に大勝した日本側とは
違い明側はすでに極度に疲弊していました。明側は三路の戦いを日本軍との決戦だと考え、数カ月かけて攻城具を大量に造り、
明各地から徴兵を実施するなど意気込みは相当なものだった しかし、相当な意気込みで挑んだ明軍でしたが、九州勢のみの日本軍に敗退します。この時点で明軍に勝算はなかったと明側でも認識していた
例えば『明史』朝鮮伝によると「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、
百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息)とある。
また、明朝廷の国家予算が四百万両であるのに対して、明側がこの戦役で費やした戦費は780万両に及び財政も極度に悪化していた。
『明史』王徳完伝「寧夏用兵(ボハイの乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」
さらに、明軍の敵は日本軍だけではなかった。この頃には、満洲の女真族のヌルハチがたびたび明に侵攻を繰り返し、
対日本戦の明軍を割いてまで、ヌルハチに備えなければならない状況にあった。
『朝鮮王朝実録・宣祖実録』「西路?子, 與老乙可赤, 約與合勢, 開元、瀋陽、遼東、鴨壕齶謌ネ西等地, 欲爲搶掠云云。」 軍門已抄李芳春、牛伯英等撤送, 使之防守。 」
このように、戦争が続いたとしても日本軍が撃退される可能性はほぼ喪失していたため、日本軍は朝鮮に居座っただろう。
ただし、秀吉が朝鮮の制圧を目指していたかは別問題です。秀吉は文禄の役の講和条件に「勘合貿易の復活」を挙げており、
それを認めさせれば朝鮮から手を引いた可能性も十分ある。 >>109
陸軍国であった日本がこの遠征で水軍を重視せず小舟が多かったわけで
可能性があるという程度で「あり得ない」と断定してしまうのはどうか
こちらは単に納得させてほしいだけなので姿勢がニュートラルでないと困るが
>実際、『宇都宮高麗帰陣物語』には明船として描写されているのが
>長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
明の船が日本の関船に相当するのなら朝鮮の板屋船より小さいことになる
これでは明船が大船とは言えなかったのではないか、どういう意味か?
>「朝鮮の番船」に乗り移ったものの敵(上述のように朝鮮兵のはずが
>ここでは「唐人」と記述)
朝鮮人を唐人と言った可能性は?
朝鮮もサイズが大中小とあるようなので
番船(哨戒船)とすれば板屋船より小サイズだったのも疑問はない
>朝鮮船が「唐人船」の中に漕ぎ入れ、間近で半弓で射殺されたので
>海に飛び込んで南海城に逃れ入ったというものがある。
小サイズであっても波があるのだから射撃することはできると思うが
それは置いといて、板屋船から小サイズの船を撃ったとすれば特に疑問もない
提示していただいた文章からでは朝鮮船が壊滅どころか日本側が有効な攻撃ができず
朝鮮側が組織的に攻撃し続けた様子が見てとれるのだが…
結局のところ現時点においてこの結論が整合性のある結論なのかな でも正直この議論は楽しいので
取り敢えずその文章分かりにくいので二度手間だが解説してくれ
史料読むのが一番なのだろうがすぐにできないしな もう一回読んだ
朝鮮の番船を唐人船から撃った
よって唐人船=板屋船ではないか
唐人船高麗船は単に大小の可能性あり
と言うことだろうが
「朝鮮の小さい船を明船から反弓で撃った」とそのままの解釈だろう >>115
番船が何を意味するかも判ってないようだし、
もう少し勉強してからにして貰わないと
色々話がかみ合わなさすぎる。
ちょっと勘弁してくれw
ついでだから>41の訂正
>長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
文庫版の日本戦史朝戦役本文から引いた数字だけど、なんだか当時の軍船にしては
細長いな、と思って原文を確認したら横が四間となっていたので正しくは7.2mほど。
縦は十一二間なので20〜21mで間違いない。 だから番船ってなに?
デジタル大辞泉の解説
ばん‐せん【番船】
1 港口・関所などで、必要に応じて見張りや警護をする船。また、密漁を監視する船。ばんぶね。
2 《新綿番船・新酒番船の略称》江戸時代、上方から新綿・新酒を送るため、江戸へ到着する順番を競った廻船の称。 >>121
当時の日本側史料で「番船」と出てくれば、ほぼ間違いなく朝鮮の主力艦種だった
「板屋船」を指すね。『宇都宮高麗帰陣物語』でもそう。
自分の想像だけの番船=哨戒船=小舟という解釈で、“ボクの考えたやっぱり
朝鮮水軍が強かった露梁海戦”みたいな話を延々とされてもつきあい切れませんわ >>119
そう。中国では後継王朝が先代王朝の歴史を編纂するんで、
後継王朝の正当性を高める為に先代王朝後期〜末期の政治面での悪辣さを強調し、
後継王朝の強兵振りを喧伝する為に先代王朝後期〜末期の軍事面での優秀さを強調する 日本側の資料は誇張だといい明の資料は不当に貶められてるという
ああ言えばこう言うだな
ま、僕の考えた最強の朝鮮軍の結論に沿わない資料はとことんいちゃもん付けるんだろうけど >>122
いや、番船といえば普通は戦闘用の船という意味であって、船格は問わないが? 編纂元は明代に書かれた書物だから
割り引こうが割り増そうが大体の事実は動かんよ 餓死は多かったと思う
電撃戦の文禄の役と地味に橋頭堡の確保に重点を置いた慶長の役の戦略の差を見れば一目瞭然。
秀吉政権は朝鮮の土地を過大評価してた。
せめて東北並みの豊かで現地の食糧で15万の兵が駐屯できると思ってたんだよ、
アジアと言うか朝鮮を過大評価する風潮は今に似てると思う。
行ってみたら信じられない程の困窮な土地で戦線が維持できないほど餓死者が続出。
四川で起きた反乱には20数万の大軍を送れる明軍も朝鮮には10万しか援軍を送れない。
当時の朝鮮の土地は満州や蒙古と大差の無い荒涼とした土地だったんだよ。 どうでもいいけど、なぜ小西は陸路で釜山を目指さなかった?
陸路に劉 綎以外で強力な敵がいたか? 見てて面白いから続けろ。このスレのためにもな
何にもしないのは悪いので整理をする
A
島津先鋒の船団と南の朝鮮船団が衝突し観音裏付近では島津が優勢、朝鮮は壊滅的被害を受けた
しかし、その後北の明船団が助けに入り島津先鋒の船団は壊滅した
(唐人船が陳璘の北の船団であった場合)
B
島津先鋒と南の朝鮮船団が衝突し観音裏付近では朝鮮船団が制した
朝鮮船団は壊滅しておらずその後も戦い続けた
(唐人船が南に派遣された明船であった場合)
またまとめるのでよろしく >>132
被害を出したくなかったから。
順天倭城のある半島の付け根を抑えられていたから。 >>134
難しい話じゃなく地図で観音浦がどこにあるかを見れば一目瞭然なんだけどね。
参謀本部編纂 『日本戦史 朝鮮役 露梁海戦要図』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936357/59
主戦場である西側海峡口の南西、南海島の北西岸の舟形2つが記されてるのが観音浦で、
露梁海戦での朝鮮水軍の出撃点でもある。
まぁ、後代の李舜臣を顕彰する『李忠武公全書』では、李舜臣を主役にオールキャストで
観音浦で一大決戦したことになってるが。 まあ、しろうとめなんだが、
秀吉が計画的に水軍(海上補給部隊)を編成して半島西岸を北上しつつ
内陸の大軍への側面からの補給を維持して、山海関から北京への進撃を企てていたようには思えないのだが。
力ずくで朝鮮から明へ15万の陸兵を押し出すという構図にしか見えない。
オウリョクコウを渡り山海関〜長城を超えて北京へいたる道のりを
どういうふうに秀吉が考えていたのかが、むしろ疑問なんだ。
中国人も朝鮮人も太閤の威光の前に戦う前からひれふす程度にしか考えてなかったんではないか。 南蛮人が献上した日本が大きい地球儀を見て計画を立てたんでしょう 朝鮮から遼東半島のつけねを経て山海関〜北京へのみちのりは
途方もない距離なんだが、秀吉にとっては都から博多くらい程度しか想像してなかったのではないかな。
現実は不毛の地で、明の兵隊が朝鮮に援軍を送るに当たっても随分と朝鮮側が接待というか
明への給与に苦心したらしいな。
行長が行き詰るのもわかるわ。 いまの地政学的見地からすると北京を攻めるのに
朝鮮〜陸路〜北京
は愚策で、
朝鮮〜遼東半島(旅順)〜山海関
という海路の進撃が効率的に見えるけれど、
そういう発想がなかったのは、清正があさってのオランカイの方向に行ってるのをみれば分かる。
あくまで陸路で行こうとしていたのだよ。 このスレは重複スレです。
以下に移動してください。
秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/army/1477577591/l50
よっこらしょ。
∧_∧ ミ _ ドスッ
( )┌─┴┴─┐
/ つ. 終 了 |
:/o /´ .└─┬┬─┘
(_(_) ;;、`;。;`| |
このスレは無事に終了しました
ありがとうございました
もう書き込まないでください >>141
オランカイへの出撃は地元勢力からの要請と
女真族に対する威力偵察の目的だから
それは違うな
的外れ >>138
そのために兵力を充実させるために
秀次を粛清せずに減封にとどめて
渡海させて派兵させるべきだったな 家康を渡海させていたら、
朝鮮征伐がどうなっていたか? >>145
結果論で言えば家康が困るけど、そもそも秀吉は勝利する気で居たんだから家康を送り込むこたぁない 結局失敗だったのか?
日本が圧倒的に優れているのは忍者の存在だと思う >>147
目標は大陸進行でその準備が朝鮮征伐だからね。
朝鮮征伐に手間取ってる時点で失敗リ結局グダグダして何もできず帰ってきたわけだし
だから朝鮮&明の勝ちだけど防衛戦なんて勝っても利益がない訳で、誰一人利益がなかったのが朝鮮征伐 >>148
目標達成を断念したんじゃなくて秀吉の死で目標自体がリセットされたんだから失敗でもなんでもない
クビライが健在なのに元寇に失敗・断念した元朝と違い、オゴデイの死でヨーロッパ侵攻を中断したモンゴル帝国と同じ
明と朝鮮の国土防衛も自力で勝ち得た成果ではなく、秀吉の死で日本が帰ったから負けずに済んだだけで勝ってない
元寇にて実力で元軍を蹴散らし勝利した日本とは全然違う 秀吉一人の死で継戦能力を失い全占領地放棄せざるをえないほど惰弱で不安定な政権だったってことだ >>149
トップが一人死んで全部おじゃんになるとかそれはもう作戦自体が失敗に近いんじゃ
つうか元寇もさほど実力で蹴散らしたわけでもないしなぁ このスレは重複スレです。
以下に移動してください。
秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
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このスレは無事に終了しました
ありがとうございました
もう書き込まないでください >>150
豊臣政権が秀吉ありきのワンマン体制だったのは確かだが、
消失したのは継戦意思であって継戦能力ではないし、日本の軍事力が明朝鮮より上だった事実は変わらんぞ
>>151
トップ一人の死で軍事外交がひっくり返るのは前近代ではよくある話で朝鮮征伐もその一例に過ぎんよ
それと元寇での成果は完全に九州武士団の実力によるもの。まさか未だに台風説や威力偵察説を真に受けていまいね? >>153
だが、秀次を完膚なきまでに粛清したのは失策だったぞ
石高を減らしたうえで、渡海させて城普請させてペナルティを課すだけでもよかったかも >>153
継戦の意思喪失って敗戦とほぼ同義なのでは?
アメリカのベトナム戦争敗戦を敗戦ではないと主張するのに似ている。 >>155
被る場合もあるが基本的には同義ではない
上でも書いたが、クビライ自身が健在にもかかわらず継戦能力がない事で継戦断念したのと、
継戦能力も意思もある秀吉が戦場とは無縁の場所で病死したのは別の話だぞ
専制君主制の多かった前近代と民主制の多い近代以降を同列に語るのは難しい >>156
日本の敗北ではなくて、豊臣の敗北が正しいということか 軍事力比較したら明が勝つんじゃね
投入戦力の比較なら日本が上かもしれんが >>153
元寇って一回目は「勝ったり負けたりしてるうちに相手が集まってきたしトップが負傷したからとりあえず帰ろうぜ」だし、
二回目は「相手の用意が良くて攻めあぐねてたら疫病と台風が来たから戦意喪失で将校撤退」と、両方まだ継戦能力はあるが戦意喪失で元寇側が引いてるわけで、
「戦意喪失で引いたのは負けではない」
理論なら元寇は失敗じゃないってことになるよ?
と言うか敵国に攻める側が負けたといえる基準って結局「なんらかの理由で戦意喪失して撤退」か「一人残らず皆殺し」しか無いわけで、これを失敗や負けにしないのなら攻める側にはほとんど失敗なんかないし守る側が勝つことなんかほとんど無いわと。 順天倭城のある半島の付け根を誰に抑えられてた?
劉テイ以外に敵勢力がいたの? >>160
船で来たから船で帰らないと帰れず。
陸には明軍も朝鮮軍も植えた朝鮮民(朝鮮の官は収奪するし明軍も略奪するから)もいる。
陸路は治安悪すぎ。 >>129
米軍も鉄道以外の交通インフラの劣悪さに音を上げて
たびたび徒歩行軍を強いられては往生したそうな 田原坂なんか今でも二車線六メートル道路なんだがこれが当時は九州の大動脈だったというから驚く
それほど街道が貧弱な九州の大名ですら朝鮮半島の“街道”には驚いたというからあとはおさっし
大臣将軍が一輪車に乗る国はさすがに別格だといえよう 陸路で釜山を目指すって
順天の持ち船捨てて陸路で釜山に着いても
そこで乗る船が無い状況が考えられるだろ このスレは重複スレです。
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秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
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ありがとうございました
もう書き込まないでください 当時の交通と通信の技術では、補給を確保し続けるのは難しい。
現地調達って、やはり難しいんだよ、いつの時代でも。
とくに十万以上の大軍となると、よけいにな。
当時は世界中どこでも広い農村に人口多く散らばっていて
一か所に人が集まる都市がなかったから。
漢城(ソウル)でも十万人くらいでしょう?
だから、十万の軍隊に食料供給しようにも、
現地の物流を利用しないといけないけど
その現地の物流が侵略軍に食料をよこさなかったら、
どうすることもできない。 露梁海戦は小西軍救出という目的を日本側は完璧に果たした。
対する明・朝鮮では朝鮮水軍トップの李舜臣が打ち取られ
明水軍ナンバー2のケ子龍も打ち取られるという大打撃を受けた。
これらの事実からして日本側の勝利という以外有り得ない。 明主将の陳燐(当て字)も死にかけてるしな
一方日本側は誰も死んでないという
まぁ中国人と朝鮮人で出来た軍隊の割には頑張ったんじゃない?
和議破りに待ち伏せまでしといて逆撃食らって首狩りされるとか中国人らしい結果だが 死んでないってのはそういう明確な記述がないってだけで日本側も多数の戦死者がでたって記述がある。
Wikipediaは「日本軍は不利ながら善戦した。結果としては痛み分け」的な形にしてるけど、実際そんなところなんじゃないかな >>171
記述がないのではなく日本側で身分の高い人間は実際に死んでない。
兵卒の死傷数と指揮官の死傷数は大よそ比例するので
大量の武将が死傷した明・朝鮮側では兵卒の死傷者も日本側以上に多かったのは確実。
何よりも戦略目的を達成したのは日本側なので露梁海戦は日本側の勝利といえる。 焙烙玉を持っていってたら楽勝できたろう?
海戦は大砲よりも焙烙玉だよ。 このスレは重複スレです。
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秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
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もう書き込まないでください >>172
撤退戦だと損害の大きさに対して将が死なないってことがよくある。
撤退戦で撤退できたんだから日本の勝ちだろうけど、じゃあどの程度の勝利かつうと疑問じゃないかなと言いたいのよ。
朝鮮側では日本の船を200近く落としたと記録してるし、日本側も被害が大きいと嘆いてる記録がちらほらあるから、精々「際どいが勝った」位だったんじゃないかと 露梁海戦は撤退戦でなはなく、小西軍救出戦。
勝敗は目的を達成したかどうかで決まる。
小西軍救出という目的を完璧に達成したのだから日本側の勝利以外有り得ない。 >>176
>撤退戦だと損害の大きさに対して将が死なないってことがよくある。
しかし、追撃(して当然)側の将の死傷の方が多い、ってのは希だろうな。 >>176
日本側から見た被害はともかく
朝鮮・明側の資料なんて精々1/10か1/100にして見るべきじゃね。
戦果を少しでも挙げた事にしないと粛清される連中が書いたもんだぞ。 露梁海戦は実質的に日本側勝利だが
幸州山城の戦いや鳴梁海戦についても目的を達成したのは日本側であり
実質的勝利は日本側だと言える。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています