秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12©2ch.net
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>>34
スマソ・・・
300年近くの間違いだった >>34
新井白石
「日本が和を結んでやったことで朝鮮は国を再造することができた」
「この再造の恩を忘れるな」 >>34
朝廷「徳川は国家元首じゃねーから。殺すぞ弱小国」 >>26
想像で補うってのは必要だし見てて楽しいけれど…、それ裏付けある?
川上久国泗川御陣記
唐船ハ小舟ニテ用二立ソフニモナク候
どの史料にも露梁海戦での敗因として敵が大船であったことが書いてある
船舶の知識で考えれば船が大きいほど水面から上に出た部分が増える為に高さが得られる
高さが得られれば有利に戦うことができるからこの部分よく納得できるんだが
もし明船の圧力に押され分断されたとすると明船は小さくて役に立たないと書いてあるのに
その役に立たない船に負けたと言う事だろうか 川上久国の雑録に立花船が屋根の上に兵を置き警戒をしていたのに対し
島津船はそうしていなかったことで戦果が上がらなかったことが書いてある
また
伊藤貞昌覚書
(樺山や喜入は)番船共取巻候て籠の内の鳥の如く難遁躰に候由
とも書いてある
警戒を怠り突出し潜んでいた船に囲まれ潰されたと考えた方が自然では? 伊藤の方は城に逃げた後の話なんだが結局のところ終始湾の支配をされ続けていることを示している
分断されたから船を捨てるってのはどう言う事かわからない
挟撃の機会を自ら放棄したってことだろうか
さらに明史も征韓録も劣勢の明水軍の救援に赴き李舜臣が死亡したと書いてある
どの史料を見てもその解釈と相反するがどう考えるか? >>38
『川上久国泗川御陣記』に唐船は小舟で役に立ちそうにないとあり、
露梁の敗因は敵船が大船だったからであって、故に明軍ではなく
大船であるところの朝鮮水軍によって負けた、という主張のようだけれど、
日朝共に大中小それぞれ取りそろえているのに、明水軍だけが
小舟だけなどと言うことはあり得ないでしょ。
実際、『宇都宮高麗帰陣物語』には明船として描写されているのが
長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
そもそも『川上久国泗川御陣記』にある「唐船」が明船を指しているのかは
疑問のあるところで、当時は唐=明では必ずしもなく、唐が朝鮮を指したり、
明・朝鮮を区別していないという用例も多い。『川上久国泗川御陣記』も
陸戦に関しては「漢南人」と記しているのに海戦では「唐船」となっているので、
これは明朝の区別ではなく、板屋船相当の大型船=高麗船、挟船・鮑作船相当の
中・小型=唐船としている可能性も否定できないと思う。
それから、裏付けを要求してるけど、やはり『宇都宮高麗帰陣物語』に
南海城で収容した四,五十人の島津兵からの聞き取りとして、
「朝鮮の番船」に乗り移ったものの敵(上述のように朝鮮兵のはずが
ここでは「唐人」と記述)は階下に閉じ籠もったので焦れている内に
朝鮮船が「唐人船」の中に漕ぎ入れ、間近で半弓で射殺されたので
海に飛び込んで南海城に逃れ入ったというものがある。
数の上からも当然だけれど、露梁海戦は朝鮮水軍ではなくあくまで
北の明水軍が主力であって、その北からの圧力で島津本隊他の諸将は
海峡を突破することなく引き返し、海峡を突破して孤立した島津の
前衛は船を捨てて南側の南海島に逃げ込んだというのが実相でしょ。
また、前述の唐船の大きさに関しても、この「唐人船」は決して
小舟ではなく、板屋船の甲板上の島津兵を射殺せるだけの高さが
ある船だったという証左でもあるな。 あと、>40をみると露梁海戦の両軍の基本的な序列や配置を理解してない
ようだけど、露梁海峡を挟んで北に明水軍、南に朝鮮水軍での挟撃であり、
李舜臣が助けようとした明将・ケ子龍は本来は督戦のために朝鮮水軍に
派遣されており、主従で乗り込んだ朝鮮船一隻の単船であって
麾下の艦隊は持ってないよ。 >>42自己訂正
資料読み直したら、陳リンは分派の際にケ子龍に巨艦3隻兵千人を与えてますな。
記憶違いしてたようでどうも失礼。
でも死んだのは家士二百人と乗り込んだ朝鮮船というのには変わりなし。 >>43
徳川が国家元首なんて認める発言してたか?
孝明天皇が? >>42
陸軍国であった日本がこの遠征で水軍を重視せず小舟が多かったわけで
可能性があるという程度で「あり得ない」と断定してしまうのはどうか
こちらは単に納得させてほしいだけなので姿勢がニュートラルでないと困るが
>実際、『宇都宮高麗帰陣物語』には明船として描写されているのが
>長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
明の船が日本の関船に相当するのなら朝鮮の板屋船より小さいことになる
これでは明船が大船とは言えなかったのではないか、どういう意味か?
>「朝鮮の番船」に乗り移ったものの敵(上述のように朝鮮兵のはずが
>ここでは「唐人」と記述)
朝鮮人を唐人と言った可能性は?
朝鮮もサイズが大中小とあるようなので
番船(哨戒船)とすれば板屋船より小サイズだったのも疑問はない
>朝鮮船が「唐人船」の中に漕ぎ入れ、間近で半弓で射殺されたので
>海に飛び込んで南海城に逃れ入ったというものがある。
小サイズであっても波があるのだから射撃することはできると思うが
それは置いといて、板屋船から小サイズの船を撃ったとすれば特に疑問もない
提示していただいた文章からでは朝鮮船が壊滅どころか日本側が有効な攻撃ができず
朝鮮側が組織的に攻撃し続けた様子が見てとれるのだが…
結局のところ現時点においてこの結論が整合性のある結論なのかな でも正直この議論は楽しいので
取り敢えずその文章分かりにくいので二度手間だが解説してくれ
史料読むのが一番なのだろうがすぐにできないしな もう一回読んだ
朝鮮の番船を唐人船から撃った
よって唐人船=板屋船ではないか
唐人船高麗船は単に大小の可能性あり
と言うことだろうが
「朝鮮の小さい船を明船から反弓で撃った」とそのままの解釈だろう >>46
番船が何を意味するかも判ってないようだし、
もう少し勉強してからにして貰わないと
色々話がかみ合わなさすぎる。
ちょっと勘弁してくれw
ついでだから>41の訂正
>長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
文庫版の日本戦史朝戦役本文から引いた数字だけど、なんだか当時の軍船にしては
細長いな、と思って原文を確認したら横が四間となっていたので正しくは7.2mほど。
縦は十一二間なので20〜21mで間違いない。 だから番船ってなに?
デジタル大辞泉の解説
ばん‐せん【番船】
1 港口・関所などで、必要に応じて見張りや警護をする船。また、密漁を監視する船。ばんぶね。
2 《新綿番船・新酒番船の略称》江戸時代、上方から新綿・新酒を送るため、江戸へ到着する順番を競った廻船の称。 >>51
当時の日本側史料で「番船」と出てくれば、ほぼ間違いなく朝鮮の主力艦種だった
「板屋船」を指すね。『宇都宮高麗帰陣物語』でもそう。
自分の想像だけの番船=哨戒船=小舟という解釈で、“ボクの考えたやっぱり
朝鮮水軍が強かった露梁海戦”みたいな話を延々とされてもつきあい切れませんわ。 >>52
いや、番船といえば普通は戦闘用の船という意味であって、船格は問わないが? どうでもいいけど、なぜ小西は陸路で釜山を目指さなかった?
陸路に劉 綎以外で強力な敵がいたか? 見てて面白いから続けろ。このスレのためにもな
何にもしないのは悪いので整理をする
A
島津先鋒の船団と南の朝鮮船団が衝突し観音裏付近では島津が優勢、朝鮮は壊滅的被害を受けた
しかし、その後北の明船団が助けに入り島津先鋒の船団は壊滅した
(唐人船が陳璘の北の船団であった場合)
B
島津先鋒と南の朝鮮船団が衝突し観音裏付近では朝鮮船団が制した
朝鮮船団は壊滅しておらずその後も戦い続けた
(唐人船が南に派遣された明船であった場合)
またまとめるのでよろしく >>57
難しい話じゃなく地図で観音浦がどこにあるかを見れば一目瞭然なんだけどね。
参謀本部編纂 『日本戦史 朝鮮役 露梁海戦要図』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936357/59
主戦場である西側海峡口の南西、南海島の北西岸の舟形2つが記されてるのが観音浦で、
露梁海戦での朝鮮水軍の出撃点でもある。
まぁ、後代の李舜臣を顕彰する『李忠武公全書』では、李舜臣を主役にオールキャストで
観音浦で一大決戦したことになってるが。 >>55
被害を出したくなかったから。
順天倭城のある半島の付け根を抑えられていたから。 順天倭城のある半島の付け根を誰に抑えられてた?
劉テイ以外に敵勢力がいたの? >>61
船で来たから船で帰らないと帰れず。
陸には明軍も朝鮮軍も植えた朝鮮民(朝鮮の官は収奪するし明軍も略奪するから)もいる。
陸路は治安悪すぎ。 陸路で釜山を目指すって
順天の持ち船捨てて陸路で釜山に着いても
そこで乗る船が無い状況が考えられるだろ 露梁海戦は小西軍救出という目的を日本側は完璧に果たした。
対する明・朝鮮では朝鮮水軍トップの李舜臣が打ち取られ
明水軍ナンバー2のケ子龍も打ち取られるという大打撃を受けた。
これらの事実からして日本側の勝利という以外有り得ない。 明主将の陳燐(当て字)も死にかけてるしな
一方日本側は誰も死んでないという
まぁ中国人と朝鮮人で出来た軍隊の割には頑張ったんじゃない?
和議破りに待ち伏せまでしといて逆撃食らって首狩りされるとか中国人らしい結果だが 死んでないってのはそういう明確な記述がないってだけで日本側も多数の戦死者がでたって記述がある。
Wikipediaは「日本軍は不利ながら善戦した。結果としては痛み分け」的な形にしてるけど、実際そんなところなんじゃないかな 焙烙玉を持っていってたら楽勝できたろう?
海戦は大砲よりも焙烙玉だよ。 >>67
記述がないのではなく日本側で身分の高い人間は実際に死んでない。
兵卒の死傷数と指揮官の死傷数は大よそ比例するので
大量の武将が死傷した明・朝鮮側では兵卒の死傷者も日本側以上に多かったのは確実。
何よりも戦略目的を達成したのは日本側なので露梁海戦は日本側の勝利といえる。 >>70
撤退戦だと損害の大きさに対して将が死なないってことがよくある。
撤退戦で撤退できたんだから日本の勝ちだろうけど、じゃあどの程度の勝利かつうと疑問じゃないかなと言いたいのよ。
朝鮮側では日本の船を200近く落としたと記録してるし、日本側も被害が大きいと嘆いてる記録がちらほらあるから、精々「際どいが勝った」位だったんじゃないかと >>71
>撤退戦だと損害の大きさに対して将が死なないってことがよくある。
しかし、追撃(して当然)側の将の死傷の方が多い、ってのは希だろうな。 >>71
撤退せんということではなく、追撃を受けて崩れたかどうかじゃない?
真田昌幸みたいに、兄達が長篠で戦死したから後継者となったような話が露梁や他の朝鮮の戦では出てこないからな。
中川兄が鷹狩り中に死んだから弟が継いだとか、島津兄が死んだから弟が出征したとか。
戦死で聞く話だと来島ぐらい? 露梁海戦は撤退戦でなはなく、小西軍救出戦。
勝敗は目的を達成したかどうかで決まる。
小西軍救出という目的を完璧に達成したのだから日本側の勝利以外有り得ない。 >>71
日本側から見た被害はともかく
朝鮮・明側の資料なんて精々1/10か1/100にして見るべきじゃね。
戦果を少しでも挙げた事にしないと粛清される連中が書いたもんだぞ。 露梁海戦は実質的に日本側勝利だが
幸州山城の戦いや鳴梁海戦についても目的を達成したのは日本側であり
実質的勝利は日本側だと言える。 朝鮮征伐は直接の戦闘ではほとんど負けていない日本の実質勝利と言える。 >>77
大陸打通で圧倒的勝利に終わっておきながら全員捕虜となる憂き目にあっても、
それが実質的勝利と言えるかなぁ? 戦争の勝敗は、戦闘の勝敗で決まるものではないという基本を百万遍繰り返さんといかんね 戦略的成功を繰り返していた日本軍。
それに対して明・朝鮮軍は戦略的失敗の連続であった。 そもそも大戦略がどうしようもない程にスカポンタンな日本 戦略も戦術も政治も全部駄目な相手なら何も問題はないな >>82
戦略で無く、大戦略
戦争を行う目的・勝利条件 朝鮮半島国家は、元寇でボコられて、応永の外寇で対馬単独でボコられて、
朝鮮役ではボコボコで、20世紀頭には欧米の植民地になるところを
日本に救済合併してもらってたっけ。(・∀・) 取られたら困るからって、肝心の本土(主に東北地方)や工業犠牲にして金掛けるんじゃ本末転倒なんで
まだ弱小なアメリカ辺りににでも売り飛ばしたらよかったのに。 >>87
応永の外寇はWikiが編集され直されてるけど、先に対馬による朝鮮半島襲撃があり、
それに対する朝鮮側の対馬に対する報復が応永の外寇と呼ばれている。
対馬の倭寇2千人は浙江省を襲おうとしたが、途中で食料が尽き、朝鮮半島を襲った。
そして遼東半島の望海禍で明軍に待ち伏せされ全滅する。
彼らの供述のおかげで明南部を襲った倭寇たちの航路がおおよそ想像がつく。
倭寇は半島沿いに一旦北上してシナ沿岸沿いに南下するという航路を採ったと思う。 >>85
白村江以外でボコられたって認識は無いと思う
現場では勝って勝って勝ち尽くした上でのお家事情or他の外敵にヤラレて降伏、撤退だから
ちょうど、モンゴル帝国の欧州攻めに似てる。 >>89
2000人が全滅してなお万越えの朝鮮軍を追い払った宗氏、無双過ぎだろw
常識的に考えれば遼東半島にまで出張ったのはフツーに偽倭なんじゃないの。 フツーに偽倭?
応永の外寇のWiki見たか?ご丁寧に 太字で ハッキリ クッキリと 対馬人 と書かれてる。
たぶん編集したのは韓国人だろう。
島中飢饉だったので、遠方に”出稼ぎ”に行かざるを得なかった当時の苦しい状況がヒシヒシと伝わってくる。 >>91
一方、本土では下から数えた方が早い模様。
朝鮮が弱すぎただけじゃないかなぁ・・・
それでも全体として見ればいい勝負ってところだし >>92
向こうの記録にあるだけで、宗氏文書がそれこそ山ほど残ってる
対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
2000人も死んでりゃ、いわば対馬の壮青年の大半が死んじまったという
話になるハズなんだし。 >>93
対馬側が全滅した元寇と違って独力で追い返してるので、
まぁ、朝鮮が弱すぎというのは間違いはなさそうだね。 >>対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
略奪の記録など残す馬鹿がいるか?戦果の誇張はあれども対馬の連中だよ。
さもなければ、長専側に捕まった捕虜が嘘をついたということ。
いずれにせよ、朝鮮側の対馬征伐はその結果を受けて行われてたもの。 片方の記録だけで言うと応永の外寇で対馬侵攻したのは「唐軍(明軍)」だぞ。
すわ元寇かと勘違いした幕府がデフコン上げた位だ。
そのくらい情報が不正確な時代に片方の記録だけで判断するのは危険すぎる。
というか組織的な略奪なら記録つけてるのは普通。後ろめたい事じゃないし。 じゃあ、おい、↓これは嘘か?
^ 以下は捕まった倭寇の証言および後に対馬官吏たちが朝鮮政府へ上げる報告。
※捕まった倭寇の証言(史料原文):吾係對馬島人。島中飢饉, 以船數十艘, 只緣乏糧, 侵突庇仁
※仇里安の報告:封內之民侵犯大國之邊鄙
※時応界都の報告:餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 朝鮮側からの連絡で明側は望海禍で倭寇を待ち伏せた。
双方で連携してるから信ぴょう性は高い。生擒857名。朝鮮人は混ざってないようだぞ。
http://baike.baidu.com/view/2335708.htm 単品だと信憑性に問題があるから書いた陣営が違う文書を2つは探せという話。
この場合だと口裏を合わせた可能性がある対馬→朝鮮の報告書じゃなくて幕府の文書を示すとかだな。
正直そこまでするまでもないどうでもいい話題だと思うが そもそも、Wikipediaの応永の外寇の記事の“対馬侵攻の決定”の項を見りゃ判るけど、
その倭寇が全滅したという望海堝の戦い(6/14)以前に、朝鮮西岸を荒らし回る倭寇への
直接対応そっちのけで、倭寇の襲来からわずか一週間後の5/14にはもう対馬遠征を
決定しているという極めて不自然な時系列なんだわ。
で、常備軍が無きに等しいはずの朝鮮がその決定から一ヶ月でもう早々と外征準備を
終えているという手際の良さ。
↓これは応永の外寇についての三日月城通信の考察だけど、朝鮮史料の言い分よりはよほど腑に落ちるね。
ttp://take8592goole.wiki.fc2.com/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87%EF%BC%88%E4%B8%89%E6%97%A5%E6%9C%88%E5%9F%8E%E9%80%9A%E4%BF%A1%EF%BC%89
つまるところ、応永の外寇ってのは、倭寇に事寄せての領土欲からの対馬侵攻だったんでないの。
まさかの大惨敗を喫したので誤魔化しただけでさ。 倭寇って海賊、今風に言う武装勢力の類なんだから海賊退治なんてきりがない追いかけっこより相手の本拠地叩くって判断しただけじゃないの?
兵隊だってかき集めるだけなら一月だって無理でもないし(まともに用意してないから負けてしまったと言うのもあるだろうね)
そもそも外征たって朝鮮→対馬は対馬→本土よりも近いからなw >>94
2千もそうだけど
そもそもの文禄の役での5千は更にどーよって話だよ
あの畑主力で1〜2万石の石高と経済力で2千とか5千とか動員できるものなの >>108
宗氏は10石格なので文禄の役では五人役相当で定数5000人で、
八掛けとしても4000人だけど、実数ではそこまで出してないでしょ。
実高が3万石ほどだから外征ならせいぜいで1500人、慶長の役では
一気に1000人まで減らされてるので、実力としてはそんなもんなのでは
ないかな。やはり脇坂が3万石で文禄1500人、慶長1200人だったし。 >>109
十万石格なんてない。それは江戸時代の序列。
収穫が一万石で移入分の一万石と合わせて最大人口は二万人といったところ。 >>110
そう言われても、実際に宗氏は朝鮮役における九州の大名の軍役である
五人役(本役)を課されてるので、5000人から逆算して豊臣政権下から
10万石と見なされていたことに違いはないよ。 文禄の役の宗氏は軍役5000人だが人数書だと2000人ちょいやね
本島2万石、薩摩入地1万石、役米1万石の4万石の5人役で2千人だからこんなもんやろね 2000で総力戦って感じだな
>>89は相当盛ってると思う っていうか本島が2万石じゃ対馬のみじゃ1千名が精々だな
2千名なんてあり得ない話になるな。 2000人ちょいに小西からの増援200と浪人衆200が加わって文禄の役の宗氏兵力は2500人ほどとなってるな 対馬だけじゃなく壱岐の連中も加わってるぞ。
餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 壱岐は松浦さんとこのテリトリーなのに手伝いに行ってのか 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカムを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化し使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全ては自分の出来心から起きた事で、どこに訴えると言う訳にもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 それなら関が原でも石田、小西を助けに5千ほど率いて助けに行けよ、と
勝敗も変わったかもしれん そうなの?
宗、松浦、有馬、大村とか第1軍のメンバーが朝鮮同様に戦ってれば東軍は容易に壊滅していたろうに 変わらんだろ
主力軍の毛利軍が分裂してる状況じゃ勝ち目はない
まぁ豊臣家を守る戦いなのに毛利家だよりな時点で西軍は終わってるんだが むしろ秀次が粛清された時点で終わってる。
後継者を政府機能ごと粛清すれば、そら忠臣以外下剋上起こすわ
まして成り上がりで権威もないのに そういわれれば秀次死亡は野ブタだ死亡と同じくらいの重要事項なんだな 秀頼を三法師ポジションに見立てると確かにしっくりくる 秀勝も秀保も秀秋も重要だったんだな。
秀勝、秀康、秀家と血縁ない奴のほうが優秀そうなのが辛いが もし秀次が関白位を続けたら
秀吉の実子が三代目になれたかと言えば、難しかっただろうな
秀吉が生きている間に三代目への代替わりが出来たならともかく
さすがにそれは難しかっただろうし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています