秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12©2ch.net
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>>61
船で来たから船で帰らないと帰れず。
陸には明軍も朝鮮軍も植えた朝鮮民(朝鮮の官は収奪するし明軍も略奪するから)もいる。
陸路は治安悪すぎ。 陸路で釜山を目指すって
順天の持ち船捨てて陸路で釜山に着いても
そこで乗る船が無い状況が考えられるだろ 露梁海戦は小西軍救出という目的を日本側は完璧に果たした。
対する明・朝鮮では朝鮮水軍トップの李舜臣が打ち取られ
明水軍ナンバー2のケ子龍も打ち取られるという大打撃を受けた。
これらの事実からして日本側の勝利という以外有り得ない。 明主将の陳燐(当て字)も死にかけてるしな
一方日本側は誰も死んでないという
まぁ中国人と朝鮮人で出来た軍隊の割には頑張ったんじゃない?
和議破りに待ち伏せまでしといて逆撃食らって首狩りされるとか中国人らしい結果だが 死んでないってのはそういう明確な記述がないってだけで日本側も多数の戦死者がでたって記述がある。
Wikipediaは「日本軍は不利ながら善戦した。結果としては痛み分け」的な形にしてるけど、実際そんなところなんじゃないかな 焙烙玉を持っていってたら楽勝できたろう?
海戦は大砲よりも焙烙玉だよ。 >>67
記述がないのではなく日本側で身分の高い人間は実際に死んでない。
兵卒の死傷数と指揮官の死傷数は大よそ比例するので
大量の武将が死傷した明・朝鮮側では兵卒の死傷者も日本側以上に多かったのは確実。
何よりも戦略目的を達成したのは日本側なので露梁海戦は日本側の勝利といえる。 >>70
撤退戦だと損害の大きさに対して将が死なないってことがよくある。
撤退戦で撤退できたんだから日本の勝ちだろうけど、じゃあどの程度の勝利かつうと疑問じゃないかなと言いたいのよ。
朝鮮側では日本の船を200近く落としたと記録してるし、日本側も被害が大きいと嘆いてる記録がちらほらあるから、精々「際どいが勝った」位だったんじゃないかと >>71
>撤退戦だと損害の大きさに対して将が死なないってことがよくある。
しかし、追撃(して当然)側の将の死傷の方が多い、ってのは希だろうな。 >>71
撤退せんということではなく、追撃を受けて崩れたかどうかじゃない?
真田昌幸みたいに、兄達が長篠で戦死したから後継者となったような話が露梁や他の朝鮮の戦では出てこないからな。
中川兄が鷹狩り中に死んだから弟が継いだとか、島津兄が死んだから弟が出征したとか。
戦死で聞く話だと来島ぐらい? 露梁海戦は撤退戦でなはなく、小西軍救出戦。
勝敗は目的を達成したかどうかで決まる。
小西軍救出という目的を完璧に達成したのだから日本側の勝利以外有り得ない。 >>71
日本側から見た被害はともかく
朝鮮・明側の資料なんて精々1/10か1/100にして見るべきじゃね。
戦果を少しでも挙げた事にしないと粛清される連中が書いたもんだぞ。 露梁海戦は実質的に日本側勝利だが
幸州山城の戦いや鳴梁海戦についても目的を達成したのは日本側であり
実質的勝利は日本側だと言える。 朝鮮征伐は直接の戦闘ではほとんど負けていない日本の実質勝利と言える。 >>77
大陸打通で圧倒的勝利に終わっておきながら全員捕虜となる憂き目にあっても、
それが実質的勝利と言えるかなぁ? 戦争の勝敗は、戦闘の勝敗で決まるものではないという基本を百万遍繰り返さんといかんね 戦略的成功を繰り返していた日本軍。
それに対して明・朝鮮軍は戦略的失敗の連続であった。 そもそも大戦略がどうしようもない程にスカポンタンな日本 戦略も戦術も政治も全部駄目な相手なら何も問題はないな >>82
戦略で無く、大戦略
戦争を行う目的・勝利条件 朝鮮半島国家は、元寇でボコられて、応永の外寇で対馬単独でボコられて、
朝鮮役ではボコボコで、20世紀頭には欧米の植民地になるところを
日本に救済合併してもらってたっけ。(・∀・) 取られたら困るからって、肝心の本土(主に東北地方)や工業犠牲にして金掛けるんじゃ本末転倒なんで
まだ弱小なアメリカ辺りににでも売り飛ばしたらよかったのに。 >>87
応永の外寇はWikiが編集され直されてるけど、先に対馬による朝鮮半島襲撃があり、
それに対する朝鮮側の対馬に対する報復が応永の外寇と呼ばれている。
対馬の倭寇2千人は浙江省を襲おうとしたが、途中で食料が尽き、朝鮮半島を襲った。
そして遼東半島の望海禍で明軍に待ち伏せされ全滅する。
彼らの供述のおかげで明南部を襲った倭寇たちの航路がおおよそ想像がつく。
倭寇は半島沿いに一旦北上してシナ沿岸沿いに南下するという航路を採ったと思う。 >>85
白村江以外でボコられたって認識は無いと思う
現場では勝って勝って勝ち尽くした上でのお家事情or他の外敵にヤラレて降伏、撤退だから
ちょうど、モンゴル帝国の欧州攻めに似てる。 >>89
2000人が全滅してなお万越えの朝鮮軍を追い払った宗氏、無双過ぎだろw
常識的に考えれば遼東半島にまで出張ったのはフツーに偽倭なんじゃないの。 フツーに偽倭?
応永の外寇のWiki見たか?ご丁寧に 太字で ハッキリ クッキリと 対馬人 と書かれてる。
たぶん編集したのは韓国人だろう。
島中飢饉だったので、遠方に”出稼ぎ”に行かざるを得なかった当時の苦しい状況がヒシヒシと伝わってくる。 >>91
一方、本土では下から数えた方が早い模様。
朝鮮が弱すぎただけじゃないかなぁ・・・
それでも全体として見ればいい勝負ってところだし >>92
向こうの記録にあるだけで、宗氏文書がそれこそ山ほど残ってる
対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
2000人も死んでりゃ、いわば対馬の壮青年の大半が死んじまったという
話になるハズなんだし。 >>93
対馬側が全滅した元寇と違って独力で追い返してるので、
まぁ、朝鮮が弱すぎというのは間違いはなさそうだね。 >>対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
略奪の記録など残す馬鹿がいるか?戦果の誇張はあれども対馬の連中だよ。
さもなければ、長専側に捕まった捕虜が嘘をついたということ。
いずれにせよ、朝鮮側の対馬征伐はその結果を受けて行われてたもの。 片方の記録だけで言うと応永の外寇で対馬侵攻したのは「唐軍(明軍)」だぞ。
すわ元寇かと勘違いした幕府がデフコン上げた位だ。
そのくらい情報が不正確な時代に片方の記録だけで判断するのは危険すぎる。
というか組織的な略奪なら記録つけてるのは普通。後ろめたい事じゃないし。 じゃあ、おい、↓これは嘘か?
^ 以下は捕まった倭寇の証言および後に対馬官吏たちが朝鮮政府へ上げる報告。
※捕まった倭寇の証言(史料原文):吾係對馬島人。島中飢饉, 以船數十艘, 只緣乏糧, 侵突庇仁
※仇里安の報告:封內之民侵犯大國之邊鄙
※時応界都の報告:餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 朝鮮側からの連絡で明側は望海禍で倭寇を待ち伏せた。
双方で連携してるから信ぴょう性は高い。生擒857名。朝鮮人は混ざってないようだぞ。
http://baike.baidu.com/view/2335708.htm 単品だと信憑性に問題があるから書いた陣営が違う文書を2つは探せという話。
この場合だと口裏を合わせた可能性がある対馬→朝鮮の報告書じゃなくて幕府の文書を示すとかだな。
正直そこまでするまでもないどうでもいい話題だと思うが そもそも、Wikipediaの応永の外寇の記事の“対馬侵攻の決定”の項を見りゃ判るけど、
その倭寇が全滅したという望海堝の戦い(6/14)以前に、朝鮮西岸を荒らし回る倭寇への
直接対応そっちのけで、倭寇の襲来からわずか一週間後の5/14にはもう対馬遠征を
決定しているという極めて不自然な時系列なんだわ。
で、常備軍が無きに等しいはずの朝鮮がその決定から一ヶ月でもう早々と外征準備を
終えているという手際の良さ。
↓これは応永の外寇についての三日月城通信の考察だけど、朝鮮史料の言い分よりはよほど腑に落ちるね。
ttp://take8592goole.wiki.fc2.com/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87%EF%BC%88%E4%B8%89%E6%97%A5%E6%9C%88%E5%9F%8E%E9%80%9A%E4%BF%A1%EF%BC%89
つまるところ、応永の外寇ってのは、倭寇に事寄せての領土欲からの対馬侵攻だったんでないの。
まさかの大惨敗を喫したので誤魔化しただけでさ。 倭寇って海賊、今風に言う武装勢力の類なんだから海賊退治なんてきりがない追いかけっこより相手の本拠地叩くって判断しただけじゃないの?
兵隊だってかき集めるだけなら一月だって無理でもないし(まともに用意してないから負けてしまったと言うのもあるだろうね)
そもそも外征たって朝鮮→対馬は対馬→本土よりも近いからなw >>94
2千もそうだけど
そもそもの文禄の役での5千は更にどーよって話だよ
あの畑主力で1〜2万石の石高と経済力で2千とか5千とか動員できるものなの >>108
宗氏は10石格なので文禄の役では五人役相当で定数5000人で、
八掛けとしても4000人だけど、実数ではそこまで出してないでしょ。
実高が3万石ほどだから外征ならせいぜいで1500人、慶長の役では
一気に1000人まで減らされてるので、実力としてはそんなもんなのでは
ないかな。やはり脇坂が3万石で文禄1500人、慶長1200人だったし。 >>109
十万石格なんてない。それは江戸時代の序列。
収穫が一万石で移入分の一万石と合わせて最大人口は二万人といったところ。 >>110
そう言われても、実際に宗氏は朝鮮役における九州の大名の軍役である
五人役(本役)を課されてるので、5000人から逆算して豊臣政権下から
10万石と見なされていたことに違いはないよ。 文禄の役の宗氏は軍役5000人だが人数書だと2000人ちょいやね
本島2万石、薩摩入地1万石、役米1万石の4万石の5人役で2千人だからこんなもんやろね 2000で総力戦って感じだな
>>89は相当盛ってると思う っていうか本島が2万石じゃ対馬のみじゃ1千名が精々だな
2千名なんてあり得ない話になるな。 2000人ちょいに小西からの増援200と浪人衆200が加わって文禄の役の宗氏兵力は2500人ほどとなってるな 対馬だけじゃなく壱岐の連中も加わってるぞ。
餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 壱岐は松浦さんとこのテリトリーなのに手伝いに行ってのか 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカムを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化し使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全ては自分の出来心から起きた事で、どこに訴えると言う訳にもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 それなら関が原でも石田、小西を助けに5千ほど率いて助けに行けよ、と
勝敗も変わったかもしれん そうなの?
宗、松浦、有馬、大村とか第1軍のメンバーが朝鮮同様に戦ってれば東軍は容易に壊滅していたろうに 変わらんだろ
主力軍の毛利軍が分裂してる状況じゃ勝ち目はない
まぁ豊臣家を守る戦いなのに毛利家だよりな時点で西軍は終わってるんだが むしろ秀次が粛清された時点で終わってる。
後継者を政府機能ごと粛清すれば、そら忠臣以外下剋上起こすわ
まして成り上がりで権威もないのに そういわれれば秀次死亡は野ブタだ死亡と同じくらいの重要事項なんだな 秀頼を三法師ポジションに見立てると確かにしっくりくる 秀勝も秀保も秀秋も重要だったんだな。
秀勝、秀康、秀家と血縁ない奴のほうが優秀そうなのが辛いが もし秀次が関白位を続けたら
秀吉の実子が三代目になれたかと言えば、難しかっただろうな
秀吉が生きている間に三代目への代替わりが出来たならともかく
さすがにそれは難しかっただろうし >実子
まさに実のところビミョーだけどな。
それでも豊臣政権が存続してることがが前提なら、、その辺は
五大老にでも言い残しておけばどうにでもなったんでないの。 秀頼の実父が秀吉ではない大野治長では無いとの俗説は、豊臣時代の当時から存在した
もっとも有力候補として大野治長が存在する。
秀吉の側室らは、ねねが面倒を見ていたから、不義など出来なかったとの説もあるけど
海外で女子受刑者が、その国の法律で、妊娠している受刑者は刑務所から出れるので
それを目当てに、精液をこっそり手に入れて受精した受刑者も存在したそうだし。
その気になれば、幾らでも可能だよね
淀君は、信長の命令と言っても、弟を秀吉に殺され
母親も自害に追いやられたのだし
妻にされたといっても、内心では秀吉を憎んでいても何も不思議はない
秀吉への復讐のためにも、秀吉が得た権力を奪いとってやるために子供を生みたかった
何て野望のために、どんな事でもやったかも知れないな。
まあ、想像の世界の話だけど。 >>135
秀次が殊勝な性格で、叔父であり義父である秀吉の命令を
彼の死後まで忠実に従うような、殊勝な性格であるなら
自身の跡継ぎを秀頼にする事もあったかも知れないけど
それより甥を密かに殺して、関白の座を守るって未来図の方が
ずっと現実感があるけど
五大老も豊臣政権が磐石であるなら、それを覆すような事はやるまい
ま、為政者としての秀次の技量がどれほどによるかにもかかってくることだが
秀次が秀吉亡き後も、政権をしっかりと守れる技量があるなら
少々、おかしなことがあっても、その程度のことは目をつぶるしかなかったのではないかね 『殺生関白』は誇張にしても、罪人の拷問や処刑を見るのが好みと、ルイス・フロイスの記録にもあったし、話半分でも人格者とは言えなかったのは確実だよ。
才能そのものはなかなかで、武芸や教養を身につけるのに熱心だったそうだけどね。 戦国武将には、少々、ネジが外れたのが多かった
信長が浅井親子の髑髏を金の盃にしたのは有名な話だし
秀吉を初め、他の戦国武将にもこうした残虐譚が残されている
まあ、罪人の処刑を鑑賞して喜ぶくらいなら、まだマシかも知れないな
摂政関白に関しては、江戸時代になって言われたことだし
あまりアテになる話ではないな でも義理堅い武将もいるから教育かな?
秀吉が秀次、秀勝、秀保を枕元に呼び毛利元就のようにサンフレッチェな教えを説いていれば歴史は変わったかもしれない。
初めからこの3人がいなかった方が安定したような気もするが 秀吉は織田家の内紛を利用して天下を獲ったから、同じ事を防ぐために一貫した
行動を取ってる。鶴松が生まれると秀長とその周辺を遠ざけ、秀長は病死だが生
きていたら殺されただろう、秀長と政務を執った千利休切腹はその余波だ。秀頼
が生まれると、今度は秀次とその一族と周辺を退けた。退けられた側に何か落ち
度があったのではなく、秀吉は後継者を一人に絞る事で豊臣家は安泰になると考
えていたに過ぎない。徳川はこれを見て反面教師にして長続きした。 大阪城も献上し。
豊臣家は十万石程度の国主大名の1人程度に落ち着ければ
あるいは豊臣家の存続を、家康は容認したかも知れないがね
家康は、宿敵だった武田家。それに織田家の存続も認めているし
もっとも両方とも、一万石や二万石程度の外様大名に転落したが >>141
魏の武帝
つまり曹操は、皇族が力を持てば皇族同士が争い
混乱が生じるだけと考え
皇帝以外の皇族には力を持たせないように国づくりをした
その結果、司馬仲達が容易に魏の政権をひっくり返した。
その反省から、司馬は皇族それぞれの力を強化する事にしたが
結果、晋だったかな?内紛続きだった
この辺のさじ加減は難しいのよ 実は家康は、豊臣方と事を構える前に、下克上にならないかと側近に相談し、その正当性を確かめたりしてるからね。
少なくとも秀吉のように、有力な後継者を滅ぼすようは事はしなかったろうし、それこそが人質と大阪城引き渡しの要求だったんだろ。
いくら恭順したところで転付は免れなかったろうし、それはイコール大阪城の引き渡しになるんだから。 素直に東国(安房・上総あたりか)への国替えをのんでいれば普通に安泰だったでしょう。 三代将軍家光の時代まで幕府は数多くの大名を取り潰した
幕藩体制を固めるためになりふり構わず
武断政治を実行に移してきたのだが
政権末期に起こった由井正雪の乱から、その方針が転換された
大名を潰して国中に溢れた浪人が反乱を狙ったのだ。
幕藩体制を固める事を目的として行った事が、かえって逆効果になりだしたと認識したわけで
コレ以降、幕府は大名の取り潰しを大きく減らすことになった。
豊臣恩顧の大名も、加賀藩前田家を除いて片っ端から潰されていったし
仙台藩の伊達家も取り潰す計画があったとの話もある
この時代になるまでは、豊臣家が存続したとしたら安泰といえなかったのは間違いないな 大名のままじゃ無理、公家にでもなってなきゃ豊臣は残れなかったよ。 >>149
秀次事件は文禄の役の失敗と関係がある。秀吉は朝鮮出兵が上手く進捗してたら
秀次に日本は任せて、秀頼を連れてシナ大陸に移動したはずだ。 秀次が東海、機内の大名を率いて渡海していれば平壌も脱退できていたはずだ >>151
ガスパルコェリョに似たような事を言ってるじゃないか。日本は秀長に任せて
自分は明へ行くって。 >>154
秀長と秀次じゃ扱いが全然違うだろうが。 日本は秀次、朝鮮は秀家、明が秀吉、快進撃が続けば印度は秀秋、ベトナムは秀勝とかなってたんだろう >>155
秀長は病死だが、一緒に政務を執った千利休は鶴松が生まれたら排除された、
秀頼が生まれて排除された秀次と立場は同じだったと考えていいだろう。 秀保が死んだとき断絶させて所領を直轄領化したのはその辺の流れも関係してるのか?
大和60万石を身内がついていれば関ヶ原で大きく違った牢に 秀長は功績と負い目があり過ぎてボケた秀吉でも排除できんだろ。
それこそ回りが全員で止める。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています