秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
朝鮮半島国家は、元寇でボコられて、応永の外寇で対馬単独でボコられて、
朝鮮役ではボコボコで、20世紀頭には欧米の植民地になるところを
日本に救済合併してもらってたっけ。(・∀・) 取られたら困るからって、肝心の本土(主に東北地方)や工業犠牲にして金掛けるんじゃ本末転倒なんで
まだ弱小なアメリカ辺りににでも売り飛ばしたらよかったのに。 >>87
応永の外寇はWikiが編集され直されてるけど、先に対馬による朝鮮半島襲撃があり、
それに対する朝鮮側の対馬に対する報復が応永の外寇と呼ばれている。
対馬の倭寇2千人は浙江省を襲おうとしたが、途中で食料が尽き、朝鮮半島を襲った。
そして遼東半島の望海禍で明軍に待ち伏せされ全滅する。
彼らの供述のおかげで明南部を襲った倭寇たちの航路がおおよそ想像がつく。
倭寇は半島沿いに一旦北上してシナ沿岸沿いに南下するという航路を採ったと思う。 >>85
白村江以外でボコられたって認識は無いと思う
現場では勝って勝って勝ち尽くした上でのお家事情or他の外敵にヤラレて降伏、撤退だから
ちょうど、モンゴル帝国の欧州攻めに似てる。 >>89
2000人が全滅してなお万越えの朝鮮軍を追い払った宗氏、無双過ぎだろw
常識的に考えれば遼東半島にまで出張ったのはフツーに偽倭なんじゃないの。 フツーに偽倭?
応永の外寇のWiki見たか?ご丁寧に 太字で ハッキリ クッキリと 対馬人 と書かれてる。
たぶん編集したのは韓国人だろう。
島中飢饉だったので、遠方に”出稼ぎ”に行かざるを得なかった当時の苦しい状況がヒシヒシと伝わってくる。 >>91
一方、本土では下から数えた方が早い模様。
朝鮮が弱すぎただけじゃないかなぁ・・・
それでも全体として見ればいい勝負ってところだし >>92
向こうの記録にあるだけで、宗氏文書がそれこそ山ほど残ってる
対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
2000人も死んでりゃ、いわば対馬の壮青年の大半が死んじまったという
話になるハズなんだし。 >>93
対馬側が全滅した元寇と違って独力で追い返してるので、
まぁ、朝鮮が弱すぎというのは間違いはなさそうだね。 >>対馬側に相当する記録が無いんじゃ、やはりガセでしょ。
略奪の記録など残す馬鹿がいるか?戦果の誇張はあれども対馬の連中だよ。
さもなければ、長専側に捕まった捕虜が嘘をついたということ。
いずれにせよ、朝鮮側の対馬征伐はその結果を受けて行われてたもの。 片方の記録だけで言うと応永の外寇で対馬侵攻したのは「唐軍(明軍)」だぞ。
すわ元寇かと勘違いした幕府がデフコン上げた位だ。
そのくらい情報が不正確な時代に片方の記録だけで判断するのは危険すぎる。
というか組織的な略奪なら記録つけてるのは普通。後ろめたい事じゃないし。 じゃあ、おい、↓これは嘘か?
^ 以下は捕まった倭寇の証言および後に対馬官吏たちが朝鮮政府へ上げる報告。
※捕まった倭寇の証言(史料原文):吾係對馬島人。島中飢饉, 以船數十艘, 只緣乏糧, 侵突庇仁
※仇里安の報告:封內之民侵犯大國之邊鄙
※時応界都の報告:餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 朝鮮側からの連絡で明側は望海禍で倭寇を待ち伏せた。
双方で連携してるから信ぴょう性は高い。生擒857名。朝鮮人は混ざってないようだぞ。
http://baike.baidu.com/view/2335708.htm 単品だと信憑性に問題があるから書いた陣営が違う文書を2つは探せという話。
この場合だと口裏を合わせた可能性がある対馬→朝鮮の報告書じゃなくて幕府の文書を示すとかだな。
正直そこまでするまでもないどうでもいい話題だと思うが そもそも、Wikipediaの応永の外寇の記事の“対馬侵攻の決定”の項を見りゃ判るけど、
その倭寇が全滅したという望海堝の戦い(6/14)以前に、朝鮮西岸を荒らし回る倭寇への
直接対応そっちのけで、倭寇の襲来からわずか一週間後の5/14にはもう対馬遠征を
決定しているという極めて不自然な時系列なんだわ。
で、常備軍が無きに等しいはずの朝鮮がその決定から一ヶ月でもう早々と外征準備を
終えているという手際の良さ。
↓これは応永の外寇についての三日月城通信の考察だけど、朝鮮史料の言い分よりはよほど腑に落ちるね。
ttp://take8592goole.wiki.fc2.com/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87%EF%BC%88%E4%B8%89%E6%97%A5%E6%9C%88%E5%9F%8E%E9%80%9A%E4%BF%A1%EF%BC%89
つまるところ、応永の外寇ってのは、倭寇に事寄せての領土欲からの対馬侵攻だったんでないの。
まさかの大惨敗を喫したので誤魔化しただけでさ。 倭寇って海賊、今風に言う武装勢力の類なんだから海賊退治なんてきりがない追いかけっこより相手の本拠地叩くって判断しただけじゃないの?
兵隊だってかき集めるだけなら一月だって無理でもないし(まともに用意してないから負けてしまったと言うのもあるだろうね)
そもそも外征たって朝鮮→対馬は対馬→本土よりも近いからなw >>94
2千もそうだけど
そもそもの文禄の役での5千は更にどーよって話だよ
あの畑主力で1〜2万石の石高と経済力で2千とか5千とか動員できるものなの >>108
宗氏は10石格なので文禄の役では五人役相当で定数5000人で、
八掛けとしても4000人だけど、実数ではそこまで出してないでしょ。
実高が3万石ほどだから外征ならせいぜいで1500人、慶長の役では
一気に1000人まで減らされてるので、実力としてはそんなもんなのでは
ないかな。やはり脇坂が3万石で文禄1500人、慶長1200人だったし。 >>109
十万石格なんてない。それは江戸時代の序列。
収穫が一万石で移入分の一万石と合わせて最大人口は二万人といったところ。 >>110
そう言われても、実際に宗氏は朝鮮役における九州の大名の軍役である
五人役(本役)を課されてるので、5000人から逆算して豊臣政権下から
10万石と見なされていたことに違いはないよ。 文禄の役の宗氏は軍役5000人だが人数書だと2000人ちょいやね
本島2万石、薩摩入地1万石、役米1万石の4万石の5人役で2千人だからこんなもんやろね 2000で総力戦って感じだな
>>89は相当盛ってると思う っていうか本島が2万石じゃ対馬のみじゃ1千名が精々だな
2千名なんてあり得ない話になるな。 2000人ちょいに小西からの増援200と浪人衆200が加わって文禄の役の宗氏兵力は2500人ほどとなってるな 対馬だけじゃなく壱岐の連中も加わってるぞ。
餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 壱岐は松浦さんとこのテリトリーなのに手伝いに行ってのか 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカムを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化し使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全ては自分の出来心から起きた事で、どこに訴えると言う訳にもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 それなら関が原でも石田、小西を助けに5千ほど率いて助けに行けよ、と
勝敗も変わったかもしれん そうなの?
宗、松浦、有馬、大村とか第1軍のメンバーが朝鮮同様に戦ってれば東軍は容易に壊滅していたろうに 変わらんだろ
主力軍の毛利軍が分裂してる状況じゃ勝ち目はない
まぁ豊臣家を守る戦いなのに毛利家だよりな時点で西軍は終わってるんだが むしろ秀次が粛清された時点で終わってる。
後継者を政府機能ごと粛清すれば、そら忠臣以外下剋上起こすわ
まして成り上がりで権威もないのに そういわれれば秀次死亡は野ブタだ死亡と同じくらいの重要事項なんだな 秀頼を三法師ポジションに見立てると確かにしっくりくる 秀勝も秀保も秀秋も重要だったんだな。
秀勝、秀康、秀家と血縁ない奴のほうが優秀そうなのが辛いが もし秀次が関白位を続けたら
秀吉の実子が三代目になれたかと言えば、難しかっただろうな
秀吉が生きている間に三代目への代替わりが出来たならともかく
さすがにそれは難しかっただろうし >実子
まさに実のところビミョーだけどな。
それでも豊臣政権が存続してることがが前提なら、、その辺は
五大老にでも言い残しておけばどうにでもなったんでないの。 秀頼の実父が秀吉ではない大野治長では無いとの俗説は、豊臣時代の当時から存在した
もっとも有力候補として大野治長が存在する。
秀吉の側室らは、ねねが面倒を見ていたから、不義など出来なかったとの説もあるけど
海外で女子受刑者が、その国の法律で、妊娠している受刑者は刑務所から出れるので
それを目当てに、精液をこっそり手に入れて受精した受刑者も存在したそうだし。
その気になれば、幾らでも可能だよね
淀君は、信長の命令と言っても、弟を秀吉に殺され
母親も自害に追いやられたのだし
妻にされたといっても、内心では秀吉を憎んでいても何も不思議はない
秀吉への復讐のためにも、秀吉が得た権力を奪いとってやるために子供を生みたかった
何て野望のために、どんな事でもやったかも知れないな。
まあ、想像の世界の話だけど。 >>135
秀次が殊勝な性格で、叔父であり義父である秀吉の命令を
彼の死後まで忠実に従うような、殊勝な性格であるなら
自身の跡継ぎを秀頼にする事もあったかも知れないけど
それより甥を密かに殺して、関白の座を守るって未来図の方が
ずっと現実感があるけど
五大老も豊臣政権が磐石であるなら、それを覆すような事はやるまい
ま、為政者としての秀次の技量がどれほどによるかにもかかってくることだが
秀次が秀吉亡き後も、政権をしっかりと守れる技量があるなら
少々、おかしなことがあっても、その程度のことは目をつぶるしかなかったのではないかね 『殺生関白』は誇張にしても、罪人の拷問や処刑を見るのが好みと、ルイス・フロイスの記録にもあったし、話半分でも人格者とは言えなかったのは確実だよ。
才能そのものはなかなかで、武芸や教養を身につけるのに熱心だったそうだけどね。 戦国武将には、少々、ネジが外れたのが多かった
信長が浅井親子の髑髏を金の盃にしたのは有名な話だし
秀吉を初め、他の戦国武将にもこうした残虐譚が残されている
まあ、罪人の処刑を鑑賞して喜ぶくらいなら、まだマシかも知れないな
摂政関白に関しては、江戸時代になって言われたことだし
あまりアテになる話ではないな でも義理堅い武将もいるから教育かな?
秀吉が秀次、秀勝、秀保を枕元に呼び毛利元就のようにサンフレッチェな教えを説いていれば歴史は変わったかもしれない。
初めからこの3人がいなかった方が安定したような気もするが 秀吉は織田家の内紛を利用して天下を獲ったから、同じ事を防ぐために一貫した
行動を取ってる。鶴松が生まれると秀長とその周辺を遠ざけ、秀長は病死だが生
きていたら殺されただろう、秀長と政務を執った千利休切腹はその余波だ。秀頼
が生まれると、今度は秀次とその一族と周辺を退けた。退けられた側に何か落ち
度があったのではなく、秀吉は後継者を一人に絞る事で豊臣家は安泰になると考
えていたに過ぎない。徳川はこれを見て反面教師にして長続きした。 大阪城も献上し。
豊臣家は十万石程度の国主大名の1人程度に落ち着ければ
あるいは豊臣家の存続を、家康は容認したかも知れないがね
家康は、宿敵だった武田家。それに織田家の存続も認めているし
もっとも両方とも、一万石や二万石程度の外様大名に転落したが >>141
魏の武帝
つまり曹操は、皇族が力を持てば皇族同士が争い
混乱が生じるだけと考え
皇帝以外の皇族には力を持たせないように国づくりをした
その結果、司馬仲達が容易に魏の政権をひっくり返した。
その反省から、司馬は皇族それぞれの力を強化する事にしたが
結果、晋だったかな?内紛続きだった
この辺のさじ加減は難しいのよ 実は家康は、豊臣方と事を構える前に、下克上にならないかと側近に相談し、その正当性を確かめたりしてるからね。
少なくとも秀吉のように、有力な後継者を滅ぼすようは事はしなかったろうし、それこそが人質と大阪城引き渡しの要求だったんだろ。
いくら恭順したところで転付は免れなかったろうし、それはイコール大阪城の引き渡しになるんだから。 素直に東国(安房・上総あたりか)への国替えをのんでいれば普通に安泰だったでしょう。 三代将軍家光の時代まで幕府は数多くの大名を取り潰した
幕藩体制を固めるためになりふり構わず
武断政治を実行に移してきたのだが
政権末期に起こった由井正雪の乱から、その方針が転換された
大名を潰して国中に溢れた浪人が反乱を狙ったのだ。
幕藩体制を固める事を目的として行った事が、かえって逆効果になりだしたと認識したわけで
コレ以降、幕府は大名の取り潰しを大きく減らすことになった。
豊臣恩顧の大名も、加賀藩前田家を除いて片っ端から潰されていったし
仙台藩の伊達家も取り潰す計画があったとの話もある
この時代になるまでは、豊臣家が存続したとしたら安泰といえなかったのは間違いないな 大名のままじゃ無理、公家にでもなってなきゃ豊臣は残れなかったよ。 >>149
秀次事件は文禄の役の失敗と関係がある。秀吉は朝鮮出兵が上手く進捗してたら
秀次に日本は任せて、秀頼を連れてシナ大陸に移動したはずだ。 秀次が東海、機内の大名を率いて渡海していれば平壌も脱退できていたはずだ >>151
ガスパルコェリョに似たような事を言ってるじゃないか。日本は秀長に任せて
自分は明へ行くって。 >>154
秀長と秀次じゃ扱いが全然違うだろうが。 日本は秀次、朝鮮は秀家、明が秀吉、快進撃が続けば印度は秀秋、ベトナムは秀勝とかなってたんだろう >>155
秀長は病死だが、一緒に政務を執った千利休は鶴松が生まれたら排除された、
秀頼が生まれて排除された秀次と立場は同じだったと考えていいだろう。 秀保が死んだとき断絶させて所領を直轄領化したのはその辺の流れも関係してるのか?
大和60万石を身内がついていれば関ヶ原で大きく違った牢に 秀長は功績と負い目があり過ぎてボケた秀吉でも排除できんだろ。
それこそ回りが全員で止める。 映画「鳴梁」が創始改名されて日本で販売されていたと今知った・・・
バトル・オーシャン/海上決戦
http://amzn.asia/dkdRV0S 邦画で朝鮮征伐関係が全くないのがつまらん。
アニメや漫画やラノベやゲームや萌えでもいいからもっと扱ってほしい。 >>163
日本軍が無双して、その後補給線の維持と現地病に苦しむ映画とか誰が見たいんだ?
明朝鮮側にライバルキャラどころかまともなネームド武将すらいねぇんだぞあの戦争。 むしろ強すぎて失敗したんだよな。
総大将は秀吉で秀吉が統括する予定だったから、総大将はおかなかった。
秀長がすでに死んでいたから軍を任せられる人が限られいたのもあるが、秀次はつかえんし、
そしたら、秀吉が上陸する前に首都を陥落させてしまった。
現地軍は朝鮮の属領化をはかる毛利などの一派は南進し、
明軍や朝鮮と早期決戦講和を図り、有利な条件で貿易利権ウハウハ狙いの小西などは北上して王族をおった。
朝鮮なんてどうでもいい、あくまで唐入り狙いでついでに王子とらえようとする加藤などは北東に向かった。
現地で軍が分散してしまう。おまけに別に中いいわけじゃないから、
明軍が何度も攻撃を仕掛けている小西の援軍要請を断る。まあ小西は最初は余裕で蹴散らしてて俺の手柄とるんじゃねーよみたいな事言っていたから、
自業自得だが。結局防ぎきれなくて首都に退却することになってしまった。
秀吉と本体は渡海したいのだが、現地の食糧が厳しいてんで受け入れ無理となり、
単独でいくといいだしたら、家康は利家がそれだけは勘弁と止めるし、
おまけに朝鮮もう落としたし、北京おとして遷都するぜといったら、朝廷からちょっとまったと言われて動けなくなったんだよなあ。
流石に秀吉も太閤としては朝廷は無視できんからね。
最初の秀吉の想定だと南部で苦戦しながら勢力圏を広げて、明軍と戦う、
そこに援軍として登場みたいなのを想定していただろうに。
予定通りにいかないもんだな。 あ、分派した中でもアレな一派忘れてた、略奪と乱捕りが目的の奴らがいたっけ。
九州で暴れるよりはよかったと言える。 いいじゃん、そのストーリーでメディアミックスとて量産化しようぜ。
コーエーテクモでPS4で無双化、京アニでアニメ化、
朝鮮では、脇坂・来島・中川が日本代表の名将みたてな扱いだから無名の奴を強敵扱いしてもいいんだよ。大河フィクションのノリでさ。
ゲームは奴隷争奪ミニゲームとかスコア競いの人間狩りしてもいいな。 朝鮮の貧しさに負けたかな。現代でも中緯度の地域で唯一、餓死者が出る土地。 実際に負けっぱなしだったのは朝鮮の方だろ
日本を実力で半島から追い出す事が最後までできずに国土を蹂躙され続けたんだからな
助っ人の明も「秀吉が病死してくれたおかげで負けを免れた」って書き残してる 韓半島も沿海州も台湾もルソンも樺太も日本領だったのにな >>171
そんな土地が欲しくて必死こいて戦ったけど寸土も盗れずに逃げ帰ってきたな ×:そんな土地が欲しくて
○:明への進軍ルートが欲しくて
×:寸土も盗れずに逃げ帰って
○:寸土も盗らずに帰って
新春なんで親切に間違い直しといたから勉強し直すように >>175
一回目、唐・天竺の征服を目指して攻めるが一城もとれずに敗退
二回目、せめて半島南部だけでもと攻めるがあえなく敗退
このスレに書き込むには勉強が足りませんな 唐入りどころか秀吉が半島に一歩も踏み入れていないから、
完全敗北UCだなwwwww >>176
一回目、唐・天竺の征服を目指して攻め、朝鮮を撃破して複数の城を取り明と対峙、膠着状態
二回目、一回目の状況から再開するが、秀吉死去で計画白紙
勉強が足りないのは176の方
>>178
部下に戦闘やらせてるんだから秀吉本人が直接半島に行く必要はない
明朝鮮は秀吉死去で日本軍が帰ったから運良く完全敗北確定を紙一重で回避できただけ >>179
なんでや?
秀吉は自身が唐入りして三国を支配するつもりだったんだぞ。
それができず、つま先すら日ノ本から出られなかった秀吉の完全敗北だろwww
単に部下に戦闘をやらせているなら、秀吉自身がわざわざ名護屋城に出向く必要は無い。 >>180
秀吉の渡海は天候が悪かったり天皇に制止されたりして
延期を繰り返した結果実現しなかったわけで
政治的な要素もあり勝敗とは別の問題 >>181
つまり、秀吉の大敗北と言うことでFA? >>182
武田信玄の西上作戦も信玄の大敗北になるのかな?
そもそも君の言う大敗北というのは戦略レベルの話なの?作戦・戦術レベルなの?
どうも話の流れを見てると作戦・戦術レベルの話のように見えるんだけど >>183
他人だが戦略的な目的を果たしていない点では似たようなものだね
西上作戦では徳川の東海道上の支城攻略や主力の壊滅もできていないし そもそも、秀吉自身が唐入りして天皇を北京に移し云々という有名な構想は
当の後陽成天皇に拒否され、秀吉自身の渡海にも難色を示されてる
要するに朝鮮に派兵したその年の時点で早々に破綻してるんだよね
これをもって明・朝鮮側の大勝利の根拠とするには相当厳しいものがある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています