プロイセンは、三十年戦争の頃まではまともな常備軍を持っていなかった。
スウェーデンのグスタフ・アドルフやら皇帝軍のヴァレンシュタインに蹂躙され、
軍税をむしり取られててどえらい目にあった。

大選帝侯のときに常備軍を持ってバルト海沿岸の覇権を確立したが代償として
常に三方の数的優勢な敵と戦う戦略環境に置かれた。
それを戦列兵の計算されつくした運用で各個に撃滅する思想が「殲滅戦理論」。

時代が下ってフリードリヒ大王の後半期くらいから戦列兵以外に戦闘を流動的にする
前衛部隊(軽騎兵・猟兵)が出現し、かつ防御火力が増大して殲滅戦思想が通用しなくなる。
ブリュッヒャーは軽騎兵あがり。クラウゼヴィッツは猟兵あがりと言われています。

さらにナポレオンに完敗して亡国の危機に陥るが、このときに「余所者」の「養子達」が
戦場の霧や摩擦を積極的に活用する用兵を提起する。
「作戦術(参謀本部)」と「訓令指導(前線部隊への権限委任)」のプロトタイプ。
シャルンホルストはハノーバー軍からの移籍、グナイゼナウはオーストリアの没落貴族。
(モルトケはメクレンブルク−デンマーク軍からの移籍)

以後、「外国からの養子」「下賤(猟兵)出身」連合の「流動的作戦派」とプロイセン正統の「殲滅戦思想派」の
見えざる思想上の綱引きが第2次大戦、下手すると戦後のドイツ連邦軍まで続いていると。
クラウゼヴィッツの「戦争論」の記述もこの二派の暗闘の影響を受けていると思われ。