軍事雑誌総合スレ 第33号
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>66
いや、なんかの根拠があるのかもしれませんよ
1個だけの自動車化歩兵大隊が、実は騎兵からの改編だったとか
その記録があるのかもよ。
記事ではなにも根拠を出してくれてませんが
なので、そんなのがあるかどうかは全く不明ですが
(それがあったとしても主力の2個戦車大隊が歩兵戦車学校の流れというのは変わらないので2:1で騎兵不利)
(さらに独立混成第一旅団の初代旅団長 藤田進少将はフランス帰りの生粋の歩兵科だったりするだなぁ)
(次の旅団長 篠塚少将なんて前職は近衛歩兵第一旅団長でこれも生粋の歩兵科)
(その次の酒井少将もフランス帰りの歩兵科。※彼の時にチャハル作戦)
(最後の旅団長も歩兵科で、以前陸軍戦車学校長をやってた人)
(あれ?騎兵の要素が欠片もないお(困 そうやって逃げ道みたいなもの作ってやるから
文三が各誌でほら話ばかり書き続けるわけで
そろそろ引導渡せよ。 >69
良く嫁
本当に逃げ道あると思いますか?>68に
例えそんな資料があっても、それだけじゃ機械化騎兵とまで言うのは不足と書いちゃってますよ、私は(陰険
たとえ自動車化歩兵1個大隊が騎兵改編でも、その上の旅団長が全員歩兵なのですよ。
(元戦車学校長までいる)
歩兵将校が指揮し、戦車学校教導部隊の流れを組む戦車大隊を主力とする部隊が機械化騎兵部隊?
騎兵要素がどこにある?
もう無理ありまくり
編成やドクトリンを兵器から読み解こうとして間違えるパターンだぬ 兵団レベルの騎兵部隊の機械化なら、昭和14年秋の騎兵集団の隷下部隊の自動車編制への改編だよなあ
>編成やドクトリンを兵器から読み解こうとして間違えるパターン
あの人の間違えてる記事のパターン、ほぼこれ。
いや、全部これかもw 「帝国陸軍機甲部隊」ひぱりだしてきた。
一部、私の記憶に間違いがありました
1)独混一旅の第3/第4戦車大隊の初期装備車輌は89軽式戦車(=89式中戦車※時期的に軽戦車とされていた)、92式重装甲車、94式軽装甲車の混合
したがって小峰氏の89式が追随できなかったという記述は正しい。
しかし、そうなると独混一旅が95式軽戦車を装備していた期間は非常に短くなり
時系列的に、よけいに独混一旅の本質が機械化騎兵として編成されたという主張が成り立たなくなりますが…
つか本文の
>この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。そして騎兵の機械化であるため、
>装備する戦車は【全て機動戦車である九五式戦車】とされた。
が嘘じゃん。89式軽戦車(=89式中戦車)いるじゃん
2)97式軽装甲車の開発要望時期
第17回会議で新軽装甲車の開発要望が出ていた模様
ただし、これも時期的には95式軽戦車の採用後の話であり、95式があるのになぜ?の答えにはなりませんでした。
つか13回会議の95式仮採用決定後の話というのが明確になり、謎は深まっただけ そういや歴史群像でプロホロフカ戦車戦はなかった、
パウルカレルの捏造だって珍説が載ったことがあったなー 「かつてソ連軍が言っていたような」大戦車戦はなかった
というのは現在は定説だと思うが >74
それ、
ポロホロフカ近辺での戦車戦はあったが、その内容はパウルカレルの書いたようなものではなかった
ってやつだろ。
それは自体は珍説でもなんでもないやん。
それにポロホロフカ戦車戦の実態は独ソ両方の記録が見つかって90年台あたりから次第に明らかになってきてたやん。
もっと言えば、ソ連側の当時の発表もずいぶん違ってたから、ドイツもソ連もどっちもどっちだから、
あえて言えば「パウルカレルとソビエト共産党によるねつ造だった!」くらいに誇張した方がセンセーショナルな記事として面白いかったかもしれん。 そういえば、ムッソリーニが監禁されていた(スコルツェニーが救出)
カンポ・インペラトーレ・ホテル。
山崎もホテルって書いてるけど
昔の記事では、「あれはホテルではない山荘である」とか本文に書いてあったな
あれも珍説か。
イラストにはカンポ・インペラトーレ・ホテルって記載されてて
読者が混乱してた。 プロホロフカは数十両のドイツ戦車に
数百のソ連戦車が断続的に攻撃をしかけ、
射的状態でやられたってのが実態だっけ
まあ見方によっては大戦車戦か
ただ歴史群像に載ってたのは
プロホロフカ付近での戦車戦は
全く起きてないって説だった気が
うろ覚えだけど >78
付近というのを日本的感覚で捉えるか、独ソの東部戦線的にとらえるかで大きくかわると思う。
だって東部戦線、ランドマークがなにもないもん・・・
日本で付近といえば数キロ圏内だろうけど、あちじゃ視認範囲内になにも無いというのもザラ
(〜岬沖ってのに感覚的に近いものを感じる) >この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。
自動車化歩兵である独立歩兵第一連隊も調べました。
こっちも歩兵将校(寺倉歩兵大佐=前歴は歩兵学校研究部)率いるれっきとした歩兵だった・・・
(ただし軽装甲車中隊を独自に保有)
騎兵旅団どこいった〜?どこ〜??(´・ω・`)
騎兵旅団をどう機械化すると独立歩兵第一連隊になるの???
つか、この時点で解隊や改編された騎兵旅団ないし、騎兵旅団を参考にして新編としても編成に共通点が無さすぎ。
編制としても、むしろ通常の歩兵連隊に近く、通常の歩兵連隊に軽装甲車中隊を加えたものです。
(歩兵3個大隊/歩兵砲中隊/速射砲中隊/軽装甲車中隊)
指揮官も歩兵科だし
これでどう考えれば騎兵旅団的な運用をしようとしてたと考えられるのか?
どう考えても騎兵の機械化じゃなくて、歩兵の機械化だよね。
私のような旧軍騎兵を専門としない素人がちょっと調べただけで騎兵要素がどんどん潰されていくなぁ >この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。
自動車化歩兵である独立歩兵第一連隊も調べました。
こっちも歩兵将校(寺倉歩兵大佐=前歴は歩兵学校研究部)率いるれっきとした歩兵だった・・・
(ただし軽装甲車中隊を独自に保有)
騎兵旅団どこいった〜?どこ〜??(´・ω・`)
騎兵旅団をどう機械化すると独立歩兵第一連隊になるの???
つか、この時点で解隊や改編された騎兵旅団ないし、騎兵旅団を参考にして新編としても編成に共通点が無さすぎ。
編制としても、むしろ通常の歩兵連隊に近く、通常の歩兵連隊に軽装甲車中隊を加えたものです。
(歩兵3個大隊/歩兵砲中隊/速射砲中隊/軽装甲車中隊)
指揮官も歩兵科だし
これでどう考えれば騎兵旅団的な運用をしようとしてたと考えられるのか?
どう考えても騎兵の機械化じゃなくて、歩兵の機械化だよね。
私のような旧軍騎兵を専門としない素人がちょっと調べただけで騎兵要素がどんどん潰されていくなぁ つうか、古峰資料何も調べずに自分の気の向くまま書いてるだろ。 >この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。
自動車化歩兵である独立歩兵第一連隊も調べました。
こっちも歩兵将校(寺倉歩兵大佐=前歴は歩兵学校研究部)率いるれっきとした歩兵だった・・・
(ただし軽装甲車中隊を独自に保有)
騎兵旅団どこいった〜?どこ〜??(´・ω・`)
騎兵旅団をどう機械化すると独立歩兵第一連隊になるの???
つか、この時点で解隊や改編された騎兵旅団ないし、騎兵旅団を参考にして新編としても編成に共通点が無さすぎ。
編制としても、むしろ通常の歩兵連隊に近く、通常の歩兵連隊に軽装甲車中隊を加えたものです。
(歩兵3個大隊/歩兵砲中隊/速射砲中隊/軽装甲車中隊)
指揮官も歩兵科だし
これでどう考えれば騎兵旅団的な運用をしようとしてたと考えられるのか?
どう考えても騎兵の機械化じゃなくて、歩兵の機械化だよね。
私のような旧軍騎兵を専門としない素人がちょっと調べただけで騎兵要素がどんどん潰されていくなぁ ちなみに「帝国陸軍機甲部隊」ではp61-p62にかけて
教育総監の訓示など一次資料をもとに
混成旅団野第3/第4大隊は主兵たる歩兵連隊を支援する共同戦闘が主務とし、機甲部隊というよりも自動車化歩兵部隊であったと結論しています。
本書は古い本ではありますが、一次資料をふんだんに使用し考察しており、これに異を唱えるというのであれば
それなりの新資料の発掘と論理的考察が必要と思われます。
なお、95式軽戦車の仮正式制定の会議(第13回軍需審議会)についてはp66-p70にかけ詳細に記述(むろん古峰氏以上の分量)
なお、本会議の結論としては
騎兵側意見
・現在の仕様で十分(速度重視)
戦車側意見
・戦車隊装備としては不適当(装甲重視)
・しかし装甲自動車隊の装備としては適当
結論
・軽装甲車や装甲自動車にかわるものとして可決
しかし、上記に書いたように混成旅団は機械化騎兵ではなく、そもそもが自動車化歩兵でした。
ここは配備の不適当を指摘すべきなのに、95式が配備されたのは混成旅団が機械化騎兵だからだ!に飛ぶのか???
もしくは混成旅団を機械化騎兵にしようとしていた!になるのか???
(混成旅団の本質と機械化騎兵であると主張するというのはそういうことなんでしょ?)
ちなみに混成旅団は95式だけではなく、89式も配備されていたことは前述の通り
こうなると、89式を今後の新中戦車と交代させつつ、95式を混成旅団における騎兵任務に充てるつもりであったと推測できるわけです。
これはその後の戦車連隊や戦車師団の運用とも合致しております。
となると混成旅団は「自動車化歩兵を主力とし、中戦車を支援戦車に、軽戦車を捜索(騎兵)として配備した諸兵科連合の機械化(自動車化)歩兵部隊である」という結論になるのではないであらうか。 改めて調査し考察したら私自身が最初に主張した
「混成旅団は機動戦車部隊の機甲部隊である」
から後退し、なんか自動車化歩兵まで退化してしまいましたが・・・
その後の混成旅団の問題は、89式に代わる支援戦車(ちはたん)が配備される前に
つまり本来想定されていた運用が可能になる装備が整う前に実戦投入され、
支援戦車の役割を機動戦車でる軽戦車で代用しようとしたが、
やはり木村大佐(13回会議の戦車側の出席者)の主張した通り
やっぱ無理だったね。
という話であり、やはり騎兵の話は無関係っぽいなぁ
やっぱ騎兵の機械化は騎兵連隊から捜索連隊への改編の流れで理解しないとダメだよなぁ ちなみに「帝国陸軍機甲部隊」ではp61-p62にかけて
教育総監の訓示など一次資料をもとに
混成旅団野第3/第4大隊は主兵たる歩兵連隊を支援する共同戦闘が主務とし、機甲部隊というよりも自動車化歩兵部隊であったと結論しています。
本書は古い本ではありますが、一次資料をふんだんに使用し考察しており、これに異を唱えるというのであれば
それなりの新資料の発掘と論理的考察が必要と思われます。
なお、95式軽戦車の仮正式制定の会議(第13回軍需審議会)についてはp66-p70にかけ詳細に記述(むろん古峰氏以上の分量)
なお、本会議の結論としては
騎兵側意見
・現在の仕様で十分(速度重視)
戦車側意見
・戦車隊装備としては不適当(装甲重視)
・しかし装甲自動車隊の装備としては適当
結論
・軽装甲車や装甲自動車にかわるものとして可決
しかし、上記に書いたように混成旅団は機械化騎兵ではなく、そもそもが自動車化歩兵でした。
ここは配備の不適当を指摘すべきなのに、95式が配備されたのは混成旅団が機械化騎兵だからだ!に飛ぶのか???
もしくは混成旅団を機械化騎兵にしようとしていた!になるのか???
(混成旅団の本質と機械化騎兵であると主張するというのはそういうことなんでしょ?)
ちなみに混成旅団は95式だけではなく、89式も配備されていたことは前述の通り
こうなると、89式を今後の新中戦車と交代させつつ、95式を混成旅団における騎兵任務に充てるつもりであったと推測できるわけです。
これはその後の戦車連隊や戦車師団の運用とも合致しております。
となると混成旅団は「自動車化歩兵を主力とし、中戦車を支援戦車に、軽戦車を捜索(騎兵)として配備した諸兵科連合の機械化(自動車化)歩兵部隊である」という結論になるのではないであらうか。 つか、そろそろダイアモンドアイが出てきても良さそうなのですが・・・
みんな、私がだれだかもう判ってんだろ?
ほら、さあ
(うずうず) ちなみに「帝国陸軍機甲部隊」ではp61-p62にかけて
教育総監の訓示など一次資料をもとに
混成旅団野第3/第4大隊は主兵たる歩兵連隊を支援する共同戦闘が主務とし、機甲部隊というよりも自動車化歩兵部隊であったと結論しています。
本書は古い本ではありますが、一次資料をふんだんに使用し考察しており、これに異を唱えるというのであれば
それなりの新資料の発掘と論理的考察が必要と思われます。
なお、95式軽戦車の仮正式制定の会議(第13回軍需審議会)についてはp66-p70にかけ詳細に記述(むろん古峰氏以上の分量)
なお、本会議の結論としては
騎兵側意見
・現在の仕様で十分(速度重視)
戦車側意見
・戦車隊装備としては不適当(装甲重視)
・しかし装甲自動車隊の装備としては適当
結論
・軽装甲車や装甲自動車にかわるものとして可決
しかし、上記に書いたように混成旅団は機械化騎兵ではなく、そもそもが自動車化歩兵でした。
ここは配備の不適当を指摘すべきなのに、95式が配備されたのは混成旅団が機械化騎兵だからだ!に飛ぶのか???
もしくは混成旅団を機械化騎兵にしようとしていた!になるのか???
(混成旅団の本質と機械化騎兵であると主張するというのはそういうことなんでしょ?)
ちなみに混成旅団は95式だけではなく、89式も配備されていたことは前述の通り
こうなると、89式を今後の新中戦車と交代させつつ、95式を混成旅団における騎兵任務に充てるつもりであったと推測できるわけです。
これはその後の戦車連隊や戦車師団の運用とも合致しております。
となると混成旅団は「自動車化歩兵を主力とし、中戦車を支援戦車に、軽戦車を捜索(騎兵)として配備した諸兵科連合の機械化(自動車化)歩兵部隊である」という結論になるのではないであらうか。 「歴史群像」2017年6月号掲載「日本陸軍装備変遷史」(古峰文三)より
「…一般には発生した事実をつなげて、南方島嶼の防衛戦は初期の水際撃滅志向から、
ペリリュー島、硫黄島などで見られた後退防御、持久戦術へと転換したと考えられ、
本土決戦ではヒステリックな全軍特攻主義によって再び水際邀撃を志向した
との認識が強い。しかし実際には、陸軍が本格的に敵の大規模上陸に対抗する総合的な
研究を完成させたのは本土決戦計画からだったともいえる。
ノルマンディ戦の情報から得られた教訓は、圧倒的な艦砲射撃と航空攻撃によって
上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難で、内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ
増援に送り出すことができないという厳しい現実だった。
連合軍上陸前のドイツ軍部内でも議論となったこの問題が改めて検討された結果、
上陸海岸無防備放置戦法は放棄され、海岸陣地の強化と火力の集中が図られている。
南方の島嶼に輸送された師団が内地に残していった野戦重砲などが比較的豊富に
存在していたため、海岸陣地の支援火力は比較的充実したものとなっていた。」
南方に送られた師団の中には野戦重砲を装備していたものがあったの?
あと、同じ号に掲載されている編制の記事を見ると、本土決戦用として、
昭和20年4月の「第二次兵備」で、歩兵師団ながら機動力を活かして敵を打撃する
「機動師団」が8個も編成されていて、敵の制空権下での機動を考慮して師団直轄の
機関砲隊を編制に加えていて、
あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
って教訓を得ていたんですよねえ? 自分の認識では、日本陸軍の野戦重砲は、師団隷下ではなく
独立の野戦重砲兵連隊だけに配備されていたと思うんだが… 気になるのは、
>南方の島嶼に輸送された師団が内地に残していった野戦重砲
ってどんな資料を見て書いたのかってこと。 「歴史群像」2017年6月号掲載「日本陸軍装備変遷史」(古峰文三)より
「…一般には発生した事実をつなげて、南方島嶼の防衛戦は初期の水際撃滅志向から、
ペリリュー島、硫黄島などで見られた後退防御、持久戦術へと転換したと考えられ、
本土決戦ではヒステリックな全軍特攻主義によって再び水際邀撃を志向した
との認識が強い。しかし実際には、陸軍が本格的に敵の大規模上陸に対抗する総合的な
研究を完成させたのは本土決戦計画からだったともいえる。
ノルマンディ戦の情報から得られた教訓は、圧倒的な艦砲射撃と航空攻撃によって
上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難で、内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ
増援に送り出すことができないという厳しい現実だった。
連合軍上陸前のドイツ軍部内でも議論となったこの問題が改めて検討された結果、
上陸海岸無防備放置戦法は放棄され、海岸陣地の強化と火力の集中が図られている。
南方の島嶼に輸送された師団が内地に残していった野戦重砲などが比較的豊富に
存在していたため、海岸陣地の支援火力は比較的充実したものとなっていた。」
南方に送られた師団の中には野戦重砲を装備していたものがあったの?
あと、同じ号に掲載されている編制の記事を見ると、本土決戦用として、
昭和20年4月の「第二次兵備」で、歩兵師団ながら機動力を活かして敵を打撃する
「機動師団」が8個も編成されていて、敵の制空権下での機動を考慮して師団直轄の
機関砲隊を編制に加えていて、
あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
って教訓を得ていたんですよねえ? 「歴史群像」2017年6月号掲載「日本陸軍装備変遷史」(古峰文三)より
「…一般には発生した事実をつなげて、南方島嶼の防衛戦は初期の水際撃滅志向から、
ペリリュー島、硫黄島などで見られた後退防御、持久戦術へと転換したと考えられ、
本土決戦ではヒステリックな全軍特攻主義によって再び水際邀撃を志向した
との認識が強い。しかし実際には、陸軍が本格的に敵の大規模上陸に対抗する総合的な
研究を完成させたのは本土決戦計画からだったともいえる。
ノルマンディ戦の情報から得られた教訓は、圧倒的な艦砲射撃と航空攻撃によって
上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難で、内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ
増援に送り出すことができないという厳しい現実だった。
連合軍上陸前のドイツ軍部内でも議論となったこの問題が改めて検討された結果、
上陸海岸無防備放置戦法は放棄され、海岸陣地の強化と火力の集中が図られている。
南方の島嶼に輸送された師団が内地に残していった野戦重砲などが比較的豊富に
存在していたため、海岸陣地の支援火力は比較的充実したものとなっていた。」
南方に送られた師団の中には野戦重砲を装備していたものがあったの?
あと、同じ号に掲載されている編制の記事を見ると、本土決戦用として、
昭和20年4月の「第二次兵備」で、歩兵師団ながら機動力を活かして敵を打撃する
「機動師団」が8個も編成されていて、敵の制空権下での機動を考慮して師団直轄の
機関砲隊を編制に加えていて、
あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
って教訓を得ていたんですよねえ? ちなみに「帝国陸軍機甲部隊」ではp61-p62にかけて
教育総監の訓示など一次資料をもとに
混成旅団野第3/第4大隊は主兵たる歩兵連隊を支援する共同戦闘が主務とし、機甲部隊というよりも自動車化歩兵部隊であったと結論しています。
本書は古い本ではありますが、一次資料をふんだんに使用し考察しており、これに異を唱えるというのであれば
それなりの新資料の発掘と論理的考察が必要と思われます。
なお、95式軽戦車の仮正式制定の会議(第13回軍需審議会)についてはp66-p70にかけ詳細に記述(むろん古峰氏以上の分量)
なお、本会議の結論としては
騎兵側意見
・現在の仕様で十分(速度重視)
戦車側意見
・戦車隊装備としては不適当(装甲重視)
・しかし装甲自動車隊の装備としては適当
結論
・軽装甲車や装甲自動車にかわるものとして可決
しかし、上記に書いたように混成旅団は機械化騎兵ではなく、そもそもが自動車化歩兵でした。
ここは配備の不適当を指摘すべきなのに、95式が配備されたのは混成旅団が機械化騎兵だからだ!に飛ぶのか???
もしくは混成旅団を機械化騎兵にしようとしていた!になるのか???
(混成旅団の本質と機械化騎兵であると主張するというのはそういうことなんでしょ?)
ちなみに混成旅団は95式だけではなく、89式も配備されていたことは前述の通り
こうなると、89式を今後の新中戦車と交代させつつ、95式を混成旅団における騎兵任務に充てるつもりであったと推測できるわけです。
これはその後の戦車連隊や戦車師団の運用とも合致しております。
となると混成旅団は「自動車化歩兵を主力とし、中戦車を支援戦車に、軽戦車を捜索(騎兵)として配備した諸兵科連合の機械化(自動車化)歩兵部隊である」という結論になるのではないであらうか。 >この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。
自動車化歩兵である独立歩兵第一連隊も調べました。
こっちも歩兵将校(寺倉歩兵大佐=前歴は歩兵学校研究部)率いるれっきとした歩兵だった・・・
(ただし軽装甲車中隊を独自に保有)
騎兵旅団どこいった〜?どこ〜??(´・ω・`)
騎兵旅団をどう機械化すると独立歩兵第一連隊になるの???
つか、この時点で解隊や改編された騎兵旅団ないし、騎兵旅団を参考にして新編としても編成に共通点が無さすぎ。
編制としても、むしろ通常の歩兵連隊に近く、通常の歩兵連隊に軽装甲車中隊を加えたものです。
(歩兵3個大隊/歩兵砲中隊/速射砲中隊/軽装甲車中隊)
指揮官も歩兵科だし
これでどう考えれば騎兵旅団的な運用をしようとしてたと考えられるのか?
どう考えても騎兵の機械化じゃなくて、歩兵の機械化だよね。
私のような旧軍騎兵を専門としない素人がちょっと調べただけで騎兵要素がどんどん潰されていくなぁ >>52
>この問題は、独混第一編成以前の、第1/第2戦車旅団新編時(つまり第3/第4大隊の編制経緯)を調査する必要があるはずです。
>ここを調べなければ、独立混成第一旅団の母体が機甲(歩兵)か騎兵かの断言はできないはず。
本文を見たら
>この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。そして騎兵の機械化であるため、
>装備する戦車は全て機動戦車である九五式戦車とされた。
これによると、騎兵旅団の機械化であって、戦車はそれに加えたものだから、
戦車部隊の由来を調べる必要はない、そもそも関係ないという考えなんだろう。
>ちなみに独立混成第一旅団が機械化騎兵としてみる根拠になりそうなものといえば
>編成装備が、95式軽戦車と、94式軽装甲車からなっており、94式軽装甲車が騎兵採用車輛であることぐらいなのですが・・・
これも本文を見ると、
>しかし、肝心の装甲戦力を担う九五式軽戦車の生産不足から当初は低速の八九式中戦車が配備されたことから、
>旅団の戦車部隊は自動車化歩兵の乗るトラックに路上では追随できず、最も重要な自動車化歩兵との協同作戦能力ができなかった。
とあって、九四式軽装甲車への言及はないから、関係ないと思っているのでは? >51
いやこれ加登川氏の「帝国陸軍機甲部隊」に既に第13回軍需会議の経緯が載ってるし
同書に、独立混成第一旅団編成以前の戦車旅団増設についても載ってたはず。
(もともとの戦車旅団の編成拡大について、これになければ、学研ムックの「帝国機甲部隊」の方にあるはず)
どうも小峰氏は、加登川氏の「帝国陸軍機甲部隊」の95式採用時の議論を元ネタとして、他のスペック系記事付け加え、この記事を書いたように見受けられるのですが・・・
資料以前に、正しい知見を得るには正しい読解力が必要というだけの話ではないか?
ちなみに独立混成第一旅団が機械化騎兵としてみる根拠になりそうなものといえば
編成装備が、95式軽戦車と、94式軽装甲車からなっており、94式軽装甲車が騎兵採用車輛であることぐらいなのですが・・・
89式中戦車は遅すぎ(そもそもその遅さが機動戦車としての95式軽戦車の開発原因)なので新編部隊の編成車両としては不適当
とはいえ全部、95式軽戦車で揃えるには時間と予算が不足しており、94式軽装甲車で部隊の車両数を水増した可能性も捨てきれないと思います。
(確かもとの第3/第4大隊編成時の理由がそれだったような・・・)
この問題は、独混第一編成以前の、第1/第2戦車旅団新編時(つまり第3/第4大隊の編制経緯)を調査する必要があるはずです。
ここを調べなければ、独立混成第一旅団の母体が機甲(歩兵)か騎兵かの断言はできないはず。 いいかげんうざい
自分のツイッターかブログでやってくれ 歴群の95式記事
あれだな、記事もそうだけど見出しが特におかしいんだ
>騎兵の機械化を念頭に、快速・好打の機動戦車として産声を上げるはずだった九五式軽戦車が、なぜ「歩兵の火力支援」を主眼とする体系の中に組み込まれてしまったのか。
95式は軽兵と機甲の共用装備が念頭であり、騎兵の機械化だけが主ではない。
騎兵装備の重装車の後継と機甲部隊の機動戦車との要求が近いので共用装備を目指すが
騎兵=いいねこれ
機甲=装甲うすい役立たず
(このへんの議論の元ネタは加登川氏の帝国陸軍機甲部隊)
結果、機甲が妥協して正式化されましたが、当の騎兵は95式とは【別に】、捜索連隊向けの94式軽装甲車の後継として97式軽装甲車を開発。
(じゃあ、最初から95式は機甲の要望を入れ重装甲化し、騎兵は独自に97式軽装甲車を作ってれば良かったものを・・・なぜ自分で賛成した95式軽戦車とは別に97式軽装甲車を作ったんだか・・・)
(記事を書くなら、この謎を解いて欲しかった…)
あと、独立混成第一旅団の母体が騎兵?
第3/第4戦車大隊って第1/第2戦車旅団からの新編/派遣が基礎でしょ(独混の前)
さらに歩兵戦車学校の教導部隊が母体だったりだし
どこらへんが騎兵が母体なんだろう?
(そのあたりの説明は記事になし・・・) >51
いやこれ加登川氏の「帝国陸軍機甲部隊」に既に第13回軍需会議の経緯が載ってるし
同書に、独立混成第一旅団編成以前の戦車旅団増設についても載ってたはず。
(もともとの戦車旅団の編成拡大について、これになければ、学研ムックの「帝国機甲部隊」の方にあるはず)
どうも小峰氏は、加登川氏の「帝国陸軍機甲部隊」の95式採用時の議論を元ネタとして、他のスペック系記事付け加え、この記事を書いたように見受けられるのですが・・・
資料以前に、正しい知見を得るには正しい読解力が必要というだけの話ではないか?
ちなみに独立混成第一旅団が機械化騎兵としてみる根拠になりそうなものといえば
編成装備が、95式軽戦車と、94式軽装甲車からなっており、94式軽装甲車が騎兵採用車輛であることぐらいなのですが・・・
89式中戦車は遅すぎ(そもそもその遅さが機動戦車としての95式軽戦車の開発原因)なので新編部隊の編成車両としては不適当
とはいえ全部、95式軽戦車で揃えるには時間と予算が不足しており、94式軽装甲車で部隊の車両数を水増した可能性も捨てきれないと思います。
(確かもとの第3/第4大隊編成時の理由がそれだったような・・・)
この問題は、独混第一編成以前の、第1/第2戦車旅団新編時(つまり第3/第4大隊の編制経緯)を調査する必要があるはずです。
ここを調べなければ、独立混成第一旅団の母体が機甲(歩兵)か騎兵かの断言はできないはず。 >>52
>この問題は、独混第一編成以前の、第1/第2戦車旅団新編時(つまり第3/第4大隊の編制経緯)を調査する必要があるはずです。
>ここを調べなければ、独立混成第一旅団の母体が機甲(歩兵)か騎兵かの断言はできないはず。
本文を見たら
>この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。そして騎兵の機械化であるため、
>装備する戦車は全て機動戦車である九五式戦車とされた。
これによると、騎兵旅団の機械化であって、戦車はそれに加えたものだから、
戦車部隊の由来を調べる必要はない、そもそも関係ないという考えなんだろう。
>ちなみに独立混成第一旅団が機械化騎兵としてみる根拠になりそうなものといえば
>編成装備が、95式軽戦車と、94式軽装甲車からなっており、94式軽装甲車が騎兵採用車輛であることぐらいなのですが・・・
これも本文を見ると、
>しかし、肝心の装甲戦力を担う九五式軽戦車の生産不足から当初は低速の八九式中戦車が配備されたことから、
>旅団の戦車部隊は自動車化歩兵の乗るトラックに路上では追随できず、最も重要な自動車化歩兵との協同作戦能力ができなかった。
とあって、九四式軽装甲車への言及はないから、関係ないと思っているのでは? 外道のLansとしては、ダイヤモンドアイの外道照身靈波光線を受けて
ばぁれたかぁ〜!
をやりたかったのですが・・・
なにか涌いてしまいましたねぇ >>109
だまれカス
必死みりゃすぐわかんだよボケ
死ね >>52
>この問題は、独混第一編成以前の、第1/第2戦車旅団新編時(つまり第3/第4大隊の編制経緯)を調査する必要があるはずです。
>ここを調べなければ、独立混成第一旅団の母体が機甲(歩兵)か騎兵かの断言はできないはず。
本文を見たら
>この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。そして騎兵の機械化であるため、
>装備する戦車は全て機動戦車である九五式戦車とされた。
これによると、騎兵旅団の機械化であって、戦車はそれに加えたものだから、
戦車部隊の由来を調べる必要はない、そもそも関係ないという考えなんだろう。
>ちなみに独立混成第一旅団が機械化騎兵としてみる根拠になりそうなものといえば
>編成装備が、95式軽戦車と、94式軽装甲車からなっており、94式軽装甲車が騎兵採用車輛であることぐらいなのですが・・・
これも本文を見ると、
>しかし、肝心の装甲戦力を担う九五式軽戦車の生産不足から当初は低速の八九式中戦車が配備されたことから、
>旅団の戦車部隊は自動車化歩兵の乗るトラックに路上では追随できず、最も重要な自動車化歩兵との協同作戦能力ができなかった。
とあって、九四式軽装甲車への言及はないから、関係ないと思っているのでは? 歴群の95式記事
あれだな、記事もそうだけど見出しが特におかしいんだ
>騎兵の機械化を念頭に、快速・好打の機動戦車として産声を上げるはずだった九五式軽戦車が、なぜ「歩兵の火力支援」を主眼とする体系の中に組み込まれてしまったのか。
95式は軽兵と機甲の共用装備が念頭であり、騎兵の機械化だけが主ではない。
騎兵装備の重装車の後継と機甲部隊の機動戦車との要求が近いので共用装備を目指すが
騎兵=いいねこれ
機甲=装甲うすい役立たず
(このへんの議論の元ネタは加登川氏の帝国陸軍機甲部隊)
結果、機甲が妥協して正式化されましたが、当の騎兵は95式とは【別に】、捜索連隊向けの94式軽装甲車の後継として97式軽装甲車を開発。
(じゃあ、最初から95式は機甲の要望を入れ重装甲化し、騎兵は独自に97式軽装甲車を作ってれば良かったものを・・・なぜ自分で賛成した95式軽戦車とは別に97式軽装甲車を作ったんだか・・・)
(記事を書くなら、この謎を解いて欲しかった…)
あと、独立混成第一旅団の母体が騎兵?
第3/第4戦車大隊って第1/第2戦車旅団からの新編/派遣が基礎でしょ(独混の前)
さらに歩兵戦車学校の教導部隊が母体だったりだし
どこらへんが騎兵が母体なんだろう?
(そのあたりの説明は記事になし・・・) >この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。
自動車化歩兵である独立歩兵第一連隊も調べました。
こっちも歩兵将校(寺倉歩兵大佐=前歴は歩兵学校研究部)率いるれっきとした歩兵だった・・・
(ただし軽装甲車中隊を独自に保有)
騎兵旅団どこいった〜?どこ〜??(´・ω・`)
騎兵旅団をどう機械化すると独立歩兵第一連隊になるの???
つか、この時点で解隊や改編された騎兵旅団ないし、騎兵旅団を参考にして新編としても編成に共通点が無さすぎ。
編制としても、むしろ通常の歩兵連隊に近く、通常の歩兵連隊に軽装甲車中隊を加えたものです。
(歩兵3個大隊/歩兵砲中隊/速射砲中隊/軽装甲車中隊)
指揮官も歩兵科だし
これでどう考えれば騎兵旅団的な運用をしようとしてたと考えられるのか?
どう考えても騎兵の機械化じゃなくて、歩兵の機械化だよね。
私のような旧軍騎兵を専門としない素人がちょっと調べただけで騎兵要素がどんどん潰されていくなぁ ちなみに「帝国陸軍機甲部隊」ではp61-p62にかけて
教育総監の訓示など一次資料をもとに
混成旅団野第3/第4大隊は主兵たる歩兵連隊を支援する共同戦闘が主務とし、機甲部隊というよりも自動車化歩兵部隊であったと結論しています。
本書は古い本ではありますが、一次資料をふんだんに使用し考察しており、これに異を唱えるというのであれば
それなりの新資料の発掘と論理的考察が必要と思われます。
なお、95式軽戦車の仮正式制定の会議(第13回軍需審議会)についてはp66-p70にかけ詳細に記述(むろん古峰氏以上の分量)
なお、本会議の結論としては
騎兵側意見
・現在の仕様で十分(速度重視)
戦車側意見
・戦車隊装備としては不適当(装甲重視)
・しかし装甲自動車隊の装備としては適当
結論
・軽装甲車や装甲自動車にかわるものとして可決
しかし、上記に書いたように混成旅団は機械化騎兵ではなく、そもそもが自動車化歩兵でした。
ここは配備の不適当を指摘すべきなのに、95式が配備されたのは混成旅団が機械化騎兵だからだ!に飛ぶのか???
もしくは混成旅団を機械化騎兵にしようとしていた!になるのか???
(混成旅団の本質と機械化騎兵であると主張するというのはそういうことなんでしょ?)
ちなみに混成旅団は95式だけではなく、89式も配備されていたことは前述の通り
こうなると、89式を今後の新中戦車と交代させつつ、95式を混成旅団における騎兵任務に充てるつもりであったと推測できるわけです。
これはその後の戦車連隊や戦車師団の運用とも合致しております。
となると混成旅団は「自動車化歩兵を主力とし、中戦車を支援戦車に、軽戦車を捜索(騎兵)として配備した諸兵科連合の機械化(自動車化)歩兵部隊である」という結論になるのではないであらうか。 >>52
>この問題は、独混第一編成以前の、第1/第2戦車旅団新編時(つまり第3/第4大隊の編制経緯)を調査する必要があるはずです。
>ここを調べなければ、独立混成第一旅団の母体が機甲(歩兵)か騎兵かの断言はできないはず。
本文を見たら
>この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。そして騎兵の機械化であるため、
>装備する戦車は全て機動戦車である九五式戦車とされた。
これによると、騎兵旅団の機械化であって、戦車はそれに加えたものだから、
戦車部隊の由来を調べる必要はない、そもそも関係ないという考えなんだろう。
>ちなみに独立混成第一旅団が機械化騎兵としてみる根拠になりそうなものといえば
>編成装備が、95式軽戦車と、94式軽装甲車からなっており、94式軽装甲車が騎兵採用車輛であることぐらいなのですが・・・
これも本文を見ると、
>しかし、肝心の装甲戦力を担う九五式軽戦車の生産不足から当初は低速の八九式中戦車が配備されたことから、
>旅団の戦車部隊は自動車化歩兵の乗るトラックに路上では追随できず、最も重要な自動車化歩兵との協同作戦能力ができなかった。
とあって、九四式軽装甲車への言及はないから、関係ないと思っているのでは? これは小峰文三が発狂して荒らしてるんだろうな
間違いないがな 古峰さんは、プラモデル作りに忙しいからそんなことはしないよ。
ミリクラの次の特集は、古峰さんの大嫌いなフォッケウルフかな。 今書店で発売中のJグランドEXでは10式戦車とティラノサウルス、菊池雅之が、
先日発売のJシップスでは護衛艦いずもとシロナガスクジラ、某有名怪獣が比較の対象に出ていました。
今度のJウイングではF−35A戦闘機とプテラノドンとでも比較するのか? J翼は航空機の写真に文字被せるかイベントの絵日記しかやんないでしょ ああ、古峰さんがフォッケのプラモ作ってるのは丸のためかw
こみねさんFw190はBf109の後継主力戦闘機じゃなく
補助戦闘機だよ。珍説書くのはやめようね。
ぷらも72じゃなく48作れよw あと、日本陸軍に野戦重砲を装備している師団があったとか、
その師団が南方に送られる時に野戦重砲を置いていったとか、
陸軍が本土決戦準備で、内陸に控置した予備兵力を
上陸海岸へ増援に送り出すことができないと考えてたとか >>121
BF109がF型以降から稼働率ガタ落ちになって
FW190がその隙間を埋めたっていうのを曲解しちゃってるんだろうなぁ >96
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw ちなみに、敵主攻が相模湾であって、九十九里は助攻であってもそんなこたー関係なし、主逆襲は九十九里へ!
だって九十九里の方が逆襲しやすいんだもん
連日、戦車第三旅団/戦車第四師団/戦車第一師団の夜襲/黎明攻撃ができる可能性があるんだもん。
必要なのは【米軍の損害】とそれをハッタリとした終戦交渉(講和)であり、敵の撃退ではないのです。
なので参謀本部があくまでも主逆逆襲を逆襲しやすい九十九里に向けたのも道理かとw >97
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw >98
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw >101
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw さらに戦車第四師団長の回想に下記があります。
「また戦況に応じて機動する場合、たとえば千葉県から神奈川県に、あるいは神奈川県から茨城県へと膨大な車輛部隊を転用するにあたり、
東京の東部および北部によこだわる大小幾多の河川水流をわたること、また東京都という広大な市街地を通過することは容易ならぬ難事である。」
千葉-神奈川
神奈川-茨城
は無理と言っていますが、九十九里は不可とは言ってなかったり。。。
(問題にされているのは九十九里後の転戦機動) >123
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw >131
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw >136
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw >137
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw >139
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw 古峰がどうこうって話には食いついてないから、古峰信者がコピペしてるんだろうなぁ
そんなに気に触る事言ってたか? 事実を丁寧に指摘しているだけなのに異常な反応だよなあ ヒでやたらとえらそうなおっさんだなと思ったけど、ややこしい信者飼ってるんだな Lansが自分の薀蓄自慢のため
古峰擁護とも取れる書き込みするからいかんのだよ。
せっかく古峰包囲網作って狭めてるのに、
信者が脱出路を無限コピペで作って切り抜けようと必死になるだろ。 明らかに無いことをあった事実として書いてるのに呆れて
(つまり根拠がないことを平気で書いちゃうことがある人)
2年くらい前から最新号の記事まで、とばして読んでなかったが、
どんなこと書いてるか読んでみるか
この人の記事、興味深い指摘と史実の捏造が混在してて、
しかも第三者が確認可能なソースを明かさないから
自分で確認もできず、結局は危なくてどれも真に受けられないというw
興味深い指摘の例をあげると、重装甲車が軽戦車と統合されて
カテゴリーの名称として消滅した、という捉え方な。
史実の捏造の例は、日本軍の師団が野戦重砲を装備していて
南方に送られる時に本土に置いっていった、とかな。 Lansは、まず最初に結論を端的に書けよw
それから、根拠はこれこれこう、と例示するかたちにしろ あの人、twitterでの発言もアレなんだよなあ
>オペレーショナルアートはディープバトル実現のためのツールだから
とか
Lansが長文連投でコテンパンにするパティーンだなw >>140
それ長文読めないアホの子が
三行で!って要求するのと同じことやぞw >>143
アホはお前
掲示板向いてないよ。ブログでやれ 100%全部間違いとか、100%全部正解なんてことは、世の中そうそうありませんがな
古峰氏もどっかは正しい部分があったりします。そこを否定することは出来ませんが・・・
しかし、なぜか結論は大きく間違ってる場合が多々見受けられるようですががが
なお、本土決戦の結論は
@図演の結果、航空優勢化の内陸機動は困難という結果がでた
Aしかし実際は九十九里への一撃程度は可能と認識していた
古峰氏は@は指摘したものの、Aにはたどり着いてないですね。
砲兵については
@野戦重砲兵などが多数本土に残存していた
Aその多くは師団重砲ではなく、軍砲兵であった
古峰氏は@は認識したものの、Aについては誤認
なお、一部の重砲連隊が師団に直接配属(編制ではなく一時編成)はあるので、それを誤解した可能性はあり
また、あまりに初歩的であり、こんなことは考えたくは無いですが…10榴を重砲と勘違いした可能性は・・・さすがにそれは無いか・・・ 100%全部間違いとか、100%全部正解なんてことは、世の中そうそうありませんがな
古峰氏もどっかは正しい部分があったりします。そこを否定することは出来ませんが・・・
しかし、なぜか結論は大きく間違ってる場合が多々見受けられるようですががが
なお、本土決戦の結論は
@図演の結果、航空優勢化の内陸機動は困難という結果がでた
Aしかし実際は九十九里への一撃程度は可能と認識していた
古峰氏は@は指摘したものの、Aにはたどり着いてないですね。
砲兵については
@野戦重砲兵などが多数本土に残存していた
Aその多くは師団重砲ではなく、軍砲兵であった
古峰氏は@は認識したものの、Aについては誤認
なお、一部の重砲連隊が師団に直接配属(編制ではなく一時編成)はあるので、それを誤解した可能性はあり
また、あまりに初歩的であり、こんなことは考えたくは無いですが…10榴を重砲と勘違いした可能性は・・・さすがにそれは無いか・・・ >139
>あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
>「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
>「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
>って教訓を得ていたんですよねえ?
6月頃に行われた図上演習により、従来検討してた経路は米軍の航空阻止を受けやすく困難という結論がでました。
これは戦史叢書等に記述されており、取手付近で利根川を渡るプラン。これは「房総半島の防衛」(千葉日報)でも要兵地誌調査隊の回想記事にも合致。
しかしながら戦史叢書の巻末資料をよく調べていくと…【その後】に演習名目で機動経路の整備命令が出されています。
ここで注目すべきは、利根川と江戸川の分岐点である関宿-境付近。
ここに戦車等の渡渉設備を準備するようになってます。これは戦車第一師団の機動砲兵第一連隊の回想録にある渡河検討地点の記述と合致。
当地は昔から渡船場であり、現在の関宿橋や境大橋から見ても大規模な浅瀬が広がっています。
このあたりは良く買い物にいくのですが(ドンキやワンダーグー、Ks電機、ホームセンターがある)。。。さらに先日、店舗に昔(S20〜30)の関宿付近の写真が飾ってありましたが・・・
これ、どうみても本土決戦用に集積した架橋資材で作った船橋(門橋)と架橋だろが!という写真がありましたwww
なお同地は九十九里から100Km前後なので、沖合の機動部隊からの航空阻止は結構難しいかと
(しかも上陸後数日は、艦隊防空とCASで精いっぱいの可能性もあります)
そこを渡って柏-習志野-千葉-八街と連夜の夜間機動
千葉は戦車第4師団、八街は戦車第3旅団/戦車第48連隊が駐屯しているので、それと入れ替わりにところてん方式
八街から九十九里はすぐです。
不可能なのは、九十九里総攻撃の「後に」相模方面に転戦すること。
九十九里攻撃で師団は海岸保攻撃による砲兵/司令部/補給品撃破の戦果と引き換えに壊滅が見込まれたのでw >>52
>この問題は、独混第一編成以前の、第1/第2戦車旅団新編時(つまり第3/第4大隊の編制経緯)を調査する必要があるはずです。
>ここを調べなければ、独立混成第一旅団の母体が機甲(歩兵)か騎兵かの断言はできないはず。
本文を見たら
>この旅団の本質は。騎兵旅団を機械化し戦車を加えたものだった。そして騎兵の機械化であるため、
>装備する戦車は全て機動戦車である九五式戦車とされた。
これによると、騎兵旅団の機械化であって、戦車はそれに加えたものだから、
戦車部隊の由来を調べる必要はない、そもそも関係ないという考えなんだろう。
>ちなみに独立混成第一旅団が機械化騎兵としてみる根拠になりそうなものといえば
>編成装備が、95式軽戦車と、94式軽装甲車からなっており、94式軽装甲車が騎兵採用車輛であることぐらいなのですが・・・
これも本文を見ると、
>しかし、肝心の装甲戦力を担う九五式軽戦車の生産不足から当初は低速の八九式中戦車が配備されたことから、
>旅団の戦車部隊は自動車化歩兵の乗るトラックに路上では追随できず、最も重要な自動車化歩兵との協同作戦能力ができなかった。
とあって、九四式軽装甲車への言及はないから、関係ないと思っているのでは? 「歴史群像」2017年6月号掲載「日本陸軍装備変遷史」(古峰文三)より
「…一般には発生した事実をつなげて、南方島嶼の防衛戦は初期の水際撃滅志向から、
ペリリュー島、硫黄島などで見られた後退防御、持久戦術へと転換したと考えられ、
本土決戦ではヒステリックな全軍特攻主義によって再び水際邀撃を志向した
との認識が強い。しかし実際には、陸軍が本格的に敵の大規模上陸に対抗する総合的な
研究を完成させたのは本土決戦計画からだったともいえる。
ノルマンディ戦の情報から得られた教訓は、圧倒的な艦砲射撃と航空攻撃によって
上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難で、内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ
増援に送り出すことができないという厳しい現実だった。
連合軍上陸前のドイツ軍部内でも議論となったこの問題が改めて検討された結果、
上陸海岸無防備放置戦法は放棄され、海岸陣地の強化と火力の集中が図られている。
南方の島嶼に輸送された師団が内地に残していった野戦重砲などが比較的豊富に
存在していたため、海岸陣地の支援火力は比較的充実したものとなっていた。」
南方に送られた師団の中には野戦重砲を装備していたものがあったの?
あと、同じ号に掲載されている編制の記事を見ると、本土決戦用として、
昭和20年4月の「第二次兵備」で、歩兵師団ながら機動力を活かして敵を打撃する
「機動師団」が8個も編成されていて、敵の制空権下での機動を考慮して師団直轄の
機関砲隊を編制に加えていて、
あと、「決戦兵団」と呼ばれた第三十六軍って海岸近くに配備されてましたっけ?
「上陸海岸後方での部隊移動が極めて困難」
「内陸に控置した予備兵力を上陸海岸へ増援に送り出すことができない」
って教訓を得ていたんですよねえ? >59
>戦車部隊の由来を調べる必要はない、そもそも関係ないという考えなんだろう。
えー・・・
だって独混一旅の近接戦闘3個大隊のうち、2個が戦車大隊で1個が自動車化歩兵大隊
つまり2/3は戦車大隊なんだぜ。
どう考えれば無関係になるんだ??
しかも、今回の記事はその戦車の記事ではないのか???
>しかし、肝心の装甲戦力を担う九五式軽戦車の生産不足から当初は低速の八九式中戦車が配備されたことから、
>旅団の戦車部隊は自動車化歩兵の乗るトラックに路上では追随できず、最も重要な自動車化歩兵との協同作戦能力ができなかった。
それ…第1/第2大隊の話じゃね?
もともと歩兵学校戦車教導部隊をベースにした戦車第1大隊と第2大隊があり89式等を装備していて、それを拡大し第3、第4大隊を新編、その時に95式を配備
第一戦車旅団は、たしか第1大隊(89式他)と第3大隊(95軽+不足分は94軽車)
第二戦車旅団も、第2大隊(89式他)と第4大隊(95軽+不足分は94軽車)
そしてそこから独混一旅を新編するにあたり新型車輌を装備する第3/第4大隊を抽出
と記憶していますが…
後で本棚から「帝国陸軍機甲部隊」とか各種資料を引っ張り出してみるか・・・ >>146
恐るべき事に、旧軍だと10榴でも重砲カテゴリーになる事があるとか
なんでも口径や重量での判別をやっていなかったようで、重砲を扱う部署だから重砲になるとかなんとか
ちなみに、「コレ本当かよ…」と思って否定する本を探したけど無かった >152
それ、軍砲兵の独立重砲兵じゃないかな?師団砲兵の場合は重砲とは部隊名につかない。
しかしながら、確かに九十九里の軍砲兵にも10榴は存在するし、90式野砲さえある。
後で戦史叢書あたりを調べてみる
(九十九里の某所作成の軍砲兵配置図も保有してますが、あれは砲種と有効射程、射界が記載されたもので部隊名入ってないんだよなぁ・・・) 本来は野戦重砲を装備するべき部隊に、定数割れでチンケな砲が配備されたってだけ
いずれにしても日本陸軍で師団固有の編制内に野戦重砲を持っていた師団は無いし、
その師団が南方に行くときに残置したなんてこともありえない そうだな
問題の本質はあきらかにまちがっていることを根拠なしに書いたりすることだな すぐ脱線して聞いてもいない蘊蓄語りだすオタク死ねばいいのに warbirdsで結構議論したり、知識の蓄積してたんじゃないのか。
学校の授業、マジメに出てるのに劣等生ってのが世の中にいるらしいが
そんな類の人間か。
口ばっかり達者、態度ばかりでかくて、なんか想像するだけで肌寒い奴だな。 >152
本土決戦師団の砲兵連隊は
・野砲兵連隊
・山砲連隊
・迫撃連隊
・噴進砲隊
名称としての重砲は存在しなかったです。
(野砲兵の中身は野砲と10榴)
伊豆大島の第321師団は孤立環境の為、軍砲兵を内包し野戦重砲兵第6連隊第1中隊が配属。師団砲兵にも特別に10加配備。
でも、これは例外配備なので、これをもって本土決戦師団に重砲配属の主張は無茶かと・・・ 一般論だが、デタラメを真に受けても恥かくだけだからな
デタラメを言うやつと周囲からバカにされても、
それに気付かず偉そうに説教もどきを垂れられる本当のバカ
なら気にもしないんだろうけどなw >>161
>野戦重砲兵第6連隊
日本陸軍では野戦重砲を装備するのは野戦重砲兵連隊なんてことは
イロハのイだろうになあ あと、誰かさんは、南方に送られた師団が野戦重砲を装備してたと書いてるんだよなあ もう、法螺吹く古峰だけの問題じゃなくなってるだろ。
丸、歴史群像、ミリターリークラシックスの編集者は
気がつかなかったは通り越して
内容がデタラメでも雑誌出せればいいというフェイズに入ってるだろ。
そんな雑誌、読者がいなくなってもしょうがない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています