第一次世界大戦について語るスレ 6
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>>136
あと、もし総力戦の重圧で戦線崩壊みたいな事態になれば、社会党主流派も雪崩的に左派転回するんじゃないかな。 >>137
"あまりにも屈辱的譲歩"をしない為に"無賠償無併合の講和"を目指すの?
両極端過ぎない?
ドイツ国民は無賠償無併合までは流石に求めてなくてそれを求めてたのはドイツ軍部と言う印象なんだけど
>>138
別に休戦派=社会党左派ってわけじゃないから社会党主流派が左派に転向せずに休戦派になると言った方がただしい
休戦政府になるなら自然と元から反戦派の比較的多い社会党左派のメンツが音頭を取る事になるだけで
それ以外の政治思想まで転向する必要は無い >>139
この場合の無賠償無併合は労働者国際主義からの要請だから、ドイツよりロシアの例に近い。レーニンの「平和に関する布告」という前例が既にあったし。
もし1918年時点で労働者の支持で社会党左派主体の政府が成立すれば、必然的にこれに近い主張をせざるを得ないと思われる。 >>140
いやフランスの場合はロシア革命ほどの大転換ではないしそこまで関係ないだろ
仏独休戦が平和に関する布告の付近なら影響は強いかもしれんが
ブレスト=リフレスク条約以降の休戦交渉ならそんなに影響しないと思う 抜く話で盛り上がっているようだが、
昔宮沢リエの写真集で4回抜いたぞ!!
ヒロスエの写真集は着衣だがイメージを膨らませて
3回抜いた。 フランスの場合は国土が西部戦線の長大な塹壕戦の舞台になった国なわけで、まさに大消耗戦を国民が間近にその目で見ながら戦い抜いたんだから立派なもんだと思うよ。 パリからバスやタクシー使って兵士を運んだんだって
普仏戦争と違って首都を守り抜いたんだしフランスも評価してやるべきじゃね 1918. 9. 27
ブルガリア軍反乱部隊、君主制廃止を宣言
サロニカ戦線から総撤退したブルガリア軍は、連合軍に対してはある程度秩序ある
抵抗を示していたが、内部的には士気崩壊に瀕していた。
祖国を大戦に放り込んだブルガリア皇帝フェルディナンドに対する反感が軍隊内に
巻き起こり、撤退した軍隊の一部、約5000が公然と反旗を翻して首都ソフィアに迫った。
27日に至って反乱軍は「ブルガリア共和国」の建国を宣言し、皇帝に退位を迫った。
ブルガリアは混乱の極に陥っていた。 >>141
抗命部隊は赤旗掲げてたんでしょ
この動きが全軍に広まったら大変だと思うけどなあ >>141
この時期の西欧の政治体制、特に労働運動に対するロシア革命のインパクトを理解してないと思う。
革命状況から最も遠かったイギリスでさえ、労働者がロシア革命に同調してストしたり、ジノビエフ書簡事件とか起きてるのに。
あと、無賠償無併合を唱えてたのはボリシェヴィキだけじゃなくて、ウィルソンもそうだった。 >>147
なんだかんだ言っても民主主義体制は権威主義体制よりも革命に対する耐性は強いとは思うけどね。 >>149
だって現実でフランスでそんなに盛り上がらなかったし
ニヴェル攻勢後以上に反乱が盛り上がりそうなシチュエーションってどんなシチュエーションなの?
"軍事的に敗北しそう"な時だと第一次マルヌ会戦直前や春季攻勢時だけど
その時はあくまで政府の中の休戦派が盛り上がっただけで前線の状態としては混乱してなかったし
反乱が盛り上がるのは"無益な攻勢作戦の乱発"による物だと思うけど
ニヴェル攻勢後も更に攻勢の継続をしていたら更に反乱は増加するだろうけど
反乱それ自体が攻勢を停止させるだろうし
そもそも反乱時の前線兵士達の怒りの矛先は司令官に向かうものであって政府には向かってなかったのだから
フランス軍の反乱問題を過度に政治・政府・休戦に結び付ける事自体本質を理解してないと思うけど >反乱それ自体が攻勢を停止させるだろうし
兵士はそこまで考えてないから 1918. 9. 28
英仏軍のイープル攻勢発動
ヒンデンブルク・ラインに対する総攻撃の一環として、英仏ベルギーの軍からなる
フランダース軍集団は、イープル突出部から東への攻勢を開始した。
戦力比はいまや連合軍にとって大幅に有利であり、ドイツ軍は突破を防ぐために
後退していくほかはなかった。
しかし攻勢が始まるや天候がにわかに悪化し、1917年にも連合軍を悩ませた
泥濘が進撃を止めた。攻勢はひとまず一時中断となった。 1918. 9. 29
ルーデンドルフ、和平を提案
連合軍の総攻撃の前に、西部戦線のドイツ軍は一方的に押されていた。
この惨状を見て、ドイツ軍最高司令部を実質的に支配するルーデンドルフ兵站部
総長は、ベルギーのスパにある最高司令部指揮所において、皇帝ヴィルヘルム2世と
帝国宰相ヘルトリング伯に対して、「ウィルソンの14ヶ条」の受諾と「即時の和平」を
提案した。
ウィルソンの原則の受諾は軍部独裁制の終焉と民主政体の設立を意味し、
ルーデンドルフの権勢の終わりを意味していたが、それは敗戦の責任を議会勢力に
押しつけられるということでもあり、ルーデンドルフ個人として望ましいものであった。 1918. 9. 29
ブルガリア、休戦申し入れ
サロニカ戦線の崩壊と国軍の反乱に見舞われたブルガリア政府は、取るものも
とりあえず、まず戦争から離脱することを望んだ。
この日、ブルガリア政府と軍の代表が、ギリシャ領テサロニキにある連合軍
サロニカ戦線司令部に至り、休戦と降伏を申し入れた。
その日のうちに休戦協定はまとまり、全ブルガリア軍の動員解除と占領地の
全面返還、連合軍の領内自由通過権、ドイツ・オーストリア軍の4週間以内の
撤収が定められた。
休戦は翌日発効し、ブルガリアは大戦から離脱した。
これにより、バルカン半島とトルコ領トラキアは全くの無防備状態に陥った。
中央同盟国の崩壊が始まったのである。 1918. 9. 30
ブルガリアの休戦協定発効
この日正午、ブルガリア軍と連合軍の間の休戦協定(サロニカ休戦協定)が発効した。
イギリス軍は協定に従ってブルガリア領内に進入し、トルコ領トラキアへ向かった。
フランス軍はセルビア軍とともに北上し、セルビア領の奪回とウィーン占領を目指して
進撃を開始した。 1918. 10. 1
ダマスクス陥落
パレスチナ戦線のオスマン軍を包囲殲滅したイギリス軍は、北方へさらなる騎兵攻撃を
行った。アラブ軍と共同して内陸の一級道を行く部隊と、ガリラヤ湖から北東へ延びる
道路の二本を突進し、シリアの首府ダマスクスを奪取する作戦である。
オスマン軍はダマスクスに後衛部隊を置いてイギリス軍の攻撃を押しとどめ、その間に
残兵をアレッポへ撤退させる作戦だった。
ダマスクスには南からの街道の他に東西に街道が通じており、西に向かうとベイルートへ、
東に向かうと北のホムス・アレッポへ至っていた。
二手に分かれたイギリス軍は9月30日にほぼ同時にダマスクス郊外に到達し、まず
西へ向かう街道と鉄道を封鎖した。固守を命じられていたオスマン軍はすでに士気を
喪失しており、東から北へ向かう街道を通って敗走を始めた。
在ダマスクスのシリア太守サイド・アブデル・カデルはすでにファイサル王子の
アラブ軍と気脈を通じており、30日にはファイサルから「ヘジャズ王国のシリア太守」に
任じられていた。 10月1日、敗走するオスマン軍を追ってダマスクス市内に突入したイギリス軍に対し、
サイド太守は「ダマスクスはすでにアラブの支配下にあり、イギリス軍に抵抗しない」旨
申し入れた。
その日のうちにアラブ軍を率いるファイサル王子もダマスクスに入城した。市内に
残っていたオスマン軍の兵たちは降伏した。
ダマスクスに集積されていた多量の軍事物資はイギリス・アラブ軍の手に落ちた。
オスマン軍の一部は北へ逃れたが、もはや砲も機関銃も航空機もなく、近代軍隊の
形を成していなかった。
メギドの突破から半月の大追撃戦によって、パレスチナのオスマン・ドイツ軍は
事実上壊滅したのである。 1918. 10. 2
ブルガリアの反乱軍鎮圧される
休戦によってとりあえずの余裕を得たブルガリア政府軍は、首都ソフィアに迫っていた
反乱軍を鎮圧した。 1918. 10. 2
フィンランド民兵、カレリアから撤退
大フィンランド主義を唱えて白海沿岸のカレリア地域に侵入していたフィンランド民兵
(白軍派)は、イギリス軍の支援を受けてムルマン鉄道沿線を守るカレリア民兵
(赤軍派)の攻撃を受けて消耗し、この日までに侵入をあきらめてフィンランド国内に
撤収した。 1918. 10. 2
ドゥラッツォ砲撃
ブルガリアの降伏によって崩壊したマケドニア戦線から逃れてアルバニアのドゥラッツォ
港に集まって来ていたオーストリア軍部隊の撤退を阻止するために、イタリア海軍は
有力な艦隊をアルバニアのドゥラッツォに派遣した。
イタリア艦隊は戦艦「ダンテ・アリギエリ」と装甲巡「サン・ジョルジョ」「サン・マルコ」
「ピサ」を主力とし、小型巡洋艦3隻とイギリス海軍の軽巡5隻、各国の駆逐艦20隻
あまりを伴った大艦隊だった。
ドゥラッツォ在泊のオーストリア艦隊は駆逐艦2隻、水雷艇1隻、潜水艦2隻にすぎず、
敵艦隊来襲とともに港内を脱出してアドリア海を北に逃れた。
潜水艦はアメリカの駆潜艇などの攻撃を受けつつ反撃し、イギリス軽巡「ウェイマス」に
魚雷1本を命中させたのち、これも逃走に成功した。
商船は事前に退避しており、1隻が沈められるにとどまった。
イタリア・連合軍艦隊は港湾施設と旧市街を砲撃し、施設のほとんどを破壊した。
これによりオーストリア軍の海路撤退は不可能となり、悪路を越えて陸路を
逃げるよりほかなくなってしまった。 1918. 10. 3
ブルガリア皇帝フェルディナンド退位
この日、大戦の参戦責任を負って、ブルガリア皇帝フェルディナンド1世は退位し、
皇子のボリスが即位して皇帝ボリス3世となった。
フェルディナンドはドイツに亡命し(もともと彼はドイツ諸侯のザクセン・コーブルク家の
傍流の出であった)、領地で隠棲することとなった。 すごいな。イタリア艦隊でも勝利の美酒を味わえた
戦闘があったのか。
オーストリア艦隊の逆襲で半分ぐらい沈められて
撤退するイメージしかなかった。 1918. 10. 4
ミューズ攻勢第二段階へ
アメリカ軍を主力とするミューズ・アルゴンヌ攻勢はややその衝撃力を失いつつあった。
アメリカ遠征軍司令官パーシング将軍は、先鋒の各師団を交代させ、第二次攻勢を命じた。
しかしドイツ軍陣地への正面攻撃はなかなか進展を見せなかった。 1918. 10. 4
ドイツ、アメリカに和平の申し入れ
ドイツ軍部はもはや戦争の行く末に何らの希望を持てなくなっていた。ルーデンドルフは
10月2日に政府に対し即時の講和交渉を要請した。
政府は怨恨としがらみのある英仏ではなく、理想主義的と見られたアメリカに和平を
申し込むことにした。
この日就任したドイツ帝国宰相マックス・フォン・バーデン大公は、スイスを通じて
アメリカのウィルソン大統領に「14条にのっとった」和平を申し入れた。
7日にはオーストリア・ハンガリーからも同様の和平申し入れが行われた。
ウィルソンの返答が待たれるところとなった。 1918. 10. 6
輸送船「オトラント」と「カシミール」の衝突
アメリカのニューヨークからイギリスのリヴァプールへ向けて航行中だったHX-50
船団は、数日続いた嵐の中で、推測航行のままイギリス諸島に近づいていた。
この日の朝、不意に視界が晴れた時、船団の目前には岩山の海岸が近づいていた。
船団の大部分は、目前の海岸はアイリッシュ海峡の東岸のスコットランドの海岸だと
考え(この推測は正しかった)、海峡に入るべく南(右)に舵を転じた。
しかし船団司令船の兵員輸送船「オトラント」は、船団はまだ海峡に入っておらず、
海岸はアイルランド北端だと考え、これをかわすために北(左)に舵を転じた。
「オトラント」は僚船の「カシミール」と急速に接近し、ついに「カシミール」の船首は
「オトラント」の左舷中部に突っ込んだ。
「オトラント」の船体には6メートル×5メートルの大穴が開き、大量の浸水が生じた。
船長は総員退船を命じたが、荒れた海の上でボートを降ろすのは不可能であった。
護衛の駆逐艦「マウンジー」が「オトラント」に横付けして600人近くを救出したが、
大波によって船体が打ちつけあう力によって大きな損傷を受け、沈没を避けるために
救助を打ち切らざるを得なかった。
「オトラント」は衝突から3時間後に岩礁に叩きつけられ、その船体は二つに折れて
破壊された。「マウンジー」が救った人員以外に助かったのは19人にすぎなかった。
死者総数470人、うち358人がアメリカ陸軍の将兵だった。
「カシミール」は船首に損傷を受けたが死者はなく、自力でグラスゴーに入港した。 1918. 10. 7
ベイルート陥落
ダマスクスを奪取したイギリス軍は、さらに北へ追撃を企図していたが、ハイファを
起点とする補給路は伸び切っていた。
これを改善するため、ダマスクスの西にある地中海の大港湾都市ベイルートの
占領が求められた。
第7インド師団がその任務を与えられ、師団は峠を越えて海岸地方へ進んだ。
7日、ベイルートは無抵抗のまま占領された。師団はさらに地中海岸を北に進んだ。 100年前のこの時期のルーデンドルフはかなり頭がいっちゃってたてのは本当かな?
別宮サイト以外のソースがないんだけど この時期よりこれ以降の方が逝ってるんだから見方による
少なくともドイツで大きな権力を持った立場の中で最初に休戦を主張しながら
休戦時にはスウェーデンに逃亡していた本人が後年"背後の一突き"宣伝を盛んに行った事で色々察するべきだろう そういうみっともない保身は、少なくとも頭脳は健全だったということではないか? 1918. 10. 8
ウィルソンの返答
アメリカのウィルソン大統領は、先日のドイツからの和平申し入れに対して、「中央
同盟軍の占領地からの完全撤退およびUボート作戦の停止が和平交渉の大前提で
ある」旨返答した。
これはドイツ側が考えていたより厳しい内容であり、ドイツは再度ウィルソンと連合国の
意図を知るためにメッセージを送った。 この時点でルーデンドルフは内部でも敵だらけで暗殺の脅威にさらされ、
個人の利害レベルで即時停戦が必要な情勢だった可能性を唱えてみる 独裁者乃至は独裁的な権力を掌握した者は、暗殺を恐れるのが常だからね
その上、建前上の最高権力者のカイゼル空気だしな
ルーデン氏は解任されて権力を失い、逃亡なので、独裁者乃至は以下同文としては、かわいい方
辞任させられた東條、逮捕されたムッソリーニ、死ぬまで権力者のヒトラーと比較すると、独裁者乃至は以下同文としての格は
ヒトラー>ムッソリ>ルーデン>東條 当時の状態による根拠は特に無く
"独裁者乃至は独裁的な権力を掌握した者は、暗殺を恐れるのが常だから"
が理由なの?
"ルーデンドルフは内部でも敵だらけ"ならその敵の代表的な人物の名を挙げたりも出来ないの?
今の所その説明だけで"可能性を唱えた"ならスポーツ新聞のゴシップ記事以下の説得力だな >>175
皇帝が空気というのは同意。皇帝達と言うべきだけど。
第一次世界大戦でドイツ、ロシア、二重帝国、オスマンの皇帝達、開戦時にはほどほどの影響力があっただろうに、終戦時には影響力ほとんど無し。 負け組のブルガリア王国は、第二次世界大戦までしぶとく生き残る。 ドイツ帝国も国号は第二次世界大戦終戦まで生き残っているけどな。
ワイマール憲法では国号の変更はなされていない。チョビ髭が第三帝国を僭称した所以。 >>175,177
皇帝にわざと作戦大失敗させて責任として権力を参謀本部にはぎ取られて
空気に追いやった政治的手管こそルーデンドルフの真骨頂だと思うが >>180
皇帝が失敗させた作戦なんてあるの?人事の失敗はありそうだけど。
中公新書の「ヴィルヘルム2世」によれば、皇帝は大本営で日がな一日、茶を飲んで、木を伐採して、薪割りをしていたらしい。 1918. 10. 10
フランス軍プリシュティナを占領
ブルガリアの脱落によって崩壊したサロニカ戦線から、セルビア・フランス軍は急速に
北上してセルビア領を奪回にかかった。
デスペレ将軍指揮下のフランス軍はコソヴォに進入し、この日コソヴォ地方の中心都市
プリシュティナを占領した。 ドイツ帝国・ロシア帝国・オスマン帝国・オーストリア-ハンガリー帝国
古い帝国が一気に崩壊していく戦争なのに日本じゃ注目されないな >>184
シベリア出兵なんて、その後の日本が道を誤るきっかけと言ってもいいくらいの大事件なのにな
それまでは敵を知り味方を知り、関係各国には周到に根回しして決して無理をしないっていうスタイルだったのに、この頃から雑に力任せに事を進めるようになってしまった ドイツ帝国は実質プロイセン帝国
ホーエンツォレルン家は歴史あるぞ そこドイツ統一の肝だよね
ホーエンツォレルン家だから古い帝国だ、ていうのはあまりに的外れ
歴史が違っていたら大ドイツ主義で統一された可能性も微レ存
まあ小ドイツ主義だから統一出来たんだけどさ 大ドイツ主義で中途半端な仮想ドイツ帝国=第二次神聖ローマ帝国成立なら、多分、第一次世界大戦は起きなかった。
そして,現実のドイツ帝国の領域は20世紀になっても相変わらず仏露墺普の戦場になっていた
・・・かどうかは分からんが、史実のナチ台頭を考えるとドイツ語文化圏の人たちにとって、どちらがマシだったかな? 【危険! ビルの下は歩くな byマ@トレーヤ】 日経急落後も、金利下がらず、国債市場もはや機能不全
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1539310101/l50
太 陽 観 測 所 閉 鎖 U F O 大 量 出 現 事 件 と も 関 係 し て い る 1918. 10. 11
セルビア軍ニシュを奪回
この日、サロニカ戦線から北に進撃するセルビア軍は、少数のドイツ軍部隊が守る
セルビア第二の都市ニシュを攻撃、これを奪回した。 1918. 10. 13
トリポリ陥落
シリアの地中海岸を進むイギリス・インド軍第7師団はこの日ベイルートの北70kmの
港湾都市トリポリを占領した。 >>194
スレチだが、ベイルート北にトリポリっていう地名あるのを今知った。
普通トリポリといえばリビアの首都だが、語源はギリシャ語か。
アレキサンドリアがいくつもあるようなものだな。 >>195
「三つの都市」って意味ですね。
十字軍の本とか読んでると、一瞬「あれっ?」ってなる。 1918. 10. 14
チェコスロヴァキア暫定政府発足
連合国各国から事実上の政府として承認を受けていたチェコスロヴァキア国民
評議会は、オーストリア・ハンガリー帝国の運命がもはや長くないことを見て、
この日パリにおいて「チェコスロヴァキア暫定政府」を発足させた。
臨時の大統領はマサリク、外務大臣はベネシュ、陸軍大臣にはシュチェファーニクが
就任した。 1918. 10. 14
連合軍のフランダース攻勢再開
思わぬ泥濘に足を取られた連合軍であったが、この日になって地表の状況が改善した
ために攻勢を再開した。
リス川の西岸から開始された攻勢は2日後にはリス川を越え、ドイツ軍は連合軍の
火力と物量の前に押される一方であった。 1918. 10. 14
クリームヒルデ陣地の戦闘
攻勢を続けるアメリカ遠征軍は、ドイツ軍戦線の主要陣地、ヒンデンブルク・ラインの
南方延長をなすクリームヒルデ陣地に突き当たった。
ここは1916年のヴェルダン戦の際に築かれた攻撃陣地を防御強化した部分で、
ヴェルダンの北から北西にかけて伸びる陣地線であった。
3日間に及ぶ攻撃の末、アメリカ軍は陣地線を突破したが、地形はいまだ険しく、
ドイツ軍の防御は厚かった。 >>195
トリポリってロンメルのアフリカ軍団の激戦地とばかり
思っていた。 トリ(プル)+ポリ(ス)って事なのね
考えた事も無かったわ
勉強になった >>201
レバノンのよりリビヤのトリポリの方がずっとデカいし首都だし戦地としての話抜きで普通に有名だからな プロポリスはプロ=ポリス
守る都市って意味
ギリシャ語を語源としてるのはトリポリと同じ 1918. 10. 15
日本、干渉軍の西進を拒否
本来ロシア干渉軍はチェコ軍団の救援と東部戦線の再建を目的としていたはず
だったのだが、この日、日本政府はシベリア干渉軍をバイカル湖から西へ進めない
ことを決定した。
これは出兵を極限的なものにとどめたい政府と、満州の利権防護を出兵の大目標と
する陸軍の意見が一致するところによるものだったのだが、連合国各国からは日本の
動機の不純さに不快感を生じさせる決定であった。 1918. 10. 15
オスマン帝国、連合国に和平の申し入れ
ブルガリアの大戦離脱に伴い、オスマン帝国の帝都コンスタンチノープルは無防備
状態に陥った。
この事態に至る前は、オスマン帝国軍はカフカス戦線では優勢で、シリア戦線では
敗北したもののまだ立て直しは不可能ではないと考えられていた。
しかし連合軍の帝都直撃が迫るに至って、もはや戦争は継続できないことが明らかに
なった。
オスマン帝国政府は、先年のメソポタミア戦役で捕虜にしていたイギリス軍の
タウンゼンド将軍を使者に立て、帝都に迫るイギリス軍に対し休戦の申し入れを行った。 1918. 10. 16
イタリア軍ドゥラッツォを占領
サロニカ戦線崩壊によって側面ががら空きとなったアルバニア戦線から、オーストリア
軍は総撤退するほかなかった。
この日、オーストリア軍を追って北へ進撃するイタリア軍は、アドリア海の主要港
ドゥラッツォを占領した。 1918. 10. 16
オーストリア皇帝、帝国の「連邦化」を宣言
オーストリア・ハンガリー皇帝カール1世は、離反しつつある帝国内諸民族をなんとか
引き留めようと、ツィスライタニエン(二重君主国領土からハンガリー王国領を除いた
地域)の諸民族に自治を認め、連邦制を布くと宣言した。
しかしすでに時遅く、帝国内諸民族は独自の動きを始めていた。 リデル・ハート
「ドイツの裏口のドアが半開きになった」 >>206
「美しい都市」って意味だそうで。
ガリポリで戦死した将兵たちにとっては皮肉な名前だなあ…… >>208
それは違う。
たしかオリュンポスはギリシア語起源ではなく、先ギリシア民族の遺した地名で語源不明、ということだったはず 1918. 10. 17
オステンド、リール奪回
連合軍のフランダース攻勢は順調に進み、ドイツ軍はじりじりと押されて、この日
ベルギー海岸のオステンドがイギリス軍によって奪回された。また同日、長くドイツ軍
戦線北部の拠点となっていた北フランスのリールも奪回された。 1918. 10. 19
ブルージュ奪回
フランダース攻勢はさらなる進展を見せ、1914年にドイツ軍に占領されたベルギーの
ブルージュと、長くドイツ海軍海峡部隊が置かれていたゼーブルッヘは、この日連合軍の
手に落ちた。
これによりベルギー海岸地域はすべて連合軍によって奪回され(20日)、攻勢主軸は
真東に転じて、次なる目標はヘント(ガン)となった。
25日にはベルギー王アルベール1世はブルージュに入城した。 >>186
長州罰全盛だからな。
あいつらのやるこは売り国しかさんこら。 1918. 10. 22
連合軍スヘルデ川に到達
連合軍のフランダース攻勢はもはや押しとどめるすべはなく、ドイツ軍はスヘルデ川に
構築したヘルマン陣地に後退した。しかしこの陣地もいつまで保持できるか心細いもので
あった。
ドイツ軍はアントワープ〜ブリュッセル前面〜シャルルロワ〜ミューズ川に陣地線を
築いてさらなる抵抗拠点とする計画であった。 1918. 10. 23
バグダードよりイギリス・インド軍出撃
オスマン帝国が連合国との休戦協議に入ったのを見て、イギリス陸軍省は、この1年
ほとんど活動していなかったメソポタミア遠征軍に、休戦発効の前にイラク北部の
油田地帯を占領せよと命令した。
遠征軍司令官マーシャル将軍は、コッブ少将にインド騎兵を主力とする部隊を預け、
北進を命じた。バグダードからモスルまで400km。コッブは間に合うだろうか? 1918. 10. 23
ウィルソンの最終返答
アメリカのウィルソン大統領は、再三にわたるドイツの和平申し入れに対し、
「現在の皇帝と軍部による統治が続く限り、和平交渉は開始されない」旨返答した。
ルーデンドルフはこれを見て驚き、この条件を軍部はのむことはできない、
徹底抗戦あるのみだ、と主張した。
しかしドイツ国内の趨勢は次第に、そして急速に終末へ向けて動き始めていた。 1918. 10. 23
ヴィットリオ・ヴェネトの会戦始まる
すでに崩壊寸前のオーストリア・ハンガリー帝国へ向けて、イタリアはとどめの一撃を
かけるべく、ピアヴェ川戦線で大攻勢を企図した。
対抗するオーストリア軍では士気の低下に歯止めがかからず、兵力だけはあった
ものの、その内情は戦線を維持するだけでやっとのありさまであった。
3日間の猛攻の末、イタリア軍はピアヴェ川の中州に進出し、さらに対岸へ攻撃を
加えた。オーストリア軍はこの攻勢を前にして耐えるのみであった。 http://maisov.if.tv/r/index.php?GreatWarTactics
>数百人の一斉射撃に比べると、機関銃の火力など大したことがないように考えられていました。
へー 1918. 10. 25
アレッポ陥落
ダマスクスを占領したアラブ・イギリス連合軍はシリア内陸を北に進撃した。
対するオスマン軍は逃げるのが精一杯で、有効な抵抗は不可能になっていた。
この日、ファイサル王子のアラブ軍は北シリアの要衝アレッポに突入し、これを占領した。
5日後、ブルガリア降伏によって首都コンスタンチノープルを脅かされたオスマン帝国は
ムドロス休戦協定に調印し、それに従ってシリア地方における戦争も終結した。
実質的にシリアを占領したのはイギリス軍、領土を主張しているのはアラブ(ヘジャズ)、
しかしサイクス・ピコ協定により戦後の管轄権を得ているのはフランス、ということで、
この地域の戦後交渉は難航するが、それは本スレッドの範囲を超える。 1918. 10. 26
ルーデンドルフ解任
軍事独裁政権との交渉を拒否したウィルソンの返答を受け、ドイツ帝国宰相マックス・
フォン・バーデン大公はルーデンドルフの解任を要求した。
ルーデンドルフは自らの解任に同意しなかったが、皇帝が決を下し、この日ルーデン
ドルフは参謀次長(兵站部総長)を解任された。後任にはグレーナー将軍が就任した。
ヒンデンブルクはその地位を保った。
ルーデンドルフはしばらくベルリンにいたのち、世情が騒然となるのを見て身の危険を
感じ、スウェーデンに亡命した。 >>225
ルーデンドルフにとっては背後の一突きだったかもな。言動のぶれる高級軍人に退場願うのは当然の処置ではあったが。
それにしても、地位を保ったヒンデンブルクの方が匕首伝説の始まりというのも巡り合わせ。 1918. 10. 27
オスマン帝国とイギリスの間で休戦協議始まる
タウンゼンド将軍を介したオスマン帝国の休戦申し入れを、イギリス政府は好意的に
迎えた。
また、偶然ながら、この申し入れがイギリス軍に対するものであることをいいことに、
イギリスは休戦の協議からフランスを排除することを企図した。
協議はエーゲ海のギリシャ領レムノス島のムドロス港に停泊したイギリス戦艦
「アガメムノン」号の上で行われた。エーゲ海派遣フランス艦隊の司令長官アメ中将は
招かれなかった。
フランスのクレマンソー首相はイギリスの態度に抗議したが、つい先日のサロニカ
休戦協議(対ブルガリア)に際してフランス軍はイギリス軍代表を招かなかったでは
ないか、と言われて黙らざるを得なかった。 1918. 10. 28
イタリア軍ピアヴェ川を渡河
イタリア軍のヴィットリオ・ヴェネト攻勢は着実に進んでいた。
この日、ついにイタリア軍はピアヴェ川対岸に橋頭堡を確立し、さらに攻撃を進めた。
オーストリア軍では反撃の命令が部隊に拒否されるなど、もはや士気は地に落ちており、
やむなく司令官のボロエヴィッチ元帥はタリアメント川までの総退却を命令した。
オーストリア・ハンガリー帝国に最後の時が迫っていた。 1918. 10. 28
チェコスロヴァキア独立宣言
オーストリア・ハンガリー帝国の敗北がもはや避けられないことを見て、チェコ人の
住むベーメン・メーレン地域は、この日、プラハにおいて「チェコスロヴァキア共和国」の
独立を宣言した。
この動きは連合国において独立承認運動を進めていたマサリクらの「チェコスロヴァキア
暫定政府」と連動したもので、プラハの独立派はマサリクらの政府をそのまま受け入れて
自らの政府として認めた。
30日にはスロヴァキア人の住むハンガリー領でもこれに呼応して独立派が会合を開き、
チェコスロヴァキア国家に合流すべく決議した。 フィリップペタンが抜擢されなければ
西部戦線も危うかったような気がする 1918. 10. 29
イラクのイギリス・インド軍、オスマン軍を捕捉
バグダードからモスルへ急行するイギリス・インド軍は、1週間で220km前進し、この日
シャルカトの町でモスルへの道を守るオスマン軍と戦闘に入った。
オスマン軍はすでに戦意乏しく、インド軍の攻撃により砲兵陣地が奪われると、それ
以上の戦闘を避けて降伏した。
インド軍はさらに前進し、モスルを目指した。 1918. 10. 29
スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国家、独立を宣言
イタリア戦線の敗北を受け、イタリア軍の侵攻が迫っていたバルカンの南スラヴ人
居住地区では、泥舟と化したオーストリア帝国からの離脱が図られた。
この日、諸民族の代表は、帝国内のスラヴ人居住地の独立と「スロヴェニア人・
クロアチア人・セルビア人国家」の成立を宣言した。
この国家はのちに「ユーゴスラヴィア」となる領域に存在する国家であるが、「ユーゴ
スラヴィア」が成立するまでにはまだいくつかの曲折がある。しかしそれは本スレッドの
範囲を超えるであろう。 1918. 10. 29
ドイツ艦隊に反乱発生
10月24日にドイツ艦隊は英仏海峡方面に総出撃を行うことを決定した。
しかし水兵の間では厭戦気分が広まっており、「和平交渉を失敗させるために、敵の
半分の戦力で出撃するのは自殺行為だ」という声が急速に高まった。
出撃日に指定された30日の前日の29日、戦艦部隊を中心に大規模な不服従、反乱、
持場放棄が行われた。
艦隊内は騒然となり、もはや出撃どころではなくなった。外海艦隊司令長官ヒッパー
中将は、比較的命令に従っていた小型艦の指揮官たちに反乱の鎮圧を命じ、一時は
明白な不服従は鎮定されたかに見えた。
しかし、この反乱はさらに大きな炎の火種になるのであった。 1918. 10. 30
ムドロス休戦協定調印
オスマン帝国と連合軍を代表するイギリスの間で進んでいたムドロス休戦協定が
この日調印に至った。
内容は、アナトリア以外の地域に派遣されたオスマン帝国軍の降伏とその他の
部隊の動員解除、カフカスにおける旧国境線への撤退といった通常の条項の他に、
帝都コンスタンチノープルの連合軍による占領、ボスポラス・ダーダネルス海峡の
連合軍による管理、さらには「騒擾状態が起きた場合に」連合軍がオスマン帝国領を
占領する権利、オスマン帝国領内の交通路の連合軍による自由使用権など、
屈辱的な項目が並んでいた。
海峡の通過権は黒海沿岸国に対するイギリスの干渉のため、領土占領の許可は
ギリシャやイタリアの領土拡張(彼らの言い分においては「回復」)のために利用され、
オスマン帝国はまさに亡国の体をなすことになる。
トルコの人々はこの屈辱から数年を経ずして立ち上がるのだが、その話は本スレッドの
範囲を超える。 1918. 10. 30
イラクのイギリス・インド軍、モスルに届かず
バグダードからモスルの油田を狙って急速に北上していたイギリス・インド軍で
あったが、ムドロス休戦協定が発効した時にはモスルからなお20km南にあった。
ただ、前路をさえぎる敵はすでに存在せず、インド軍騎兵はそのまま前進して
モスルに突入した。モスル入城の日付には11月1日・2日・4日・14日などと諸説ある。 1918. 10. 31
スロヴェニア人民兵、南部オーストリアで蜂起
南スラヴ人国家の樹立宣言とともに、南部オーストリアとの国境をどこに引くかが
問題となった。リュブリャナの国民政府は、国境は戦後の講和会議で決定される
だろうとして積極的な動きを見せなかったが、各都市や地方政府はそれぞれどちらに
属するか自主的に判断を始めていた。
マリボル(マールブルク)の町はドイツ人人口が多く、10月30日に「オーストリアに
帰属を希望する」旨声明を発した。
これに対し現地のスロヴェニア人勢力は反発し、ルドルフ・マイスター少佐を
リーダーとして民兵の動員を始めた。
終戦を前に、オーストリアとスロヴェニアの間に戦争の危機が迫っていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています