第一次世界大戦について語るスレ 6
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>>184 シベリア出兵なんて、その後の日本が道を誤るきっかけと言ってもいいくらいの大事件なのにな それまでは敵を知り味方を知り、関係各国には周到に根回しして決して無理をしないっていうスタイルだったのに、この頃から雑に力任せに事を進めるようになってしまった ドイツ帝国は実質プロイセン帝国 ホーエンツォレルン家は歴史あるぞ そこドイツ統一の肝だよね ホーエンツォレルン家だから古い帝国だ、ていうのはあまりに的外れ 歴史が違っていたら大ドイツ主義で統一された可能性も微レ存 まあ小ドイツ主義だから統一出来たんだけどさ 大ドイツ主義で中途半端な仮想ドイツ帝国=第二次神聖ローマ帝国成立なら、多分、第一次世界大戦は起きなかった。 そして,現実のドイツ帝国の領域は20世紀になっても相変わらず仏露墺普の戦場になっていた ・・・かどうかは分からんが、史実のナチ台頭を考えるとドイツ語文化圏の人たちにとって、どちらがマシだったかな? 【危険! ビルの下は歩くな byマ@トレーヤ】 日経急落後も、金利下がらず、国債市場もはや機能不全 http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1539310101/l50 太 陽 観 測 所 閉 鎖 U F O 大 量 出 現 事 件 と も 関 係 し て い る 1918. 10. 11 セルビア軍ニシュを奪回 この日、サロニカ戦線から北に進撃するセルビア軍は、少数のドイツ軍部隊が守る セルビア第二の都市ニシュを攻撃、これを奪回した。 1918. 10. 13 トリポリ陥落 シリアの地中海岸を進むイギリス・インド軍第7師団はこの日ベイルートの北70kmの 港湾都市トリポリを占領した。 >>194 スレチだが、ベイルート北にトリポリっていう地名あるのを今知った。 普通トリポリといえばリビアの首都だが、語源はギリシャ語か。 アレキサンドリアがいくつもあるようなものだな。 >>195 「三つの都市」って意味ですね。 十字軍の本とか読んでると、一瞬「あれっ?」ってなる。 1918. 10. 14 チェコスロヴァキア暫定政府発足 連合国各国から事実上の政府として承認を受けていたチェコスロヴァキア国民 評議会は、オーストリア・ハンガリー帝国の運命がもはや長くないことを見て、 この日パリにおいて「チェコスロヴァキア暫定政府」を発足させた。 臨時の大統領はマサリク、外務大臣はベネシュ、陸軍大臣にはシュチェファーニクが 就任した。 1918. 10. 14 連合軍のフランダース攻勢再開 思わぬ泥濘に足を取られた連合軍であったが、この日になって地表の状況が改善した ために攻勢を再開した。 リス川の西岸から開始された攻勢は2日後にはリス川を越え、ドイツ軍は連合軍の 火力と物量の前に押される一方であった。 1918. 10. 14 クリームヒルデ陣地の戦闘 攻勢を続けるアメリカ遠征軍は、ドイツ軍戦線の主要陣地、ヒンデンブルク・ラインの 南方延長をなすクリームヒルデ陣地に突き当たった。 ここは1916年のヴェルダン戦の際に築かれた攻撃陣地を防御強化した部分で、 ヴェルダンの北から北西にかけて伸びる陣地線であった。 3日間に及ぶ攻撃の末、アメリカ軍は陣地線を突破したが、地形はいまだ険しく、 ドイツ軍の防御は厚かった。 >>195 トリポリってロンメルのアフリカ軍団の激戦地とばかり 思っていた。 トリ(プル)+ポリ(ス)って事なのね 考えた事も無かったわ 勉強になった >>201 レバノンのよりリビヤのトリポリの方がずっとデカいし首都だし戦地としての話抜きで普通に有名だからな プロポリスはプロ=ポリス 守る都市って意味 ギリシャ語を語源としてるのはトリポリと同じ 1918. 10. 15 日本、干渉軍の西進を拒否 本来ロシア干渉軍はチェコ軍団の救援と東部戦線の再建を目的としていたはず だったのだが、この日、日本政府はシベリア干渉軍をバイカル湖から西へ進めない ことを決定した。 これは出兵を極限的なものにとどめたい政府と、満州の利権防護を出兵の大目標と する陸軍の意見が一致するところによるものだったのだが、連合国各国からは日本の 動機の不純さに不快感を生じさせる決定であった。 1918. 10. 15 オスマン帝国、連合国に和平の申し入れ ブルガリアの大戦離脱に伴い、オスマン帝国の帝都コンスタンチノープルは無防備 状態に陥った。 この事態に至る前は、オスマン帝国軍はカフカス戦線では優勢で、シリア戦線では 敗北したもののまだ立て直しは不可能ではないと考えられていた。 しかし連合軍の帝都直撃が迫るに至って、もはや戦争は継続できないことが明らかに なった。 オスマン帝国政府は、先年のメソポタミア戦役で捕虜にしていたイギリス軍の タウンゼンド将軍を使者に立て、帝都に迫るイギリス軍に対し休戦の申し入れを行った。 1918. 10. 16 イタリア軍ドゥラッツォを占領 サロニカ戦線崩壊によって側面ががら空きとなったアルバニア戦線から、オーストリア 軍は総撤退するほかなかった。 この日、オーストリア軍を追って北へ進撃するイタリア軍は、アドリア海の主要港 ドゥラッツォを占領した。 1918. 10. 16 オーストリア皇帝、帝国の「連邦化」を宣言 オーストリア・ハンガリー皇帝カール1世は、離反しつつある帝国内諸民族をなんとか 引き留めようと、ツィスライタニエン(二重君主国領土からハンガリー王国領を除いた 地域)の諸民族に自治を認め、連邦制を布くと宣言した。 しかしすでに時遅く、帝国内諸民族は独自の動きを始めていた。 リデル・ハート 「ドイツの裏口のドアが半開きになった」 >>206 「美しい都市」って意味だそうで。 ガリポリで戦死した将兵たちにとっては皮肉な名前だなあ…… >>208 それは違う。 たしかオリュンポスはギリシア語起源ではなく、先ギリシア民族の遺した地名で語源不明、ということだったはず 1918. 10. 17 オステンド、リール奪回 連合軍のフランダース攻勢は順調に進み、ドイツ軍はじりじりと押されて、この日 ベルギー海岸のオステンドがイギリス軍によって奪回された。また同日、長くドイツ軍 戦線北部の拠点となっていた北フランスのリールも奪回された。 1918. 10. 19 ブルージュ奪回 フランダース攻勢はさらなる進展を見せ、1914年にドイツ軍に占領されたベルギーの ブルージュと、長くドイツ海軍海峡部隊が置かれていたゼーブルッヘは、この日連合軍の 手に落ちた。 これによりベルギー海岸地域はすべて連合軍によって奪回され(20日)、攻勢主軸は 真東に転じて、次なる目標はヘント(ガン)となった。 25日にはベルギー王アルベール1世はブルージュに入城した。 >>186 長州罰全盛だからな。 あいつらのやるこは売り国しかさんこら。 1918. 10. 22 連合軍スヘルデ川に到達 連合軍のフランダース攻勢はもはや押しとどめるすべはなく、ドイツ軍はスヘルデ川に 構築したヘルマン陣地に後退した。しかしこの陣地もいつまで保持できるか心細いもので あった。 ドイツ軍はアントワープ〜ブリュッセル前面〜シャルルロワ〜ミューズ川に陣地線を 築いてさらなる抵抗拠点とする計画であった。 1918. 10. 23 バグダードよりイギリス・インド軍出撃 オスマン帝国が連合国との休戦協議に入ったのを見て、イギリス陸軍省は、この1年 ほとんど活動していなかったメソポタミア遠征軍に、休戦発効の前にイラク北部の 油田地帯を占領せよと命令した。 遠征軍司令官マーシャル将軍は、コッブ少将にインド騎兵を主力とする部隊を預け、 北進を命じた。バグダードからモスルまで400km。コッブは間に合うだろうか? 1918. 10. 23 ウィルソンの最終返答 アメリカのウィルソン大統領は、再三にわたるドイツの和平申し入れに対し、 「現在の皇帝と軍部による統治が続く限り、和平交渉は開始されない」旨返答した。 ルーデンドルフはこれを見て驚き、この条件を軍部はのむことはできない、 徹底抗戦あるのみだ、と主張した。 しかしドイツ国内の趨勢は次第に、そして急速に終末へ向けて動き始めていた。 1918. 10. 23 ヴィットリオ・ヴェネトの会戦始まる すでに崩壊寸前のオーストリア・ハンガリー帝国へ向けて、イタリアはとどめの一撃を かけるべく、ピアヴェ川戦線で大攻勢を企図した。 対抗するオーストリア軍では士気の低下に歯止めがかからず、兵力だけはあった ものの、その内情は戦線を維持するだけでやっとのありさまであった。 3日間の猛攻の末、イタリア軍はピアヴェ川の中州に進出し、さらに対岸へ攻撃を 加えた。オーストリア軍はこの攻勢を前にして耐えるのみであった。 http://maisov.if.tv/r/index.php?GreatWarTactics >数百人の一斉射撃に比べると、機関銃の火力など大したことがないように考えられていました。 へー 1918. 10. 25 アレッポ陥落 ダマスクスを占領したアラブ・イギリス連合軍はシリア内陸を北に進撃した。 対するオスマン軍は逃げるのが精一杯で、有効な抵抗は不可能になっていた。 この日、ファイサル王子のアラブ軍は北シリアの要衝アレッポに突入し、これを占領した。 5日後、ブルガリア降伏によって首都コンスタンチノープルを脅かされたオスマン帝国は ムドロス休戦協定に調印し、それに従ってシリア地方における戦争も終結した。 実質的にシリアを占領したのはイギリス軍、領土を主張しているのはアラブ(ヘジャズ)、 しかしサイクス・ピコ協定により戦後の管轄権を得ているのはフランス、ということで、 この地域の戦後交渉は難航するが、それは本スレッドの範囲を超える。 1918. 10. 26 ルーデンドルフ解任 軍事独裁政権との交渉を拒否したウィルソンの返答を受け、ドイツ帝国宰相マックス・ フォン・バーデン大公はルーデンドルフの解任を要求した。 ルーデンドルフは自らの解任に同意しなかったが、皇帝が決を下し、この日ルーデン ドルフは参謀次長(兵站部総長)を解任された。後任にはグレーナー将軍が就任した。 ヒンデンブルクはその地位を保った。 ルーデンドルフはしばらくベルリンにいたのち、世情が騒然となるのを見て身の危険を 感じ、スウェーデンに亡命した。 >>225 ルーデンドルフにとっては背後の一突きだったかもな。言動のぶれる高級軍人に退場願うのは当然の処置ではあったが。 それにしても、地位を保ったヒンデンブルクの方が匕首伝説の始まりというのも巡り合わせ。 1918. 10. 27 オスマン帝国とイギリスの間で休戦協議始まる タウンゼンド将軍を介したオスマン帝国の休戦申し入れを、イギリス政府は好意的に 迎えた。 また、偶然ながら、この申し入れがイギリス軍に対するものであることをいいことに、 イギリスは休戦の協議からフランスを排除することを企図した。 協議はエーゲ海のギリシャ領レムノス島のムドロス港に停泊したイギリス戦艦 「アガメムノン」号の上で行われた。エーゲ海派遣フランス艦隊の司令長官アメ中将は 招かれなかった。 フランスのクレマンソー首相はイギリスの態度に抗議したが、つい先日のサロニカ 休戦協議(対ブルガリア)に際してフランス軍はイギリス軍代表を招かなかったでは ないか、と言われて黙らざるを得なかった。 1918. 10. 28 イタリア軍ピアヴェ川を渡河 イタリア軍のヴィットリオ・ヴェネト攻勢は着実に進んでいた。 この日、ついにイタリア軍はピアヴェ川対岸に橋頭堡を確立し、さらに攻撃を進めた。 オーストリア軍では反撃の命令が部隊に拒否されるなど、もはや士気は地に落ちており、 やむなく司令官のボロエヴィッチ元帥はタリアメント川までの総退却を命令した。 オーストリア・ハンガリー帝国に最後の時が迫っていた。 1918. 10. 28 チェコスロヴァキア独立宣言 オーストリア・ハンガリー帝国の敗北がもはや避けられないことを見て、チェコ人の 住むベーメン・メーレン地域は、この日、プラハにおいて「チェコスロヴァキア共和国」の 独立を宣言した。 この動きは連合国において独立承認運動を進めていたマサリクらの「チェコスロヴァキア 暫定政府」と連動したもので、プラハの独立派はマサリクらの政府をそのまま受け入れて 自らの政府として認めた。 30日にはスロヴァキア人の住むハンガリー領でもこれに呼応して独立派が会合を開き、 チェコスロヴァキア国家に合流すべく決議した。 フィリップペタンが抜擢されなければ 西部戦線も危うかったような気がする 1918. 10. 29 イラクのイギリス・インド軍、オスマン軍を捕捉 バグダードからモスルへ急行するイギリス・インド軍は、1週間で220km前進し、この日 シャルカトの町でモスルへの道を守るオスマン軍と戦闘に入った。 オスマン軍はすでに戦意乏しく、インド軍の攻撃により砲兵陣地が奪われると、それ 以上の戦闘を避けて降伏した。 インド軍はさらに前進し、モスルを目指した。 1918. 10. 29 スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国家、独立を宣言 イタリア戦線の敗北を受け、イタリア軍の侵攻が迫っていたバルカンの南スラヴ人 居住地区では、泥舟と化したオーストリア帝国からの離脱が図られた。 この日、諸民族の代表は、帝国内のスラヴ人居住地の独立と「スロヴェニア人・ クロアチア人・セルビア人国家」の成立を宣言した。 この国家はのちに「ユーゴスラヴィア」となる領域に存在する国家であるが、「ユーゴ スラヴィア」が成立するまでにはまだいくつかの曲折がある。しかしそれは本スレッドの 範囲を超えるであろう。 1918. 10. 29 ドイツ艦隊に反乱発生 10月24日にドイツ艦隊は英仏海峡方面に総出撃を行うことを決定した。 しかし水兵の間では厭戦気分が広まっており、「和平交渉を失敗させるために、敵の 半分の戦力で出撃するのは自殺行為だ」という声が急速に高まった。 出撃日に指定された30日の前日の29日、戦艦部隊を中心に大規模な不服従、反乱、 持場放棄が行われた。 艦隊内は騒然となり、もはや出撃どころではなくなった。外海艦隊司令長官ヒッパー 中将は、比較的命令に従っていた小型艦の指揮官たちに反乱の鎮圧を命じ、一時は 明白な不服従は鎮定されたかに見えた。 しかし、この反乱はさらに大きな炎の火種になるのであった。 1918. 10. 30 ムドロス休戦協定調印 オスマン帝国と連合軍を代表するイギリスの間で進んでいたムドロス休戦協定が この日調印に至った。 内容は、アナトリア以外の地域に派遣されたオスマン帝国軍の降伏とその他の 部隊の動員解除、カフカスにおける旧国境線への撤退といった通常の条項の他に、 帝都コンスタンチノープルの連合軍による占領、ボスポラス・ダーダネルス海峡の 連合軍による管理、さらには「騒擾状態が起きた場合に」連合軍がオスマン帝国領を 占領する権利、オスマン帝国領内の交通路の連合軍による自由使用権など、 屈辱的な項目が並んでいた。 海峡の通過権は黒海沿岸国に対するイギリスの干渉のため、領土占領の許可は ギリシャやイタリアの領土拡張(彼らの言い分においては「回復」)のために利用され、 オスマン帝国はまさに亡国の体をなすことになる。 トルコの人々はこの屈辱から数年を経ずして立ち上がるのだが、その話は本スレッドの 範囲を超える。 1918. 10. 30 イラクのイギリス・インド軍、モスルに届かず バグダードからモスルの油田を狙って急速に北上していたイギリス・インド軍で あったが、ムドロス休戦協定が発効した時にはモスルからなお20km南にあった。 ただ、前路をさえぎる敵はすでに存在せず、インド軍騎兵はそのまま前進して モスルに突入した。モスル入城の日付には11月1日・2日・4日・14日などと諸説ある。 1918. 10. 31 スロヴェニア人民兵、南部オーストリアで蜂起 南スラヴ人国家の樹立宣言とともに、南部オーストリアとの国境をどこに引くかが 問題となった。リュブリャナの国民政府は、国境は戦後の講和会議で決定される だろうとして積極的な動きを見せなかったが、各都市や地方政府はそれぞれどちらに 属するか自主的に判断を始めていた。 マリボル(マールブルク)の町はドイツ人人口が多く、10月30日に「オーストリアに 帰属を希望する」旨声明を発した。 これに対し現地のスロヴェニア人勢力は反発し、ルドルフ・マイスター少佐を リーダーとして民兵の動員を始めた。 終戦を前に、オーストリアとスロヴェニアの間に戦争の危機が迫っていた。 1918. 10. 31 ハンガリーのアスター革命 オーストリア・ハンガリー帝国を形成する諸民族は今や全く独自に活動を始めつつ あった。 帝国を支える二本の柱の一本、ハンガリーでも同様であった。 この日、ハンガリーの帝国からの分離を唱えるハンガリー国民評議会は、国軍兵士の 支持を得てブダペシュトの政府機関を占領した。前首相のティサ・イシュトヴァーンは この混乱の中で射殺された。 国民評議会派の兵士や市民は、印として野菊(英語でアスター、ハンガリー語で エーシロージャ)を服につけていたため、この政変を「アスター革命」と呼ぶ。 評議会の代表カーロイ・ミハーイがこの日の夜に皇帝の命を受けて首相に就任 したが、それはもはや形式だけのものに過ぎなかった。 カーロイはオーストリア・ハンガリー間の「アウスグライヒ」の無効を宣言し、ここに 二重帝国は瓦解した。 この後ハンガリーはより大きな混乱の中に投じられることになるが、それはこの スレッドの話題の範囲を超える。 1918. 11. 1 イタリア軍トリエステに上陸 崩壊するオーストリア・ハンガリー帝国から「未回収のイタリア」を奪還すべく、 イタリア軍はアドリア海対岸のトリエステに上陸作戦を行った。 1918. 11. 1 セルビア軍ベオグラードを奪回 敗走するオーストリア軍を追撃するセルビア軍は、この日ついに国土の北端にある 首都ベオグラードを奪回した。 ここでセルビア軍の進撃は停止することになった。ここより北は従来オーストリア・ ハンガリー領であったが、この時点では数日前にそこで独立を宣言した南スラヴ 諸民族の連合政府の統治下にあったからである。 1918. 11. 1 アメリカ軍のミューズ攻勢 10月末までにアメリカ遠征軍はアルゴンヌの森を抜けつつあった。ここにおいて アメリカ軍はミューズ川中流域の広い河谷を横断してセダン(スダン)を奪取すべく、 さらなる攻勢作戦を開始した。 砲兵火力を集中した攻撃により、作戦初日に各部隊は10キロ内外の前進を果たし、 ドイツ軍はじりじりと押されていった。 ドイツ軍は戦線をフランス・ベルギー国境に平行した線(ジヴェ突出部を除く)まで 下げるように命令した。 1918. 11. 1 戦艦「ユーゴスラヴィア」(旧「ヴィリブス・ウニティス」)撃沈 10月31日、オーストリア政府は海軍の艦艇すべてをスロヴェニア人・クロアチア人・ セルビア人国家に譲渡した。連合軍の手に陥るのを防ぐためであった。 戦艦「ヴィリブス・ウニティス」は「ユーゴスラヴィア」と改名された。 「ユーゴスラヴィア」はポーラ港に停泊していたが、11月1日に、イタリア軍のラファエレ・ ロッセッティ少佐はラファエレ・パオルッチ中尉とともに、魚雷を改造した「ミニャッテ」 半潜水艇に乗ってポーラ港襲撃を試みた。 ひそかに港内に侵入したロッセッティは「ユーゴスラヴィア」に吸着機雷を設置し、 パオルッチは商船「ヴィーン」の下の海底に機雷を敷設した。 爆発前に二人は見張りに発見され、「ユーゴスラヴィア」艦上に引き出されたが、 「6時30分に機雷が爆発する。どこに設置したかは自分でももはやわからない」と 述べたため、艦長のヤンコ・ブコヴィッチ少将(もとオーストリア海軍、クロアチア人)は 総員退艦を命じた。 しかし時間になっても爆発は起きなかったため、ブコヴィッチはイタリア人の企みは 失敗したと判断し、乗員を艦に戻した。 ところが機雷は6時44分に爆発し、艦は速やかに転覆沈没して、ブコヴィッチ以下 数百人が死亡した。「ヴィーン」の機雷も爆発し、同船は沈没した。 ロッセッティとパオルッチは捕虜となったが、数日後に解放され、イタリアに戻って 英雄として大歓迎を受けた。 1918. 11. 2 最後のUボート被害 この日、イギリス船籍の商船「スラダ」は、スエズ運河の地中海側出口の沖でドイツ Uボート「UC74」の雷撃を受けて沈没した。 これが第一次世界大戦における最後のUボート被害(商船)であるとされている。 ただし、機雷による沈没は1919年まで続いた。 1918. 11. 3 イタリア戦線における休戦協定調印 タリアメント川まで退却したイタリア戦線のオーストリア軍であったが、イタリア軍の 追撃は厳しく、もはやこれを押しとどめる力が残っていないことは明らかであった。 オーストリア軍はこれ以上の無用の犠牲を出さないために、イタリア軍に休戦を 申し込んだ。 イタリア軍は条件としてオーストリアの動員解除と戦前国境までの撤退、アドリア 海岸と南ティロールへのイタリア軍の進駐を要求し、オーストリア側もその条件を 呑んで、この日戦線のイタリア側のパルマにあるヴィラ・ジュスト山荘にて協定は 調印された。 協定においては調印24時間後に休戦が発効するということになっていたが、 オーストリア軍のヴェーバー将軍は早まって指揮下の部隊に一方的停戦命令を 出してしまった。 この結果、イタリア軍は無抵抗のオーストリア軍から40万に及ぶ大量の捕虜を 得たが、いずれ戦争は終わるのであるからそれは大した問題ではないだろう。 1918. 11. 3 キールにて水兵の大反乱 自殺的出撃に反対して反乱を起こしたドイツ戦艦部隊の水兵たちは、一時は平静を 取り戻したかに見えた。 しかし、艦隊が北海岸からキール運河を通ってバルト海側のキールに入港し、反乱 首謀者47名が陸上の海軍監獄に移送されると、水兵の不満はかえって増大した。 上陸した水兵たちは集団で協議を行い、社民党シンパを中心に組合を結成して 収監者の釈放を要求した。 これが拒否されると、海軍練兵場でさらに大規模な集会が計画された。造船所の 職工たちも大勢集まり、集会は「平和とパンを!」と声を合わせて叫びながらキール 市内にあふれ出るデモ行進となった。11月3日のことである。 司令部はデモに参加していない将兵を集めて鎮圧を命じたが、その数はわずかで あり、デモの列は押しとどめようもなかった。 そしてついに鎮圧部隊指揮官は発砲を命じ、銃声を機に激しい乱闘となった。 7人が死亡し、29人が重傷を負った。 翌日、鎮圧のために陸軍部隊が出動を要請された。しかし陸兵ももはや信頼に 足るものではなく、多くが出動命令に従わなかった。 4日、反乱兵と労働者はキール市内を制圧し、労兵レーテ(「ソヴィエト」にあたる ドイツ語)が結成された。社民党と独立社民党は指導者をキールに送り込んで 反乱勢力の掌握を試みたが、もはや様相は「革命」の域に達し、個人や既存の 団体が掌握できる限界を超えていた。 反乱と革命はドイツの諸都市に飛び火した。ドイツ革命の始まりである。 1918. 11. 4 連合軍モンテネグロを奪回 この日、モンテネグロを占領していたオーストリア軍はカッタロで連合軍に降伏し、 セルビア軍アドリア支隊はモンテネグロ全土を奪回した。 1918. 11. 5 空母「カンパニア」沈没 イギリス海軍の空母「カンパニア」はスコットランドのフォース湾に停泊していたが、 この日急な突風にあおられて走錨しながら僚艦に吹き寄せられた。 艦はまず戦艦「ロイヤル・オーク」に、ついで巡洋艦「グローリアス」に衝突し、機関部に 浸水を生じて航行不能となった。 艦はそのまま漂流し、5時間後に沈没した。乗組員は全員付近の艦艇に救助されて 死傷者はなかった。 残骸は今でも搭載した飛行機とともにフォース湾の底にある。 1918. 11. 6 アメリカ軍、セダンに迫る セダン攻略を狙うアメリカ軍は、この日までにミューズ河谷に到達し、セダンを望む 丘を占領することに成功した。 さらにアメリカ軍はミューズ川に架橋し、対岸に橋頭堡を確保した。 しかしここでフォッシュ元帥の連合軍総司令部から指示が届いた。そのままセダンを 占領するのはフランス軍とアメリカ軍の境界を乱すことになるので差し止められたい、 との指示であった。 アメリカ軍はやむなく停止し、戦線の整理を行った。 WWT イギリス大艦隊の死闘 http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=181106 初回放送 2018年11月6日(火)午後11時00分〜 再放送 2018年11月16日(金)午後6時00分〜 ドイツの海軍は無駄な大型水上艦でなく潜水艦を大量投入してたらWWU、英国を降伏させ得たかも知れないな(かも、だけど) 北海方面にしか行き場が無いから北とドーバーを抑えられたら何も出来ない(このあたり支那がクリソツ) しかし戦艦が海戦の主力として活躍する最初にして最後の大戦は現代のヲタにして見れば魅力的だ いよいよ休戦か・・・ 講和条約まで続くのかなこのスレ? 1918. 11. 7 ヒンデンブルク、フォッシュに休戦申し入れ この日、ドイツ軍参謀総長のヒンデンブルク将軍は連合軍最高司令官のフォッシュ 将軍に対して休戦協議の申し入れを行った。 連合軍側では、ルーデンドルフの辞任などを見て、ドイツがもはや以前の軍事独裁 政権下にはないことを確認し、休戦が申し出られたらこれを承認する旨合意ができて いた。 7日にはドイツ側を代表するマティアス・エルツベルガー(中央党、議会内の反戦派と して有名であった)が戦線を越え、フランス側に到着した。 フランス軍はドイツ代表団を汽車に乗せ、パリ郊外コンピエーニュの森に運んだ。 休戦協議はそのまま鉄道の客車の中で行われることとなった。 1918. 11. 7 バイエルン国王ルートヴィヒ三世逃亡 革命の炎は南ドイツのバイエルンにも飛び火した。バイエルンの首都ミュンヒェンの 街路には多数の労働者が集まり、口々に戦争の終結と国王・皇帝の退位を求めた。 7日に至り、ふくれ上がるデモ隊の数に危険を感じたバイエルン国王ルートヴィヒ 三世は、ひそかに王宮を離れてザルツブルク近くの居城のひとつに逃亡した。 ここにバイエルンの王制は実質的に終結した。 >>256 軍事物資を積んでた時点で民間船では無いでしょ ジェーン年鑑に記載されている敵国艦船を撃沈するのは戦時の常識 1918. 11. 8 バイエルン自由国宣言 国王の逃亡を受けて、デモ隊を指導していた独立社民党のクルト・アイスナーは 「バイエルン自由国」の成立を宣言し、自ら首席大臣に就任した。 アイスナーはレーテ勢力を大幅に政権に取り込もうという意思を見せ、ここでの 革命の道行きはドイツの他の州とはいささか異なる方向へ向かうこととなる。 フランスのマクロン大統領が、第1次世界大戦の戦勝記念日関連イベントの場で、第1次大戦 におけるペタン元帥の功績をたたえたところ、右派左派双方から批判を浴びているとの事。 第1次世界大戦の英雄は後のナチス協力者 マクロン仏大統領が称賛し物議 https://www.bbc.com/japanese/46134216 >終戦100周年記念でフランス北部を訪れているマクロン氏はシャルルビル=メジエールで >の演説で、「(第1次世界大戦で)フランスを勝利に導いた司令官たちに敬意を表するのは >正しい」と述べた。 >マクロン氏はペタンについて触れ、ナチス占領下のフランスで「悲惨な選択」をしたが、 >「彼はすばらしい兵士だった」と語った。 エーベルトも良い迷惑だな。自身では共和国樹立の意図はなかったのに 情勢の推移で急きょ宣言を納得せざるを得なくなった。 誰もが責任を投げ出した後で一番損な役回りを引き受けたのに 馬鹿な退役兵どもが騒いだ。 1918. 11. 9 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世退位 キールで始まった労働者と兵士の革命運動は全ドイツに波及していた。社民党の エーベルト党首は、状況収拾のためには皇帝が退位するほかはない、と宰相マックス・ フォン・バーデン大公に迫った。 革命勃発に先立ってベルリンを離れ、大本営のあるベルギーのスパに退避していた 皇帝は退位の要求を拒絶したが、11月9日にマックス大公は独断で皇帝の退位を 宣言した。 ヴィルヘルムは激怒したが、忠誠心篤いヒンデンブルクからも退位と亡命を 勧められ、やむなく翌日にオランダへ亡命した。 1918. 11. 9 ドイツ共和国宣言 皇帝の退位宣言を聞き、労兵レーテは一気に権力の掌握に動き出した。革命の嵐の 中で釈放されていた共産主義者のカール・リープクネヒトは「社会主義共和国」の建国を 宣言すべく、ベルリン中心部のルストガルテンに同志を集めた。 帝国議会議事堂でこの動きを聞いた社民党の副党首シャイデマンは、このままでは レーテ勢力がドイツの主導権を握ってしまう、と危機感を覚え、午後4時に帝国議会 議事堂のバルコニーに出て、「ドイツ共和国」の建国宣言を行った。 リープクネヒトの「社会主義共和国」宣言もほぼ同時に行われたが、帝国議会という、 より政治的に注目を集めた場所で行われたシャイデマンの宣言に覆われて小さな 注目しか集められなかった。 1918. 11. 9 戦艦「ブリタニア」被雷沈没 イギリス海軍の前ド級戦艦「ブリタニア」は、ジブラルタル海峡の西、トラファルガー岬 沖を航行していたところ、11月9日の朝にドイツ潜水艦「UB50」(艦長ハインリヒ・ クーカート中尉)の雷撃を受けた。 数分の間をおいて2本の魚雷が命中し、中間砲の弾薬庫に火災が生じた。火炎と 黒煙のために水防作業は不可能となり、総員退艦が命じられた。その後2時間余りの のち、艦は転覆沈没した。主に窒息により、50名が戦死した。 1918. 11. 9 ルドルフ・マイスター、低地シュタイアマルクに全面蜂起を呼びかけ スロヴェニア人民兵組織のリーダー、ルドルフ・マイスター少佐は、自ら「将軍」を 名乗り、全スロヴェニア人地域の南スラヴ国家への帰属を主張して、低地 シュタイアマルクに大規模な民兵組織の蜂起を呼びかけた。 それに対してドイツ人住民も民兵組織の設立を急いだが、マイスターの組織の 成長の方が速く、ドイツ人側は劣勢であった。 マイスターの危険な動きに、ウィーンのオーストリア政府もリュブリャナの スロヴェニア政府も警告を発したが、マイスターの活動はとどまるところを 知らなかった。 こうして見ると、左翼活動家って黎明期から現代まで変わらんな。 社会の不満と混乱に乗じて秩序を壊そうとするけど、その後のより豊かで安定した社会を作るというビジョンは皆無。 現体制を壊せば何とかなる、みたいな無責任な宣伝で、硬着陸で済むところを墜落させている。 社会主義・共産主義の左翼国家で失敗が確定していないのは、共産党王朝・中華帝国こと中華人民共和国くらいか。しかし、彼等の歴史は日本の鎌倉幕府よりまだ短い。 いつまで保つかな? 社会に不満と混乱を産んで左翼に敗北する右翼の方が根本的に悪い >266 ルーデンドルフも上記のマイスター少佐も右翼なのですが…。 トンデモ国家というと、まさに史実のドイツ帝国が ロシア軍が総動員すると、ドイツ軍がベルギー国境線を突破する・・・後世から見ると、さすがに、誰かまずいことに気づけよと >>261 アメリカ外交筋の示唆を受けてマックス宰相が退位問題の再検討に入った段階(10月末) SPD内ではエーベルトは反対してる。 10月31日の閣議では中央党のエルツベルガーが反対してるけど、彼も自発的退位には反対していない。 おそらくこの日、または前日に退位問題での閣僚のコンセンサスが取れた。 キールの水兵反乱がベルリンに伝わったのは翌1日だが、同日にはマックスは大本営の皇帝に退位を薦めてる。 退位問題は既に閣内の多数意見となっているから、 「水兵の反乱によって」ベルギーの皇帝に退位を迫ったというのは必ずしも正確ではないのでは。 (あと蛇足だが、この時点では皇帝退位≠帝政廃止。孫王子のヴィルヘルムがいちおう後継候補) ドイツ革命で帝政から立憲君主制に移行していたらナチスが政権を取ることはなかったのだろうか ムッソリーニが立憲王政のままファシスト国家を建設してるので むしろ完全な前例が出来て政権奪取は容易いと思う ヒトラーの権力的には史実よりは弱体化するかもしれない >>271 なるほど、皇帝の退位はルーデンドルフの更迭と組で、和平への前提条件だったと いうわけですね。 革命はきっかけではあっても、退位の原因ではないと。 1918. 11. 10 エーベルト・グレーナー合意 社民党党首のエーベルトは、極左共産主義勢力の伸長を恐れ、軍部との協力を 模索した。 参謀本部次長として軍部の実質的な指導者であったエーリヒ・グレーナー将軍も 極左勢力の拡大を望まず、この日エーベルトに電話して「軍部は共和国に従う」 旨を確約した。 エーベルトはこの確約を得て一応の体制の安定のめどが立ったと考え、連合軍との 休戦協定締結に向けて動き出した。 軍部は前線からの兵力撤収と動員解除の計画を始めた。 1918. 11. 10 ルーマニア再参戦 この年の春に中央同盟国と講和して戦争から離脱していたルーマニアは、 サロニカ戦線の崩壊とブルガリアの降伏を見て、この日再び中央同盟国に対し 宣戦を布告した。 1918. 11. 10 最後の沈没艦艇 この日、イギリス海軍の掃海艇「アスコット」はイングランド北部東岸沖でUボート 「UB67」の雷撃を受けて沈没した。戦死者51名。これが第一次世界大戦最後の 沈没艦艇である。 1918. 11. 10 フランス軍ドナウを渡る サロニカ戦線からはるばるベオグラードのドナウ河畔までやってきたデスペレ将軍の フランス軍は、この日ドナウ川を北に渡って、旧ハンガリー領へ侵入を開始した。 厳密に言うとハンガリーとフランスはいまだ戦争状態にあると考えられたからである。 ハンガリー革命政権の首相カーロイ伯はこれを見て驚き、急ぎベオグラードの フランス軍司令部に赴いて新たな休戦協定を締結した(11月13日)。 1918. 11. 11 フランス軍セダンを占領 この日、フランス軍はミューズ川中流域の要衝、セダン(スダン)を占領した。 当地はアメリカ軍の進撃目標ともなっていたが、連合軍最高司令部の裁定により フランス軍分担地域となり、アメリカ軍の突入は中止されて、フランス軍によって 占領された。 占領の日、停戦協定が発効し、西部戦線の戦争は終わった。 1918. 11. 11 休戦協定発効、第一次世界大戦終結 休戦条項はドイツ側に厳しいものであったが、もはやドイツ代表団はこれを受け入れる ほかの選択肢はなかった。 11月10日にはベルリンのエーベルト政府から即時調印の許可が下り、スパの大本営に いたヒンデンブルクからも、「いかなる条件であっても休戦を受諾すべし」との意見が 届いていた。 エルツベルガー委員は翌11日の午前5時、連合軍の代表ととともに休戦協定に 調印した。 ドイツ側調印者はエルツベルガーと外務省のオーベルンドルフ、陸軍のフォン・ ヴィンターフェルト少将、海軍のファンゼロー大佐であった。 連合軍側調印者はフォッシュ最高司令官とイギリス海軍第一海軍卿(海軍本部長)の ウィームズ提督であった。 協定はグリニッジ標準時午前11時に発効するものとされた。 午前11時、第一次世界大戦は終結した。 その長さは4年と3ヶ月2週間に及び、両陣営で980万人以上が戦場に倒れ、800万人 近くに及ぶ民間人が戦争の影響で死亡するに至った、まさにこれは大戦争 Great War であった。 長い間お付き合いくださいましてありがとうございました。これでこの「第一次世界大戦 カレンダー」連載も終了します。 それにしても思うのは、戦争は終わってもいろいろなことが終わらずに続いているのだ ということ、特に東欧圏では、この日はまだ物事の「始まりの終わり」にすぎないのだ ということです。 尻切れトンボに終わった東欧の革命や戦争についてのお話は、皆さんそれぞれの 興味に従ってお調べください。結構ネット上にもいろいろ材料は転がっているものです。 連載が始まる前の、1914年から15年にかけてのできごともまとめてみますかね。 いずれ110年記念にでも連載しようかな。 擬似リアルタイムお疲れ様でした! ほぼROMでしたが楽しませてもらいました (四年後の)クリスマスまでには終わったね、リアルタイムで四年間本当にお疲れさまでした ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる