1993年6月、ホメイニ師4回忌を取材するためテヘラン入りした某民放特派員。
当時のラフサンジャニ政権イラン国内情勢は、
アメリカ主導の経済制裁下、なりふり構わず第3国ルートでの原油輸出に踏み切るしたたかな姿勢が、
国内宗教勢力を中心とする保守派からの反発を受け、きわめて不安定なものとなっていた。

取材に訪れた外国メディアの特派員は強制的に、
パーレビ時代はアメリカ資本の5つ星ホテルだった国有ホテルに収容され監視下に置かれ、
収容されていたジャーナリストの間では国際電話は全て盗聴されているというのが通説だったが、

日本語まではイラン側もわかるまいと高を括っていた特派員、
現地駐在の日本人から忠告を聞かされる。
当時、イランとは緊密な関係にあった北朝鮮が日本語の通訳に協力しており、政権批判を話すのは危険だという。

特派員の取った手段はまわりくどい婉曲表現に加えて、
くだけた関西弁で話すことだったというのだが、
特派員自身が後日の述懐で「効果があったかどうかはわからない」。