「戦略的計算高さ」は必要ですが「熱き情熱」もときに重要ではないか?
クラウゼヴィッツ曰く「国民の熱情(パッション)は戦争の三位一体の一部である」

ハイブリッド戦か何かしらんが、何故、日本人はウクライナ戦争に個人として参戦してはいかんのか?
日本人は歴史的に「義」を重んじる国民性であり、ウクライナ戦争は少なくとも「不義の戦い」ではない。

「(民主主義の価値観を共有する)ウクライナの若い人が戦うくらいなら、(もう十分に人生を満喫した)自分が(日本人の宿敵でもあるロシアと)戦う。」

個人として、そう望むなら、国としては捨てておけば良いのではないか?

そういう国民性だから、福島の原発事故でも、原子炉に水ぶっかけるために、皆、突入していくのではないか?

【戦地に向かうウクライナの若い父親と子供】

https://youtu.be/8_Zd9HrAW_Y