何処へ行つても、お名前はと聞かれて、サクタラウと答へると、屹度作文の作ですねと言はれる。
いやちがふと言ふと、どんなサクですかと反問される。そこで朔日ついたちの朔だと教へるが、
これがどうも一向に人々に通用しない。「ツイタチのサク。さてね、どんな字ですか。」とまた反問される。
そこで仕方がないから、ありたけの成句を並べてみる。元旦朔日の朔。朔風の朔。朔北の朔。正朔の朔。
いくら言つてもまだ解らない。いよいよ困つて考へた末、近頃の時局ニュースで、よく新聞等に出る字を思ひ出す。
そこで遡江部隊の遡という字からシンニユウを除いた朔だとか、国民に愬ふといふ愬から
心を除いた上の字だとか言つてみるが、これもまた一向に利き目がない。しまひには両方で苛々して来る。
「一体何ヘンなんですか。字を言つて下さい。」と、先方も少し癇癪を起して詰問するのが、
いつも問答の最後に極つてゐるが、これが僕にはまた当惑の種である。といふのは朔といふ字の
ヘンが何ヘンなのだか、僕自身が無学で知らないのである。一度漢文の先生にでも聞いて見ようと思つてゐるが、
それを教へてもらつたところで、結局一般人の対手に解らないのは同じであるから、
実用上には何の役にも立たないのである。いよいよどうにも仕方がないので、指で机に字を書いて見せるが、
それも三度位繰返さないと解らない。やつと解つてからも、ヘエ! むづかしい字ですなアと言はれる。
 それで僕も面倒臭いから、たいていの場合は、何でも先方の言ふ通りに任せてしまふ。