対戦相手の糸谷を知りたくなって調べたら、阪大大学院卒で、専攻がハイデッカーなのな。

ハイデッカーって、よく知らなかったんだけど、対戦相手の糸谷青年が将棋修行の時間を削ってまで
追求したがっていたハイデッカーというものを知っておくのもいいと思って調べてみた。

ところが、何がなんだかさっぱり分からなかった。

>存在と存在者との区別の問題は、われわれがこの問題を存在論にゆだね、そのように名づけることによって、
>早々とその問題系のうちで妨げられてしまっている。結局、われわれは逆にこの問題をより一層徹底的に展
>開しなければならないのであり、それは、われわれがすでにその理念からして、不十分な形而上学的問題系
>としての存在論を退けるという状況に陥る危険を冒してもそうしなければならないのである。

>ではその場合、われわれはなにを存在論の代わりに置くべきなのか。例えば、カントの超越論哲学か?
>超越論哲学もまた転倒するにちがいない。それでは、存在論の位置になにが入り込むべきか。これは
>軽率でとりわけ外見上の問題である。というのも、結局、問題一般を展開することによって、われわれが
>存在論をなにか別のものによって置き換えようとするその位置というものが失われるからである。

>存在論とその理念もまた転倒するほかはない。
>それはまさに、存在論の理念を徹底化することが、形而上学の根本問題系を展開することの必然的な
>一段階であったからなのである。


・・・おそらく日本語で書かれてるんだろうとは思ったんだが、意味が全くわからない。。。。。