江戸時代の将棋について語ろう part1
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江戸の将棋について自由に語りましょう
私が好きなのは二代大橋宗古(二世名人)、六代伊藤宗看(十世名人)、大橋柳雪(七段) 日本将棋体系の中で、最近読んだ大山の三大宗看がめちゃいいです
本気で宗看と対決してる。
宗看の終盤をライバル視しているかのように切り刻んでる。褒めるとこは褒めてる
大山がズバズバ指摘した手順はソフトとほぼ一致
また現代将棋技術論や高度な大局観も初披露、
玉の固さを利した勝ち方、遊び駒の活用や遠回りのようでも最も早い勝ち方とか将棋のゲーム回し
勝ち方入門書でもある
繰り返し読めば強くなると思った
中原の宗歩、大内の柳雪もいいが突っ込みのレベルが違う
真の大山将棋を知りたい人にもおすすめ 日本将棋体系はほとんど駒落ちなので
駒落ち対局もちゃんと楽しめる人にはオススメだけど
平手じゃないと楽しめない人にはちょっとなって感じだった >>469
GPSFishだと大山が大幅低下してカトピソの方が強い事になっちゃうんだな
ナベアキなんかも急上昇して歴代二位になっちゃうし 久留島喜内の詰め将棋ではなく棋譜が残っていればなあ・・・ >>518
最新ソフトで棋譜解析すると大山の一致率が半端なく高いから大山より羽生が上というのは喰わせもんだな 三代宗看は宗与との平手戦での35桂だな(確か)
将棋世界のイメ読みで皆絶賛してたよ。完全に読み切ってるって 大山の棋譜ベスト10の平均数値
解析ソフト : QQR kai7
一致率 : 89% 87%
前半除外: 92% 93%
悪手 : 0.0 0.1
疑問手 : 0.5 0.7
平均悪手: 15.9 14.4
1964年と1966年のタイトル戦48局だけから選出
一致率は初手から終手までの一致率と前半40手を除外した一致率
QQRはGodwhale/QQR(depth17)
kai7はdolphin1/kai7(depth17) 検証用解析データ
上段QQR 下段kai7 [前半40手除外一致率]
◇1964-01-16王将戦
93%[96%] 24/25悪手0疑問手0平均悪手6.64
91%[92%] 23/25悪手0疑問手0平均悪手2.33
◇1964-02-07棋聖戦
85%[97%] 28/29悪手0疑問手0平均悪手11.94
87%[100%] 29/29悪手0疑問手0平均悪手5.89
◇1964-04-22名人戦
90%[91%] 29/32悪手0疑問手0平均悪手10.08
90%[91%] 29/32悪手0疑問手0平均悪手10.00
◇1964-06-09名人戦
86%[88%] 29/33悪手0疑問手1平均悪手21.69
88%[94%] 31/33悪手0疑問手0平均悪手5.85
◇1964-07-30棋聖戦
87%[94%] 33/35悪手0疑問手1平均悪手22.74
87%[94%] 33/35悪手0疑問手1平均悪手25.31
◇1964-08-03王位戦
83%[88%]45/51悪手0疑問手0平均悪手16.74
84%[92%]47/51悪手0疑問手1平均悪手22.39
◇1964-12-25十段戦
82%[87%] 27/31悪手0疑問手1平均悪手3.59
82%[94%] 29/31悪手1疑問手0平均悪手19.41
◇1966-05-07名人戦
89%[92%] 33/36悪手0疑問手1平均悪手10.39
89%[92%] 33/36悪手0疑問手1平均悪手15.2
◇1966-05-18名人戦
88%[90%] 28/31悪手0疑問手1平均悪手19.48
88%[90%] 28/31悪手0疑問手2平均悪手24.21
◇1966-12-13十段戦
87%[92%] 34/37悪手0疑問手0平均悪手15.69
87%[92%] 34/37悪手0疑問手2平均悪手13.59 >>478
伊藤看寿作 将棋図巧
https://shogishosin.web.fc2.com/tume/
第98番『裸玉』 第99番『煙詰』 100番『寿』 見てみる
最後の2つは無理。初手だけ想定して後はクリック鑑賞します 将棋御三家に代々伝わる秘伝の書みたいなものってなかったのかな?
定跡書的なやつとか >>528
温故知新 定跡書
http://onkotisin.org/jyouseki.htm
の真ん中あたりの
大橋家家元秘傳記
伊藤家将棋印可厳秘録
かな >>530
へえ やっぱり秘伝書みたいなのあったんだね サンクス 江戸時代の棋士だと、三代宗看、六代宗英、宗歩がやっぱりずば抜けてるよね
個人的には六代宗英が特に感心してしまう
あの時代にあれだけ洗練された大局観を会得しているのが本当に凄い
宗歩もそうだけど、生まれながらの将棋センスが全然違うわ 宗英と宗歩で思い出したけど彼らに対する評で
宗英は雪の白きが如く、宗歩は紅の赤きが如き
っていうのはどう解釈したらええのん? >>534
赤 = 色の主張が強い。誰にも真似できない独自の好手妙手を繰り広げ
勝ちを積み重ねていったいわば升田のようなタイプ。
白 = 色の主張がない。誰にも真似できない徹底的な合理性に基づき勝ちを重ね
結果的にそれが独自の個性へと繋がった、いわば大山のようなタイプ。 >>533
>宗歩もそうだけど、生まれながらの将棋センスが全然違うわ
何十手先の詰みを短時間で読みきれるとか、あるいは目隠し将棋で二面指し三面指しが出来るとか
そういう計算処理的な才能ってあるし、またそういうのを持ってる人はそこまでめずらしくないけど。
ただ、そういう才能と違って明らかに「構想」や「指手」に関するセンスを持った稀有な人達ってのも居るよね
内藤先生が書いた戦法の本を読んでいて「初見でこの手に対しこの応手が出来る人が居たらそれはプロ並みのセンスを持ってると思って良い」
みたいなことが書かれてて、その時はそんなもんかなって大して深く思わず読み飛ばしたけど。
その後その戦法ばかりを某サイトで数年かけて1000局以上指し続けたけど
内藤先生が言ってたプロ並のセンスを持った応手を指せた人は1人しか居なかった。
その手を指した人は別にプロじゃなく会社員やりながら趣味で指してる人だったけど
居るところには居るんだなと思ったわ、そういう計算処理とは別のセンスを持って生まれた人が。 >>535
なるほど、そういう意味なのかな
俺は宗歩は切っ先の鋭い刀から鮮血が飛び散るような攻め将棋で
宗英は真っ白に大地を包み込むような受け将棋みたいに思ってたわw
宗歩は当時からしたらかなり独創的な将棋だったろうね >>536
2013年の深浦糸谷の棋王戦で糸谷が力戦に誘った将棋があって
初手から26歩34歩25歩32銀24歩同歩同飛33角28飛31金と進むんだけど
ここで先手どうするかなんだが深浦は38銀として糸谷が44歩としたんだな
で、この局面を今時のソフトにかけると次の一手にほとほと感心してな
凡人は76歩とか36歩とか46歩とか24歩しか思い付かないわけだが、これでは後手の無理矢理力戦を咎めたことにならないんだな
なんと、ソフトの推奨手は96歩なんだ
一見して不急の一手に見えるんだが次に後手が43銀として22飛と飛車をぶつけてくる手を見せたときに96歩突きの効果がでる仕掛けになっていることに気付いて将棋のセンスというのはこれだと膝を叩いたわな
つまり、96歩43銀97角!
次52飛と受けても23飛成が成立するから先手有利になるよね
さすがにこのセンスはプロ棋士でも働かないんだね
深浦の着手は96歩でなく76歩だったよ その局面「イメ読み」で見たことがある
44歩に96歩を指摘した棋士はいなかったな
ソフトは全部読みするから発見できるんだろうけどプロなら誰だろう
升田とか大山とかなら構想できるかもしれないな
たしかに序盤のセンスが問われる問題だね プロであっても難しい局面だと初見だとわからないのが普通だろうね
その理屈を超えた超感覚みたいなものが所謂センスなのかな 「角交換には五筋を突くな」の格言は一説には天野宗歩が起源と言われてるね
今じゃごく当たり前のセオリーだけど、一番最初にこの思想に至った宗歩のセンスは天才という他ない
特に江戸時代は5筋の位を重視する考え方だったから尚更 天野宗歩っていろいろと振飛車に対する対策を講じた割に自分もたまに振り飛車指したりで面白いな
なんか常に主流とされている将棋に挑戦してるみたいな お城将棋で無敵だった在野の強豪
河島宗臨が
宗英、柳雪、宗歩と戦っているね 宗英の技術を柳雪が継承し、柳雪から宗歩に継承、発展したって感じだから、
直接対決は知識や経験の差で宗歩が有利になると思う
宗英はあの時代に急に現れた突然変異っぽいところにロマンがあると思うわ >>547
*お城将棋家元粉砕。若々しい現代的な将棋。七段格。天野宗歩より早く民間で登城
開始日時:1833/11/17
戦型:向飛車
先手:河島宗臨
後手:七代伊藤宗寿
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △3二銀 ▲3六歩 △4三銀
▲5八金右 △6二銀 ▲3七桂 △5三銀 ▲7八銀 △2二飛
▲6六歩 △6二玉 ▲4六歩 △7二玉 ▲6七銀 △5二金左
▲4五歩 △6四歩 ▲6八玉 △9四歩 ▲9六歩 △7四歩
▲7八玉 △8二玉 ▲1六歩 △1四歩 ▲4七銀 △7二金
▲4六銀 △6三金左 ▲2六飛 △5一角 ▲4四歩 △同銀右
▲6八金上 △7三桂 ▲2九飛 △6二角 ▲4九飛 △3二飛
▲6五歩 △4二飛 ▲4五銀 △3三銀 ▲4四歩 △5二銀
▲5五歩 △同 歩 ▲6四歩 △同 金 ▲6六銀 △6五桂
▲5五銀 △5七歩 ▲6七金右 △7三角 ▲5六銀 △5五金
▲同 銀 △5八銀 ▲4八飛 △6七銀成 ▲同 金 △7七金
▲同 桂 △5五角 ▲6五桂 △3七角成 ▲4六銀 △4八馬
▲5五角 △9二玉 ▲8五桂 △5八歩成 ▲8二金
まで83手で先手の勝ち *河島宗臨 1824-09-02 河島宗臨 vs 大橋柳雪
開始日時:1824/09/02
戦型:四間飛車
先手:河島宗臨
後手:大橋柳雪
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
▲4八銀 △3二銀 ▲5六歩 △5四歩 ▲3六歩 △4二飛
▲6八玉 △6二玉 ▲7八玉 △7二玉 ▲5八金右 △9四歩
▲9六歩 △8二玉 ▲7七角 △4三銀 ▲8八銀 △7二銀
▲3七桂 △5二金左 ▲4六歩 △6四歩 ▲1六歩 △6三金
▲4五歩 △7四歩 ▲4四歩 △同 銀 ▲4五歩 △5三銀
▲2四歩 △同 歩 ▲3三角成 △同 桂 ▲2四飛 △4五桂
▲同 桂 △同 飛 ▲4七歩 △6五歩 ▲2二角 △4一飛
▲3三角成 △6四角 ▲1七香 △3五歩 ▲2二飛成 △3六歩
▲3二龍 △4五飛 ▲3四馬 △4二飛 ▲3一龍 △6二飛
▲4五桂 △4二銀 ▲1一龍 △3七歩成 ▲5七銀 △4六歩
▲同 銀 △3六と ▲4四香 △4六と ▲同 歩 △3一歩
▲4二香成 △同 飛 ▲3一龍 △4三歩 ▲3五馬 △5二飛
▲3四歩 △3二歩 ▲1一龍 △4四銀 ▲2四馬 △5五歩
▲3三歩成 △同 歩 ▲同桂成 △5六歩 ▲4三成桂 △5五飛
▲4五歩 △4六歩 ▲6八銀 △3五桂 ▲4四成桂 △4七桂成
▲2五馬 △5七歩成 ▲同 銀 △同成桂 ▲6一馬 △同 銀
▲同 龍 △6六歩 ▲7一銀 △9三玉 ▲8六歩 △6七成桂
▲8七玉 △8五銀 ▲7七銀打 △5八飛成 ▲8四金 △同 歩
▲6三龍 △8三香 ▲6八金打 △同 龍 ▲同 金 △同成桂
まで120手で後手柳雪の勝ち *河島宗臨 1801-10-03 河島宗臨 vs 六代大橋宗英 飛香落ち
*河島が子供の頃、宗英との将棋
手合割:飛香落ち
下手:河島宗臨(川島金蔵)
上手:六代大橋宗英
後手の持駒:なし
9 8 7 6 5 4 3 2 1
+---------------------------+
|v香v桂v銀v金v玉v金v銀v桂 ・|一
| ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・v角 ・|二
|v歩v歩v歩v歩v歩v歩v歩v歩v歩|三
| ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・|四
| ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・|五
| ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・|六
| 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩 歩|七
| ・ 角 ・ ・ ・ ・ ・ 飛 ・|八
| 香 桂 銀 金 玉 金 銀 桂 香|九
+---------------------------+
先手の持駒:なし
上手番
△3四歩▲7六歩△4四歩▲2六歩△3二金▲2五歩△4二銀▲2四歩△同 歩▲同 飛△4三銀▲2八飛
△2三歩▲3八銀△6二玉▲2七銀△3五歩▲3六歩△3四銀▲3八飛△3六歩▲同 銀△3三角▲6八玉
△4五歩▲7八玉△8八角成 ▲同 銀△5五角▲2八歩△4六歩▲同 歩△同 角▲6八金△3五歩▲4八飛
△4五歩▲4七銀△6四角▲6五角△4三金▲8三角成△5四金▲3二歩△3三桂▲3一歩成 △2五桂▲3八金
△5五金▲5六歩△4六金▲5五歩△7二銀▲6五馬△4七金▲同 金△5九銀▲5八飛△6八銀成 ▲同 玉
△7四歩▲3二と△7三桂▲7四馬△3六金▲5四歩
まで66手で下手河島の勝ち
変化:67手
△同歩▲同飛△4三銀▲6四馬△7一玉▲8三銀△同銀▲7三馬
変化:67手
△4七金▲5三歩成△同角▲4七馬△6四角▲5五金 >>552
四間飛車に45歩仕掛けだが
88銀がどう見ても変、68銀やろ 将棋精選(1853年) 天野宗歩著
http://onkotisin.org/seisen/seisen.htm
飛香落ちの一つ目の右四間を見てびっくり
今の駒落ち定跡書はこれをそのまま載せてるのか
165年前の宗歩凄すぎ 宗桂の漫画本きたな
どうせなら宗歩のほうが良かった
どうせフィクション満載なんだろうし 日本将棋大系 全18巻
古本相場は2万円前後か
一見高く見えるが1冊千円と見ればそれほどでもない
柳雪、三代伊藤宗看、 六代伊藤宗看はバラで千円ちょっとで手に入るが
宗歩、宗英はかなりする
それを考えれば全18巻も一考か >>559
板谷先生にいただいた宗看、そんなに安いのか。
評価低くて悲しい どうでもいい奇襲本はいくらでも復刻されるのに将棋大系みたいな本が再発されないのはなんでなんだろう
欲しいのはいくつか持ってるからいいんだけどコレクター的には全部欲しいな
今のうちに揃えておくべきかな? 結構売れた本だと千円台だけど、3千円から6千円が多い
一冊も持っていないなら2万円台なら買いかなあ
こんなのもあるし
日本将棋大系 六代大橋宗英
https://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4480692088 先週ヤフオクで一冊500円で安売りしてた
よいのは売れちまった 大橋宗桂 1555年京都生まれ、町人宗也の子、龍政→宗金→宗慶→宗桂。1634年死去
本因坊算砂 1559年京都生まれ、舞楽宗家加納與助の子、叔父の日淵の弟子入出家。1623死去
・勝浦本によると宗桂は年下の算砂の将棋の弟子、最後は師匠の算砂より強くなった
45歳の時、徳川政権になる1600年の関ヶ原の戦いの時は
45歳は立派なオヤジ。どうやって飯食ってたんだろう
関ヶ原前、京都の天皇公家は囲碁将棋好きだったから
算砂のプロデュースでいっしょに京都の天皇公家に囲碁将棋のコーチや対局披露か
算砂は武家ではなく公家の方を見ていた
宗桂も最初の詰将棋集は天皇のささげたという(現在残っていない)
関ヶ原以降、徳川政権になって秀吉や信長と同様、依頼で静岡等に出張し囲碁将棋を披露した
その後、囲碁将棋の総合プロデューサーの算砂は囲碁が忙しくなり
自分より強くなった宗桂を将棋の担当を任せた
宗桂、算砂の死去11年後、京都で1634年に亡くなった。将軍にも詰将棋集を献上。大橋姓は死後
大橋宗桂は算砂と出会わなかったらそのまま京都の町人をしていた 初代伊藤宗看 1618年生まれ。島根県出身。1694年死去
大橋宗桂が1634年79歳で亡くなった。京都に移った宗看少年は16でほとんど面識はなかったろう
伊藤宗看は子供のころから宗桂の息子大橋宗古に通い、駒落ち、長男と平手を指して腕を磨いていた
大橋宗古は1576年生まれで当時58歳、娘は30歳のころ生まれたとすれば当時28歳か
宗看は2年後、その宗古の娘と結婚。奥さんは10歳以上年上の姉さん女房ということになる
島根出身の宗看は京都に定住できることで文句はなかったろう
結婚した年の1636年に伊藤宗銀が生まれる。所謂できちゃった婚か
1634年名人就位の宗古は算砂には勝てたが県外から来た道場破りの松本紹尊には勝てなかった
宗古の弟、大橋分家の初代大橋宗与(1583?−1643年)や、
宗古の息子の三代大橋宗桂(1613年-1660年)(宗看より5歳年長)も同様だったろう
20歳になり宗看が宗古、宗与三代宗桂の代わりに松本紹尊を倒した。萩野真甫、檜垣是安も退ける
義理のおじ(大橋分家)、奥さんの弟(大橋家)が失ったメンツを取り戻し伊藤家が実力筆頭となった
また、数々の強豪に勝ったことを江戸の幕府に必死にアピールしたろう
大橋分家について。大橋家は京都に住んでいるから幕府からろくな俸禄も無く
恐らく京都で宗古が大橋家将棋道場を開いて収入を得、
宗古の弟の大橋分家だが、道場の支店が大橋分家将棋道場だったのでは
1960年代に将棋御三家はお屋敷付きで江戸に旅立つ
京都に他にもっとサービスのよい将棋道場が出てきたので絶好のタイミングだったろう >>560
六代伊藤宗看(伊藤家)は名著ですね
それと同じ時代の
九代大橋宗桂(大橋家)
大橋宗英(大橋分家)
ここら辺の時代は三家とも実力者が揃ってる ナベが監修してるあの漫画、何で宗看・宗英・宗歩の三傑ではなく、
看寿・柳雪などのドラマ性の強い棋士でもなく、
九代宗桂が主人公なんだろうか? 宗桂 飛翔の譜 星野泰視作
安永四年(1775 )、江戸――
実在した将棋指しの物語。
江戸には代々、将棋で俸禄を得る“将軍家将棋指南役"、つまり幕府公認の将棋指しがいた。
実在した「将棋御三家」である。この物語は、御三家筆頭・大橋本家当主にして、
後に八世名人を襲位する「九代目大橋宗桂」と、彼を巡る将棋指したちが織りなす葛藤と真剣勝負、
夢と情を描いた本格将棋ドラマである。amazon
初代宗桂のお話じゃないんかw
1775年?大橋柳雪1795年生まれ、天野宗歩1816年生まれ...生まれてない2人は登場しないんか 伊藤家初代伊藤宗看(初代宗桂の孫娘を娶る)
└二代伊藤宗印(養子)-三代伊藤宗看-四代(養子)-五代(養子)-六代伊藤宗印(十世名人・養子)
└大橋家八代大橋宗桂−九代大橋宗桂(八世名人)
九代大橋宗桂と六代伊藤宗印、これに加え大橋分家の大橋宗英(九世名人)の三強が戦った
彼らが亡くなり将棋三家が実力的に寂れ民間の河島宗臨、和田印哲や宗歩もお城将棋で戦った
なお柳雪は六代伊藤宗印の子、伊藤看佐に平手で2連敗し病気もあり大橋分家を去った
伊藤看佐は期待されたが博打好きで多額の負債を抱えた末に縊死、伊藤家も寂れた
九代宗桂、大橋宗英、六代宗印の3強の時代が将棋御三家の黄金時代だったな マンガ飛翔の譜の 九代大橋宗桂 (1744 - 1799)
日本将棋大系九代大橋宗桂まえがきより 「鋭く華麗な棋風」 有吉道夫九段 ミシュラン
九代大橋宗桂の実戦譜を解説する役を受け持ち、
その人の棋譜を少年時代から調べてみて、内容のすばらしさに驚嘆した。
(中略)棋風は鋭く、かつ華麗である。
(中略)棋譜の流れのなかに芸術的な香気を感じとる。ことに、寄せの手順は抜群である。
(中略)現代の将棋感覚をもってしても、充分に鑑賞にたえうる将棋であり、
むしろ、現代のプロ感覚の盲点を衝く新鮮さが感じられて、私としても学ぶべき点が多いことを知った。
(中略)宗桂の将棋は、指し手の一手一手に気迫が感じられる。
気性が激しく、責任感の強い人であったと想像する。
12歳下の宗英(1756- 1809)の影に隠れて目立たないが九代宗桂強かったんですね >>574
伊藤家六代目は宗看だよね?
九代宗桂―12歳差―宗英―12歳差―六代宗看
御城将棋では駒落ちで3人の対局がいくつもあるが、
1790年に九代宗桂vs宗英、1798年に宗英vs六代宗看の平手戦がある。
(宗英は平手無敗なので結果は言わずもがな)
ライバルがいて、世代交代もあって、面白い時代だったろうな。 >>574
>>576
ですねw 修正
伊藤家初代伊藤宗看(初代宗桂の孫娘を娶る)
└二代伊藤宗印(養子)-三代伊藤宗看-四代(養子)-五代(養子)-六代伊藤宗看(十世名人・養子)
└大橋家八代大橋宗桂−九代大橋宗桂(八世名人)
九代大橋宗桂と六代伊藤宗看、これに加え大橋分家の大橋宗英(九世名人)の三強が戦った
彼らが亡くなり将棋三家が実力的に寂れ民間の河島宗臨、和田印哲や宗歩もお城将棋で戦った
なお柳雪は六代伊藤宗看の子、伊藤看佐に平手で2連敗し病気もあり大橋分家を去った
伊藤看佐は期待されたが博打好きで多額の負債を抱えた末に縊死、伊藤家も寂れた
>九代宗桂―12歳差―宗英―12歳差―六代宗看 ですか
12歳差は谷川と羽生くらいの差かな 九代宗桂と六代宗看の24歳差は大山と中原くらいか
まだ戦える年齢差ですね 九代宗桂、大橋宗英、六代宗看の3強の将棋御三家の黄金時代に名人不在の空白がある
大橋宗英ー六代宗看の間
@大橋分家の大橋宗英が偉大だった 六代宗看は宗英より棋力が多少落ちる。やや荒っぽい将棋
A伊藤家の六代宗看は次期名人を伊藤家の息子に継がせようとした。しかしいずれも亡くなった
Bそのため六代宗看はかなり落ち込んだ。立ち直るまでに時間がかかった
まあそれより大橋分家からするとせっかく名人が出たのにまた伊藤家中心に戻るのは嫌だった
しかし大橋分家の次期名人候補・柳雪が「かなつんぼ」と素行の悪さ?で失脚した
結果、ピークを過ぎた六代宗看が空白後の名人に推されたんだろう >>582
かなりいい線いってるけど、微妙に足りない感じ。
当時の名人は、その時代の最強者であればいいというものではなく、
名人に相応しい棋力(=九段)にならないといけなかった。
そのためには、まず八段に上がり、更に数年間は精進する必要がある。
名人の六代宗英が亡くなった時、六代宗看はまだ七段だった。
(歴代名人の中で飛び抜けて強い宗英でも段位は九段なので、
その時代の棋士はみんな過小評価されていたんだろう)
その後、宗看は遅くとも47歳までには八段になっており、
50代前半の頃には柳雪相手に香を引いて完勝しているので、
このあたりで名人九段に相応しい棋力だと認められたはず。
しかし、56歳の時に長男の看理が亡くなっている。
その看病や気苦労などで、名人になる気分ではなかったのかもしれない。
名人襲位はその1年後だから、喪が明けるまで待ったんだろう。
つまり、空位は名人に相応しい強さと状況が整っていないだけで、
整ったらすぐに襲位したと見た方がいいと思う。 三代宗与→三代宗看の時は無理やり名人空位を回避していたので、
まだ段位制度が固まってなくて融通が利きやすかったのかもしれない。
(段位制度ができたのは1700年前後で、宗与が亡くなったのは1728年) 将棋史全体を網羅的にまとめた凄く参考になるサイトを見つけた。
(近現代将棋史が中心だけど)
今は見れなくなっているけど、アーカイブされていたものは見れる。
https://web.archive.org/web/20181106185932/http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-182.html
こんな労作、どこかで復活させてくれたらいいのに勿体無いなあ。 >>582
>>583
大橋分家八代の柳雪(大橋英俊)は
お城将棋では
伊藤家にあまり勝てなかったか
長男看理に平手で1勝したが 弟の看佐 には平手で2敗
老齢の親父の宗看まで左香、右香落とされて負けてる
分家の先代大橋宗與(七代)を再登場させたあたりでは
分家からお払い箱が間近だったかもしれない
病気では仕方がない
柳雪の八代は取り消しになり 若い大橋宗aが大橋分家の八代を継いだ
そして20年後、柳雪を師と仰ぐに在野の宗歩と八代宗aがお城将棋で対決となる 柳雪はかなり強かったが例の詰み逃しをやらかしたのがかなり痛かったな 詰みを逃すくらいならまだ良いけど、それで駄目にして負けたところが八段になれなかった理由だろう
実力で言えば柳雪は間違いなく八段の実力があるかとは思うがね 九代宗桂はお城将棋デビュー戦が初代看寿で
本人はぱっとしないけど前後の世代が有名人揃いなので
過去編や番外編やることを含めての主人公化、って感じもする 伊藤家と大橋家は二代伊藤宗印ファミリーか
伊藤家三代伊藤宗看 1706-1761 二代伊藤宗印(五世名人)の次男
伊藤看寿(初代) 1719-1760 二代伊藤宗印(五世名人)の五男・兄三代伊藤宗看の養子となる
大橋家八代大橋宗桂 1714-1774 二代伊藤宗印(五世名人)の三男
└九代大橋宗桂 1744-1799 八代大橋宗桂の実子
将棋御三家ではそれぞれ駒落ちによるレーティングをやっており
伊藤家では1736年以降伊藤看寿(初代)がレーティング一位で兄三代宗看を抑えてお城将棋伊藤家代表になる
三代宗看が13歳年下の自分より強くなった弟看寿(初代)を養子にして次期名人にと狙ったが1年先立たれた
九代大橋宗桂は実質名人の叔父の看寿(初代)に1755年11歳からお城将棋で大駒落ちで鍛えられる
伊藤家は血のつながる四代以降弱くなったので
看寿に鍛えられ伊藤家の血を継ぐ九代宗桂は伊藤家の期待の星でもあったでしょうね >>593
レーティングって段位(名人に対する手合割)の事?
看寿が初めて御城将棋に出勤した時はまだ四段だし、
四代宗与と八代宗桂に駒を落とされているので、
段位としては4〜5番手だったと思われる。
伊藤家代表が看寿だったのは、当主の宗看が公務で忙しいからだろう。
御城将棋は1局に何日もかける事があるし。 なるほど勉強になります
名人に対する手合い割ですね。今でいうレーティングに近い
恐らく五段あたりまでは各家内部で各家のトップとの手合い割で認定
そして各家のトップのランクはお城将棋で手合い割結果でつけたんでしょうね
八代宗桂に平手で勝った1739年から1751年まで看寿がほぼ伊藤家代表として出場
看寿が20代から30代の指し盛りの時ですから
看寿の末期は宗看と同等に近い棋力を持っていた可能性がある
ただ看寿の兄八代宗桂との将棋を並べたが序盤があまりうまくないw 終盤力で勝ってる
総合力ではやはり三代宗看か
おっしゃる通り
三代宗看名人は幕府への公務、伊藤家内の弟子の管理で忙しかったんでしょうね
伊藤家と他家の棋士との棋力差があり宗看名人まで出る必要がないという判断か
将棋好きの徳川吉宗の孫の家治(在位1760-1786)在位前からお相手してたのでしょう >>595
>幕府への公務、伊藤家内の弟子の管理
それに加えて、三代宗看は「碁将棋席次争い」を起こしていて、
行政に働きかけて将棋界の待遇を改善する事に積極的だった。
おそらく接待しまくって支援者を増やしたりもしただろう。
歴代名人の中で一番忙しかったかもしれないね。 秀吉は将棋好きだったとか宗桂の名付け親は信長みたいな話をよく聞くけど
江戸時代以前から本将棋が主流だったのかな? いわゆる小将棋の方が駒数が少ないから普及しやすかった。 >>597
小将棋と中将棋との比較という意味なら、
貴族や僧侶は中将棋、武士や町人は小将棋が多かったようだ。
(一流の人は囲碁も中将棋も小将棋も指せたようだが)
戦国時代の遺跡から出土した200枚近い将棋駒は全て小将棋だし、
安土桃山時代の駒師(「水無瀬駒」の元祖)の記録では、
小将棋が全体の84%を占めていて、中将棋は14%ぐらいだったので、
少なくとも安土桃山時代からは小将棋が主流。
昔の本では「当時は『将棋』と言えば中将棋の事だった」として、
「小将棋(少将棋)」以外は全部中将棋の記述と見なしていたが、
中将棋は対局時間が長過ぎるという事で、今は異論を唱える人も多い。 >>599
>昔の本では「当時は『将棋』と言えば中将棋の事だった」として、
その割には中将棋の作物や棋譜って全然残ってないよね
自称歴史学者の多分こうだったんだろうっていう根拠の無い思いつきを垂れ流されるのが一番迷惑 小将棋は、天文年間16世紀に消滅、小将棋から酔象を取り本将棋になったらしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B0%86%E6%A3%8B#歴史
それ以降江戸時代では本将棋の全盛で、中将棋は一部京都方面の貴族の方々が細々と... 将棋妙案100題に取り組んでるが、難しい・・・
来留島先生手ごわすぎ 久留島喜内か
http://park6.wakwak.com/~k-oohasi/shougi/html/myouan/myouan01.html
1問目は打ち歩詰めの打開か
12歩を王手で打てるようにならないと詰まなんな
71の駒は歩じゃないんかw 桂なら詰んだ♪ 全問は無理やと思ったわ
久留島喜内は和算家だけあって理数系のパズルやね 将棋世界今月号 田丸さんの特別編
やはり柳雪は下野してから、ひとまわり強くなったんだな
堅苦しいお城将棋時代は伸び伸びと指せず冴えなかった 弱くはなかったが 天野宗歩は1845年江戸に戻って数年
門下生が増え天野一門は隆盛を迎えた
その時期 お城将棋は
大橋分家は柳雪が下野して代わりに 宗歩と同年代の養子の8代大橋宗a
伊藤家は宗歩より10年下の養子の8代伊藤宗印が継ぐ
大橋家だけが9代大橋宗桂の実子にこだわり
宗歩の師匠の11代大橋宗桂は宗歩を養子に迎えず実子を後継とした
しかし実子の宗金は他家と
いつまでも大駒落ちのレベル、才能に乏しく平手や香落ちで戦えない状態
そこで1852年11代宗桂は大橋家の代指しとして宗歩をお城将棋に出場させた
相手は伊藤家は8代宗印ではなく 先々代6代宗看の弟子だった名古屋の和田印哲を宛てた
しかし印哲は名古屋で過去に完勝しており宗歩の敵ではなかった
宗歩の強さに感服した幕府は当日お好みとして
非公式戦で4連勝している大橋分家の宗aと指すように命じた
翌日翌々日指し継ぎ宗aに敗北。実力では上の宗歩の一生の不覚
この後宗aとの再戦はなし
宗歩人気がややが落ち、宗歩はお城将棋に興味を失い
1853年黒船来航後の1856年に格下自認の8代宗印に勝利するも旅打ちに出かけた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています