江戸時代の将棋について語ろう part1
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江戸の将棋について自由に語りましょう
私が好きなのは二代大橋宗古(二世名人)、六代伊藤宗看(十世名人)、大橋柳雪(七段) いわゆる小将棋の方が駒数が少ないから普及しやすかった。 >>597
小将棋と中将棋との比較という意味なら、
貴族や僧侶は中将棋、武士や町人は小将棋が多かったようだ。
(一流の人は囲碁も中将棋も小将棋も指せたようだが)
戦国時代の遺跡から出土した200枚近い将棋駒は全て小将棋だし、
安土桃山時代の駒師(「水無瀬駒」の元祖)の記録では、
小将棋が全体の84%を占めていて、中将棋は14%ぐらいだったので、
少なくとも安土桃山時代からは小将棋が主流。
昔の本では「当時は『将棋』と言えば中将棋の事だった」として、
「小将棋(少将棋)」以外は全部中将棋の記述と見なしていたが、
中将棋は対局時間が長過ぎるという事で、今は異論を唱える人も多い。 >>599
>昔の本では「当時は『将棋』と言えば中将棋の事だった」として、
その割には中将棋の作物や棋譜って全然残ってないよね
自称歴史学者の多分こうだったんだろうっていう根拠の無い思いつきを垂れ流されるのが一番迷惑 小将棋は、天文年間16世紀に消滅、小将棋から酔象を取り本将棋になったらしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B0%86%E6%A3%8B#歴史
それ以降江戸時代では本将棋の全盛で、中将棋は一部京都方面の貴族の方々が細々と... 将棋妙案100題に取り組んでるが、難しい・・・
来留島先生手ごわすぎ 久留島喜内か
http://park6.wakwak.com/~k-oohasi/shougi/html/myouan/myouan01.html
1問目は打ち歩詰めの打開か
12歩を王手で打てるようにならないと詰まなんな
71の駒は歩じゃないんかw 桂なら詰んだ♪ 全問は無理やと思ったわ
久留島喜内は和算家だけあって理数系のパズルやね 将棋世界今月号 田丸さんの特別編
やはり柳雪は下野してから、ひとまわり強くなったんだな
堅苦しいお城将棋時代は伸び伸びと指せず冴えなかった 弱くはなかったが 天野宗歩は1845年江戸に戻って数年
門下生が増え天野一門は隆盛を迎えた
その時期 お城将棋は
大橋分家は柳雪が下野して代わりに 宗歩と同年代の養子の8代大橋宗a
伊藤家は宗歩より10年下の養子の8代伊藤宗印が継ぐ
大橋家だけが9代大橋宗桂の実子にこだわり
宗歩の師匠の11代大橋宗桂は宗歩を養子に迎えず実子を後継とした
しかし実子の宗金は他家と
いつまでも大駒落ちのレベル、才能に乏しく平手や香落ちで戦えない状態
そこで1852年11代宗桂は大橋家の代指しとして宗歩をお城将棋に出場させた
相手は伊藤家は8代宗印ではなく 先々代6代宗看の弟子だった名古屋の和田印哲を宛てた
しかし印哲は名古屋で過去に完勝しており宗歩の敵ではなかった
宗歩の強さに感服した幕府は当日お好みとして
非公式戦で4連勝している大橋分家の宗aと指すように命じた
翌日翌々日指し継ぎ宗aに敗北。実力では上の宗歩の一生の不覚
この後宗aとの再戦はなし
宗歩人気がややが落ち、宗歩はお城将棋に興味を失い
1853年黒船来航後の1856年に格下自認の8代宗印に勝利するも旅打ちに出かけた 天野宗歩 (wikiより抜粋&追加)
1816年、江戸の本郷菊坂にて、生まれる。幼名は小幡留次郎。後に天野家の養子に入る。
1820年、5歳で大橋本家の十一代大橋宗桂の門下となる。
1825年、初段となる。
1829年、14歳で二段となる。
1830年、15歳で三段となる。
1833年、17歳で四段となる。
1834年、五段に昇段する。上方に旅立ち大橋柳雪と左香落で対戦する。
1834年、江戸に戻ったが、1835年3月下旬には再び上方に旅立つ。そのまま上方で生活
1845年、江戸に戻る。富次郎と改名する。 六段弘めの会を催す。八代伊藤宗印と左香落で対戦する。
この年、分家の大橋宗aに平手で4連勝。
1846年、七段を許される。
1852年、別家を許され、剃髪して宗歩と名乗る。御城将棋に出仕が許されている。
1853年、黒船来航
1856年、御城将棋で伊藤宗印に勝利。これが宗歩最後の御城将棋となった。
1857年、越後路の旅に出る。御城将棋は欠勤し1858年正月まで旅先で過ごした。
1859年、死去。44歳であった
1860年、桜田門外の変。幕府の大老、井伊直弼を殺害
1861年、最後のお城将棋。大橋宗a死去
1868年、王政復古の大号令。徳川幕府の終焉 >>624
この時代は初段からプロみたいなもんだから、
10歳でプロ入りしたようなもんだな。
とんでもないわ。
でも、将棋史にとって一番重要な出来事は、
詐欺みたいな賭け将棋で事件を起こした事だろう。
これだけ強いのに名人になれない(将棋家の養子になれない)のは、
素行が悪かったのが主な原因だろうから。 宗歩が名人になれなかったのはそういう素行が理由にあったからかも知れないが
そもそも家元の血筋じゃないからじゃないの? >>626
強ければ将棋家の養子になって家元を継ぐ事ができる。
特に伊藤家ではその傾向が強くて、
名人になった5人の内4人が家元の血筋ではない。 勝手なイメージだけど宗歩は家柄や血筋なんかで強くても名人になれないという理不尽さでグレたのかと思ってたけど
元々の人間性がそうだったのかな
それとも、そもそも名人位なんてクソ喰らえだったのか
棋譜は多く残ってるけど、ドラマ性は高いのにあんまり伝承とか残ってないのが惜しい人物だね 宗歩は自称弟子の小野五平が家元経せずに名人になるために過剰に持ち上げた説 江戸の初段って羽生に二枚落ちくらいの棋力だぞ。奨励会7級くらいだろw >>585
たしかに力作であることは認めるが
第一章第一節の↓この部分
>チャトランガは、中国では、「象棋」(シャンチー)となり、
>韓国では、「チャンギ」となって、楽しまれていますが、
>この両者ともに、日本の将棋とは似ても似つかぬものであり、
>日本の将棋に影響を与えてはいない、と考えられています。
を読んだだけで
それ以降の考察を読む価値無しと分かるわ
将棋の駒名称は漢字2文字だけど、
2文字目に使われてる「将、車、馬、兵」の字は象棋の駒名と同じ漢字で
中国の軍事ユニットから採ってるんだから
象棋の影響を受けてるのは明らかだろ >>645
この下りは将棋類ゲームの日本伝来について書かれたもので、
駒の名称は伝来した後に変わる事が十分あり得るので、
別の話だと考えて言及しなかったんだろう。
このサイトは参考文献も明記してあって、
この辺は東南アジア由来説を主張する増川の本を参考にしたようだ。
増川の説は強引で穴だらけなので、他の資料と比較検討すべきだったな。
中国で今のシャンチーになる前に普及していた将棋(宝応象戯)は、
駒の名称が二字で、「銀将」「香車」の動きをする駒もあるので、
それがそのまんま日本に伝来したと考えるのが普通だろう。 >>648
> 中国で今のシャンチーになる前に普及していた将棋(宝応象戯)は、
> 駒の名称が二字で、「銀将」「香車」の動きをする駒もあるので、
それは知らなかった
香車の動きくらいなら独自に思いつきそうな気がするけど
銀の動きは偶然一致するにしては特殊すぎるから
継承してると考えるほうが自然ではありそう
銀と同じ動きのマークルックのコーンは
「四本脚+鼻」でゾウさんを表してるという説は
以前見かけてしっくり来たけど >>651
チャトランガの「ガジャ(象)」の動き方には2種類あって、
シャンチーの「象」と同じ動き方(斜めに2マス)は、
ペルシャを経て西洋や東アジアなど世界中に広がったが、
日本の「銀将」と同じ動き方(前と斜めに1マス)は、
スリランカを経て東南アジア一帯に広がった。
両方と交流があった中国には2つの系統が混在していたんだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています