本田小百合
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>>4
土俵下に座っている青葉山はまさに本田小百合だった 数年前について大盤解説の聞き手
してた時に観戦したけど
面白かったで。
お客さん本当にその手で良いの?
って咎められるの分かったのが妙に嬉しそうだったなあ 子どもの頃
地元水戸で雅山(現 二子山親方)と
将棋を指したことがあるらしい 水戸の天才少年と呼ばれてたのは、先崎九段でしたっけ。 本田さん、あけましておめでとう ございます
新年号は4月1日に決めるんだって 板橋区の30代主婦の方、あけましておめでとうございます
主婦? 昔、原田九段と駒落ちで指してたのをテレビで見たことある。たぶんまだ小学生くらいだったと思うけど、もうすでに胸はけっこうあった。
原田さんがときどきチラ見してたけどたぶんちょっとはエロいこと考えてたと思う。
俺もあとで抜いたし。 厨房が拉致監禁中の小百合に「ビラビラ大きいね」って言ったら
「イヤッ!恥ずかしい〜〜」って本当に恥ずかしそうに顔を真っ赤にして
大きいビラビラをモモンガみたいにして窓から夜の闇に消えた。 ヤマダ電機 LABI1 LIFE SELECT高崎第9回上州将棋祭り
10:45~【新春女流対局】渡部愛 女流王位 vs 本田小百合 女流三段 >>41
そう。
ツナ缶のときにおっぱいに抱かれていた羨ましい子 >>43
現代人類に至る進化の途上として生物学の本に出てきそうw そんなめちゃくちゃ言わんでも…
かわいいやん本田さん。
解説の時、語彙が極端に少ないのが気になるが。 若くしてプロになったけど、ずっと茨城に引き篭もってたんだよな
20代中盤で一念発起して上京。
その後、そつなく聞き手こなして結婚して子供作って一般人としてインタビューも受ける
なんつーか、自然体で人生送ってるよね >>51
基本、アホの子だからな。それでも体裁整えればやっていける良い例 >>53
NHK将棋講座のアシをやったのが22歳で、そのころ水戸から上京したから中盤よりもう少し若い。
この人は絵画の才能もあったから将棋とどっちを取るかまよったらしい>中学から高校にかけて 女流棋士や絵描きとかけて冷や飯と解く
そのこころは、
それだけでは食えないでしょう >>60
Wサユリなので、二人の父親が吉永小百合のファンなのではと思っちゃう。
吉永ファンとして有名なタモリさんは現在満73歳なのでいい感じの年齢
吉永さんは、ちょい前でいったら宮崎あおいさんみたいなものでしょうか >>59
Wikipedia によると 1997 年に 47 歳で死去とのこと。
死因は糖尿病
「シンガー・ソングライターの石川優子は青葉山のファンを公言」というどうでもよかったはずの情報が Wikipedia にありました。
石川さんは現在満60歳で、最近渡部愛スレで似てると話題になり、画像や動画の石川さんの往時のビキニの顔を愛女流王位にすげ替えてけしからんことに使っていそうなやつがいそう 814 名無し名人[] 2019/01/23(水) 09:53:15.84 ID:dmZZDciO
1月22日(火曜日)
第46期岡田美術館杯女流名人戦 予選
本田小百合 ○−● 竹部さゆり
【第46期岡田美術館杯女流名人戦 予選 持時間各2時間】
https://www.shogi.or.jp/match/jo_meijin/2019/46yosen.html
1組:[岩根-貞升]−[渡部-塚田]
2組:[清水-頼本]−[島井-山根_2/4]
3組:[鈴木-井道]−[脇田-(山口絵-藤井)]
4組:[室田-里見咲]−[本田-藤田]
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女流名人リーグ残留(6名)
1位:里見香か伊藤
2位:上田
3位:香川
4位:谷口
5位:甲斐
6位:中村真 本田は頭蓋骨の上半分に比べて下半分だけが異様なまでに前面に張り出している
生物学的に非常に興味をそそられる >>60
更に
中倉宏美レディース総長、
ミスター女子サッカーで宏美総長の中学同窓の澤穂希兄貴、
元「ロリ金メダルスイマー」岩崎恭子さん
が、Wサユリと同学年
更に近い年齢で
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/bgame/1542989807/900
人生と闘っている感がある人が多くて応援したい 澤穂希さんつながりで、米国女子サッカーチームのワンバック師匠をググったら、妻が元チームメートから作家さんに変わっていた >>69 >>71
1980年度生
千葉涼子 1980年4月21日生
島井咲緒里 1980年5月15日生
山田朱未 1980年5月18日生
Abby Wambach 1980年6月2日生 (チームメートを妻にする→離婚→女性作家を妻にする)【←New!!】
広末涼子 1980年7月18日生 (高校生アイドル女優→メンヘラ→デキ婚→離婚→デキ婚→大女優)
伊奈めぐみ 1980年8月2日生 (女流育成会員→デキ婚→マンガ家)
石橋幸緒 1980年11月25日生
岩根忍 1981年3月16日生
濃ゆい面子だ 10歳前後のアビー・ワンバック
https://i.imgur.com/LTzlh4v.jpg
今で言ったら鎌田美礼研修会員、仲邑菫囲碁初段と同じくらいの年頃 Wikipedia 本田小百合
より
1988年、10歳になる年に第2回女流アマ王将戦で優勝、第20回女流アマ名人戦で3位。
1990年、小学6年生になる春に出場した第15回小学生将棋名人戦でベスト8入り(準々決勝で、のちに棋士となる阪口悟に敗れた)
誰かこの頃の小百合ちゃんの画像をうpしてほしい。
満40歳の今でもあれだけかわいいんだから、10歳前後時で比べたら今井絢ちゃんも凌ぐかもしれない可愛さだったと思う >>73
ロリワンバック貼り直し、10歳前後
https://i.imgur.com/WdMeotZ.jpg
今の鎌田美礼研修会員、仲邑菫囲碁初段(現10歳前後)に比べて骨格が成長しすぎているが、太ももは良い ひょっとしたら人間離れした能力があると疑われてる系女子 棋王戦の聞き手にて
風邪(インフルとはまだ分からず)でだるくて動けないが、
家事とかしないといけないと、マッサージ受けに行って乗り切る
子供が風邪をひいたからと病院に連れて行った時に
自分もインフルだったことに気づく 『クワイ河マーチ The River KwaiMarch』は日本の子供たちの間では
替え歌「サル、ゴリラ、チンパンジー」として他愛のない歌詞がつけられ遊び歌として歌われることがある
なぜこのような歌詞の替え歌となったのかその理由については定かではない ネアンデルタール人
ドイツのネアンデル谷(タール)で最初に見つかった化石人類でヨーロッパから中近東にかけて生活していた
脳の容量は1400mL〜1600mL、最大で1700mLに達する(ホモ・サピエンスは1400mL程度)
ただし、精神生活を司るという前頭葉の発達は悪い。喉(のど)の構造からも複雑な音声は出せなかった、つまり複雑な言語体系はなかっただろうといわれている
一方、高度な道具を製作したり、火の使用もできた。死者を埋葬したりもした(花を手向けたかどうかについては議論がある)
30万年前ころに登場し、ホモ・サピエンスがすでにいた3万年前ころまでは生存していた。こうしたことからも、ホモ・サピエンスの祖先ではないことがわかる
ふつうは、ホモ・ネアンデルターレンシスと分類されるが、われわれ(ホモ・サピエンス)との差はごく小さいので
ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスとし、われわれ現生人類をホモ・サピエンス・サピエンス(考えに考え抜くヒト?)とする人もいる
実際、現生人類との見かけ上の差も小さく、われわれと同じような服を着ていれば、見分けがつかないほどだろうともいわれている
眼(眼窩)の上の出っ張りがある、顎(あご)におとがいがないなどが見分ける特徴となろう。
現在のヒトの生物学上の分類では、真核生物ドメイン動物界脊椎動物門ほ乳綱霊長目ヒト科ホモ(ヒト)属サピエンス種ということになる。
2010年5月、アメリカの科学雑誌サイエンスに、現生人類(ヒト)とネアンデルタール人は交雑し、ネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカ以外(フランス・中国・パプアニューギニア)の現生人類にも1〜5%残っているという報告が出た
アフリカを出た初期のヒトが、中近東でネアンデルタール人と出会って交雑し、その後各地に散らばっていったらしい ネアンデルタール系女子の献体を解剖させていただき体や骨格や歯の仕組みを勉強したい Wikipediaの水生類人猿
のトップにある画像のモデルになってる女性の頭蓋骨のシルエットが本田小百合にそっくりでワロタ 近い将来『人体の不思議展』に標本として展示されてるかもしれんな、この珍獣は。 本田小百合さんは(オーストラリア大陸を除く)南半球系女子のイメージ 自身が細身のソップ型だった事もあり、同時期に活躍した初の外国人関取である高見山大五郎
(最高位・関脇、前・東関親方)が超アンコ型で申し訳程度にチョロっと塩を撒くのとは体格も含めて対照的で、
2人の取組前の塩撒きは相撲ファンの中でお楽しみとなっていた。
また、シンガー・ソングライターの石川優子は青葉山のファンを公言し、
とある雑誌の企画で対談を行った事もあった。
一時は、幕内上位に定着していた。だが、三役での勝ち越しは1度もなく、
関脇昇進を果たせなかった。増位山や貴ノ花など、
大関からは幾つか勝ち星を挙げたものの(大関戦での勝利は、上記2名からの4勝を含め、計7勝)
横綱には1度も勝つ事なく現役生活を終えた。
その後、糖尿病を患ってからは精彩を欠く相撲が多くなり、三役と平幕を往復するのが精一杯であった。
1982年1月場所からは、十両に低迷。糖尿病と体力の衰えにより、
この地位でも本来の相撲が次第に取れなくなり、
同年9月場所を以って現役を引退した[1]。
引退後は年寄・桐山(後、同・浅香山)を襲名し、
木瀬部屋付きの親方として後進の指導に当たりつつ、勝負審判も務めた。
だが、持病の糖尿病が悪化し、1997年9月24日に47歳の若さで亡くなった。
没後、浅香山の名跡は師匠の木瀬が管理していたが、
停年直前の2000年3月末に同じ立浪・伊勢ヶ濱連合の小結(後に大関)魁皇へ譲渡された。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています