木村14世〜1970年代までの将棋界を語ろう
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名人が 実力制に移行した1935年から1979年までの将棋界を語るスレです。
昔の将棋は木村、大山、升田さんなどは語られますが、他の方は語られることも
少なくなってきました。それでは寂しいのでタイトルを獲った棋士だけではなく
強くはなかったが個性的だった棋士
平凡だったけどなぜか心に残っている棋士などを語るスレです。
当時を知っている方は是非その時々の雰囲気などを教えてください。 >>191
大山が中原に3−4で負けたことは,名人戦で2度・王位戦で1度あるが,
大山が中原に4−3で勝ったことも十段戦で1度・王将戦で2度・王位戦で1度ある。
>>199 この時の十段戦の相手は誰だっけ?
中原だよ >>166
昭和最強木村14世と大山15世二人に名人戦で勝ってるんだから、名人挑戦もない
久保とか格が違いすぎる。 塚田正夫の晩年、週刊文春の棋戦で河口老師に逆転勝ち
序盤で飛車損
内藤だったか、「縁台将棋、プロに勝つ」と形容
強いのか弱いのか不明な感じ
NHK杯戦でも「はらはらワクワクさせる将棋を指す」と公言していた 74 名前:名無し名人
投稿日:2019/01/24(木) 08:08:14.42 ID:hCgoskjj
大山は穴熊で勝てなくなって、穴熊をやめた
↑
@ 穴熊をやめたのはいつ頃か?
A大山流の「端歩を突く穴熊」は当時から疑問視されていたらしいが。 穴熊ついで。
時期は忘れたが大山VS米長で途中から両者が囲いを穴熊に組み換えたことがあったが
これがプロ棋戦で最初の相穴熊だろうか?
ちなみに囲いの組み換えなしで両者が最初から相穴熊を目指した棋戦は
瀬戸四段VS誰かだったような記憶がある。
早指し戦宮田利男対大山で、双方が穴熊
昭和50年ごろ >>204
>>74で何を根拠にして書いたか知らないが,
大山は,「穴熊は,融通性が無いから自分の棋風に合わないが,無冠になったので,
何でもやってみようと思う。」と言って穴熊を始めた。
しかし,元々強いので,事実上の最強穴熊だった。
何年かやってから使わなくなったのは,自分の棋風に合わせただけだろう。 >>204
大山が居飛車で、穴熊の大内が端歩を突いたのに、怪訝そうな顔をした
大内が勝って、名人挑戦を決めた フリ穴の端歩突きは大内が得意だったと書いてあるのを読んだ記憶があるな
あとイビアナの端歩突きはタナトラが推奨してた 木村義雄って凄いな
第4期名人戦は戦時下だったため挑戦者決定方式が簡略化され
予選を勝ちあがった4人と(萩原淳・花田長太郎・大野源一・坂口允彦)
木村が半香3番勝負を行い勝ち越した棋士に挑戦権を与える予定だったが
木村が全員に勝ってしまい番勝負が行われなかったとある。 息子の義徳は、奨励会入会以前、アマの大会に出場拒否ということがあったらしい
3局ぐらいしか教わっていないらしいが
新聞に載った模範対局以外は、ガチで指されたという 戦争で将棋どころではない
運良く徴兵されなかった連中の中で無双して俺スゲーとか低脳すぐるわ 戦時中はタイトル無効扱いにするべき
木村とか名人8期扱いだが、実質は名人5期未満じゃね さすがにモノを知らなさすぎる
そもそも戦時中の名人戦は第3期から第5期の3回だけなので全て無効としても名人5期未満にはならない
ちなみに当時の名人戦の参加資格は八段全員と予選通過者のみ
八段で徴兵された棋士は一人もいない
七段以下で著名な棋士は大山と升田が徴兵されているが大山が初めて名人を獲得したのは第11期で升田は第16期
戦時中に徴兵されなかったとしても予選からエントリーする必要があるしまだ実力不足で名人を獲得できた可能性は低い 戦時に将棋指しやってるのは人間の屑
将棋指しに優秀な人材はいない時代
その中で勝ち誇っても価値などない 戦争に参加しないのは反日とか言う理由でバカなネトウヨが発狂してそう 優秀な人材がプロ棋士になってくるのは終戦後
その隙間で木村、大山が調子に運良く勝ちまくり実力以上の実績をあげていた 大山は終戦後も普通に活躍してるだろ
というか終戦後の活躍がほとんどだろ 戦中や戦後すぐは将棋どころじゃなかったし
戦型面でも角換わりと横歩が流行して将棋がガラッと変わったから
木村から大山世代の棋士の大半は早い段階で脱落した
塚田と升田以外に長く残れたのは振り飛車に活路を求めた大野ぐらいかな 何言ってんだこいつ?大山は69歳までA級棋士だったの知らないのか?
さすがに馬鹿すぎて話にならないな >225
新旧対抗形とか言って、角換わりなのに5筋突くのが戦前は定跡やったんやぞ 皆さんすごいデータベースと記憶力を持ってますね、感心です。
自分は自分なりに、拙い記憶をつらつらと・・・
大内先生が穴熊の端歩を突くのは本人の著書か雑誌寄稿(将棋世界など)の文章に書かれていましたが
端が詰められていると16歩は手抜けないけど、端歩突いてあれば15歩は手抜くこともできる。
その手抜きは終盤では勝敗を左右しかねない一手なので端歩を突いておくのだと…
丸田先生、将棋世界の詰将棋サロンでご担当されてた時に私がつまらない作品を投稿しましたが、
先生は○○、××・・・が作意だと思いますが、これこれの理由で作品としての価値が少ないと思います、云々と。
全部ご自身で解いてみて、投稿者全員に手書きの返信をされていたのだと思うと、頭が下がります。
木村義徳先生
偉大な御父上と比較されて辛かったと思いますが…
旧東京将棋会館(木造)の時に毎月一回「よい子の将棋会」なるものがありまして、そこで幹事(手合い係)をされていましたね。
そこに通うのが楽しみでした、たいへんお世話になりました。 山田道美九段の話を知りたいなぁ
横歩取りの研究を紙上で公開
勝ちと書いた局面で妙手が潜んでて実は負け
その通り指して大会で負けた人に紙上で謝る
とかそんな感じのエピソードを読んだ気がするけどかなり面白そうな人っぽい
現役当時を知る人が居たら何か書いてくれ!! >>231
対振り急戦の原型を考えた人
確かA級のまま死んだ 山田道美って連盟公式サイトの物故棋士の欄に載ってなくね?
見落としかもしれんが ひふみんとも親交
雑誌連載締め切り日を回っても、中途半端なままでは出稿できないと言った 高卒だが、ドイツ文学を原文で読みたいと、専門学校でドイツ語を学んだ 旧三段リーグ末期に在籍の、田丸や沼などと、アパートまで借りて、今ふうの研究会
関根や宮坂、富沢、森雞二という現役ともやっていたのは、当時では異例
関根は棋聖戦挑戦手合いで、山田教室の成果を披露し大山に勝った対局がある 『近代将棋』昭和50年ごろ連載の巻末漫画を思い出す
出げいこ(師匠の代げいこ?)先での対局で、駒落ち下手のお客さん、きわどい勝ち筋が見えたが、わからない
対局中に山田に教えてくれと尋ねたが、対局後に教えるつもりで、答えなかった
お客さんは、ならば謝金を払えない、と言ったところ、了解して、帰りの電車賃もないまま、遠距離を歩いて帰った
初期に見せた医者がヤブ医者で、36歳で夭折
息子さんはソバ屋になったはず 山田って医者がまともならもっと長生きできたのかよ
いや、そもそも医者なんて者がいなければ助かりようもないんだからそこに文句言うのは筋違いかも知れないが
切ないな 奨励会時代に持ち時間制を導入させた人
何局でも指せた時代なのに、1局だけしか指さない主義で嫌がられた 何局でも指せるなら
〇〇〇〇〇〇昇級●●●●●●
●●●●●●〇〇〇〇〇〇昇級
とすれば1日で全員昇級も可能
勿論次回は前者の会員が6連勝 >>234
棋士番号が付番されている棋士しか連盟のサイトに載らない。 旧三段リーグ廃止時は、順番を決めて昇段しているかのように新四段が誕生し、監事が頭を抱えたとも 話は変わるが、チェスクロックが普及していない昭和40年代の高校選手権
首都圏某県で、進行の関係で「判定勝ち」を導入した
しかし、香車1本得したら指さなくなるのが続出し、すぐにやめたと >>246
いたかもしれないけど聞いたことがないから有名な棋士ではいないなぁ 徴兵って基本的に体力のある若者優先だからね
スポーツ選手だと20代が全盛期だから全盛期に徴兵されて戦死した有名人がたくさんいる(有名どころでは沢村栄治とか)けど棋士は30過ぎてから全盛期だから全盛期の人はなかなか徴兵されないね >>246
います
関口慎吾六段が戦死しています
戦時中に死去した棋士というのは何人かいますが戦地に行った死んだというのはおそらく関口六段一人です
関口六段の棋力は生きていれば名人取れたなんて言われたりもしますが戦死したことによる過大評価が進んでいるだけかもしれません
残された棋譜がほとんどないので謎とされています
26歳で戦死した時点で六段というのはそこそこ早いです
ただ名人獲得者の26歳時点の段位を見てみると塚田名誉十段や大山十五世名人は26歳時点で八段
升田実力制第四代名人も七段
なので関口六段が生きていれば名人確定みたいな言い方はちょっと戦死したことによる補正が入ってるのかなと思います 神田辰之助門下の野口忠雄四段も沖縄本島で戦死してる。30歳
大山名人の初めての新聞将棋の相手 良い所取りで四段昇段できた時代(1974/6〜1987/5)に三段経験のある会員は96人
1974/6〜1987/5に四段昇段 69人
1974/6〜1987/5に退会 10人
新三段リーグに参加 17人(新三段リーグでは四段昇段9人 退会8人)
つまり14年間で四段昇段69人に対して三段退会者がたったの10人
三段での通算勝率が5割を大きく下回っての四段昇段者も多数存在している 昔は初段からプロだったらしいけど四段からプロになったのっていつからなの??調べても出てこない
誰かご存知の方いたら教えてください >>252
三段退会者に鈴木英春
5割未満で四段は、その後もC2止まりが多かったと思える
もちろん通算成績も5割未満 >>60
当時西宮市在住だったからものすごい騒ぎになってたの覚えてるわ。
連続降級による精神的な苦しさを全部息子さんに向けてしまい
息子さん自身も逃げ場がなく苦しんでいたらしいね。 >>250
>>251
関口七段は1918年生まれで1945年2月戦死だから26-27歳位か。
当時この年齢で現役六段は十分強いんじゃ?
板谷四郎先生も従軍中に所属部隊が奇襲に遭って全滅して
ご自身も脚を撃たれた話をインタビューでされていたな。
生きて帰ってこられて本当によかった。 万年C2で、連れ子結婚だった兄の正幸は、地味だったが無難
兄弟で古豪新鋭戦の決勝を戦い、段位の高かった弟が優勝 古豪新鋭戦w 懐かしいなあw
ちょっと語ってください。 >>261
元々王位戦は産経新聞と3社連合(中日新聞北海道新聞西日本新聞)の共催だった
王位戦ができるまでは朝日の名人戦、読売の九段戦、毎日の王将戦が三大タイトルだったので三大新聞社と同格にするためには産経と三社を足す必要があったのだろう >>252
第35期のC2参加が19人。
主催新聞社の変更などの問題で、順位戦が1年休止して
第36期のC2参加が一挙に33人に増えた。
この年からC1への昇級が3人になった。 >>263
王位戦設立の経緯は当時サンケイの記者だった天狗太郎の「将棋とっておきの話」が詳しい
サンケイの経営が苦しくなり、自前で主催できなくなって三社の新棋戦に乗る形になったんだけど、三社と連盟が勝手に王位戦の名称を使う事に決めてしまい、サンケイと三社で揉めている
サンケイ側からすると、体よく棋戦名を獲られた形 意外なことに全国紙の産経新聞よりも地方紙の中日新聞のほうが売上多いからね
金のなくなった産経の側には中日に助けてもらうしか選択肢がなかったんだろうな 木村名人は1905年の生まれ
名著の誉れ高い「将棋大観 」は初版1928年
大家になってから書いたイメージがありましたが、なんと木村23歳の著書でした
この本を小学生の大山が学び、小学を卒業するまでに全て暗記したという
1923年の生まれだから、5歳の時に出た最新の本だったんですね >>264
谷川が2期めとして入ったが、有野など万年C2で早期引退(陥落でなく)もこの期からが多い >>267
当時、将棋の原稿を書く時に、もう、図面用のスタンプはあったのだろうか
(昭和50年ごろは、一般にも販売)
最低限、図面用紙も印刷されていないと、とても書けまい >>257
板谷先生って、藤井聡太←杉本昌隆につながる師匠ですか 昔の棋士となると、プロじゃないけど小池重明が自分の中では
強烈な印象。 >>271
板谷四郎→板谷進(息子)→杉本→藤井
板谷四郎先生は、第1期九段戦(竜王戦の前前身)決勝で大山と対戦した。
第1局は板谷優勢だったが、主催者である読売新聞関係者が
フロックで板谷がかったら困るような雰囲気だったため
やる気をなくして負けたらしい。
息子さんに先立たれて辛い思いもされただろうが、中京棋界の大功労者 >>274
ありがとう。
いつぞや、藤井くんが
「中京地区にタイトルを 持って来るのが、板谷先生の頃からの
悲願」
みたいな発言をしていたので。
でも、藤井くんより先に豊島さんが二冠獲ったので
その夢は果たされたのかな。 >>273
いつ頃の話?
先崎が中学生の頃、将棋道場で征伐したとかいう真剣士の小池と同一人物? たしか森けい二が角落ち、香落ち、平手の三番勝負で
全敗してたな。 森雞二はその件で、連盟に始末書を書いた
しかもタイトルホルダーだった >>279
三敗したことで始末書?
アマ相手に三番勝負やったことで始末書?
確か将棋会館でやったと聞いたから、連盟が公認だわな 平手で負けたのはまずいが、駒落ちで負けたのは仕方ないだろ。 その頃の森けいじの動画か写真を見たことあるけど
俳優かと思うような超絶イケメン 当時の『将棋年鑑』で「端正なマスク」と書かれていた。 プロ編入申請しようとして大山と駒落ちで対局したらボロ負けしたんで逃亡したんだったけか、小池とかいうの? >>288
違うよ
小池重明は素行が悪くてプロ編入を拒否された
団鬼録の「真剣師小池重明」という本に書いてある そもそも真剣行為が違法で真剣師自体絶滅寸前だったらしいからな
ちなみに小池重明は通算成績でプロに勝ち越しているしA級棋士に勝ったこともある 小池重明で有名なエピソードと言えば少年時代の村山聖との対戦
村山がアマの大会ではるばる東京に来たが大会でボロ負け
広島では敵なしだったが所詮は井の中の蛙だったとプライドがズタボロになっていた
不憫に思った父親が憂さ晴らしをさせてあげようとそこらの道場に道場荒らしに連れて行った
村山は大会で負けた悔しさから発奮
道場の猛者たちを蹴散らし連戦連勝
こんな田舎者の小僧に全員負かされてしまったのではメンツが立たんと道場のレギュラー陣がうなだれていたところにフラっと現れたのがこの道場を根城にしていた真剣師の小池重明
この少年を倒せる人間はこいつしかいない
普段は疎ましく見られていたヤクザ者の小池だがついに道場中の期待を背に村山と対局することになった
しかしなんと小池までも村山に負かされてしまう
小池は「ボク、強いんだねぇ」とニッコリ笑って立ち去ってしまった
その後村山は対局相手が有名な真剣師の小池重明だと聞いてビックリ
あの小池重明に勝ったのならば自分も捨てたものではないと自信を取り戻しその後奨励会に入会した あとは小池重明のアマ名人戦の記録係を羽生善治がやっていたけれど結局一度も対局できず「あのとき小池さんと一度対局しておけばよかった」と語ったというエピソードも 伝記を読むとプロ編入を認めるかどうか議論になったけどあまりにも態度が悪いので却下されたとありますね
残念 面談前日にケンカして留置所に入れられて、そこから直接面談会場に来て
靴下も履かず、頭ぼさぼさとか、プロ棋士以前にバイトすら受からんだろ。
将棋の実力以前の問題。 体ボロボロになって入院して、チューブ引きちぎって
死んだって聞いた。 >>299
> 木村の薬物
今も昔もドーピング検査はないからな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています