木村14世〜1970年代までの将棋界を語ろう
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名人が 実力制に移行した1935年から1979年までの将棋界を語るスレです。
昔の将棋は木村、大山、升田さんなどは語られますが、他の方は語られることも
少なくなってきました。それでは寂しいのでタイトルを獲った棋士だけではなく
強くはなかったが個性的だった棋士
平凡だったけどなぜか心に残っている棋士などを語るスレです。
当時を知っている方は是非その時々の雰囲気などを教えてください。 何とか1953年以前の全対局結果って残ってないかな?
国会図書館とから拾えないだろうか
特に通算7割以上と言われる木村義雄の全成績を知りたい。
あとは升田の若い頃。 >>89
熊谷は、早指し戦で大山にリベンジしながら、トーナメント勝ち上がり中に死去 >>89
熊谷九段は近将1959年7月号で特集されてるんだけど、母子家庭で、奨励会から六段までサラリーマンしながら将棋指してたらしい
きちんと修行できてたら、大棋士になれてたかもしれない(本人は能天気な極楽鳥なので、身を持ち崩していた可能性もあるけど) 升田幸三の成績
黒塗りの年度に関しては、あくまでも保証されてる分の成績なので、参考程度にどうぞ
https://i.imgur.com/Iu7DUXq.jpg >>94
確かにサラリーマン風の風貌
理事もやったはず >>95
>母子家庭で、奨励会から六段までサラリーマンしながら将棋指してたらしい
4段になれば普通はメシ食えるのでは? >>89
ウィキペディアみたが、生前のエピソードとか人柄が全く記載されていないな。
ちょっと残念だ。 >>100
棋戦数も少なく、対局料も安く、四段では半人前の感じだった。 >>100
時代が2年違う山田九段ですら、低段時は親から仕送りを受けて暮らしてた時代
ましてや親の面倒見る必要があったのだからなおさら >>100
昔は今ほど対局料貰えなかった
特に今の棋戦は全棋士参加が当たり前だけど昔は高段棋士しか参加できない棋戦が多かったから低段棋士は困窮してた NHK杯(ラジオ)も最初は16人のトーナメントだった記憶ある >>105
NHK杯(テレビ)は囲碁と将棋で隔週放送だったのではないか? ちなみにテレビ東京の棋戦は放送されなかった地域も少なからずある。 さらに余談だが、NHKでも民放でもテレビ棋戦で相穴熊を見た記憶がないのだが。 テレ東の早指し選手権(1972年〜2002年)好きだったなぁ・・・
一手30秒でどんどん進んで好きだった。
島田良夫アナウンサーが懐かしい
youtubeに2000年の決勝 谷川棋聖VS藤井竜王戦があった。
今は亡き二上さんと、若き日の矢内さんも見れるよ
その1https://www.youtube.com/watch?v=bl1wMqJRqgA
その2https://www.youtube.com/watch?v=z186zeqHMto ここまで倉島竹二郎の名前なしか
「近代将棋の名匠たち」は読み応えある >>111
「宿命のライバル」という言葉を思いついた人らしいですな。 NHK杯出場条件の変遷
第****1回 … 名人+順位戦順位上位者
第*2-17回 … 前回優勝者+名人+順位戦順位上位者
第18-24回 … 前回優勝者+タイトルホルダー+順位戦順位上位者
第25-26回 … 前回優勝者+タイトルホルダー+将棋大賞部門賞+順位戦順位上位者
第27-28回 … 前回Best4+タイトルホルダー+順位戦A級+B級1組在籍者+前年成績優秀者
第***29回 … 前回Best4+タイトルホルダー+順位戦A級+B級1組在籍者
第***30回 … 前回Best4+タイトルホルダー+順位戦A級+B級1組在籍者+前年成績優秀者
第31-42回 … 前回Best4+タイトルホルダー+順位戦A級+B級1組在籍者+前年成績優秀者+予選通過者
第**43-回 … 前回Best4+タイトルホルダー+順位戦A級+B級1組在籍者+前年成績優秀者+予選通過者+女流
解説聞き手の変遷
第*1-13回 … [解説]加藤治郎 [聞き手]倉島竹二郎 (固定)
第14-15回 … [解説]加藤治郎 [聞き手]倉島竹二郎・永井英明
第***16回 … [解説]加藤治郎 [聞き手]倉島竹二郎 (固定)
第17-20回 … [解説]加藤治郎・原田泰夫(主に) [聞き手]倉島竹二郎・永井英明(主に)
第21-30回 … [解説]多人数 [聞き手]多人数
第31-40回 … [解説]多人数 [聞き手]永井英明 (固定)
第41-43回 … [解説]多人数 [聞き手]永井英明・谷川治恵 (隔週)
第44-46回 … [解説]多人数 [聞き手]山田久美 (固定)
第47-49回 … [解説]多人数 [聞き手]藤森奈津子 (固定)
第50-52回 … [解説]多人数 [聞き手]中倉彰子 (固定)
第53-55回 … [解説]多人数 [聞き手]千葉涼子 (固定) ※1回のみ中倉彰子
第56-58回 … [解説]多人数 [聞き手]中倉宏美 (固定)
第59-63回 … [解説]多人数 [聞き手]矢内理絵子 (固定) ※2回のみ千葉涼子
第64-65回 … [解説]多人数 [聞き手]清水市代 (固定) ※4回のみ矢内理絵子
第66-67回 … [解説]多人数 [聞き手]藤田綾 (固定)
第***68回 … [解説]多人数 [聞き手]藤田綾 (固定) ※産休中 飯野愛・和田あき 永井英明社長の車で倉島さん日色恵さん(日色ともゑの父)の3人が
関根名人の墓参りに行く話は面白かった >>109
昭和50年ごろの早指し戦、大山対宮田利男戦
大山が穴熊のころ 、先手宮田が当時珍しい居飛穴に
大山の意向でか、41手めからでなく、51手めからの放送になった 誰か教えてくだされ
藤井聡太100局目のときにタイ記録として示された中原の100戦85勝15敗が、
どうやっても各データベースサイトの情報と噛み合わない…
何となくデビュー直後の2敗をカウントしてない気がするんだけどどうなんだろう 10月1日付昇段なのに、その前に四段として指させてしまい、その結果を抜いていた時期があった 抜いていた時期なんかないよ
予備クラス・奨励会A組時代は昇段が決まった時点で正式な昇段日前でも手合いが付く。
年度別成績が分かる範囲だと内藤九段もそうだし、真部九段、田丸九段などもそう
百勝時点の成績には算入してるから、単に連盟が漏らしていただけ
なぜ訂正しないのか こんな棋戦あったんだな
東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦 略称は東京新聞社杯または高松宮杯。
1956年〜1966年(全11回)
優勝者
56 加藤一二三六段
57 丸田祐三八段
58 丸田祐三八段
59 原田泰夫八段
60 大山康晴名人
61 大山康晴名人
62 二上達也八段
63 大野源一八段
64 加藤一二三八段
65 山田道美八段
66 有吉道夫八段
どういう形式の大会だったんだろう? 勝数昇段規定以前に多く見られる昇段理由の
「表彰感謝の日表彰」「将棋の日表彰」「将棋会館落成式表彰」
って具体的にその個人に何か要因があるのか?
成績見てもさっぱり基準が分からないだが >>120
それは決勝が三番勝負のトーナメント
優勝者の他に敢闘賞的な位置付けで高松宮賞というのが貰えた
ちなみに当時の最高棋戦(名人も出場する棋戦)は
名人戦、九段戦、王将戦の三大タイトル戦の他に一般棋戦として王位戦(産経新聞)、名人A級勝抜戦(北海道新聞・中日新聞・西日本新聞)、王座戦(日経新聞)、高松宮賞選手権戦(東京新聞)、NHK杯戦(NHK)の5つ
要するに現代だと下位タイトルに相当するくらいの棋戦 >>122
ちなみに王位戦と名人A級勝抜戦は合併してタイトル戦の王位戦になったあとで王位戦と棋聖戦に分裂
王座戦はそのまんま現在の王座戦
NHK杯は現在も続いてるあれ
高松宮賞だけは東京新聞社が中日新聞社に買収されてしまったことで自然消滅した 当時ニュースで聞いてショックだった
殺人息子は未成年だから、無罪で社会に出てるのか?どんな処罰?現在は?
>>60
> ☆森安 秀光(もりやす ひでみつ、1949年8月18日 - 1993年11月22日)棋士番号99。岡山県笠岡市出身。藤内金吾門下。
> 通算成績 712勝469敗 勝率0.603
> 竜王戦1組:6期、十段戦リーグ:6期
> 順位戦A級:6期
> 獲得タイトル
> 棋聖 1期(第42期-1983年前期)
> 登場回数6、獲得1
>
> 1993年の第52期B級1組順位戦では4勝3敗と4位につけていた。しかし11月22日午後5時から6時頃に当時12歳の長男にナイフで刺殺された。 >>121
基準はないから、後に勝ち星昇段で明確化した
大山の孫弟子のように、辞退したのもいた テレビ東京 早指し将棋選手権戦 毎週日曜日 午後16:00〜16:45何時かは忘れた?
録画じや無くて、生放送の時代有りませんでしたか? 時間内に対局終わらなくて途中で切れた事が有った記憶がある
幼少時代の記憶なので、記憶違いだったらごめんなさい >>124
親殺しは悪とよく言われるけれど実の子供に殺されるような親はたいてい究極のクズだからなぁ
そもそもそういう子供に育てたのも含めて親の責任だと思うし >>126
NHK杯でも番組が終わるまで勝負がつかず
最後にテロップがでて
「誰それが勝ちました」
と説明されたことがある。
巨人の長島が引退した年。 >>127
>>124
どうも精神病だったとの噂。 >>126
> テレビ東京 早指し将棋選手権戦 毎週日曜日 午後16:00〜
最初は夕方放送だったな。のちに早朝になったが。 建部和歌夫について詳しい方はいらっしゃいますか?
昔、この人が書いた「将棋入門」で将棋を覚えたような気がします。 >>131
七段だったはず
木村と塚田の名人戦の記録係をしたことがあったと思った >>89
昭和48年度の後半から調子が上向いてきたが,
次期のA級昇級の候補には上がっていなかった。
俺は,密かに復帰を願っていた。
見事のA級復帰を果たし,昭和49年度は,王将リーグも入ったと記憶している。 土居市太郎が好きで、将棋大会のアンケート?で好きな棋士のとこに土居市太郎って書いたら観戦記で「渋いです」と感心された事がありました。
順位戦の自戦記とかよく並べたなあ。軽やかな棋風に憧れました。 灘先生もいまだに忘れられません。結局四枚落ちは卒業できないままでした。
なんで四枚で勝てなかったのか?今なら勝てるかな。あれは雰囲気も大きいんですよね。目の前に灘先生が座ってるのを想像してみると、やはり今でも勝てない気がする( ̄ー ̄) >>119
中原の成績については連盟HPに意見をメールしておきました。 当時の九段昇段の難易度
二上達也
1956年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
1959年 九段戦挑戦失敗
1959年 王将戦挑戦失敗
1960年 王将戦挑戦失敗
1961年 九段戦挑戦失敗
1961年 最強者決定戦優勝
1962年 名人戦挑戦失敗
1962年 王将戦挑戦奪取(初タイトル)
1962年 高松宮賞争奪選手権戦優勝
1963年 棋聖戦前期挑戦失敗
1963年 王将戦防衛失敗
1964年 名人戦挑戦失敗
1964年 王位戦挑戦失敗
1965年 十段戦挑戦失敗
1965年 棋聖戦後期挑戦失敗
1966年 棋聖戦前期挑戦奪取(2度目のタイトル)
1966年 十段戦挑戦失敗
1966年 棋聖戦後期防衛失敗
1967年 名人戦挑戦失敗
1967年 十段戦挑戦失敗
1969年 王将戦挑戦失敗
1971年 棋聖戦後期挑戦失敗
1973年11月3日 九段昇段(九段昇格規定30点) 今の規定なら
1962年 名人戦挑戦失敗
1962年 王将戦挑戦奪取(初タイトル)
1964年 名人戦挑戦失敗
この3つで1964年九段昇段
九段戦を竜王戦と同じと見れば1962年九段昇段 >>126
民法の生放送はなかったはず
昭和50年ごろの長手数局の処理
一般的には、途中からは解説と聞き手が大盤で進めた(が、それも北村河口戦のように途中までもまれにあり。)
まれに、中盤をテロップで流した(河口内藤戦など)
入玉模様などでは、カットはあった(米長有吉戦224手など)
NHKはこの1番最初の方法が普通だったが、まれに対局者が撮り直して、手だけ早く進めていた
テロップのみは記憶なしだが、入玉模様などではあったかもしれない
>>131
八段と思う。失礼ながら立ち読みでこの本を通読した小学生だった
>>133
熊谷はB1順位戦最終局に勝ち、最終局に負けた森雞二を頭ハネして昇級 >>141
初めて将棋番組を見たのが中原誠名人×小林健二四段で、ノリの軽い兄ちゃんだった
小林四段の勝ちだった。 二上自身が語っていたが、全盛期の大山から2回タイトル奪取とは言え、17回も挑戦したわけで 二上と加藤一二三は大山に壊されたからな。どっちもトラウマレベル 二上達也タイトル戦 獲得5(棋聖4王将1) 敗退21
VS大山 2勝18敗
(1959年度)
59●九段 ○○●●●○● 大山 二上27歳でタイトル戦初登場
59●王将 ●○●●○● 大山
60●王将 ○○●●●● 大山
61●九段 ○○●●●● 大山
62●名人 ●●●● 大山
62○王将 ●○○○●○ 大山 初タイトル 大山の五冠独占を崩す
63●棋聖前●●● 大山
63●王将 ●●● 大山 防衛失敗 大山再び五冠独占)
64●名人 ○●●○●● 大山
64●王位 ●●○○●● 大山
65●十段 ●○●●○○● 大山
65●棋聖後●○○●● 大山
66○棋聖前○●○○ 大山 奪取 大山の五冠独占を崩す
66●十段 ○●●●● 大山
66●棋聖後●●● 大山
67●名人 ●●●○● 大山
67●十段 ●○●●● 大山
69●王将 ●○●●● 大山
71●棋聖後●○●● 中原
75●棋聖前●○●● 大山
75●棋聖後●●● 大山
78●棋聖後●○●● 中原
80○棋聖後●○○○ 米長 奪取
81○棋聖前○○○ 中原 防衛
81○棋聖後○○○ 加藤 防衛 二上50歳
82●棋聖前●●● 森 防衛失敗
二上さんの精神力・棋力は凄い・・・ 加藤一二三タイトル戦
獲得8(名人1、十段3、王位1、棋王2、王将1)敗退16
vs大山 1勝7敗 vs中原 4勝5敗
(1960年度)
60●名人 ○●●●● 大山 加藤20歳
61●王将 ●●● 大山
63●王位 ○●○●●● 大山
66●王将 ●●○●● 大山
67●王将 ●●○●○● 大山
68○十段 ●●○○●○○ 大山 初タイトル
69●十段 ●●○○●● 大山 失冠
73●名人 ●●●● 中原
76●十段 ●○●●○○● 中原
76○棋王 ○○○ 大内 奪取
77●十段 ○●○●●○● 中原
77○棋王 ○○○ 中原 防衛 中原の六冠独占を阻止
78○王将 ●○○○○ 中原 奪取 束の間の二冠
78●棋王 ●●○○● 米長 失冠
79●棋聖前●○●● 中原
79●王将 ●●○●○● 大山 失冠 なぜかNGワードにひっかかって加藤一二三の残りが貼れない・・
とにかくひふみんも凄い棋士ってことで 加藤と二上に至っては大山に香落ちでも負けてるからな
ハッキリ言って盤外戦術以前の問題だろ 香落ちに臨む心境って
先日の稀勢の里と同じだろうな。
勝てる訳が無い。 二上さんは連盟の会長としての実績はどうだったんだ? >>153
NHK杯の解説で「さあて,どうなりますかな」 >>151
それは偶然でしょ
大山は升田にタイトル戦15勝5敗で大幅に勝ち越してるからね 大山VS升田 タイトル戦15勝5敗
加藤VS大山 タイトル戦1勝7敗
二上VS大山 タイトル戦2勝18敗
大山が升田に香落ちで負けたのは偶然だけど、加藤と二上は完全に実力差でしかないよね
明らかに盤外戦術以前の問題だ 偶然という表現は適切じゃないな
たんに升田が大山を完全に上回っていた短い期間に、その駒落ちが指されたってだけの話だろ 大山は升田に11連敗、香落ちの升田にも負けた
なぜ自分はこんなに弱くなったのか、腹わたが千切れるほど悔しかった、と述懐している
それで生活から何から見直して復活したんだよな 二上さんは大山さんがいなかったら何期くらい獲ってたのかなぁ・・・
谷川・佐藤康光も羽生さんがいなかったら・・・ 今更ながら塚田正夫さんも凄い棋士だな
1914年(大正3年)8月2日 - 1977年(昭和52年)12月30日 63歳没 棋士番号11
1932年 四段 17歳
1947年○名人 4−2 ●●○○○○ 木村義雄 塚田32歳
1948年○名人 4−2 ●○○●○○ 大山康晴
1949年●名人 2−3 ○●○●● 木村義雄
1952年○九段 3−2 ○●○●○ 大山康晴
1953年○九段 3−0 ○○○ 花村元司
1954年○九段 3−0 ○○○ 松田茂役 3連覇永世九段
1955年○九段 3−2 ●●○○○ 花村元司
1956年●九段 1−4 ○●●●● 升田幸三
1960年●王位 1−4 ●●●○● 大山康晴 第一期王位戦
1962年●棋聖後1−3 ●○●● 大山康晴 第一期棋聖戦
1977年 現役のまま死去
A級以上28期 塚田正夫の晩年はだいぶ弱かったが、順位戦だけはよく頑張っていた
割り勘主義者だったとか 塚田九段はタイトル6期となっているけれど正しくは4期なんだよな
当時の九段戦は全日本選手権の予選みたいなもので名人は不参加
1953と1955は九段は取ったけれどその後で全日本選手権の決勝で大山名人と対戦して負けてるから今の価値観で言えばタイトルじゃない 木村義雄の全成績は戦前の分が戦災で記録が焼失したから分からなくなったらしい
自伝にもあったけど、全集作ってて出版予定もあったらしいから惜しまれる 米長、森内、モテに続くくらい。
一二三、内藤、二上よりは上。 >>164
レベル的にはタイトル複数取っても永世には届かないくらいだろうから
久保とか天彦くらいじゃね >>158
升田の述懐によれば
愛人にうつつを抜かしてたらしいぞ >>162
今の価値観で記録を判断するのがそもそも誤りで、当時タイトル戦扱いだからタイトル戦でいい。九段戦の勝者が秩父宮杯を貰ってるし
全日本選手権の所謂名人九段戦は、当時よくある棋戦優勝者が名人と記念対局を行う形式の延長線上にある
その勝者を、後付けで棋戦優勝扱いしているのがまたモヤモヤするんだけど >>168
違うよ
秩父宮賞は名人九段五番勝負の勝者に与えられる賞
そもそも当時の名人不参加棋戦の優勝者が名人と行う記念対局は基本的に一番勝負
それに対して名人九段五番勝負は五番勝負
当時の五番勝負以上の対局というのは名人戦七番勝負、王将戦七番勝負、九段戦五番勝負、名人九段五番勝負の4つしかない
これを記念対局の延長というのはおかしい >>168
あと付け加えると記念対局の類は棋戦優勝扱いとはならないが全日本選手権者は棋戦優勝扱いとしてカウントされている
それから当時タイトル戦扱いだったというのも誤り
いわゆる三大公式戦(現在で言うタイトル戦)と呼ばれるようになったのは1956年に九段戦が名人九段五番勝負と統合されてから
タイトルかタイトルでないかの線引きこそが後からできたもので当時はそんな区別はない
ちなみに九段戦と呼ぶようになったのも後付で1950年代の新聞・雑誌は「全日本選手権戦」と表記されているもののほうが多い >>169
あれ?秩父宮杯は私間違えてる?
将棋世界1951年9月号で
>>九段位と秩父宮杯をめぐる大山九段対南口八段の五番勝負
という記述があってそう捉えてたんだけど
全日本選手権の名人九段戦は大山名人の100回優勝の発表の後に4回付け加えられたものだから、棋戦優勝扱いは後付け
当時は棋戦優勝と捉えてないわけで、番勝負だから…というのは後から見た印象に過ぎない
1953年の日東新聞の観戦記で太期喬也が名人戦・九段戦・王将戦の三大タイトルの格付けを議論していて、名人>九段>王将の順なのは、王将は他棋戦では名乗らないけど九段は他棋戦で名乗るから九段の方が格上と書いてる
つまり、全日本選手権(名人九段戦)でなく九段戦がタイトルだと当時思われている
九段戦の表記は当時からのもので、後付けではない >>171
当時の感覚では名人というのは別格の存在でその他の棋戦というのは全て名人の格下
だからこそ名人は出場しようがしまいがどちらでも良かったのだと思う
そういう意味では当時の名人というのは現在で言うタイトルよりも上の存在であって同列に扱ってはいけないのかもしれない >>171
九段を他棋戦でも名乗るのは当時の認識では特殊な段位だからと見るのが正しいと思う
大山名人は1958年の九段昇段を「塚田九段に続く二人目の永世九段になった」と懐述しているしその後に九段戦3連覇したことに際して永世九段獲得とは言われない
当時の認識では一年間限定で九段の段位を名乗る者を決めるのが九段戦だったのだろう
段位だから他棋戦でも名乗るのであってこれは今で言うタイトルとは違う >>173
1950年代当時のタイトルというのは、囲碁と同じく一般棋戦と合わせて数えてるから少しややこしい
よって、当時の基準で考える必要がある
1956年の「将棋一路」の156pでタイトル獲得数として挙げられてるのは
名人5回
王座3回
王将3回
早指王位2回
産経杯1回
九段戦2回
NHK杯2回
五人抜2回
全八段戦1回
計21回
後にタイトルと一般棋戦を分離したわけだけど、ここで注目したいのは九段戦
全日本選手権(名人九段戦)とするなら4回じゃないとおかしいよね?
つまり九段戦単体でタイトルと見なしていて、名人九段戦は当時はカウントしてない
後に記録を整理するときに称号付くものをタイトル戦にして、九段戦(十段戦)をタイトル戦とした、と見るのが自然
少なくとも、名人九段戦に負けたからタイトルじゃないとする見方は、当時の価値観と相容れない >>174
そもそもタイトル戦と一般棋戦の区別が後からされたもので当時の基準では区別されていなかったと考えるのが正しそうね 王位戦設立時の記事が「日本将棋連盟の4つめの公式戦」とある
なので「当時のタイトル戦=現在の公式戦」「当時の公式戦=現在のタイトル戦」と逆になっている気がする
例えばNHK杯は当時は「公式戦ではないタイトル戦」と言われていたのでは? >>161
> 塚田正夫
棋風が「屈伸戦法」だっけ? 戦前は将棋関係の雑誌が一つもなかったのかね
連盟が出す定期刊行物や年鑑すら無かったのか?
その手の出版物があれば棋歴が失われる事は無かっただろうに
あれば図書館なり誰かのうちなりに残されるものだから >>177
当初は「屈折戦法」だったのを、改名を申し入れた >>180
速攻を仕掛けて、いったんは跳ね返されたようでも、いつの間にか優位を築いていく、みたいな棋風 塚田正夫は名人経験者の中では初めてB1で指したんだな 塚田正夫は升田なんかよりも少し上の世代で全盛期には名人戦しかタイトルがなかった
そしてその名人戦は木村義雄が君臨していた
木村義雄から名人奪ったことがあるというだけで凄いことだがもし当時からタイトルがたくさんあったら色々取れただろう >>167
その愛人に産ませた子供が不幸にも病死して
その心労により中原に名人を奪われた >>182
A級から落ちそうになった時、芹沢が気をきかして落ちた >>178
将棋世界は1937年10月創刊らしいよ こういった歴史の流れの果てに現代将棋界があると考えると、面白いね。
>>147
●が多いのがNGワードに引っかかっているのかもしれない(グロAA対策等)
●を×に変えたりしてみると貼れるかも >>182
初めてA級から落ちる時、長年の鉱石に鑑み、1回は見逃しても、という意見があったのが、昭和40年代
勝ち星昇段もない、また、完全に順位戦だけでの昇段のころ
しかし1期で復活したのはさすが
しかも2勝3敗から連勝して7勝4敗で、北村昌男と板谷進を頭ハネ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています