木村義雄・十四世名人が強すぎて笑うしかないんだが
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【第一期名人戦】(1937、1938)
最初の実力制名人なのでリーグ戦をやって1位と2位の棋士で番勝負をするはずだった。
しかし木村がダントツの成績で2位以下を大きく引き離してしまったため
番勝負が中止されて木村が名人に決定。
【第二期名人戦】(1939、1940)
名人挑戦者決定リーグ(現在のA級順位戦)で
13勝0敗という空前絶後の圧倒的成績で挑戦権を獲得した土居市太郎との番勝負。
しかしそんな土居を寄せ付けず4-1で簡単に名人防衛。
【第三期名人戦】(1941、1942)
関西棋界の期待を背負って関西最強の棋士・神田辰之助が挑戦してきたが
無慈悲な4-0のストレート防衛。
木村のあまりの強さにショックを受けた神田はそのまま引退してしまい心労がたたって一年後に死去。
【第四期名人戦】(1943、1944)
あまりにも木村が強すぎて番勝負が盛り上がらないので制度が変更される。
挑戦者決定リーグで4人の候補者を選び
彼らが木村と駒落ちで予備対局をして勝てば名人挑戦権獲得ということになった。
しかし勝ち上がってきた4人の候補者が全員駒落ちで木村に負けてしまうという
予想外の事態に番勝負は中止され名人防衛。
【第五期名人戦】(1945、1946)
戦争で中止。
でも開催してもどうせ木村が勝つでしょということで連盟の裁定で木村防衛が決定。
こうして木村は10年間名人を保持し続けた >>172
それは一概には言えない
中原vs米長の対戦成績は通算で中原が勝ち越しているが関根vs坂田の対戦成績は坂田が勝ち越している
関根の全盛期に坂田との対戦が少ないからではないかという疑義も確かにあるが明らかに関根とは言えないのでは? >>173
大崎さんはこう言ってはなんだがどの本にも弱い八段と書いてある
強くはないが政治力があったので新聞社との契約を取り付けて井上義雄門下の棋士を率いて独立
関根派と土居派との合流後に連盟設立時の功績で金と木見が八段昇段したときに自分も貢献したからということでドサクサに紛れて昇段したと言われている 当時のファンは関根坂田論争があったんだろうな
同世代の二人
関東の関根と関西の坂田
早熟の関根と晩成型の坂田
現名人は坂田支持だが他の有力棋士は関根支持
家元の門下で正当後継者の関根と叩き上げの坂田
人脈豊富な関根と不器用で孤立しがちな坂田
タイプが全然違うから盛り上がりそう 阪田は関西名人である自分が八段を名乗るのが嫌で、八段リーグに「段位なし」のただの阪田で参加したというのも面白い >>177
坂田が八段格になっているのは連盟(将棋大成会)の所属棋士じゃないからじゃないか? >>178
八段名乗るかどうかで揉めてそこに落ち着いた経緯がある >>180
建前:将棋大成会所属棋士ではないので八段格で参加します
本音:自分より格下の棋士と同じ八段で参加なんてしたくないので八段格で参加します
ってこと? 字面から受ける印象は八段格のほうが八段より格下に見えるのに 阪田三吉に引導を渡したのが木村義雄だからな。最初の実力性名人として、これ以上の人物はいないだろう。 >>124
空白の時代ね、、、
囲碁も廃仏毀釈もそうだが、明治維新が西洋かぶれで日本の文化を破壊したのがよくわかる >>182
建前:関西名人の俺が名乗れるわけない(公式に取り下げないまま参加した)
で折衷案として段位表記なしで参加 >>174>>176
連盟サイトに各有力棋士の証言があったよ。
https://www.shogi.or.jp/history/story/index07.html
やはり坂田は「その時点での実力No.1」として推されたもので、
関根は「長年の実績No.1」として推されていたようだ。
生涯対戦成績というのは全く言及されていない。
小野が坂田を推薦したというのも関根との確執によるものという見解。
そして、「その時点での実力」は不安定なもので、
実際この後すぐ土居に奪われたし、
それで名人を決めると異論が出て分裂しかねないが、
「長年の実績」で名人を決めれば丸く収まる、
というのがだいたいの合意のようだ。 昔の将棋界は劇画的で面白い
南禅寺の決戦とかワクワクする >>188
その記事読むと普通に坂田も有力みたいだけど…? >>188
その時点での実力No.1は土居
それまでの実績:関根>坂田>土居
現時点での実力:土居>坂田>関根
関根に決まったのは実力No1の土居が関根門下だったことと当の坂田が関根を支持したことが大きいと思う しかし関根は井上義雄を名人にしようとしていた
ここが不思議なんだよな
今の目線で見ると井上よりも関根のほうが実績も上なんじゃねーの?って思えてしまう
これは関根なりに井上に対するリスペクトがあったからなんだろうか >>193
金易二郎が井上門下から関根門下に移りたいと願い出たときも関根は井上先生に失礼だと金を叱責したらしい
それで金は一時的に引退して実家に帰るしかなくなってしまった
関根は人を立てるのが上手い人だったんだろうと思う
元々は伊藤家の門下だったけれど伊藤宗印死去後には大橋家に移って棋力の低い大橋宗金に代わって門人の指導をしたり門下生を集めたりと奔走したそうだ
基本的に目上の者を立てて人脈を作っていくという社会性に長けた人
将棋しかできず不器用で孤立しがちな三吉とは好対照な人物 色々エピソード見てると関根井上坂田ってライバル関係ではあるけど別に仲悪かった感じはしないよな
羽生森内康光みたいなお互いをリスペクトし合う関係に見える
実際に名人位は奪い合ったというよりもお互いに譲り合ってるし >>195
むしろ土居と関根は仲悪かったと言われてるんだよな >>191-192
1916年までは、関根>井上>坂田
1917年の対局では、土居>坂田>関根
1919年の対局では、坂田>土居
1920年に井上が死去。
1921年に小野が死去。
勝ったり負けたりで、実力No.1を判断するのは難しい状態だな。
どちらが名人になっても棋界分裂しかねなかった。
(結局分裂するんだけど、それが早まった可能性が高い)
どうしても実力No.1を決めたいなら争い将棋で決めればいいが、
そうしなかったのは、そうするまでもなかったという事だろう。
結局話し合いですんなり解決しているし。 >>197
まあ坂田が関根さんが名人と言ってる時点で決まりだよな やる夫が神武以来の天才になるようですってスレみたら木村名人すげーってなる おお、俺以外にもやる夫スレを知ってた人がいたとは
あれはやる夫スレの中でも超大作&力作だから興味がある人は是非読んで欲しい
江戸時代の名人もまとめてくれてるのであれだけで将棋の歴史は大体網羅できる
本編が加藤一二三主人公で木村名人の部分は外伝だけど 東公平の本に載ってたけど関根は脳溢血をやってたとかで坂田との対戦時で既に下り坂だったらしい >>202
昔の棋士の引退って割といい加減な気がする
木村は他に全日本選手権にも出てる
木村が名人失冠して引退したというのは現在で言うフリークラス宣言みたいなものだったのかも >>159
強さが第一基準なら一人九段の名人の推薦が一番尊重されなければおかしい。
強さの絶対基準である名人から相対的な距離で段位が決まるんだから。
強さを基準に三人も候補が挙がるのもおかしい 確かに木村は引退宣言後もいくつか対局をこなしてるね
とはいえ当時は名人戦・順位戦が将棋界のほぼ全てだったわけだし
現在のフリークラス宣言みたいなものではなくてやっぱり「引退」という感覚なんだろうな
今の感覚に当てはめるなら最近バラエティ番組で指してた加藤一二三みたいな感じじゃないか? 名人 「--」はタイトル戦存在(開催)せず。 「↓」はタイトル戦開催がなく引き続きタイトル保持。「×」は敗退。
☆☆ 木村義 大山康 中原誠 羽生善
23歳 ------ ------ ××× 01期目
24歳 ------ ××× 01期目 02期目
25歳 ------ ××× 02期目 03期目
26歳 ------ ××× 03期目 ×××
27歳 ------ ××× 04期目 ×××
28歳 ------ ××× 05期目 ×××
29歳 ------ 01期目 ↓↓↓ ×××
30歳 ------ 02期目 06期目 ×××
31歳 ------ 03期目 07期目 ×××
32歳 01期目 04期目 08期目 04期目
33歳 ↓↓↓ 05期目 09期目 ×××
34歳 ↓↓↓ ××× ××× ×××
35歳 02期目 ××× ××× ×××
36歳 ↓↓↓ 06期目 ××× ×××
37歳 03期目 07期目 10期目 05期目
38歳 ↓↓↓ 08期目 11期目 06期目
39歳 04期目 09期目 12期目 07期目
40歳 05期目 10期目 ××× ×××
41歳 ↓↓↓ 11期目 ××× ×××
42歳 ××× 12期目 13期目 ×××
43歳 ××× 13期目 14期目 08期目
44歳 06期目 14期目 15期目 09期目
45歳 07期目 15期目 ××× ×××
46歳 08期目 16期目 ××× ×××
47歳 ××× 17期目 ××× ×××
48歳 引退済 18期目 ××× ???
49歳 引退済 ××× ××× ??? 大橋宗英と天野宗歩は棋譜を並べて物凄く強いのが分かった。
木村義雄の強さは分かりづらかったので、オススメの棋譜をあげてもらえないか? >>202
終生名人制ができた時の将棋新聞(1949/9/15)には、終生名人を襲えば名人戦(順位戦)には出場できないが、新聞棋戦は当人の自由であるとしている
当時は、三大タイトル以外は自由棋戦という扱いで、区別されてた
自由棋戦の将棋は現在公式戦扱いで、木村名人と戦った棋士は公式戦として記録されてる(他には時事大阪の東西対抗勝継戦の記念対局や、静岡新聞の新春お好み対局などがある) 昔は新聞社同士の諍いとかもあって面白い
今は足並み揃えないとすぐに傾く産業になってしまったが >>204
小野は関根の争い将棋から逃げた時点で、
自分との実力差を測る気なんてサラサラ無いでしょ。
それに、小林や関根も他者の段位認定をする権限を持っていたから、
小野だけが強さの基準として絶対視されていたわけではない。 >>210
関根は争い将棋を仕掛けようとした自分が悪かったと反省してるぞ >>211
それと棋力を測るのは別問題でしょ。
小野は名人なってからまともに将棋指してないし。 >>212
いやそれは小野に限らないよ
基本的に江戸時代から関根までの歴代名人はほとんど指してない
名人職は会長的な立場なので将棋よりも事務をこなしていた >>213
これは、
「強さの絶対基準である名人からの相対的な距離で段位が決まる」
という>>204に対して、
「小野は相対的な距離なんか判断してない」
という意味で言ったんだよ。
「名人は事務をこなすものであって相対的な距離なんか判断しない」
と言うのであれば、自分とほぼ同じ事を言っている。 >>203
>>205
>>208
おぉありがとう
「永世名人襲位は引退後」というのは「名人戦(順位戦)から引退後」が本来の意味だったわけね 木村義雄の全盛期は、棋界における独占度と突出度において歴代No.1と言ってよいと思う。さらに木村の実績を現在の感覚で言えば軽くタイトル獲得50期以上に相当するんじゃないかな。 >>217
ちなみに明治の相撲界にも『常勝飛将軍』と呼ばれた横綱・小錦八十吉がいた。 「名人は将棋の神に選ばれた人間しかなれない」と言われるけど、
そういう天運を本当に持ってたかのような人物だよなあ木村名人。
坂田三吉に引導を渡し、常勝将軍として君臨し、人気も抜群の国民的ヒーローで、盤外にも手腕を発揮して近代の将棋制度を整えた。
最初の実力制名人として、これ以上の人物はいないだろう。
81歳(盤寿)の将棋の日(11月17日)に亡くなった死に様まで含めて、本当に将棋の神に愛されてたのかもな。 「実力制名人」の名に相応しい木村の活躍で、将棋界の人気も高まったけど
もし木村がいなければ初期の名人はコロコロ入れ替わる事態になっただろう。(実際囲碁の方はそんな感じ)
そうなれば、「実力制名人」の看板は微妙なものになっていただろうし、将棋界の発展は全く違ったものになってた可能性は十分にある。
将棋界の変革の時代に、これほど傑出した人物が現れてくれたのは幸運だった。 あとスレチで申し訳ないが、
このような思いは藤井七段にも感じている。
ソフト問題で危機に陥っていた将棋界を、彼は救世主のようなタイミングと奇跡的な活躍によってブームに変えた。
才能からして彼は天運を持ってるとしか言い様がないし、
神に選ばれたかのごとき巡り会わせを持った人間っているんだな。
本人の性格からして彼はそういうのを否定すると思うけど。 木村義雄は人間も将棋も華がある
マイコミは木村義雄全集をハードカバーで出すべきだ 数年後には聡太の強さに笑いが止まらないだろうね。
いや、棋士たちには笑えない現実。
今のうちに戦前のどさくさプロ()棋士で盛り上がっておくといいよ。
大山と羽生なんて論争も、恥ずかしくて誰もしなくなる未来が読めるわw 50年後に将棋の藤井といえば「藤井システムの藤井さん」て事になってると思うわ >>44
この値は中盤以降の指し手の評価だったはずだから藤井が上位棋士に負けるのは序盤の差と推定すれば納得できる
中盤以降が全盛期羽生近くなら1番下から指して29連勝したのも納得だろ
その後負けが混んだのも序盤で対策されたんじゃないか ここの人達の造詣の深さは凄いね
一通り見たけど凄い勉強になったわおりがとう
個人的な感想なんだけど明治末期〜大正期にかけては
少なくとも木村・大山のような断トツ時代の最強者はいないという結論でおk?
坂田関根とほぼ同世代の井上義雄も名人候補だった強豪だし、
木見金治郎は名伯楽としての評価の方が高いが、彼だって棋士としても指し盛り期は
相当な強豪棋士だったんだろ?
もし今のような8タイトル環境だとしたら
明治末期は坂田関根井上小菅あたりが、大正前期はそこに木見や土居が加わって
今と同じような戦国時代状態だろうか?
大正後期あたりから土居が第一人者だった時代が10年くらいあると思うけどどれくらい傑出してたんだろう? >>224
いやそういうのって羽生が七冠の時に経験してるからね?
棋界にとってそこまで衝撃的ではない 木村義雄十四世名人は天野宗歩以来の圧倒的な時代の最強者だったのかね
全盛期は八段相手に半香落ちの手合いですらほとんど負けなかったという >>230
引退してなかったら小菅がダントツだっただろう。
小菅は関根より3歳年上だが、28歳に七段で引退した時、
関根はまだ四段だった。(5年後に関根も七段になる)
引退してだいぶ経ってから八段連中と指しても負けなかったらしい。 木見は日本将棋大系で弟子の大野や大山に将棋を酷評されるレベルだけど
とにかく受けまくる将棋からは大山将棋の源流のようなものも感じる
大野振り飛車の元祖ともいわれてる >>230
木村ほどの傑出度の人物は天野宗歩まで遡らないといないかと思います
しかし実際には明治大正期の棋士の強さというのはよく分からないというのが真実です
なぜかというとこの時代はトップ棋士同士の対戦が非常に少ないんですね
江戸時代にはよく知られているように御城将棋というものがあり現在では名人戦があるのですがその移行期の明治大正期はトップ棋士同士の対戦は数年に一度しか行われていないのです
多分に主観が入っていますが最強者の変遷を辿ってみます
まず明治の三強と言われているのが宗印、大矢東吉、小野五平の三人です
この他に大阪には天野宗歩四天王の一人の小林東伯斎が健在だったのですが当時は関西の棋士と関東の棋士は基本的に対戦しないのでどの程度の棋力だったかは不明です
しかし小林は天野宗歩四天王の中では市川太郎松に次ぐナンバーツーとされていた人物で長寿だったがために市川よりも出世しましたが最強者ではなかったのではないかと考えています
宗印大矢小野の三人の中で誰が強かったのかというと通算の対戦成績から言えば宗印>大矢>小野となります
小野名人は大矢東吉よりも弱かったとの評は現在も伝わっており当時の人々の認識も同様だったのではないかと思います
しかし宗印がそこまで圧倒的な存在だったのかは疑問です
名人就位には大矢や小野から待ったがかかっており三者の実力は僅差であったものと思われます
大矢東吉は脳の病で宗印よりも早く亡くなってしまい名人は継げなかったのですが宗印と同世代の小野が名人位を継ぐに際しては関根が異論を唱えたりといったことはありますが宗印ほどのトラブルもなく当時の棋界で三強に続く者がいなかったということかと思います >>235
小野のあとは小菅関根井上坂田の四者が出てくるわけですが小菅関根は同門だったので練習も含めて手合わせが多く小菅のほうが強かったという評価が確定しています(他に相川治三吉という人も強かったようですが若くして姿を消しています)
ちなみに関根金次郎は24歳のとき(1891年)に関西へ行って当時81歳の小林東伯斎に角落ちで敗れています
小林が凄すぎるのではないかという気もしますが20代前半までは関根はそこまで強くもなかったと考えるのが妥当かと思います
関根はこのときに坂田とも対戦していて坂田には勝っています
坂田がプロを目指すようになったのはこの後なので当時はそこまでではなかったはず
あとは井上ですが若い頃に関根や小菅と比べてどうだったのかというのは不明です
というのは井上は30代までは関西で活動していて全く対戦がなかったからです
しかし1907年に開催された神戸大会では関根と初めて対戦して1勝2敗と負け越しています
これらの事実を総合すると1890年頃には小菅が最強であったと思われます
しかしこの小菅は20代のうち(1893年)に実業家&政治家に転身してしまい将棋は片手間でやるようになったので覇権を握ることはありませんでした
小菅が去ってからは関根が上達してトップを走り僅差で井上が追う状況であったと思われます
実際に関根は井上よりも2年早く八段を手にしています
その後遅れて急激に成長してきたのが坂田ですが残念ながら実は全盛期には大阪で活動していたため関根とはあまり対戦していません
1913年に関根に勝ったのが有名ですがこの頃には土居に平手で負けています
おそらくこの時期にはすでに土居が最強者になっており関根坂田井上は三者ともに抜かれていたと言えるでしょう
しかし1921年の関根名人就位時には「実力で言えば坂田」という記事が新聞に掲載されたりもしているので土居がトップを取ったあとも坂田は長らく一線級を維持して対抗していたはずです
その直後からご存知の通り木村義雄が土居を抜き去ります
となると最強者は宗印→小野→小菅→関根→坂田→土居という経過を辿ったのではないかと考えられます
しかしいずれの時代も僅差で追うライバルがおり木村や大山のような圧倒的存在はいなかったでしょう
小菅が専任棋士として活動していれば木村のような存在になったかもしれませんがそれは分かりません 文句なしに凄かったんだろうけど、数字がほとんどないだけに反応しずらいわ >>236
宗印が名人になる時に異論が出たのは、
名人になる制度が無かったからじゃないかな?
幕府が崩壊してプロ棋士制度そのものが消滅したので、
名人を自称しただけと受け取る人がいても不思議は無い。
若い頃は天野宗歩や大橋宗aとも平手で指したトップ棋士で、
明治には宗印と平手で指せる人がいなくなったから、
実力は抜きん出ていたと思う。
小野の場合は本当に自称しただけ。(なし崩しに追認させた)
宗印が亡くなる前後は既に小菅が最強棋士だったはずなので、
小野が最強だった瞬間は無いと思われる。 うーん木村十四世も凄いんだろうけど、数字が残ってる部分で比べるとどうしても大山十五世の方が上のように感じる
せめて、大山に名人戦で負けた後も引退しないで活躍してたら年長記録とかで評価しようもあるんだけどね
木村十四世名人 1937〜1952
名人戦11回開催 登場10回 獲得8期
名人戦勝率 0.800 タイトル占有率0.727
大山十五世名人 1955〜1970
名人戦16回開催 登場16回 獲得14期 名人戦勝率 0.875
タイトル戦75回開催 登場70回 タイトル獲得58期 タイトル戦勝率0.828 タイトル占有率 0.773 >>238
宗印と小野は八段昇段の件でも揉めてる
単純に仲が悪かったのかもしれない
そもそも小野は家元の養子にならずに八段まで昇段した初めての人物で普通に実力もあったと思われる >>239
もう45なのに若くて脂ノリノリの大山升田を連続で退けたんだから弱いはずが無いだろw >>235
>天野宗歩
私はこちらの方が気になります、中島敦(「山月記」)が宗歩の棋譜を並べていたそうですね >>244
郷田真隆は天野宗歩の棋譜を見て羽生より強いと思ったそうだ
現代に転生して現代の定跡を覚えれば確実に七冠王になるとインタビューで語ってる >>239
その辺は仕方ないところがあるなあ
分野が違うけど、戦前の指揮者で三大巨匠と言われる人がいるんだけど
ステレオ録音を唯一残した人の演奏
は未だに売れている
目に見えるものしか評価なんてできないし >>240
小林東伯斎は一番謎が多い大物だと思ってる
天野宗歩四天王の一人だが天野宗歩と行動を共にしていた期間がない
しかも宗歩よりも歳上
大橋分家の門下だった時期もあるみたいだがいついかなる理由で離れたのか不明
80歳を超えて関根に完勝する異常な晩成型
最強クラスだったはずなのに残されている棋譜がほとんどない
色々な本に関西の第一人者として名前が出てくるけれど経歴が謎すぎる >>238
宗印の晩年には小野が宗印よりも強かったと思われる
というのは宗印の長男が将棋が原因で自殺してしまいそれを悔いた宗印は自宅の将棋板を処分してしまった
それ以降は棋界の事務処理しかしていなかったはず >>245
低段時代の羽生は華麗に勝ちを決める将棋が少なかったからな
勝ち将棋では鬼畜なまでの辛さを見せ
負け将棋ではクリンチして相手のミスを待ち、最後うっちゃりで勝つ
芹沢も「羽生は大したことない。阿部隆の方が筋がいい」なんて言ってたからな
華麗さと強さはイコールではないんだろう
天野宗歩は華麗に勝って見せるから郷田の評価が羽生より上なんじゃないか 最近の書籍で千田定跡使ったとかどうとかで問題になる事があるけど
木村名人が墓から蘇って主張してたらえらいことになるな >>248
それはおかしいな。
宗印の棋譜は晩年の1892年まで残っている。
年少の相川治三吉を特に可愛がっていたみたいだから、
息子を亡くした傷心が癒えたのかもね。
1890年には指し盛りを迎えた小菅に角落ちで勝ってるから、
圧倒的強さを保っていたと思われる。
(あくまで指導対局だから絶対視はできないけど) >>251
今の森内みたいなもんでトップでやる気力はなくなってしまったけれど過去に鍛えた棋力でたまに指して勝っていたという感じかね >>239
木村の場合、名人戦が最初2年に1回だった分ちょっと損してるが、
仮に毎年名人戦があったとしても大山より数字は低いね。
更に、大山は棋戦数が多くてハードスケジュールでの記録なので、
突出度は大山がダントツと言っていいレベル。
ただ、最初の名人戦での直接対決で木村が勝ったので、
格付けとしては木村がちょっと上だと思う。
若き升田大山塚田らを相手にしていた木村は条件が厳しく、
衰えた升田だけを相手にしていた大山は条件が緩い。
(二上加藤らは大山の眼中に無かった) 詰将棋作家で将棋史研究家の門脇芳雄さんが書いてる
伊藤家断絶というけれど実際には断絶したのではなく息子の一人が自殺したことを機に八代宗印が他の息子には将棋をやらせないと決めて自分の代で家元を終わらせてしまっただけだそうだ
門脇さんが実際に八代宗印の子孫にインタビューして判明した
ちなみに門脇さんの取材に基づいて日本将棋連盟が伊藤家の墓を永代供養している 1756年生まれ 大橋宗英
↓12年
1768年生まれ 伊藤宗看
↓27年
1795年生まれ 大橋柳雪
↓21年
1816年生まれ 天野宗歩
↓10年
1826年生まれ 伊藤宗印
↓39年
1865年生まれ 小菅剣之助
↓22年
1887年生まれ 土居市太郎
↓18年
1905年生まれ 木村義雄
↓18年
1923年生まれ 大山康晴
↓24年
1947年生まれ 中原誠
↓23年
1970年生まれ 羽生善治
↓32年
2002年生まれ 藤井聡太
絶対的王者はやはり20年くらいの周期で現れる
これは世代が近すぎるとどうしても直接対決の勝敗でどちらかが格下に見られてしまうからだろう 平成の層が厚い時代に32年も羽生の後釜が出てこないってやばい >>258
そこは中原と羽生の間が23年しかないからじゃないかな
もし羽生が後10年遅く生まれてたら間の谷川が覇権握ってただろうし
やっぱり自分より強いやつとそこそこ世代空いてるというのが重要なんだよ
その点中原はベストなタイミングで生まれた
谷川がもっと早く生まれてたら谷川に食われて中原が王者になれなかったかもしれない 宗印と小菅の間の39年間はマジで空きすぎだと思うんだが >>255
そんな単純なものではないと思うけどな
小菅は絶対王者になれた「かもしれない」ってだけで20代で将棋から引退してるから覇権を握ってない
木村義雄が天野宗歩以来の圧倒的最強者で、明治大正期に絶対王者と居えるほどの圧倒的な棋士は出てきてないという評価が正しいと思う
宗印以降に空白の世代が出来ているのは家元制の崩壊で将棋が断絶しかけた影響が関係していると思ってる >>241
小林東伯斎は「八段半(自称)」だから小野より強いぞ(たぶん)。
もちろん宗印はそれより強い(たぶん)。 >>245
全盛期の天野宗歩を現代に転生させて最新定跡を覚えさせれば七冠制覇できると言ってるのか、天野宗歩が現代に生まれて幼少期から効率良くトレーニングをして最新定跡も覚えれば七冠制覇出来ると言ってるのか
どちらも転生だけど、このふたつじゃ大分意味が違うよね 渡辺明 タイトル20期 永世竜王、永世棋王
谷川浩司 タイトル27期 永世名人 >>259
谷川の期歴を見てるととてもそうとは思えないがな
80年代は中原・米長・55年組等と覇権争い、90年に3冠になって抜け出すも、92年に羽生が3冠とって立場逆転になるのが正史だけど、
羽生を抜きに考えても、谷川は康光相手に90年代後半から直接対決でもレーティングの上でも互角程度の力関係となっている
90年代前半の段階で21歳の郷田に不覚を取ったり絶対王者というには隙が多い
要は羽生が10年遅く生まれてこようが谷川は絶対王者に至るほどの支配は出来なかったと見るのが妥当
羽生が台頭する(10年ずれると考えると2002年ごろ)まで谷川・康光を中心とする戦国時代が長らく継続していたんじゃないか
対戦成績
谷川浩司|36 - 42|佐藤康光
http://www.shogi-kishi-db.info/cgi-bin/shogi/vs.cgi?314&95
レーティング
http://kenyu1234.php.xdomain.jp/graph.php?name1=205&name2=154&name3=0&xaxis=0&yaxis=0 そもそも80年初期の時点で中原は一段階衰えて絶対王者と呼べるレベルの棋士ではなくなった
80年代は総じて(一段階弱体化した)中原・米長・谷川・55年組らが争う戦国時代だった
そんな環境だったのだから谷川は絶対王者になるのならもっと早く抜け出さなければならなかったのだ
確かに彼は将棋の終盤を変えた名棋士ではあるけども、同時に彼は米長相手にも負け越しているし、
(羽生を抜きに考えても)絶対王者状態を築くにはやはり力不足の棋士だったのだろう
谷川浩司|33 - 36|米長邦雄
http://www.shogi-kishi-db.info/cgi-bin/shogi/vs.cgi?314&222 >>261>>265
もし羽生が23歳ぐらいでチェスに転向でもしていたら、
明治大正期のような状況になってそうだね。
今では考えられないような大事件だけど、
棋士の身分が低く不安定だった時代の象徴かもしれない。 野球ではこういうのがある
将棋界も日々レベルアップしていく中で過去のレジェンドをどう扱うかは考えないといけない
Q. もし、あなたが現代野球でプレーしていたら、どのくらいの成績を残せると思いますか?
★王貞治★ 試合に出してすらもらえないんじゃないかな。打者のスイングだけ見ても、私の時代とは全然レベルが違うからね。
でも、もし私が生まれ変わって、現代の栄養状態、現代のトレーニング方法で勝負するってことなら、今の選手にも負けるつもりはないよ。
★野村克也★ よく聞かれるけど、いつもこう答えてるんだよね。「レギュラーにもなれません。今の野球はレベルが高すぎます」って。
「謙遜しないで」って言う人もいるけど、むしろ自慢してるんだよ。新しい技術や戦略を導入して、プロ野球のレベルアップに貢献してきたことが、俺の誇りだから。
★金田正一★ ワシなら600勝できるよ。今の時代は160キロくらいで騒いでるけど、ワシの現役時代は軽く投げて180キロが当たり前だった。
それに、最近の選手はすぐに故障で離脱するね。自己管理ができない選手は二流。ワシは身体が資本だと思って、水にまで気を使って生活していたもんだ。
★長嶋茂雄★ いわゆるバットマンの一人としてはね、ボクもやはり3割くらいは打ちたいよ。うーん、しかし今だとせいぜい2割かもねぇ。
もう少し早くこの話があれば良かったんだけどねぇ。いわゆる脳梗塞というやつをやってしまって、もうバットを握れるのは左手だけなんだ。 >>265 >>266 続き
谷川は「中原と羽生に挟まれて時代を築けなかった不遇の棋士」みたいな評価をされることが多いけど、
彼に関してはむしろ逆の見方だって出来るんだよな。
「中原と羽生の全盛期からある程度ずれていたお陰で実力以上の実績を積む事が出来たラッキーな棋士」という評価。
なぜなら対戦成績だけで判断すると、
谷川は米長康光だけでなく、実は森内丸山藤井三浦あたりと比べて格上とは言えないんだよ。
(森内はまだしも丸山藤井三浦はさすがに調べてビックリした。ここら辺にはさすがに明確に勝ち越せているだろうと・・・)
にも関わらず谷川は彼等より上の実績を残すことができた。
これが彼はむしろラッキーな棋士だったのでは?と捉えられる理由である。
もし彼の生まれるタイミングが異なれば、
中原or羽生の全盛期と完全にかち合うことになれば、
彼の成績は目減りしていたかもしれない。
彼はむしろベストなタイミングで生まれたのかもしれない。
今現在の広瀬〜高見あたりのタイトルホルダーが
「羽生世代が衰えて、なおかつ藤井聡太が台頭する前のお零れにありつけたラッキー世代」
みたいな評価をされてしまっている所を何度か目にしたんだが、
今と同じような環境(中原・米長の衰え&羽生台頭前の1990年前後)で一番タイトルを稼げたのがまさに谷川なんだよな。
谷川のファンは今なお多いだろうし、対戦成績だけで全てを判断できるわけではないし、
そもそも谷川の話題はスレチなのでこれ以上の考察はやめておくが。 昔にロマンを求めるのはいいけど、やっぱり木村以前は競争する土台が出来上がってないよ。
今は150人の棋士と生涯1000〜2000局戦うんだもん。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています