木村義雄・十四世名人が強すぎて笑うしかないんだが
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江戸時代の将棋指しで一番有名なのが非家元の天野宗歩だからな
宗歩門下を自称して非家元初の名人になった人もいたぐらいだし かつては棋戦・タイトルがなかったので、名人位、段位の持つ意味が重かった
今はとても軽くなってしまった 昇段条件に勝利数を加味するのはおかしい。規定の勝ち星をあげるまで何回負けてもいいんだもん。やっぱり順位戦のクラスのみで段位を決めるべき。 木村名人の段位は八段だったんだね
当時はまだ段位としての九段がなかったので仕方ないが、後に寄贈しなかったということか
大山・升田の師匠の木見八段は、九段を贈られているのに いくらなんでも十四世名人>>>>>>>>>>>九段では? 塚田九段も段位は八段だったらしい
九段と呼ばれるのは、タイトルとしての九段で永世九段だったから >>479>>481
おそらく、創設当初の「九段」は「八段より上の段位」ではなく、
「別格の棋士が他の称号も無い時に与えられる称号」だったと思う。
つまり、別格の棋士を「八段」とは呼びたくないから作った。
そう考えないと「名人」より「九段」が上になって辻褄が合わない。
「九段」が作られる前の「別格の棋士(木村・塚田・大山・升田)」は、
「名人」「前名人」「十四世名人」「王将」「九段」「永世九段」など、
何かしら称号を持っていた。
つまり、この4人は段位が「八段」のままだったのではなく、
「何段なのか考える必要の無い、段位を超えた存在」になっていたわけだ。 その状況証拠と言えるかどうかわからないが、
段位としての「九段」が設けられたのは、
升田が三冠達成した後、大山が王将を取り返して更に名人挑戦を決め、
その名人戦が始まる直前の事だった。
この時、仮に大山が王将獲得できず、名人挑戦もできず、
更に升田が名人を誰かに奪われていたら、
大山は「八段」を名乗らなければならない状況になっていた。
おそらくそのために協議が行われて、
名人戦の前に「九段」を設けて間に合わせようとしたんじゃないだろうか。
大山は復調してせっかく作った「九段」も名乗る事は無く、
せっかくだからと「九段」を名乗る事になったのは升田の方だったが。 そう考えると、昇段規定を緩和して九段だらけにしてしまったのは、よくないことだったね
「段位を超えた存在」が名乗るものにしておけば、羽生さんが九段を称しても、何も違和感がなかった 九段を名乗れるのは、永世名人、永世竜王に限るのが、いちばん筋が通っていると思う
竜王戦はもともと九段戦だったからね まあ、元名人竜王経験者だったら差し支えはないんじゃないかという気はする 段位と別にガチ強さの順位戦と級がある訳だから
段位の方は長くやることによる功労賞的なのもあっていいじゃん 勝ち数既定だけではなく、永年勤続表彰・将棋の日表彰、引退者表彰とか、
いろんな機会に昇段できるので、年功的な意味が強くなったね
昔は順位戦昇級しか昇段できなかった >>490
九段乱発はまだいいけど、功労賞はダメだな。
一瞬でも実力で九段(並のA級八段より強い)に到達した人が、
衰えても九段を名乗れるというのは、
段位の本来のあり方なので何の問題も無い。
しかし、一度もその実力に到達していない人が、
勝数を積み重ねて九段を名乗るというのは詐欺だろう。
功労賞が必要なら、
「名誉九段」(金易二郎、加藤治郎、高柳敏夫、佐瀬勇次)
「贈九段」(大野源一、花村元司、坂口允彦、灘蓮照、松田茂役)
「追贈九段」(山田道美、板谷進、村山聖、真部一男)
などがある。 どうしても勝ち数規定を入れたいのであれば、その間の 勝率も評価対象とすべき。そう、奨励会の昇級・昇段規定と同じように。 八段昇段後250勝すれば九段、という勝ち数既定が導入されてから、九段の価値が
あまりなくなった
「A級八段より強い」九段ではなくなり、すでに衰えて弱くなった人が九段になることも
多くなった 権威のない九段が増え過ぎた
現役棋士で九段を名乗って遜色ないのは、
谷川、羽生、森内、先崎、佐藤、丸山、藤井、郷田、渡辺、豊島
くらいではないか? 今更どうなるものでもないが、名人を取った者だけが九段に昇段できるようにすべきだった。
名人は別格なんだから。 そうすると、谷川・羽生・森内・丸山・佐藤・豊島が九段、
渡辺・先崎・藤井・郷田は名誉九段かな 升田が弱い九段が増えたことを猛烈に批判していたよね。九段は名人の段だからと。 もともと八段リーグが今で言うA級で、
名人経験者が九段だったんだっけ 「永世名人」になれば九段なら、現役棋士で九段は、谷川・森内・羽生だけになる 段位と棋士の格が直結していた時代の方が芸事としての権威は感じられる そもそも段位というのは江戸時代中期まではなかった
それ以前の将棋指しについて○段と呼んでいるのは名人=九段として名人との手合割(江戸時代は香落ちで2段差、角落ちで4段差、飛落ちで6段差)で後世で逆算しているだけ
江戸時代には段位に差がある場合に平手で対局すること自体がなかったからこれはある意味で正しいのだが
そして九段というのは名人(現在で言う永世名人)の段位であり八段は次期名人の段位だったので一般の棋士にとっての最高段位は七段だった
天野宗歩が七段なのもそういう理由
同時に複数の棋士が八段を名乗るようになるのは明治以降 木村美濃伝説の記事を置いてくださった方ありがとうございます >>466
あ、元祖森内2世は佐藤天彦
あ、黒歴史邪道名人 三代伊藤宗看と大橋宗民(四代宗与)が同時に八段だったことがあったような気がする 四代宗与が八段になったのは三代宗看が名人になった後では? かつては段位と順位戦が対応していたが、順位戦とは無関係に昇段するようになってから
段位がおかしくなった 佐藤、丸山、天彦は名人2期以上なので、
塚田、升田と同じように実力制〇代名人の有資格者だと思うのだが、
その場合、加藤、米長は代数に数えるのかね? 先崎が入るんなら、タナトラ、ミッチー、塚ポン、2ch名人、マレーシアも >>517
規定をよく読むと「名人3期もしくは抜群の成績で2期」と書いてある
抜群の成績かどうかどのように判断するのかは不明だが佐藤丸山は外される可能性もある >>519
へー知らなかった。
でも、佐藤は升田、塚田にそん色ないと思うな
〇は微妙か >>520
曖昧な規定というのは結局のところ連盟の理事次第になるよね…
60歳になったときに実力制名人の称号を決めるらしいけどそのときに誰が会長やってるかで判断変わりそう 落ち込むのと失望は違うんよ。 だって、落ち込んでても夢や愛は信じとるもん。 そもそも、「名人3期もしくは抜群の成績で2期」
というのは「九段」の昇段条件で、
別格の棋士にだけ与えられる段位だった。
後に昇段条件が大幅に緩和されて九段がたくさん増えた時に、
別格の棋士である升田を並の九段と同列に呼びたくないから、
升田のために特別に作ったのが「実力制第○代名人」の称号。
(升田本人は嫌がっていて一度もそう名乗らなかったが)
塚田は升田よりも前に条件を満たしていたのでついでに贈られたが、
「永世九段(名誉十段)」があるのでそう呼ばれる事すら無かった。
康光、米長も「永世棋聖」があるから関係無いし、丸山は実績が足りない。
問題なのは天彦だが、別格中の別格である羽生が「九段」を名乗ったので、
もはや特別な称号で呼ぶ必然性は無くなったと思う。 【日本将棋連盟公式序列一位期間】
18年間 大山康晴(1952-1956、1959-1971)
13.5年間 中原誠(1972-1981、1985-1987、1990前)
13年間 木村義雄(1937-1946、1949-1951)
12.5年間 羽生善治(1992後-1993前、1994前-1996後、2001後-2003後、2008前-2010後、2014前-2015後、2017後-2018前)
−−−−−−−−(10年の壁)−−−−−−−−−−−−−−
7.5年間 谷川浩司(1983-1984、1988前-1989後、1990後-1992前、1997前-1998前)
−−−−−−−−(7年の壁)−−−−−−−−−−−−−−
5.5年間 森内俊之(2004前-2007後、2011前、2012後、2013後)
3年間 渡辺明(2011後-2012前、2013前、2016前-2017前)
2年間 塚田正夫(1947-1948)
2年間 升田幸三(1957-1958)
1.5年間 佐藤康光(1998後-1999後)
1.5年間 丸山忠久(2000前-2001前)
1年間 加藤一二三(1982)
−−−−−−−−(1年の壁)−−−−−−−−−−−−−−
0.5年間 米長邦雄(1993後)
0.5年間 広瀬章人(2018後)
10年以上序列1位だった棋士が大棋士
一瞬成り上がっても10年維持できないのは本物ではない
木村の場合は、戦前戦後の人材不足に加え連盟を私物化して立場を維持していたため、かなりの水増し期間があると考えられる 大山の場合も、連盟私物化に加え、ライバルとなりそうな若手を盤外戦術を駆使し葬り去ってきたという、棋譜には現れない醜い闇がある >>524
戦後はともかく、戦前に人材不足なわけが無いだろ。 名人しかタイトルなかった時代の序列議論とか謎すぎるし、
そもそも名人失冠後も木村に前名人名乗らせて第一人者待遇維持したのは
塚田も含めた当時の将棋界のほぼ総意によるもの 現在の「永世名人」は、全盛期に名人5期獲得した棋士が、
引退後または60歳になった後に襲位するものだが、
関根名人の時代の「名人」もそれに近い。
(たまたま小野が長生きしたせいでそうなってしまった)
現在の「永世名人」が序列1位ではないように、
1921年当時、序列というものがあるとしたら土居が1位だったろう。
その5年後、木村は当時の八段を全員半香に指し込んだというから、
序列というものがあるとしたら、この時点で既に木村が1位だったろう。
実力制名人決定リーグが始まったのはそれから9年後の事で、
そこから木村が10年間名人を保ち続ける。
つまり、木村が序列1位だったのは約20年間という事になる。 木村さんは別格の棋士だったということだろうな
塚田さんは若いころはタイトルを取って勢いがあったが、壮年期以降はタイトルから遠ざかった 塚田さんは若くして王座になったけど、その後はタイトルから遠ざかっているな 塚田九段は早熟な才能を発揮したが、その才能は早く枯れてしまった どっかで正夫から泰明の話題にすりかわってるな
よくあることだけどw 塚田九段はタイトルからは遠ざかったものの、60歳でA級復帰したし、亡くなったときも
B1在籍だったから、そんなに衰えた印象はなかったけどな 升田「おれが太陽ならあんたは月だ」
塚田「月とはなんだ。おれが太陽であんたが月だ
升田「」
塚田「」
の人か >>535
塚田九段はマンション経営を始めてから棋力が落ちたといわれる 杉本師匠や栄ちゃんだけじゃなく塚ぽんもビル持ってたのか マンションも建てて家賃収入はあるし、きれいな奥さんと娘さんがいて幸福な家庭はあるし、
ハングリー精神がなくなったんだと思う 河口老師によれば、塚田さんは奥さんと仲が良くて、よくいっしょに酒を飲んでいたらしい
升田さんともよく酒を飲んだ 塚田さんは若手棋士にも酒に誘ったエピソードがある
無口で付き合いの悪そうな人だが、酒は好きだったのだろう >>536
野村克也が「王・長嶋がひまわりなら俺は月見草」と言ったのと
それに大杉勝男が「ワシなんかかすみ草」と言った話を思い出した 大山・升田は有名なエピソードが多いが塚田は無口な性格もあって、地味なイメージがある
だが、実は名言も残しているし、エピソードも多い 塚田九段は無口というより滑舌が悪いんだよ
解説を聞いていても、何しゃべっているんだかわからないことがある 木村義雄→木村一基
塚田正夫→塚田泰明
升田幸三→増田康宏 >>547
塚田は無口なことで有名だぞ
解説者で出演して終局まで一言も発しないことがあった 木村義雄→木村政彦
大山康晴→大山倍達
羽生善治→羽生結弦
藤井聡太→藤井猛 ラジオ番組に出演して咳払い一つしかせずに出演料もらった話かな
平成の棋士だったら塚田正夫伝説とか作られてたかもしれん そんなエピソードがあったんだ?
最近はyoutubeとかニコニコ動画に出演しているけど、そこそこ話すけどね 加藤一二三には真似できそうにない,木村十四世名人の鰻重の話
ttps://shogipenclublog.com/blog/2009/08/26/木村十四世名人の鰻重/ 実力制度になって名人がコロコロ変わる恐れもあったが
木村が絶対王者として君臨してまさに期待通りの結果になったことに
当時の関係者は安堵していたことだろう
アマ彦や脱糞のように名人だけ守って
雑魚棋戦を捨てるような行為はw >>1
木村義雄ってそんな化け物だったのかよ
そりゃ「木村美濃囲い」と囲いに名前を残すのは当たり前か 木村美濃で同格の八段相手に香落ち上手で無双してたのは戦前の話だったかな 当時の八段棋士(トップ棋士)と木村名人の差が大き過ぎる
木村名人は、今で言えば、羽生・豊島・森下・佐藤・深浦を併せたくらいの突出した存在だった >>563
当時は周りのレベルが今よりも低かったという事情もあるかも知れないけどそれを差し引いても凄い傑出度だよねこの人
周りのレベルが低かった理由が棋書とか定跡が充実してなかったからってことなら木村名人は一体その環境でどうして強くなれたのかって話になるし
超人だよこれ 木村が大著「将棋大観」を書いたのがなんと弱冠23歳だからな
何で勉強したかというより、むしろ10代のうちから定石の体系化を志し、それらに適切な評を加えつつ23歳で出版までこぎ着けた、飛んでもない実力者だな >>564
そう
木村の時代はまともな棋書がほとんどなかった
歴史を辿ると江戸時代には家元三家が原則として棋書を門外不出にしていた(だから家元だけが圧倒的に強かった)
もちろん江戸時代に出版された棋書もあるんだがそれは例外的なものでそこまで充実した内容ではなかった
そして明治時代には家元自体が将棋をやめてしまう
そんな中で家元から権限を譲り受けて門外不出の棋書を自由に読める環境にあったのが関根金次郎
木村は関根の弟子として若い頃から詳しい研究内容に触れることができた
そして木村は23歳で「将棋大観」を執筆する
江戸時代の歴代名人たちの秘伝の研究を踏まえたうえで木村独自の研究成果で上書きした大著
これがその後の棋書のスタンダードになっていく
まさしく現代の将棋界は木村が作った土台の上に成り立っているのだ
まさしく偉人である 大山と比べて何か知名度に欠けるのは小野関根坂田木村あたりまでは神話の時代ってイメージだからかな
正直この人のことはよく知らなかったけどとんでもない名棋士だということがよく分かった 「実力制」の期待に応える絶対王者が黎明期に出てきたかどうかが今日の将棋と囲碁の人気差にまで繋がってるのかもな
何せ囲碁の方は実力制初期に本因坊がコロコロ変わってるからな
江戸時代は囲碁の方が格上と見られてたけど名実共に立場が逆転したのは
関根が囲碁界に先んじて実力制導入→木村が実力制名人の名に違わぬ圧倒的実力で国民的スターへ
の流れだろうな >>568
庶民の遊びとしてどれだけ普及したかというところが大きい気がする
将棋は駒の動かし方くらいは分かるって人はかなり多い
囲碁はルール自体は将棋よりもシンプルなのにちゃんと理解してない人が多い
もちろんこのあたりは木村名人の将棋大観という名著がベストセラーになったということも関係しているだろうからやはり木村は偉大ということになるが 木村名人だけが若いころから情報を持っていたということか
現在は、すべての棋士が棋譜を入手して、研究会に参加して、ソフトで研究できるが、
当時は情報が比較にならないくらい貴重だった
大山名人の自伝にも、棋譜を入手するのが難しくて、非常に貴重だったとあるから、
将棋を勉強するのが困難な時代だったんだろう 木村の「将棋大観」が出版されたのは、大山が5歳の時。
地元の師匠さんに付いたのが小2からで、
師匠さんの下でまだ出版されて間もない「将棋大観」で丸暗記の勉強を始めて、小6のときには全て暗記していたという。 >>571
関根名人の門下からたくさんのプロ棋士が出てるのは情報が集まってたからかもね >>553
原稿を依頼したら、「原稿用紙1枚で〇円」という原稿料について出版社側の無駄な出費を気にして、原稿用紙に改行どころか句読点すらない文章を書いて提出し、却って編集者が困ったという話を聞いたことがある。 >>570
木村から名人を奪った塚田正夫は雑魚じゃないぞ。
大山の挑戦を退けて名人を防衛し、更に九段を奪取するなど、
当時の大山を完全に上回っていた。
そして、その塚田から名人を奪ったのが、他ならぬ木村義雄その人。
更に木村は、大山と升田の挑戦を退けて名人を防衛している。
それも40代半ばで。
升田・大山が雑魚じゃないというのは周知の事だと思う。 関根・土居・木村と続いた関東の戦前の正統派将棋の流れを
戦後になって阪田の影響を受けた関西出身の升田と大山が完全に踏みにじった
そのせいで木村の全盛期の将棋の大半は技術的にはあまり意味のないものになった
今の居飛車正統派将棋の流れを作ったのは打倒大山に執念を注いだ若き日のひふみんだったりもする >>567
NHK杯の第1回優勝が木村名人なんだよね
NHK杯が始まって、一般人がメディアを通じて棋士に接する時代になったけど、
木村名人はメディア時代とその前の神話時代の分水嶺のような存在だったと思う
その後間もなく、47歳の若さで引退してしまったので、大部分が神話のベールに
包まれてしまったように感じる >>577
衰える前に引退したから神話の世界で神格化されたとも言える
なんせ負けるところを見た人がほとんどいないわけだから
泥臭く最後までやるのもカッコいいがこうしてあっさり身を引くのもカッコいいもんだな 木村の自伝でも、本人は引退したつもりはなかったが
なんとなく復帰しないでいるうちに病気にかかったので
事実上の引退ということになった、という趣旨のことが書いてあったような 木村名人は長寿で昭和60年代まで存命だったので、現役を続けていたら、あと30年
くらいは現役棋士でいられたかも知れない
中原名人や谷川名人に挑戦して名人奪取する姿も見てみたかった
そして、A級在位のまま81歳で逝去となったらすごいことだ 内藤先生の師匠の分析では
阪田先生は将棋指しとしては年が行ってから始めたから老齢でも指せた
木村先生は若い内から指してたので年の割りに将棋年齢が高いので早く衰えた >>566
江戸時代は出版が盛んで棋書もかなり出てるけどな
今の目で精査すると内容は玉石混交らしけど
木村義雄はそれらを収集してたけど戦時に燃えちゃったって自伝で書いてなかっかな >>583
まともな棋書が出るようになったのは江戸時代後期の大橋宗英から
宗英にしても公にしなかった研究は多いと言うし 関根の将棋論からして、角道自分から止めるのは疑問とかいって
矢倉と振り飛車全否定してたりもするから
家元の秘伝といっても、せいぜいその程度のものだった可能性もあり 大橋柳雪も天野宗歩も大矢東吉も小野五平も小菅剣之助も関根金次郎もみんな家元門下で修行していたわけだし当時は家元門下でないと得られない情報は多かったと思うけどね
棋譜なんかも今みたいにデータベースが整備されてないし家元しか持ってない棋譜もたくさんあっただろう >>586
宗歩の弟子として有名な小林東伯斎も家元門下で修行してた
在野の強豪と言われている人の中でもトップクラスはみんな若い頃は家元門下
家元に入門せずにトップクラスまでいった人は井上義雄と坂田三吉しかいない 昔の将棋って結構現代将棋に近い要素が多いんだよな
硬さよりバランス重視の陣形とか 石田とかは江戸時代の早い時期にちゃんとした棋譜出てるけどね
トップクラスが家元云々ってのはお墨付き与えるのも家元なんだから権威主義的観点からはそうなるのは当たり前
将棋ってゲームの魅力自体は家元制度とは関係ないけどね
美濃の起源とかだんだん早くなってるのも在野の良い棋書とかが徐々にみつかってるからだな
木村義雄はそういうのもしっかり研究してた可能性はあって、それが戦時に燃えちゃったの本当に残念 棋譜としては天野宗歩と八代宗印の実戦集が有名で、
みんなそれで勉強したらしい。
木村は宗印の孫弟子で、井上は宗歩の孫弟子だから、
その研究の蓄積もあっただろう。
坂田だけは完全に独学っぽいね。
晩学な上に勉強法も効率悪かったから、棋力の成長が遅く、
年をとっても勉強する事が多くて成長し続けたという事だろう。 >>588
そういやそうなるのかな
関根は特に根拠もなく消極的だとか気合いが悪いとか言ってただけだったようだけどね >>588
関根とか木村の時代の棋士の感覚は、今でも再評価できるのかも知れないね
「角道を止めて、振り飛車」「振り飛車には急戦」が常道だった昭和後期の
将棋のほうが、変わった感覚だったのかも知れない タイトル獲得・防衛の全体の年長者ランキング
大山康晴王将59歳0ヵ月
二上達也棋聖50歳0ヵ月
米長邦雄名人49歳11ヵ月
羽生善治竜王47歳2ヵ月
木村義雄名人46歳3ヵ月
木村一基王位46歳3ヵ月
木村名人の最後のタイトル防衛と木村王位の初タイトルの年齢が全く同じだったんだね
名前以外の繋がりは特に無いけど奇妙な縁を感じる
繋がりと言えば
7度目のタイトル挑戦で悲願の最年長初タイトを獲った木村は
7度目の名人挑戦で悲願の最年長初名人(49歳11ヶ月)を獲った米長邦雄を彷彿とさせるものがあるが二人は師匠が同じ繋がり(佐瀬勇次)という縁がある 木村さんがこの年齢でこの成績を挙げられたのは、研究熱心な上、強い闘志が原因だろうな
他の棋士にはなかなか真似できるものではない 頂点に立った以上は、多くの棋士が「打倒木村」で挑戦してくるんだろうな
最初に挑戦してくるのは、やはり塚田九段か 木村の研究の深さを示すのは、何と言っても横歩取り研究にある
横歩取りを戦型として切り開いたのは木村だし、横歩取り8五飛戦法を自在に差しこなしたのも木村だ >>598
ほとんどの八段棋士たちが打倒木村を目指したけど、木村には誰もかなわなかったんだよな
塚田だけがついに本懐を成し遂げた 若いころの塚田は、塚田攻めれば道理引っ込むというほどの猛攻を見せたからね 塚田は最も過小評価されている棋士だと思う。亡くなられたときの新聞の扱いも小さかった(訃報欄に載っただけ)。 現役のまま逝去して、トーナメントにも出場中だったが、トーナメントには「故人」と記された
だけで、特にコメントもなかった。寂しい扱いだったね。
その後、2ちゃんねるでは「塚田ゴルァ!」と揶揄されるまでになっていて、悲しかった。 塚田さんは若くして台頭したが、失冠して沈むのも早かったからね 順位戦でも降級点がついて、C1を陥落しそうになっているからね
詰将棋作者で有名なのに、順位戦が詰みかかっている 46歳でもタイトルを取れる木村とは差がついたな。
木村は翌年失冠したら引退しちゃったけど。 木村さんは翌年失冠したら、「よき後継者を得た」と言って引退するのかも知れない
ここはタイトル防衛して、永世位獲得まで行ってほしいね >>608
でも塚田は22歳でタイトルを取ったが同じ年齢の頃木村は三段リーグで藻掻いていた でも、木村さんはやがて22歳で八段に昇段した。これは当時としては例のない快挙だった
しかも、並み居る先輩の八段棋士を半香に差し込んだ
塚田さんはここまでのことをできただろうか? 昔
レベルSS 1人
レベルS 0人
レベルA 2人
レベルB 5人
レベルC 10人
今
レベルSS 5人
レベルS 10人
レベルA 20人
レベルB 50人
レベルC 100人
将棋に限らず殆んどの競技でこれは言える。
昔は実力1位と実力10位の対戦は手合い違いだったが
今は実力10位が実力1位を番勝負で負かすのも普通にありえる。 >>612
升田・大山がAとかBとかいうのは納得しかねるな。 >>609
戴冠以前に、頭頂部を相当揶揄されていましたね。 昭和の大棋士 二上達也
A級在位二十七期、タイトル獲得五期、タイトル戦登場二十六回。
引退時五十八歳、順位戦はB級1組、竜王戦は1組。前年には王位リーグにも在籍。
木村義雄十四世名人より十歳ほど遅い引退だったが、「われわれの世代の手本」を踏襲した潔い身の引き方だった。 >>617
昔の棋士は早期に引退する人が多かった。
加藤治郎名誉九段は39歳、高柳敏夫名誉九段は43歳で引退した。
最近では大棋士でもC2を降級するまで続けることが多い。 大棋士とまでいかなくても中の上くらいの棋士でもこの潔さ。
順位戦参加権利をあと4期も有しながらも引退。
長谷部久雄
順位戦最高B級1組
優勝1回
対羽生1勝0敗
C級1組において降級点を1個抱え、C級2組への降級の危機に瀕した状態で臨んだ第51期(1992年度)順位戦では、
3勝7敗と不振ながら剣が峰で降級を回避するも、当期限りで引退。(59歳)
延べ36期参加した間、順位戦における通算勝率はちょうど5割であった。 板谷四郎もそうだな
昔は板谷一門では振り飛車禁止、みたいな掟があったらしく
関根や土居の時代の将棋の影響ってつい最近まではあったんだなぁ、と >>620
初めて知ったけど、連盟の理事を長く務めた功労者のようだね。
二上と加藤は会長、高柳は理事、板谷は東海本部長として、
棋界運営に長く貢献してきたというのが関係あるかもしれない。
運営に奔走している間は棋士としての活動は二の次だったろうし、
結果的に勝てなくなるし、対局への情熱も失われていったのか。 その点から言うと、連盟会長になって、対局中も相手が考えている間に連盟の仕事をして、
財界人を回って寄付のお願いをして連盟本部を建てて、それでも将棋に勝ち続けた
大山名人は何とすごい人であろうか 木村名人13年
大山名人18年
中原名人16年
谷川名人5年
森内名人8年
羽生名人9年 大山はパワハラで勝ってただけだろ
ライバルの升田が病弱だったから一人勝ち出来ただけ
そもそもまず木村以下だけどなこの雑魚は 江戸時代は皆さんが考えてる以上に大阪では出版が盛んだった。
ある大阪の商人は和綴じの将棋本をコレクションしてたが、
USAの爆撃で消失。 戦前は関西棋界は忌子の扱いだよ
坂田が名人になれなかった一因
だからこそ升田大山は名人の箱根越えを夢見て木村に挑み続けていた 阪田さんはようやく八段格として八段リーグに入って名人挑戦を狙ったときには、すでに
老齢だったのが残念だ
大正時代あたりに順位戦があったら、A級の常連で、名人にもなっていたかも知れない 坂田門下で有名なのは星田八段だな
その後は直系の弟子は途絶えてしまったのだろうか? >>631
なんで星田八段を知ってて神戸組の総帥藤内金吾を知らないんだ? 坂田関係の本読んでても藤内の名前出てこないこと多いよなぁ
弟子というよりも支援者の一人って感じだったみたいだし 阪田先生は弟子の中では星田八段のことをいちばん可愛がっていたんだよね
星田八段が長髪だったので、「わても星田みたいに髪を伸ばしてみようか」
などと言って、髪型まで星田八段の真似をしようとした
今で言ったら、森内九段が髪を伸ばして竹俣さんの髪型を真似するような感じか? 木村さんが今日、HNHK杯で森内名人に勝っていたな
この調子で行けば、優勝間違いない
いよいよ不敗の帝王・木村時代の到来だ >>637
若手棋士の間で「打倒木村」の声が澎湃として起こり、塚田・大山のような棋士が
敢然と挑戦するようになるんだろうな >>642
受けが強い棋風らしいね
粘り強いので、なかなか玉がつかまらない 受け将棋だけど、攻めに回ると猛烈に強いね
王位戦も攻めの強さが目立った ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています