木村義雄・十四世名人が強すぎて笑うしかないんだが
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【第一期名人戦】(1937、1938)
最初の実力制名人なのでリーグ戦をやって1位と2位の棋士で番勝負をするはずだった。
しかし木村がダントツの成績で2位以下を大きく引き離してしまったため
番勝負が中止されて木村が名人に決定。
【第二期名人戦】(1939、1940)
名人挑戦者決定リーグ(現在のA級順位戦)で
13勝0敗という空前絶後の圧倒的成績で挑戦権を獲得した土居市太郎との番勝負。
しかしそんな土居を寄せ付けず4-1で簡単に名人防衛。
【第三期名人戦】(1941、1942)
関西棋界の期待を背負って関西最強の棋士・神田辰之助が挑戦してきたが
無慈悲な4-0のストレート防衛。
木村のあまりの強さにショックを受けた神田はそのまま引退してしまい心労がたたって一年後に死去。
【第四期名人戦】(1943、1944)
あまりにも木村が強すぎて番勝負が盛り上がらないので制度が変更される。
挑戦者決定リーグで4人の候補者を選び
彼らが木村と駒落ちで予備対局をして勝てば名人挑戦権獲得ということになった。
しかし勝ち上がってきた4人の候補者が全員駒落ちで木村に負けてしまうという
予想外の事態に番勝負は中止され名人防衛。
【第五期名人戦】(1945、1946)
戦争で中止。
でも開催してもどうせ木村が勝つでしょということで連盟の裁定で木村防衛が決定。
こうして木村は10年間名人を保持し続けた 木村名人13年
大山名人18年
中原名人16年
谷川名人5年
森内名人8年
羽生名人9年 大山はパワハラで勝ってただけだろ
ライバルの升田が病弱だったから一人勝ち出来ただけ
そもそもまず木村以下だけどなこの雑魚は 江戸時代は皆さんが考えてる以上に大阪では出版が盛んだった。
ある大阪の商人は和綴じの将棋本をコレクションしてたが、
USAの爆撃で消失。 戦前は関西棋界は忌子の扱いだよ
坂田が名人になれなかった一因
だからこそ升田大山は名人の箱根越えを夢見て木村に挑み続けていた 阪田さんはようやく八段格として八段リーグに入って名人挑戦を狙ったときには、すでに
老齢だったのが残念だ
大正時代あたりに順位戦があったら、A級の常連で、名人にもなっていたかも知れない 坂田門下で有名なのは星田八段だな
その後は直系の弟子は途絶えてしまったのだろうか? >>631
なんで星田八段を知ってて神戸組の総帥藤内金吾を知らないんだ? 坂田関係の本読んでても藤内の名前出てこないこと多いよなぁ
弟子というよりも支援者の一人って感じだったみたいだし 阪田先生は弟子の中では星田八段のことをいちばん可愛がっていたんだよね
星田八段が長髪だったので、「わても星田みたいに髪を伸ばしてみようか」
などと言って、髪型まで星田八段の真似をしようとした
今で言ったら、森内九段が髪を伸ばして竹俣さんの髪型を真似するような感じか? 木村さんが今日、HNHK杯で森内名人に勝っていたな
この調子で行けば、優勝間違いない
いよいよ不敗の帝王・木村時代の到来だ >>637
若手棋士の間で「打倒木村」の声が澎湃として起こり、塚田・大山のような棋士が
敢然と挑戦するようになるんだろうな >>642
受けが強い棋風らしいね
粘り強いので、なかなか玉がつかまらない 受け将棋だけど、攻めに回ると猛烈に強いね
王位戦も攻めの強さが目立った ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています