有島武郎2
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Wikiのは似てないけど
眼鏡かけてるのは有田芳生と似てると思ったことはある >>56 新島譲でしょ。
そういえば
彼以降ハーバード卒の日本人作家って出てないよね。 心中した別荘は移築されてカフェになってるそうだけど
蛆まみれになった建物はそのままなんでしょ? この人っていいとこのお坊ちゃんで、頭も良くて、純粋で、キリスト教の影響を
受けて、農地を小作人に与えたりしたんだろ。
でも、最後は、女と縊死して、死体は腐って蛆が湧いてたって。
いったいこの人の人生はなんだったんだ、。彼は人生と言うか、文学に
何を求めていたのか。 「星座」読んだんだが、雰囲気がとても素晴らしかった
北大の寮出身だから、白官舎で生活する主人公たちの感じが、時代は違えどよく伝わってくる
中絶しているとはいえこのまま読まれなくなるのは惜しい作品だな >>22
遅レスだけど分かる方kwsk
wiki見た限りじゃ載ってないので… 黒澤明 白痴 ロケに使用された 有島武郎邸
https://www.youtube.com/watch?v=6fbY37O2gY0
「この階段を、久我美子が降りて来るんですよ」とスタッフの方が仰っていました。「有島武郎旧邸」札幌芸術の森内に保存されています。
1913年(大正2年)建設 水洗トイレ式。
1951年 映画「白痴」主演 有島武郎の長男 森 雅之です。 母無き12歳、11歳、10歳の3人の幼子を残し有島武郎は情死した。
女の夫から脅迫されていたとはいえ何ということだろう!嗚呼! 俺が中二だったときの宿題で、生まれ出づる悩みの読書感想文があった。
俺は本屋に売ってないなんていいながら読まなかった。
そして何十年ぶりに初めて読んでみた。
なんじゃこりゃ。こんなのをガキが理解できるか?
しかも夢をあきらめて漁夫をやってるのがつらくて自殺しようとする。
そんな甘っちょろい展開にも???
とにかくつまらないし、時代錯誤過ぎる。
この作家の不人気の理由が解った一冊だった。
と、いまなら読書感想文に書く。 有島の作品を青空文庫で読めるのは自殺してくれたおかげ
同じ白樺派でも志賀や武者小路はまだ著作権が残ってる 不倫の末「情死」というとロマンチックに受け取られるが
実際は梅雨時に長期間放置されたために発見された時は酸鼻きわまる状態だったらしい
一報を受けて「弱い!」と呻いたのは志賀直哉だけど「弱い」程度で済まされるののかな
遺児たちに対してただ同情するだけ 中島葵を覚えているか。
1991年、45歳の”若さ”で病死した女優。その中島葵の追悼文集他を先輩からもらった。昔から気になっていた女性の貴重な資料だ。
彼女は日大の演劇を中退。文学座に入り劇団員となって期待されていたが、70年に退団。黒テントなど小演劇活動に進出。
78年には自ら「ACT & AOI」を結成し「悲劇天皇祐仁」などを上演。この頃、右翼から攻撃を受けている。
その後、日活ロマンポルノに多数出演。宮下順子や絵沢萌子、芹明香らとともに活躍。
ときどきロマンポルノを見ていた私は、この頃の中島がいちばん心に残っている。
その後、大島渚の『愛のコリーダ』で、吉蔵の妻役で出演する。私は彼女が阿部サダをやればいいのに思ったことを思い出す。
いいオンナだった。(こういう言い方がフェミニズムコード、FCにひっかるのだろう)
中島葵の父は森雅之。中島は嫡出子ではない。
中島の母と森は不倫の間柄だった。宝塚出身の母と父が出会ったとき、父はすでに結婚していた。
そして、彼女が生まれる頃、父母の恋愛は終わりに近づいていたこともあって、中島は認知されなかった。
母は葵を連れて故郷熊本にもどった。
今回入手した資料によると、葵は上京して14歳のときに森に会っている。
そのとき、彼女は父に尋ねた。「なぜパパなのに、パパと呼べないの」。森は宿命だと答えた。
あまりににべないと思ったのか、森は「ドロボウでなかったからよかっただろう」と付け足した。葵はこれしか書いていない。
森雅之の父は有島武郎だ。父が情死したとき、森は少年だった。
その森は後年有島のことを聞かれてもほとんど答えなかったという。
それほど傷ついていた森が、娘と向き合ったとき「宿命」だと口にした。森は葵のことをどう思っていたのだろうか。
父有島のことには傷ついても、娘葵のことは傷にならなかったのか。
そんなはずはあるまい。父は再会した娘に必要以上に冷淡にした。
http://mizumakura.exblog.jp/9479298 与謝野晶子が教えた文化学院が閉校 有島武郎らも教壇に
円山史2018年3月31日10時45分
建築家の西村伊作や与謝野晶子・鉄幹夫妻らを中心に創設された「文化学院」(東京都墨田区)が31日、閉校する。
自由な教育方針で数多くの芸術家や文化人を輩出した学校が、97年の歴史に幕を閉じる。
文化学院は1921年、千代田区内に創設された。
芸術や文学による人間教育を目指し、国の学校令によらない自由な校風が特徴だった。
校舎は英国のコテージのようなデザインで、服装も各自の好みに任されていたという。 有島武郎の文章は今読んでも全然古臭くない
日本の文章を完成させたのは有島武郎と言っても過言でない 生馬は画家だったが武郎も下手な絵を描いた、もっとも
抽象画気取りで、絵といえない代物。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています