森鴎外
わたしは>>560ではないけれど、
「はいはい、ごくろうさん」というニュアンスがわからなくもないな。
あえて説明を試みるほどの気はないが、こういうレスも一つの反応のしかただし、
それに対して「なんで捻くれてるの」という姿勢になってしまうことのほうに
「なんで?」を感じてしまうな。
ドイツの冬はきびしいよね。
こんな土地によく人が住み着いたものだと私など思ってしまいます。 ベルリン市街戦の記録物を見るたびにベルリンの五月は寒いのかしらと思いますの 鴎外の小説はなんか歌舞伎調でつまらん
荷風もそんなのある 歌舞伎調?
きみは鷗外の小説も歌舞伎もどちらも知らないのね。
ああ、そういえば1915年の冬のドイツは特別寒さが骨にしみたことよ。 明治二十一年の冬は来にけり・・・クロステル街のあたりは凸凹坎の処は見ゆめれど、
表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり・・・か
暗くて寒そうだな >>565
ここは文学板だから、「あえて説明を試み」ないとレスの意味がないんじゃない?
それを説明する方が、ドイツの気候がどうであるかよりも文学的には意味がありそうだw ドイツの気候も作品解釈に大切だぜ
豊太郎が逃げ出したのも、寒さが大きな理由じゃないかな ロンドンの気候も作品解釈に大切だぜ
漱石が逃げ出したのも、寒さが大きな理由じゃないかな ↑
寒さじゃなくて、霧に閉ざされた街だと思う
それから、実物の漱石と作品中の人物豊太郎を一緒にしたらまずいんじゃないの
それから、漱石は逃げ出したわけじゃない イギリス止めて、フランス行きたい、とお願いはしたけど ロンドンやベルリンよりもパリの方がいいよな
鴎外も漱石もまた違った存在になっていたろうな >>579
フランスは世界一の二流とかいわれてるから、さ。 んじゃあ、鴎外は世界一の三流とか四流とかってことかなぁ >>582
ドイツは哲学の世界一の一流だったから、鴎外も日本一の一流でいいんじゃない? ドイツにはゲーテはいるし、マンもいる
文学の方も多彩だね 年をとると、鴎外の史伝が面白くなるってほんと? おれは
ぜんぜん退屈。 >>585
その時代に興味を持つ何かのきっかけがあると、とても面白く読める。 >>585
若い頃は知識欲が旺盛で、どうしても前のめりの読書になっちゃうんだよね。
岩波の鴎外歴史文学集がお勧めです。
ゆっくり読むのがポイント。 >>585の俺七十五才の後期高齢者なのだがwwエッヘン
予想されるスレ:
「おまえが幼稚なだけ」「おまえが無学なだけ」「おまえが目がわるいだけ」ww >>588
前二つは外れるかもしれないが、三つめはその通りじゃないの? >>590
なんだ。
せっかく目が悪い、だけで終わらせてあげたのに。
君は自分から、幼稚で無学でおまけに頭まで悪いって告白しちゃったんだね。
残念だ。 まあ、彼が予想しているのはレスではなくスレですから >>590氏は
>>592>>593と二匹続けて入れ食いで満足ちゃう? ていうか、エッヘンとえばるような展開にぜんぜんなってないのに
↓
>>585の俺七十五才の後期高齢者なのだがwwエッヘン >>590氏は
>>592>>593>>595と三匹続けて入れ食いで満足ちゃう? >>590氏は
食いついた>>592>>593>>595>>597の尻尾にまた>>594と>>596
がかかったので満足ちゃう?
以下延々と続きますwww ワシントン アーヴィングの リプヴァンウィンクル の鴎外訳は
傑作です。原作以上の文学的価値あり。 >>604
>>605
松田優作、かっこよかったな
彼が呟いていたのは、鴎外の訳だったの? >>606
おぼろげな記憶だが、鴎外の訳じゃない(淡々と粗筋を喋っている感じ)
全く別のシーンで萩原朔太郎の詩を朗読しているのは有名だけど
>>605の書込みの意味はなんだろ? 鴎外の「阿部一族」は武士道の非合理を描いた傑作ですがじつは、西鶴の
「武道伝来記」のほうが題材豊富で文学的価値が高い。 鴎外の次男(不律を入れると三男)の類という人の「森家の人びと」を読んでる。
鴎外の子供たちは、みな変だ >>603
10年以上前、東京堂書店で鴎外漢詩集見つけたときに買っとけばよかった。
ネットで買えるけど保管が悪いから傷んでるんだよな。
文庫か電子書籍になってほしい。 ワシントンアーヴィングのリップヴァンウィンクル鴎外訳、
原典より文学的価値高し。名訳だよ。 重訳はその文学的価値に係わりあるのかな? 世には読めない
日本語の直訳が横行しているが。訳せばいいってーもんじゃねえ 文体が固いのはわざとか
それともまだ言文一致がこなれてなかったのか 某儀明日年来の宿望相達し候て、妙解院殿(松向寺殿)御墓前において首尾よく切腹いたし候事と相成り候。
しかれば子孫のため事の顛末書き残しおきたく、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。
某祖父は興津右兵衛景通と申候。
永正十一(十七)年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国清見が関に住居いたし候。
永禄三年五月二十日今川殿陣亡遊ばされ候時、景通も御供いたし候。
年齢四十一歳に候。法名は千山宗及居士と申候。
父才八は永禄元年出生候て、三歳にして怙を失い、母の手に養育いたされ候て人と成り候。
壮年に及びて弥五右衛門景一と名告り、母の族なる播磨国の人佐野官十郎方に寄居いたしおり候。
さてその縁故をもって赤松左兵衛督殿に仕え、天正九年千石を給わり候。
十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居いたし、
慶長の初まで勤続いたし候。
慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いたされ、丹波国なる小野木縫殿介とともに丹後国田辺城を攻められ候。
当時田辺城には松向寺殿三斎忠興公御立籠り遊ばされおり候ところ、神君上杉景勝を討たせ給うにより、三斎公も随従遊ばされ、
跡には泰勝院殿幽斎藤孝公御留守遊ばされ候。
景一は京都赤松殿邸にありし時、烏丸光広卿と相識に相成りおり候。
これは光広卿が幽斎公和歌の御弟子にて、嫡子光賢卿に松向寺殿の御息女万姫君を妻せ居られ候故に候。
さて景一光広卿を介して御当家御父子とも御心安く相成りおり候。
田辺攻の時、関東に御出遊ばされ候三斎公は、景一が外戚の従弟たる森三右衛門を使に田辺へ差立てられ候。
森は田辺に着いたし、景一に面会して御旨を伝え、景一はまた赤松家の物頭井門亀右衛門と謀り、田辺城の妙庵丸櫓へ矢文を射掛け候。
翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出だし遣り候。
森は首尾よく城内に入り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。
この歳赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国へ参り、慶長六年御当家に召抱えられ候。
元和五年御当代光尚公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君と申候。
景一は六丸君御附と相成り候。元和七年三斎公御致仕遊ばされ候時、景一も剃髪いたし、宗也と名告り候。
… 前は文語にすごい苦戦したけど時間経って読むと結構スラスラ読めるようになった >>630
権力や家庭に飲み込まれないように、必死に抵抗していた結果という意見があるね。 ★book:文学[重要削除]
http://macaron.2ch.s c/test/read.cgi/saku2/1406585876/28- あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「横浜衝撃イヤフォン」「横浜悪夢イヤフォン」ですか?
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※本当のサイト名は英字です 教育実習で舞姫に当たったけど、資料調査だけで終わった。
擬古漢文調がリズムがよく歯触りがよかったなあ。名文。美文。
森鴎外まで来ると帝大もなかなか。 >>651
当時はまだ東京大学という名称だった。
鴎外は、卒業時点では東京大学卒の医学士。
ただし、まだ19歳だった。
知ってて書いてるとは思うけど、他の方の参考までに。 脚気のことも書いてあったような。フォロー or スルー
ありがと。 ウィタセクスアリス読んでみたんだけど
これって森鴎外自身がモデルなの? 晩年の鷗外の作品ってめちゃくちゃつまんねーな
退屈な史実ばかりを書いてるだけ
ネタ尽きたんなら潔く引退すればよかったのに 鴎外の文章を読むことは、昨夜から何も食べておらず、水もあまり飲めず腹ペコでクタクタの時に
米からコトコト煮た白粥の程良く冷めたのに、岩塩をはらはら振り掛けて食うような。
白粥か蕎麦か握り飯かは人によるでしょうが、一言で言うと滋味。 分からなくとも、面倒くさくとも、あの漢語調の整った文章に参ってしまうんだよなあ。もちろん最後まで読めないけど。