宮澤賢治
あらあら どうして この方のスレが ないのだろう 山猫は さっそく スレ立てに従事しました ポルトガルの大詩人ペソアも生前は不遇だったな
トランクから草稿が大量に発見されたあたりは宮沢賢治と同じだ >>245
結局、「自分(が評価するもの)以外はみんなゴミ」としかいってないじゃんあんた >>245
持ち込みを受けた賢治の原稿を突っ返したのって鈴木三重吉だよな
アンタの中では 三重吉>中原 伊藤 なのか? スレがすげぇのびてると思ったらアンチが屁理屈をつけて暴れていたのか
最後のぐうの音もでない一発でちょっとワロタwww
三重吉>中原、伊藤はないわwwww あ、でも鈴木三重吉を好きな人もいるかもしれんな。失礼した。 で、どこがどう優れてる?
まさか、「誰誰が評価してるから」ってだけ?
優れてると思うなら自分で説得してみたらどうなんだ?
「ぐっとくる」とか「おもしろい」とか、まるで小学生以下の感想しか述べてないようだけどw それとも科学用語や仏教用語なんかをふんだんに取り入れてるからか?w
単純だな、ほんとw 絵に書いたような最後っ屁だなあ
あなたも「当時の文壇」という権威を借りて難癖をつけてきているわけだが、
権威を借りるにしても「当時の文壇(鈴木)」と「中原、富永、伊藤」では説得力に明白な差があるだろうに。 おいおいまたまた言い訳で逃げるのか?w
どこがどう優れてるか、自分で説明できないのか?w 誰がどういう評価をしてるかなんてのはどうでもいいんだよ
おまえは人の評価がないと何も判断できない低能なのか?w
おまえに聞いてるんだよ、おまえにな
春と修羅の、どこが、どのように、優れてるんだ?
できるだけ論理的かつ詳細に頼むな >>251みたいな名も無ければ文学理論の用語ひとつ出てこない人の評価より歴史に残る大詩人の評価を重視するのは当たり前だわ
あんたどんだけ自分の頭を高く見積もっているんだよ
あなたは議論以前にいるんだよ おいおいw
どこまで言い訳を並べたてりゃ気が済むんだよこの低能はww
おまえに、聞いてるんだよ
おまえが、答えればいいだけなんだけど? 低能とか単芝アンチはスルーが鉄則
書き込みを読めば程度がわかるでしょ そりゃ、敗北宣言か?w
何一つ読めてないWikipedia脳が図に乗るからそうなるんだよw
以降、身の程をわきまえろな 寝て起きたが、あんたらには賢治の詩はわからんわ。
人を罵倒するのはあんまりいコトじゃないと、わしはおもう。
そんだけじゃ。 >>251は必死に自意識を守っているだけだからな
ある意味哀れだよ おまえはわかってるつもりなのかww
罵倒しないから、是非とも春と修羅を語ってみてくれないか?w 余計なお世話じゃが、どうしてそう人をやり込めたがるのかの?
なんでもっと仲良くしようと思わんのじゃろ。
賢治の詩を、みんなで一緒に、楽しく読めたらそれでよかないか?
そういうのはわしのようなバカがそう思うだけで、
あんたらみたいな利口な人たちはわしのような者の考え及ばん高尚なことを、
思索しとるんかな。
わしにはわからん・・・ 法華経は読解に必要ないとかただ語彙を借りてきているだけとか日記は出版するなとか文壇(本当は詩なら詩壇という)では評価されていなかったとか不勉強丸出しのレスをつけたあげく
論破されたらじゃあおまえらはどこが優れていると思っているんだ?答えなきゃお前の負けな?と全く議論に関係のない別な基準を持ってきて勝ち負けを決めたいとか小学生かよ。
まずは勝ち負けという不毛な基準を捨てろ。てめえの薄汚れたちっぽけな自尊心や自意識なんてこっちはどうでもいいんだよ。 言い訳から生まれてきたようなやつだなwおいw
単純にさ
春と修羅がどう優れてるかを聞いてるだけなんだけどなぁw
関係ない話を持ち込んで逃げてるのは誰なんだろうなぁw
一目瞭然だよなぁw 俺は言葉自体が揺らめき煌めくような語彙と東北の暗く白い冬の情景が信仰の光と現実との狭間で揺れ動く筆者の心を象徴的に描写していてすごく好きだわ >>262
ああそうか、そうじゃな、序をコピペしたから、そのはなしでいいか?
まず、言葉の多層性じゃな。
日本はどうも理系文系の別がはなはだしいのだが、
賢治の詩は、言葉がそういうことを無化しとる。
自分の言葉に、まず、そういう別はなく、
彼が生きている現実のなかの言葉を、
あれ、ちょっと文学文系人とは違う言葉を生き生きと、自分を表現するタームとして、
使って、心を表出している。
まず、この、表現手段としての、言葉が、わしはあっとおもうた。
氷窒素
賢治以前で、たれかつこうたかね、この言葉。 これ以上追い込んでみても特に何も出なそうだなw
なるほど、ねw これ以上やっても272のセンスのなさと卑しい心が書き込みから明らかになるだけだもんねぇ あんたら、悲しいなあ。
勉強もよう出来るのやろ、あんたら。
なんでそう喧嘩したがるのかの。
文学たらなったら、勉強、競争みたようになるのかの。
かなしいのう。
かなしいのう。 春と修羅で優れている点はやはり語彙だろうね
宮沢賢治はアニメや映像芸術方面にも影響を与えているけど
これほどまでに他者の想像力を刺激する語彙を使う詩人はいないのではないか
あとはやはり賢治自身の信仰による慟哭と揺れ動く文体
読者の心も揺さぶるよね うん、まあそういった科学用語を織り交ぜた表現方法の新鮮さみたいなのは確かにある
全体を見た場合、どうだろう もちろん科学用語のみならず造語やオノマトペも想像力をかきたてるね。 文体というか、こういう
外見での遊び心は
自分は失敗じゃ
ないかと思う
あまりに
幼稚だ ばかになにいっても無駄だのう。
なにが「どうだろう」だ?
ばかは一生なにもわからんのだろうの。
やっぱ2ちゃんはだめだわなw 罵倒と捨て台詞の違いもわからんのでは詩は読めんな。
やーれやれ。
やれ、ちん。 でも
こうして
やってみると
意外と面白いかも
いや、やっぱり
くだらないな
ばかみたい
だよね それから文体も素晴らしい。
「意識の流れ」を思い起こさせる散文体は賢治自身が詩ではなく、科学的な=客観的な心象の記述と考えていた「心象スケッチ」にあっては必然だったとみるべきだろう。
文体も理想と現実の狭間を揺れ動く信仰心を視覚的に描写したもので、
いまになっては珍しいものではないが、特段瑕疵もないように見受けられる。
結局、>>276は自分で誠実に説明しようともせず罵倒を繰り返すだけか。
出ていってくれよ。 必然なんかではないよなあ
そんな幼稚な手段で意識の流れや心象を表現しちゃうのは表現力の欠如としか言い様がない 詩の視覚的効果は西洋で詩作が始まって以来の伝統だよ
幼稚どころかこれを整えないといい詩とは言えないくらい大切なこと
いわば、詩作の基本。
詩作について詳しい人かと思っていたけど本当に無知で幼稚な荒らしだったんだね 論破って言葉は好きじゃないがここまでことごとく論破されてるやつははじめてみたわ 基本のキすら知らずに>>209とか>>237を書いていたのか。
恐るべき知的怠惰。 ここで童貞のオレが颯爽と登場
賢治は一番身近な童貞の星 286
あんまでたらめをほざくなよ(笑)
そんな基本も伝統もないからよ(笑)
西洋にも東洋にも韻律や形式などの基本くらいしかないぞハッタリ小僧 まったく話にならんハッタリ小僧だな(笑)
ここまでの知的障害者ははじめて見たわ(笑) >>282に同意だな、おれは。
揺れ動く内面的なものをそんな小手先の手段で表してしまえば、自らの価値を下げるだけのように思う。 それと、西洋の詩人でそんな手段を用いてる人など自分は見たことないけどな。 >>291-294
ウィリアム・ブレイクとかマラルメとか読んだことがない人たちばかりなんですね
wikipediaにすら書いている知識なのに知らないとかはっきりいって終わってるよ いや、そういう低俗な詩が存在してることなんかは知ってるよ(笑)
けどそれはごく一部の詩人の間だけで、西洋の詩の基本なんかではないし、ましてや伝統なんかではないんだよ、おバカさん(笑) ほれ。わざわざ「視覚詩」の論文も検索してやったぞ。
研究者が論文を書いているのにそんな伝統は無いとはいえないよねえ。
「視覚詩」で検索
http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E8%A6%96%E8%A6%9A%E8%A9%A9&range=0&count=20&sortorder=1&type=0 マラルメの詩が低俗だというのはあなたの勝手だけど、
もはや好みの問題だし、視覚詩がなぜ低俗なのかそろそろあなたが論拠を出して説明する番なのでは? 論ずるまでもないことだよ(苦笑)>>278>>282だけで十分論破(笑) >>298
またまた他人任せか(笑)
で、その極めて幼稚な視覚詩が、どのように優れてるんだ?w
おまえの言葉で論じてくれる?w 「誰誰が評価してるからこれは素晴らしいに違いない」「何何が研究者によって論じられているんだからこれは基本だ」
っていうような安直な考えだからおまえはそんなんなんだよ(笑)
なんという、尻っぺたの青さだww 自分自身が何を話しているのか判らない人に何を言っても無駄だな 視覚詩の伝統など無い
↓
ある(根拠をciniiで示す)
↓
研究者ではなく自分の言葉で「魅力」を語れよ
いやいや魅力を話しているわけではなく伝統があるということを話しているのです
あなたは自分が支離滅裂なことを話しているということがわからんのかね Googleがないと、何も反論できましぇ〜ん!ってかww
いやいや
実にワラカスマラカスですなぁ(笑) ごく一部の西洋詩人の間でそういう幼稚的技巧の伝統があったということを言いたかったのかな?(笑)
まるで西洋全体の基本であるかのように誇張して言うからいけないんじゃないのか?w ワーズワース、シェリーなどの作品にはそんな視覚詩(笑)なんかどこにも見当たらないもんなぁw わざわざ(笑)とかwを用いて視覚的に議論する気なしと伝えてるくれてるんやからスルーすりゃええねん
こいつには誠実になるだけ無駄やで あんたらすごいな、マラルメ・・・
あんなむつかしいもん、わしゃひとつもわからん。
さて、賢治の詩をまたひとつ、貼り付けるかの。
ペタ。
屈折率
七つ森のこっちのひとつが
水の中よりもっと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛〔あえん〕の雲へ
陰気な郵便脚夫〔きょくふ〕のやうに
(またアラッディン、洋燈〔ラムプ〕とり)
急がなければならないのか どんぐりと山猫が戦争批判だって先生に習ったんだけどどういう描写が戦争を批判してるの? >>313
定期的に貼り付けてもらえるとすごいうれしいです。
ありがとう。 春と修羅の二集目以降はとても読んでられないな
一集目は初々しさや斬新さがあってそれなりに楽しく読めるけど
二集目になると手慣れ始めたのか、天狗になってるのか、ネタ切れなのか何なのか
何かシラケさせるような違和感がある 686 :吾輩は名無しである:2012/11/22(木) 18:11:19.77
あの頭の悪さは安倍公房や円城ので頓珍漢な与太話ばらまいてる人と同じっぽい
688 :吾輩は名無しである:2012/11/23(金) 01:15:42.95
マラルメが低俗だと言ってるというか、マラルメ自体知らない感じだよね。
燃料投下して構ってもらうことで孤独を紛らわせる、ネットじゃどこにでもいるようなタイプ。
なぜそれを文学板でやるかは理解できないが。
なお、フランツ・カフカスレでもかまって欲しくて荒らしを繰り返している模様
スルー推奨 で、遠藤のとこに本田いれて左に香川、右に清武、トップに岡崎?がいいのかな >>314
国連の無力さを風刺して戦争の避けられなさを描いたという話ならわからないのもわかるが
戦争批判となるともう読んだまんまとしか言い様がないな >>314
仮にそうだとしても、それを証明する術がないのが現状 それにしても三重吉は宮澤くんにひどいことをしたね
いったい、三重吉は「文鳥」をちゃんと読んでいたのか
「文鳥」すら読めない者が人の作品を選定するなどというのはまったくもって論外だね まあ、それが結果的に宮澤くんにとって色んな意味でいい方向に働いたからよかったものの、三重吉にはがっかりした
ゲンコツのひとつやふたつじゃあ、ちと許せないね、あの千鳥足は 鈴木三重吉賞などというバカバカしいものはもうやめにしたまえ で、問題の「永訣の朝」についてなのだが、
(中略)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(中略)
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
(中略)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ となっているわけなのだが、
「ふたつのかけた陶椀」と言ったり「雪のひとわん」と言ったり、最後にはまた「ふたわんのゆき」と言っている。
これは宮澤賢治の意図なのだろうか?
この問題は大塚氏や佐藤氏などの研究家たちが様々に論じていて、それぞれ鋭い論を展開しているのだが、やはりどれも推測止まりになっている。
自分としては、この「ふたわん」というのは賢治の心象風景中の出来事、つまり賢治の希望的想像で、実際の出来事ではないと思っている。
「手紙 四」では「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と、とし子が頼んだのではなくて、賢治から「雨雪をとって来てやろか」と問いかけて、それにとし子が「うん」と答えている。
これはやはり実際の出来事ではなくて、賢治の心象中の出来事だからなのではないだろうか。 「ふたつのかけた陶椀」というのは賢治の比喩で、「手紙」に書いてあるように
賢治はとし子とも生活上の行き違いなどから不仲になっていたんだろうと思う。
賢治は父親と宗教のことでモメたり、家庭内でのいざこざが原因となったりして少しの間だけ家出をしている。
そういうことから考えて、ここで賢治が使った「ふたつのかけた陶椀」というのは、そういった過去の家庭内での行き違いを比喩したものと推察するのが適当だと思われる。
それを踏まえた上で、ではなぜ雨雪をとるために外へ飛び出たときに「ひとわん」に変ったのだろうか?
そうして、なぜまた最後に「ふたわん」に戻ったのだろうか?
ここはどうにもこうにも推測のしようがないような気がする。 それとも、ただ単に表現上の便宜に依っているだけなのだろうか。
もしそうだとしたら、少し軽薄が過ぎるね。心をゆさぶる感動的な詩ではあるけども。 「どうかこれが天上のアイスクリームになって」という表現も、後から「どうかこれが兜卒の天の食に変って」と書きかえている。
こういう所から察しても、やはり「ひとわん」も「ふたわん」も特に深い意味はないと見るべきなのかな。
でも、ひとわんとふたわんでは表現の深みや前後の関係性までがだいぶ違ってきてしまうから、どうなんだろう。謎だ。 まあ「手紙四」の死に際の描写が本当なんだろうな。「春と修羅」は冒頭にも書いてあるようにあくまでも心象風景。
賢治の詩にはベートーベンなどのクラシック音楽から着想を得て、そこに自然を融合させて展開されているものなどがたくさんある。 だから賢治の行動記録などを照らし合わせてそこから作品を分析しようとするというのにはだいぶ無理があるんだよね。 レコードなどもだいぶ所有していたようだし、職を色々転々としたり土いじりをしてみたり、あれを食べるのをやめたの猫は嫌いだの鴨南蛮が好きだのなんだのと、
それでナムサダルマプフンダリカサスートラときてる。よくよく考えると、まるでブルジョア作家だな。 宮澤家は地元界隈ではちょっと知れた金持ち家だったし、そういった裕福な環境の齎す退屈が宮澤賢治を生んだんだろう。
そういった面では芥川と共通する部分があるね。退屈凌ぎに自ら苦悩を追い求めるタイプ。嫌いじゃないタイプの作家だ。 まあ芥川の場合は金はあまりなかったんだけど、漱石のお墨付きってことで文壇の地位があった。
それが結局の所、芥川を苦しめた根源的要素となっていたわけだから宮澤賢治とは多少その趣きが異なるか。 本当に生活に困窮した作家が書くものというのは、何故かそこに卑しさのようなものが出てしまうから、作品としてはつまらないものになってしまう傾向がある。
やはり、ある程度生活にゆとりがないと面白い作品は生まれないんだろう。 昔角川文庫で殆ど揃えてたんだが
残りの銀河鉄道の夜買おうと思ったらへんな表紙になってる
これがずっと続くの?