宮澤賢治
あらあら どうして この方のスレが ないのだろう 山猫は さっそく スレ立てに従事しました >>291-294
ウィリアム・ブレイクとかマラルメとか読んだことがない人たちばかりなんですね
wikipediaにすら書いている知識なのに知らないとかはっきりいって終わってるよ いや、そういう低俗な詩が存在してることなんかは知ってるよ(笑)
けどそれはごく一部の詩人の間だけで、西洋の詩の基本なんかではないし、ましてや伝統なんかではないんだよ、おバカさん(笑) ほれ。わざわざ「視覚詩」の論文も検索してやったぞ。
研究者が論文を書いているのにそんな伝統は無いとはいえないよねえ。
「視覚詩」で検索
http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E8%A6%96%E8%A6%9A%E8%A9%A9&range=0&count=20&sortorder=1&type=0 マラルメの詩が低俗だというのはあなたの勝手だけど、
もはや好みの問題だし、視覚詩がなぜ低俗なのかそろそろあなたが論拠を出して説明する番なのでは? 論ずるまでもないことだよ(苦笑)>>278>>282だけで十分論破(笑) >>298
またまた他人任せか(笑)
で、その極めて幼稚な視覚詩が、どのように優れてるんだ?w
おまえの言葉で論じてくれる?w 「誰誰が評価してるからこれは素晴らしいに違いない」「何何が研究者によって論じられているんだからこれは基本だ」
っていうような安直な考えだからおまえはそんなんなんだよ(笑)
なんという、尻っぺたの青さだww 自分自身が何を話しているのか判らない人に何を言っても無駄だな 視覚詩の伝統など無い
↓
ある(根拠をciniiで示す)
↓
研究者ではなく自分の言葉で「魅力」を語れよ
いやいや魅力を話しているわけではなく伝統があるということを話しているのです
あなたは自分が支離滅裂なことを話しているということがわからんのかね Googleがないと、何も反論できましぇ〜ん!ってかww
いやいや
実にワラカスマラカスですなぁ(笑) ごく一部の西洋詩人の間でそういう幼稚的技巧の伝統があったということを言いたかったのかな?(笑)
まるで西洋全体の基本であるかのように誇張して言うからいけないんじゃないのか?w ワーズワース、シェリーなどの作品にはそんな視覚詩(笑)なんかどこにも見当たらないもんなぁw わざわざ(笑)とかwを用いて視覚的に議論する気なしと伝えてるくれてるんやからスルーすりゃええねん
こいつには誠実になるだけ無駄やで あんたらすごいな、マラルメ・・・
あんなむつかしいもん、わしゃひとつもわからん。
さて、賢治の詩をまたひとつ、貼り付けるかの。
ペタ。
屈折率
七つ森のこっちのひとつが
水の中よりもっと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛〔あえん〕の雲へ
陰気な郵便脚夫〔きょくふ〕のやうに
(またアラッディン、洋燈〔ラムプ〕とり)
急がなければならないのか どんぐりと山猫が戦争批判だって先生に習ったんだけどどういう描写が戦争を批判してるの? >>313
定期的に貼り付けてもらえるとすごいうれしいです。
ありがとう。 春と修羅の二集目以降はとても読んでられないな
一集目は初々しさや斬新さがあってそれなりに楽しく読めるけど
二集目になると手慣れ始めたのか、天狗になってるのか、ネタ切れなのか何なのか
何かシラケさせるような違和感がある 686 :吾輩は名無しである:2012/11/22(木) 18:11:19.77
あの頭の悪さは安倍公房や円城ので頓珍漢な与太話ばらまいてる人と同じっぽい
688 :吾輩は名無しである:2012/11/23(金) 01:15:42.95
マラルメが低俗だと言ってるというか、マラルメ自体知らない感じだよね。
燃料投下して構ってもらうことで孤独を紛らわせる、ネットじゃどこにでもいるようなタイプ。
なぜそれを文学板でやるかは理解できないが。
なお、フランツ・カフカスレでもかまって欲しくて荒らしを繰り返している模様
スルー推奨 で、遠藤のとこに本田いれて左に香川、右に清武、トップに岡崎?がいいのかな >>314
国連の無力さを風刺して戦争の避けられなさを描いたという話ならわからないのもわかるが
戦争批判となるともう読んだまんまとしか言い様がないな >>314
仮にそうだとしても、それを証明する術がないのが現状 それにしても三重吉は宮澤くんにひどいことをしたね
いったい、三重吉は「文鳥」をちゃんと読んでいたのか
「文鳥」すら読めない者が人の作品を選定するなどというのはまったくもって論外だね まあ、それが結果的に宮澤くんにとって色んな意味でいい方向に働いたからよかったものの、三重吉にはがっかりした
ゲンコツのひとつやふたつじゃあ、ちと許せないね、あの千鳥足は 鈴木三重吉賞などというバカバカしいものはもうやめにしたまえ で、問題の「永訣の朝」についてなのだが、
(中略)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(中略)
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
(中略)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ となっているわけなのだが、
「ふたつのかけた陶椀」と言ったり「雪のひとわん」と言ったり、最後にはまた「ふたわんのゆき」と言っている。
これは宮澤賢治の意図なのだろうか?
この問題は大塚氏や佐藤氏などの研究家たちが様々に論じていて、それぞれ鋭い論を展開しているのだが、やはりどれも推測止まりになっている。
自分としては、この「ふたわん」というのは賢治の心象風景中の出来事、つまり賢治の希望的想像で、実際の出来事ではないと思っている。
「手紙 四」では「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と、とし子が頼んだのではなくて、賢治から「雨雪をとって来てやろか」と問いかけて、それにとし子が「うん」と答えている。
これはやはり実際の出来事ではなくて、賢治の心象中の出来事だからなのではないだろうか。 「ふたつのかけた陶椀」というのは賢治の比喩で、「手紙」に書いてあるように
賢治はとし子とも生活上の行き違いなどから不仲になっていたんだろうと思う。
賢治は父親と宗教のことでモメたり、家庭内でのいざこざが原因となったりして少しの間だけ家出をしている。
そういうことから考えて、ここで賢治が使った「ふたつのかけた陶椀」というのは、そういった過去の家庭内での行き違いを比喩したものと推察するのが適当だと思われる。
それを踏まえた上で、ではなぜ雨雪をとるために外へ飛び出たときに「ひとわん」に変ったのだろうか?
そうして、なぜまた最後に「ふたわん」に戻ったのだろうか?
ここはどうにもこうにも推測のしようがないような気がする。 それとも、ただ単に表現上の便宜に依っているだけなのだろうか。
もしそうだとしたら、少し軽薄が過ぎるね。心をゆさぶる感動的な詩ではあるけども。 「どうかこれが天上のアイスクリームになって」という表現も、後から「どうかこれが兜卒の天の食に変って」と書きかえている。
こういう所から察しても、やはり「ひとわん」も「ふたわん」も特に深い意味はないと見るべきなのかな。
でも、ひとわんとふたわんでは表現の深みや前後の関係性までがだいぶ違ってきてしまうから、どうなんだろう。謎だ。 まあ「手紙四」の死に際の描写が本当なんだろうな。「春と修羅」は冒頭にも書いてあるようにあくまでも心象風景。
賢治の詩にはベートーベンなどのクラシック音楽から着想を得て、そこに自然を融合させて展開されているものなどがたくさんある。 だから賢治の行動記録などを照らし合わせてそこから作品を分析しようとするというのにはだいぶ無理があるんだよね。 レコードなどもだいぶ所有していたようだし、職を色々転々としたり土いじりをしてみたり、あれを食べるのをやめたの猫は嫌いだの鴨南蛮が好きだのなんだのと、
それでナムサダルマプフンダリカサスートラときてる。よくよく考えると、まるでブルジョア作家だな。 宮澤家は地元界隈ではちょっと知れた金持ち家だったし、そういった裕福な環境の齎す退屈が宮澤賢治を生んだんだろう。
そういった面では芥川と共通する部分があるね。退屈凌ぎに自ら苦悩を追い求めるタイプ。嫌いじゃないタイプの作家だ。 まあ芥川の場合は金はあまりなかったんだけど、漱石のお墨付きってことで文壇の地位があった。
それが結局の所、芥川を苦しめた根源的要素となっていたわけだから宮澤賢治とは多少その趣きが異なるか。 本当に生活に困窮した作家が書くものというのは、何故かそこに卑しさのようなものが出てしまうから、作品としてはつまらないものになってしまう傾向がある。
やはり、ある程度生活にゆとりがないと面白い作品は生まれないんだろう。 昔角川文庫で殆ど揃えてたんだが
残りの銀河鉄道の夜買おうと思ったらへんな表紙になってる
これがずっと続くの? どうでもいんじゃね?
おまえは装飾のために本を集めてるのか? 宮澤賢治がブルジョア家庭出身というのには異論ないな。
ただ、岩手が他県と比べて物凄く貧乏で、そういった環境のなかのブルジョアだったということは忘れてはいけない。
周りに金持ち仲間がいた東京や関西のブルジョア作家と単純比較はできない気がするね。 まあ、ファッションで本を読んでるようなやつには表紙も大切なんだろうなw
片腹痛ぇw 装丁家がなぜ存在し、編集者もなぜ装丁に拘るのか一度じっくり考えてごらんよ うん、だからおまえみたいなファッション読書家のために、だろw
頭だいじょうぶか?おまえw ほんと、片腹痛ぇw
出版社も売れれば何でもいいわけだからなw
意味わかる?w 反論できないだけか、ふむ、なるほどなるほどw
さすがにファッション読書家だw で、賢治って国柱会に出入りしてたの?それともちょっと知り合いだっただけなのかな 疾中を読んでるとほんと今にも死にそうな感じだけど、結局この後に病状が快復に向かって三四年生き延びるんだよな
どうせならその快復する途中にも何か書いてほしかったな、疾中が疾中だけにちょっとお笑いっぽくなるけど でも正岡子規などのように背中や腹にぽっかりと穴があいたり足が腐れていったり、究極の拷問のような苦痛に見舞われずに急性肺炎でぽっくりと逝けたのは不幸中の幸いだったな ゲニイめたうとう本音を出した
やってみろ 丁丁丁
きさまなんかにまけるかよ
何か巨きな鳥の影
ふう 丁丁丁
海は青じろく明け 丁
もうもうあがる蒸気のなかに
香ばしく息づいて泛ぶ
巨きな花の蕾がある
「何か巨きな鳥の影」ーー何となくわかる
昔、四十数度の熱がずっと下がらなくて
リンパ腺がぶくぶくと腫れてきて呼吸もままならず
死と夢と現実の狭間のような濛々とした意識のなか
耳元でバササッという音とともに、何か大きな翼が
目の前の意識の内を羽ばたていったような影と匂いを感じたことがある ちなみにその翼が羽ばたき去った後に間もなく熱が下がっていった
宮沢賢治もこの後に快復してるし、この大きな影の現象は脳のどこかが齎す何らかの作用なんだろう
でも、経験したことのないあまりの苦痛の中にいて、もう絶対だめだって思い込むと色々感傷的な考えを起こしてしまうね
自分も濛々とした意識の中で色々な人に別れを告げて一人涙をこぼしたもんだ
後から思うと耳が熱くなるんだけど、そのときはほんとにもう死ぬと思ってるから仕方ない これとは少し趣きが異なるけど、芥川もその遺作「歯車」の最後のほうでこんなことを書いている
三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈しい頭痛をこらへてゐた。
すると僕の瞼の裏に銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。
僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。
しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラデイエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。…… 肉体が衰えて精神を感じやすくなると、動物や植物、自然との心の交流が深まっていく感じがする。と同時に人間がいかにも醜悪でちっぽけで薄汚い俗物に見えてくる。
もしかしたら地球上、否、宇宙で最も下等な生物は人間なのかもしれない。 しかし人間に生まれてしまった以上、この醜悪な人間を見捨てることがどうしてもできない。見捨て去ることもできないし救ってやることもできない。そこが苦痛なのだ。 それがこの地球、宇宙のあらゆる循環を生み出すゲニイなのだ。 さあ人間よ、苦しみのために楽しむがよい。
大いに楽しみ、大いに苦しむがよい。咄々大笑。 妙法な蓮華経などと乙に名付けてハゲ頭に手を合わせる必要などもない。
珍法な金玉経だってなんだって構わないんだ。 >>335
一椀になったり二椀になったりして、不思議だというが、
俺的には、別に、自然に読めるけどなあ。
賢治わよお、病床のとし子から、雨雪とってきてけんじゃ、とだけ頼まれたんだろ?
とし子は、「雨雪を二椀とってきて欲しい」とは言ってないだろw
とし子は、病気で、熱もあってよお、口の中がもう熱くて熱くてしょうがなかったのかもしれない、
危急的にもう、冷たい氷水みたいなものを口に含んで、口の中の熱を冷ましたい、
とし子は、ただひたすら、雨雪が欲しかった、一椀二椀関係なく、そんな何椀か、とか、とし子にはそんなことはどうでもいいだろ、
ただただ雨雪が欲しかった、とし子は、そういう臨終間際の切迫した状況だったんだろ。
一方よお、そういうふうにとし子から言われた賢治わよお、
「そんなにとし子は雨雪が欲しいか、それじゃ、とにかく雨雪を取れるだけ大量にとって来よう」とあせってだ、
台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって外へ飛び出したんだろ。それが二椀だったと。
とし子側の立場からすれば、とにかく一椀でもいいから雨雪を口に含みたい、つう強い欲求があるだろし、
賢治側の立場からすれば、とにかくとし子を楽にしてやりたいとの強い思いで二椀もとし子に雨雪を持っていってやりたいつうのがあるだろし、
そういう、とし子の病気の重篤さ(一椀)と、賢治の何とかしようという思いの切迫さ(二椀)とを言ってるんじゃねえの?
とし子視点からだと一椀、賢治視点からだと二椀、ただ、それだけだろw
俺は普通にそう納得して読んでたわww まったく要点を得てないし、「無声慟哭」はあくまでも「心象風景」であって事実とは異なるものだぞ。
その「あめゆじゅとてちて」というのもおそらく宮沢賢治の妄想で、実際は「手紙」に書いてるように
宮沢賢治が一方的に「雨雪とってきてやろか」と、とし子に聞いただけ。「春と修羅」に書かれてることは実際の出来事などに後から「創作」を交えて書いたものなんだよ。 その上で>>336に書いたような葛藤を心象中で表現したんだろう、と言ってるわけ。
君の話はまるで論点がズレていて話にならん。>>368 >台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって
君は一体ちゃんと読んでるのかな?
ここで宮沢賢治が持ち出したのは、書いてある通り「ふたつのかけた陶椀」。
つまり二人が昔から使っていた「思い出の茶碗」なんだよ。
ちゃんと読んでから出直しておいで。 >>369-371
>>370その上で>>336に書いたような葛藤を心象中で表現したんだろう、と言ってるわけ。
とか、あるいは、
>>335これはやはり実際の出来事ではなくて、賢治の心象中の出来事だからなのではないだろうか。
とかよお、おめえ、そもそも、春と修羅の序章読んでるのか?
春と修羅 序
「これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです」
おめえが推測するまでもなく、
この詩は心象スケッチだと宮沢賢治本人が最初の最初にちゃんと言ってるだろよw てか、>>336にしたってよお、
>「ふたつのかけた陶椀」というのは賢治の比喩で、
とおめえは言ってるが、いったい何の比喩なんだよ、
「妹とし子との不仲」の比喩なのか、それとも「家庭内の行き違い」の比喩なのか、
何なんだよwwあれか?「妹とし子をも含めた家庭内の行き違い」の比喩なのかww?
自分で書いた>>336読んでみ?日本語になってねえからよw
おめえ頭悪いだろ。Fランの文学部かなんかだろおめえw てか、この一椀二椀にしてもよお、その前後読んでみ?
>これらふたつのかけた陶椀に
>おまへがたべるあめゆきをとらうとして
>こんなさつぱりした雪のひとわんを
>おまへはわたくしにたのんだのだ
>おまへはわたくしにたのんだのだ
> 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
>そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
>おまへがたべるこのふたわんのゆきに
>わたくしはいまこころからいのる
「ふたわん」の方は、賢治→妹とし子(賢治から妹に対する思い)=賢治の視点
「ひとわん」の方は、 一人死にゆく妹とし子=妹とし子の視点
きれいにできとるやろ。何が不満かねえw つまりよお、とし子は「おら おらで ひとり えぐも」って言って、
あの世に一人で行ってしまう。妹とし子は一人で死んでしまう状況であるんだが、
一方、賢治としては、そんな妹とし子を一人で死なせたくない、
死んで欲しくない、死なないでくれ妹とし子、俺を一人にしないでくれ、
そういうことだろ。
この永訣の朝の次の詩、同じ臨終の日の詩とされる「松の針」で、
ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ
と言ってるだろ。
賢治は妹とし子と死に別れるのがつらいのに、妹とし子は一人であの世に行こうとする、
行かないでくれとし子、俺を一人にしないでくれ、そういう賢治の思いが「二椀」なんだろ。
一人死んでゆくとし子が「一椀」なんだろ。
ここまで言ってもわからんかねえww だからはじめから心象風景だって言ってるんだが?
それをおまえが現実の事象のように捉えてるからそれは違うぞと言ったわけだが?おまえは日本語すら読めない猿なのか?
ふたつのかけた陶椀云々というのも上に書いてある通り、家庭内でのいざこざ(とし子の私生活での貞操に関する問題だったり宮沢家と賢治との宗教上の行き違いだったり)が原因となった心の離別のことを指してるんだが?
おまえの読解力がないだけな。
それと、何度も言うが「手紙」では「雨雪をとってきてやろか」と賢治から切り出してるわけだよ。賢治から聞いて、それにとし子が「うん」とだけ答えてるわけ。それはどうするんだ? >だからはじめから心象風景だって言ってるんだが?
言ってねえだろばーか
>>335
>これはやはり実際の出来事ではなくて、
>賢治の心象中の出来事だからなのではないだろうか。
おめえの推論になってるだろよ
出まかせ言うなと池沼w >>376
>それと、何度も言うが「手紙」では「雨雪をとってきてやろか」と
>賢治から切り出してるわけだよ。賢治から聞いて、
>それにとし子が「うん」とだけ答えてるわけ。それはどうするんだ?
どうするんだ?って俺に聞かれても困るんだがなあ(ゲラゲラゲラ
おめえ、救いようのねえ池沼だろww
賢治は心象スケッチだと言ってるんだからよお、
現実を書いてるわけじゃねえんだよ。
現実をそのまま書いたら詩にならんだろばーかw >自分としては、この「ふたわん」というのは賢治の心象風景中の出来事
と書いてあるのが猿の目には見えないらしい。いや、どうも話にならんなこいつは。 もちろんはじめから推測の話をしてるんだが?
おまえのもまったくの推測でしかないんだが? 「困る」じゃだめだろう。そこを無視したら何にもならん。ゲラゲラ笑って誤魔化してる場合じゃないよ、お猿さん。 おまえの368のレスからするとまったくの現実として捉えてるように見受けられるわけだが?
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって ちなみに「ふたわん」というのを賢治の心象風景として推測した理由は「無声慟哭」の
>わたくしのかなしさうな眼をしているのは
わたくしのふたつのこころをみつめているためだ
という所から推測したわけ。
「ふたつのこころ」即ち賢治から投影したとし子のこころ(希望的)と、賢治自身の冷静なこころのことな。
意味わかるか? で、その後の
>ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない
というのは、賢治自身のその「修羅」の冷静なこころに、その賢治の投影した「希望」のとし子のこころが目をそらした、つまりかき消されたということを示しているんじゃないか?と推測してるわけ。 >>379 :吾輩は名無しである:2013/04/26(金) 02:35:28.64
>>自分としては、この「ふたわん」というのは賢治の心象風景中の出来事
>と書いてあるのが猿の目には見えないらしい。いや、どうも話にならんなこいつは。
てかよお、おめえ、あれだろ、数学できないだろw分数の足し算とかそういうの苦手だろw
自分としては心象風景中の出来事、とかよおww
おめえとしては、俺としては、じゃないだろ。宮沢賢治自身が序章のなかで
この詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
おめえ、基本的に言語活動自体ができん人間だと思うぞ。日本人なのか?(ぷ
中国とか朝鮮からの留学生?それで日本文学でも研究してんの?ww 俺すっげーことに気が付いた!
雪見だいふくって
虫歯の人にとってただの脅威じゃね? >>382はどうした?
都合の悪いものは見えない猿なのか? おまえみたいに「春と修羅」をまったくの現実の出来事と思い込んでる猿がいるから、わざわざ断ってやってんだよ、それくらい察せよなエテ吉ちゃん。 内容の反論ができないとなるとまったく関係のない戯言を並べて話を反らすところなぞは猿以下のゴミクズだな、おい。 賢治は日本作家では誰から影響受けたのだろう
漱石や芥川は読んでたんだよね? >宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって >宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>>368
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>>368
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>>368 なんか序章も読めねえで自爆した池沼が暴れてるみてえだなww
てかよお、ところで、おめえみてえな頭の悪いヤツがなんで宮沢賢治なんか読んでるんだw
学校かなんかの宿題だったのか?(ぷw池沼がよお、宮沢賢治なんか読んだって意味わかんねえだろw
朝鮮人はマンガでも読んでればいいんだよw