宮澤賢治
あらあら どうして この方のスレが ないのだろう 山猫は さっそく スレ立てに従事しました >>369-371
>>370その上で>>336に書いたような葛藤を心象中で表現したんだろう、と言ってるわけ。
とか、あるいは、
>>335これはやはり実際の出来事ではなくて、賢治の心象中の出来事だからなのではないだろうか。
とかよお、おめえ、そもそも、春と修羅の序章読んでるのか?
春と修羅 序
「これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです」
おめえが推測するまでもなく、
この詩は心象スケッチだと宮沢賢治本人が最初の最初にちゃんと言ってるだろよw てか、>>336にしたってよお、
>「ふたつのかけた陶椀」というのは賢治の比喩で、
とおめえは言ってるが、いったい何の比喩なんだよ、
「妹とし子との不仲」の比喩なのか、それとも「家庭内の行き違い」の比喩なのか、
何なんだよwwあれか?「妹とし子をも含めた家庭内の行き違い」の比喩なのかww?
自分で書いた>>336読んでみ?日本語になってねえからよw
おめえ頭悪いだろ。Fランの文学部かなんかだろおめえw てか、この一椀二椀にしてもよお、その前後読んでみ?
>これらふたつのかけた陶椀に
>おまへがたべるあめゆきをとらうとして
>こんなさつぱりした雪のひとわんを
>おまへはわたくしにたのんだのだ
>おまへはわたくしにたのんだのだ
> 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
>そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
>おまへがたべるこのふたわんのゆきに
>わたくしはいまこころからいのる
「ふたわん」の方は、賢治→妹とし子(賢治から妹に対する思い)=賢治の視点
「ひとわん」の方は、 一人死にゆく妹とし子=妹とし子の視点
きれいにできとるやろ。何が不満かねえw つまりよお、とし子は「おら おらで ひとり えぐも」って言って、
あの世に一人で行ってしまう。妹とし子は一人で死んでしまう状況であるんだが、
一方、賢治としては、そんな妹とし子を一人で死なせたくない、
死んで欲しくない、死なないでくれ妹とし子、俺を一人にしないでくれ、
そういうことだろ。
この永訣の朝の次の詩、同じ臨終の日の詩とされる「松の針」で、
ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ
と言ってるだろ。
賢治は妹とし子と死に別れるのがつらいのに、妹とし子は一人であの世に行こうとする、
行かないでくれとし子、俺を一人にしないでくれ、そういう賢治の思いが「二椀」なんだろ。
一人死んでゆくとし子が「一椀」なんだろ。
ここまで言ってもわからんかねえww だからはじめから心象風景だって言ってるんだが?
それをおまえが現実の事象のように捉えてるからそれは違うぞと言ったわけだが?おまえは日本語すら読めない猿なのか?
ふたつのかけた陶椀云々というのも上に書いてある通り、家庭内でのいざこざ(とし子の私生活での貞操に関する問題だったり宮沢家と賢治との宗教上の行き違いだったり)が原因となった心の離別のことを指してるんだが?
おまえの読解力がないだけな。
それと、何度も言うが「手紙」では「雨雪をとってきてやろか」と賢治から切り出してるわけだよ。賢治から聞いて、それにとし子が「うん」とだけ答えてるわけ。それはどうするんだ? >だからはじめから心象風景だって言ってるんだが?
言ってねえだろばーか
>>335
>これはやはり実際の出来事ではなくて、
>賢治の心象中の出来事だからなのではないだろうか。
おめえの推論になってるだろよ
出まかせ言うなと池沼w >>376
>それと、何度も言うが「手紙」では「雨雪をとってきてやろか」と
>賢治から切り出してるわけだよ。賢治から聞いて、
>それにとし子が「うん」とだけ答えてるわけ。それはどうするんだ?
どうするんだ?って俺に聞かれても困るんだがなあ(ゲラゲラゲラ
おめえ、救いようのねえ池沼だろww
賢治は心象スケッチだと言ってるんだからよお、
現実を書いてるわけじゃねえんだよ。
現実をそのまま書いたら詩にならんだろばーかw >自分としては、この「ふたわん」というのは賢治の心象風景中の出来事
と書いてあるのが猿の目には見えないらしい。いや、どうも話にならんなこいつは。 もちろんはじめから推測の話をしてるんだが?
おまえのもまったくの推測でしかないんだが? 「困る」じゃだめだろう。そこを無視したら何にもならん。ゲラゲラ笑って誤魔化してる場合じゃないよ、お猿さん。 おまえの368のレスからするとまったくの現実として捉えてるように見受けられるわけだが?
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって ちなみに「ふたわん」というのを賢治の心象風景として推測した理由は「無声慟哭」の
>わたくしのかなしさうな眼をしているのは
わたくしのふたつのこころをみつめているためだ
という所から推測したわけ。
「ふたつのこころ」即ち賢治から投影したとし子のこころ(希望的)と、賢治自身の冷静なこころのことな。
意味わかるか? で、その後の
>ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない
というのは、賢治自身のその「修羅」の冷静なこころに、その賢治の投影した「希望」のとし子のこころが目をそらした、つまりかき消されたということを示しているんじゃないか?と推測してるわけ。 >>379 :吾輩は名無しである:2013/04/26(金) 02:35:28.64
>>自分としては、この「ふたわん」というのは賢治の心象風景中の出来事
>と書いてあるのが猿の目には見えないらしい。いや、どうも話にならんなこいつは。
てかよお、おめえ、あれだろ、数学できないだろw分数の足し算とかそういうの苦手だろw
自分としては心象風景中の出来事、とかよおww
おめえとしては、俺としては、じゃないだろ。宮沢賢治自身が序章のなかで
この詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
おめえ、基本的に言語活動自体ができん人間だと思うぞ。日本人なのか?(ぷ
中国とか朝鮮からの留学生?それで日本文学でも研究してんの?ww 俺すっげーことに気が付いた!
雪見だいふくって
虫歯の人にとってただの脅威じゃね? >>382はどうした?
都合の悪いものは見えない猿なのか? おまえみたいに「春と修羅」をまったくの現実の出来事と思い込んでる猿がいるから、わざわざ断ってやってんだよ、それくらい察せよなエテ吉ちゃん。 内容の反論ができないとなるとまったく関係のない戯言を並べて話を反らすところなぞは猿以下のゴミクズだな、おい。 賢治は日本作家では誰から影響受けたのだろう
漱石や芥川は読んでたんだよね? >宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって >宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>>368
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>>368
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>>368 なんか序章も読めねえで自爆した池沼が暴れてるみてえだなww
てかよお、ところで、おめえみてえな頭の悪いヤツがなんで宮沢賢治なんか読んでるんだw
学校かなんかの宿題だったのか?(ぷw池沼がよお、宮沢賢治なんか読んだって意味わかんねえだろw
朝鮮人はマンガでも読んでればいいんだよw 自己紹介にしかなってないよなこいつw
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>>368 いや、要するに内容がすべてだろ
>>368がチョンボ猿だってことはもはや誰の眼にも明らかだし(チョンボ猿以外) Wikipediaの『どんぐりと山猫』の「鑑賞」が理解できないんだけど、文系的にはこれでOKなの?
「鑑賞」
登場する山猫、馬車別当は、無能な指導者とそれにへつらう管理者の姿であり、どんぐりとは民衆のことと考えられる。
結局法話の真髄を理解できたのはどんぐりたちだけであった、という風刺になっている。
しかし、この物語は、単に謙虚な者が一番偉いという訓話にとどまらず、一郎少年の成長の瞬間を描いた物語となっている。
一郎は人間らしい知恵や思いやりを持つ一方、山の動物たちと会話するような野生的な力を残した少年であった。
山猫は、以前から一郎を知っており、それで手紙をよこしたのである。
裁判の後、山猫は一郎を手下にしようと、名誉判事の肩書きをちらつかせて承諾させ、
次に「出頭」という言葉で拘束しようとしたが、一郎のさりげない拒絶で失敗してしまう。
もし一郎が立派な肩書きに惑わされ、山猫の言いなりになっていたら、馬車別当のような存在となり、
謝礼に鮭の頭を選んでいたら森の獣にされていたかもしれないという、きわどい選択を経て、
最後に一郎は欲を出して「黄金のどんぐり」という人間として常識的な判断を下す。
この瞬間一郎は不安定な幼い時代を卒業し、改めて人間界に仲間入りしたという物語である。
彼が「出頭すべし」という文言を拒むと山猫は興味を失ったかのように態度がよそよそしくなり、
どんぐりは色あせ、手紙が二度とこなくなってしまったのは、一郎が成長し山猫の手の届かない世界に行ってしまったからに他ならない。 @もし一郎が立派な肩書きに惑わされ…
山猫は一郎を「誘惑」しようとしたの?山猫は舌足らずなだけで一郎に敬意を払っているように読めるけど
A謝礼に鮭の頭を選んでいたら森の獣にされていたかも
山猫にそんな力があるの?鮭の頭は言わば山猫の『宝物』だから、選んで欲しくなかっただけに読めるけど
B
書くのも面倒
大学受験の現代文めちゃくちゃ苦手だったけど、文系ってこんなもんなの? 解釈はいろいろだから>>398の感想文もみてみないとわからない。
自分で解釈してここに載せてみたらみんなが君の方がいいと
言うかもしれない。
批判ならいくらでもできそうだ、短い童話とその感想文なんだから。 お、チョンボ猿発見。w
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって 風の又三郎、
グスコーブドリの伝記
銀河鉄道の夜
名作だな。 心象スケッチならぬ池沼スケッチになってるな(ゲラゲラゲラ
ま、スケッチいうても、池沼やからコピペしかできへんけどな(ウェ−ハハハハハハ なんかの発作か?
よくわからんけど、おだいじにな。 >>405
長編ならポラーノの広場も入れてあげてけれ 宮澤賢治はなぜ多くの文学者が親鸞へ向かうのに独り日蓮へ傾倒していったのか? >>410
なるほろ〜!スーパーマンと言われてちょっとハッとしたわ
他力によって救われる親鸞じゃなくて
自ら大衆を救うスーパーマン(菩薩?)になろうとしたワケだ?
自分を勘定に入れないと言った賢治が自らの力で人を救おうとしたのは興味深いな
この辺のところが長年謎でモヤモヤしてたんだがなんか腑に落ちた気がする
サンキューです 永訣の朝のふたわん問題について随分やりあったんだね
何も難しい事じゃないだろう
詩の中でなぜふたわんである必要があったのかは書かれているのに 何故ふたわんか端的に言えば
賢治は誰に清い資糧が齎される事を祈ったかという事だ
”おまえとみんなとに”だろ 「ふたわん」である必要性などはどこにも書いていない。
それに、何故あえて陶椀を二つ持ち出したかということを言ってるんだよ。
「おまえとみんなとに聖い資糧をもたらすように」なら、あえて二椀に分けなくとも一椀の雪にそれを祈れば事足りることだろう。 いや、一椀にする必要性がないとかじゃなくて、二椀であることの意味が判然しないと言ってるんだよ。
「とし子とみんなとに聖い資糧がもたらされるように」と、一椀の雪に祈って、それをとし子が口に含んで天上に還れば、それでいいわけだろう。
それはそうとして、そのふたわんの雪をとし子が食べるところをどこにも描いていないのも気にかかる。
あめゆきを含んだ松の枝を頬に擦りつけている描写はあるが、賢治が祈りを込めたお椀の雪にとし子が口をつける描写はない。
これは一体なにを意味してるんだろうか。 供物として考えたらひとわんじゃだめでしょ
そのうちのひとわんはトシ子の此岸での死に水としてのもの
もうひとわんは彼岸でトシ子とみんなとに資糧をもたらすためのもの 明確な正解がある訳じゃなくて
読んだ人がそれぞれ自分で答えを見出せばいいんだろ
読み返すと色々と断片的に書かれているのでいろんな解釈ができると思う
けど自分の推測や疑問を他者にぶつけて見ることも悪いことじゃない その通り
でも態々天上のアイスクリームという非宗教的な表現から兜率の天の食に変えた
賢治の心境くらい慮って読んであげてもいいと思う >供物
いや、その解釈は無理があるから。苦笑 それではまったく本末転倒だ。 「死に水としてのもの」とか、まるでこの詩が陳腐なものになってしまう。
まあ君の解釈にいちいちケチをつけるのもバカバカしいのだが、ちょっとあまりにアレだ。 ちょっとあまりにアレだwwwwwwwwwwwwwwww 個人的には熱にあえいでいる妹に冷たいひと椀をとって来てあげたい
という心情が一番強く感じるけど、法華経の熱心な信者だった賢治なら
同時に死水とか供物の意味も込められていたとしてもちっとも不思議じゃないし、
その解釈によって詩が陳腐になったり、まして本末転倒になったりしないと思うけどな
供物とか死水という言葉を余りにも形式的なものに捉えすぎじゃないか
>どうかこれが天上のアイスクリームになって
>おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
この辺は供物的な意味合いも感じるし
>わたくしのやさしいいもうとの
>さいごのたべものをもらっていかう
ここは死水をとってあげるという意味合いも含んでるように思える
人によってはまだ死んでないのにというかもしれんが
この詩は臨終の時間の流れと同時にもうひとつ俯瞰から眺めている視線も感じるわ いや、だから賢治のその詩の中の儚い心意を、供物とか死に水とかいう世人の行為に当て嵌めてわざわざ味気のないものに当て嵌めようとするから苦笑されるんだよ。
賢治が法華経信者だから云々なんてのも実に片腹痛い。バカも休み休み言えよな。苦笑 賢治の心椀で掬いとったその真っ白な雪に、俗世の汚い息を吹きかけて徒に溶かしてしまうようなもんだ。
詩興というものがまるっきりわかっていない。失笑 供物、死水=世人の行為 ←これこそ俗人らしい短絡的な捉え方だな
まあ、まともに反論できないことは薄々予感していたがあまりにもお粗末で残念
426のような視野の狭い固定観念に囚われた俗物がはたして詩を理解できるのか疑わしいなw いや、どうみてもおまえが反論できていないわけだが。
それにおまえのその供物云々なんかに反論するもしないもないわな。笑
ただおまえの感性の乏しさ、下品な思考を指摘してあげただけだよ。苦笑 それを「供え物」にしてしまうと、この「永訣の朝」の瑞々しい透明な空気に、胡散臭い線香のにおいと木魚の滑稽なポクポク音が響いてきて、なんだか興醒めする。
供え物という儀式が悪いということを言ってるんじゃなくて、ただこの詩には相応しくないということ。 >>430
反論するもしないもないわな。笑
できないの間違いだろお馬鹿さんww
情けないw いや、だからどうみてもおまえが反論できてないわけだが。現実逃避も程々にな、哀れなチョンボ猿。 やっぱり知ったかチョンボ猿の大将だったかw
やけに頭の悪そうな書き込みだと思ったら案の定だな
知ったか大将はいつもそうだがまともに反論できた試しがない
作品自体を読めてないからそうなる ほんと哀れな恥知らずチョンボ猿だな。
どこへ行ってもチョンボ、何をしてもチョンボ、チョンボに生きてチョンボに死す。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ちーん(-人-) あ〜賢治の詩に仏教的要素をあまりイメージしたくない人ね。
通りすがりだけど気持ちは分かる自分も昔はそうだった。
まあ詩なんだから自由に解釈すればよいと思う。
若い頃は宗教的な要素が入ってる詩や文学が嫌いだったんだが
西洋の文学や詩にはキリスト教的なものがこれでもかというように入ってる
日本の作品には少ないなと思っていたが賢治の作品は
日本の作品の中では例外的に宗教色があって西洋の作品のような気がする。
日本の作品もよく読むと宗教色がある作品も多いし根底に流れてはいるんだけどね。 年齢をかさねると宗教や思想の背景がある作品も嫌いではなくなった。 いや、「供物(笑)」なんてのは宗教的要素云々以前の問題だからよ。苦笑
まあチョンボ猿にはそういうアホくさい解釈が実によく似合ってるからそれでいいと思うよ。苦笑 >>438←こいつは本物のバカだから相手にしなくていいよw
まあこいつの幼稚な発言をみればすぐに分かるが理解力はマジで小学生以下だからな と、供物(笑)の超絶低能恥知らず支離滅裂チョンボ猿がキイキイキイキイ喚いております。
※バナナは与えないで下さい。 チョンボ猿連呼厨は漱石スレから追い出されてこっちで暴れてんの? 「彼岸過迄」の宵子の死の描写は、漱石自身の5女、雛子の死の時のことなのだろうが、やはり鬼気迫るものがある。
漱石の精神力と筆力に感心するしかない。 >>405
ほんとうにそうですね。グスコープドリの伝説が、自爆テロや神風特攻隊と
混同されないことを祈っています。 >『銀河鉄道の夜』は賢治の生前には出版されず、死後に残された訂正や削除の多いかなり読みにくい原稿を、
遺族と研究者が解読して本文を作成した
>賢治が推敲の過程で削除したブルカニロ博士の挿話を、あえて本文に載せたものが出版され、
流通しました。賢治は『銀河鉄道の夜』の原稿に、何度も推敲を重ねているのですが、
現在ではブルカニロ博士の挿話を削除したものが決定稿とみなされています
>筑摩書房から出ている全集に、決定稿の他に、ブルカニロ博士が出てくるヴァージョンも収録されています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1219510282 風の又三郎、字面を追っただけではあっけない話で終わってしまうが、
何気ない日常生活で見慣れて見飽きているという現状と、不思議な転校生が
やって来た(転校生の側から考えれば何の矛盾もないのだけど)という
日常生活を彩る一つの事件と考えれば、なんと素敵な事件なんだろうか。
どんな時代のどんな場面でも彩を添える。普遍性がある。どの時代でも
ときめきを産み出す。賢治の童話が時代を超えて存在し続ける理由だろう。 >宮沢賢治さんは、一つの温泉宿をめちゃくちゃにしてその罪を旅館の主になすりつけた上、そのことを
>武勇伝として親友に嬉々として語るようなDQN
くわしく >>335
>「ふたつのかけた陶椀」と言ったり「雪のひとわん」と言ったり、
最後にはまた「ふたわんのゆき」と言っている
「ふたつのかけた陶椀」は、陶器でできた蓋と陶製の椀で、陶椀は二つある。一方が蓋でもう一方が椀。
「雪のひと碗」は、この碗のなかに雪が入っているもの
「ふたわんのゆき」は、二つのという意味ではなく、蓋碗のなかにはいっている雪 いや、それはないだろ
どう読んでも、二人が幼少期に使っていた二つのお椀のことだろう 病人が使う食器だから、すぐに食べるかどうかわからないので
蓋付きのものを使っていたのだろう。
その蓋に、小さな茶碗をつかっていたのかもしれないが。 「ふたつのかけた蓋椀」というときは、蓋椀は蓋がとられていて、二つ並んでいる
「ふたわんのゆき」とでてきたとき、蓋碗は閉じられていて、中に雪が入っている。
情景が浮かび上がってくるようだ。そこに心象風景も暗示され象徴も使われている。 いや、だから蓋椀なんていう微妙な描写を「ふたわん」なんて書くことはあり得ないって
このふたわんというのは二つのお椀ということだよ 「二つの欠けた陶椀」というのは、ふつうにそのまま、二人の欠けた陶椀ということだよ
そこに蓋なんかをこじつけるのはあまりに滑稽 まあおそらく宮澤賢治はその二つの欠けた陶椀によって、幼少期の二人の無邪気な心に罅が入っていtsことを比喩しているんだろう
実際、賢治は一時期、妹の普段の生活上の愚行に嫌悪を示していたし、また妹は賢治の言には聞く耳も持たなかったようだし
まあ、そのへんの賢治の心境は「手紙」などからも読み取れるだろう >>457
ありえないことはないだろう?
ふたわん=蓋椀 で別におかしくない。
雪をとりにいくのに、どうして二人の陶椀を持っていくんだ?
当然、椀と蓋を持って行ったんだろう?
雪をとるのも、すがすがしい香りの松の木からとっている。
当然茶碗だけじゃなく、蓋をもっていって、いるだろう。
妹のために細心の心遣いをしているというところが読めないのか? それに、家族の茶碗というのは、一人一人違ってた。
君の家はどうだかしらんが。
ジュンサイの模様の茶碗は妹の茶碗じゃないのか?
子供のときもそれをつかっていたのかもしれないし、現在もそれが妹のしるしなんだろう。
亡くなった人が使う茶碗は割るという地方もあった。 いや、蓋椀というのはだいぶ無理がある
どこからその「当然」が出てくるんだ?その根拠をまずは明確に示すべき
すがすがしい松の木から雪をとることが何故「当然」蓋付きお椀に繋がるんだ?
細心の心遣いとはなんだ?お椀に蓋をすることが細心なのか?あまり滑稽が過ぎるよ >家族の茶碗というのは、一人一人違ってた
いや、むしろおそろいの茶碗を使ってるのがほとんどなんじゃないか?
君は無駄に断言してるだけで、何の根拠も示していないわけだが、断言するならばそれ相当の根拠を示そうな 「青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」
どう読んでも、二つの欠けた陶椀だよな そもそも、お椀の蓋を蓋椀なんて呼ばないっての
椀は椀、蓋は蓋 蓋のついた椀で蓋椀。
「おまへがたべるこのふたわんのゆきに」
これが二椀というのが状況的におかしい。ゆきもひらながだし。
やっぱり「蓋椀の雪」ではないかと思う。
病人のために雪をとりにいって
茶碗ふたつを両手にもっているなんて状況はおかしい。
できるかぎり、清潔でおいしい雪をとるように細心の注意をはらうはずだから。
それが天上のアイスクリームになることを願う。
その状況を考えると、たいせつに雪をふたつきの食器に入れたと思う。
>「青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」
蓋付きの食器だから、同じ模様がついているのでは? >>467
>これらふたつのかけた陶椀
上下を分けて、一つずつに数えたということ? むしろ、ひとつの陶椀なら、
「青い蓴のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」
などという表現はしないだろう
この、「これらふたつ」を、何故、お椀と蓋と解釈するのか、その根拠をまずは示せ、とさっきから言ってるわけだよ
「おまえへがたべるこのふたわんのゆき」の二椀というのが状況的におかしい?
一体、どこがおかしいんだ?むしろ、蓋に盛った雪のほうが、状況的にもおかしいんじゃないか?
どう読んでも、ここでの「ふたつ」というのは、その後の「ふたつのこころ」に繋がってるだろう
「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない」
もう、わかるよな? >わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
>みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
とあるから日常の食器だったんだろう。
>(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
>青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
>これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
>おまへがたべるあめゆきをとらうとして
>わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
これからは>>452の言うように意識朦朧としたとし子に
賢治が無意識に幼い頃のままごとの食器のつもりで二つ持って飛び出した、が合理的か?
あるいはそうではなくなにか宗教的な背景があるかもしれない。 つまりだね、あえて賢治が「二つ」にしたのは、過去の二人の過ち、痼りを、その二椀の雪によって溶かそうとしたわけなんだよ
賢治がその雪を汲み、とし子がそれを口にする
それによって、過去のお互いの黒い罪を清浄しようとしたわけ