Wikipediaの『どんぐりと山猫』の「鑑賞」が理解できないんだけど、文系的にはこれでOKなの?


「鑑賞」
登場する山猫、馬車別当は、無能な指導者とそれにへつらう管理者の姿であり、どんぐりとは民衆のことと考えられる。
結局法話の真髄を理解できたのはどんぐりたちだけであった、という風刺になっている。
しかし、この物語は、単に謙虚な者が一番偉いという訓話にとどまらず、一郎少年の成長の瞬間を描いた物語となっている。

一郎は人間らしい知恵や思いやりを持つ一方、山の動物たちと会話するような野生的な力を残した少年であった。
山猫は、以前から一郎を知っており、それで手紙をよこしたのである。
裁判の後、山猫は一郎を手下にしようと、名誉判事の肩書きをちらつかせて承諾させ、
次に「出頭」という言葉で拘束しようとしたが、一郎のさりげない拒絶で失敗してしまう。
もし一郎が立派な肩書きに惑わされ、山猫の言いなりになっていたら、馬車別当のような存在となり、
謝礼に鮭の頭を選んでいたら森の獣にされていたかもしれないという、きわどい選択を経て、
最後に一郎は欲を出して「黄金のどんぐり」という人間として常識的な判断を下す。
この瞬間一郎は不安定な幼い時代を卒業し、改めて人間界に仲間入りしたという物語である。

彼が「出頭すべし」という文言を拒むと山猫は興味を失ったかのように態度がよそよそしくなり、
どんぐりは色あせ、手紙が二度とこなくなってしまったのは、一郎が成長し山猫の手の届かない世界に行ってしまったからに他ならない。