宮澤賢治
あらあら どうして この方のスレが ないのだろう 山猫は さっそく スレ立てに従事しました お、チョンボ猿発見。w
>宮沢賢治自身が序章のなかでこの詩は「心象スケッチ」だと言ってるんだから、心象スケッチなんだよ。
>台所にある目に付いた茶碗を両手に持てるだけもって 風の又三郎、
グスコーブドリの伝記
銀河鉄道の夜
名作だな。 心象スケッチならぬ池沼スケッチになってるな(ゲラゲラゲラ
ま、スケッチいうても、池沼やからコピペしかできへんけどな(ウェ−ハハハハハハ なんかの発作か?
よくわからんけど、おだいじにな。 >>405
長編ならポラーノの広場も入れてあげてけれ 宮澤賢治はなぜ多くの文学者が親鸞へ向かうのに独り日蓮へ傾倒していったのか? >>410
なるほろ〜!スーパーマンと言われてちょっとハッとしたわ
他力によって救われる親鸞じゃなくて
自ら大衆を救うスーパーマン(菩薩?)になろうとしたワケだ?
自分を勘定に入れないと言った賢治が自らの力で人を救おうとしたのは興味深いな
この辺のところが長年謎でモヤモヤしてたんだがなんか腑に落ちた気がする
サンキューです 永訣の朝のふたわん問題について随分やりあったんだね
何も難しい事じゃないだろう
詩の中でなぜふたわんである必要があったのかは書かれているのに 何故ふたわんか端的に言えば
賢治は誰に清い資糧が齎される事を祈ったかという事だ
”おまえとみんなとに”だろ 「ふたわん」である必要性などはどこにも書いていない。
それに、何故あえて陶椀を二つ持ち出したかということを言ってるんだよ。
「おまえとみんなとに聖い資糧をもたらすように」なら、あえて二椀に分けなくとも一椀の雪にそれを祈れば事足りることだろう。 いや、一椀にする必要性がないとかじゃなくて、二椀であることの意味が判然しないと言ってるんだよ。
「とし子とみんなとに聖い資糧がもたらされるように」と、一椀の雪に祈って、それをとし子が口に含んで天上に還れば、それでいいわけだろう。
それはそうとして、そのふたわんの雪をとし子が食べるところをどこにも描いていないのも気にかかる。
あめゆきを含んだ松の枝を頬に擦りつけている描写はあるが、賢治が祈りを込めたお椀の雪にとし子が口をつける描写はない。
これは一体なにを意味してるんだろうか。 供物として考えたらひとわんじゃだめでしょ
そのうちのひとわんはトシ子の此岸での死に水としてのもの
もうひとわんは彼岸でトシ子とみんなとに資糧をもたらすためのもの 明確な正解がある訳じゃなくて
読んだ人がそれぞれ自分で答えを見出せばいいんだろ
読み返すと色々と断片的に書かれているのでいろんな解釈ができると思う
けど自分の推測や疑問を他者にぶつけて見ることも悪いことじゃない その通り
でも態々天上のアイスクリームという非宗教的な表現から兜率の天の食に変えた
賢治の心境くらい慮って読んであげてもいいと思う >供物
いや、その解釈は無理があるから。苦笑 それではまったく本末転倒だ。 「死に水としてのもの」とか、まるでこの詩が陳腐なものになってしまう。
まあ君の解釈にいちいちケチをつけるのもバカバカしいのだが、ちょっとあまりにアレだ。 ちょっとあまりにアレだwwwwwwwwwwwwwwww 個人的には熱にあえいでいる妹に冷たいひと椀をとって来てあげたい
という心情が一番強く感じるけど、法華経の熱心な信者だった賢治なら
同時に死水とか供物の意味も込められていたとしてもちっとも不思議じゃないし、
その解釈によって詩が陳腐になったり、まして本末転倒になったりしないと思うけどな
供物とか死水という言葉を余りにも形式的なものに捉えすぎじゃないか
>どうかこれが天上のアイスクリームになって
>おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
この辺は供物的な意味合いも感じるし
>わたくしのやさしいいもうとの
>さいごのたべものをもらっていかう
ここは死水をとってあげるという意味合いも含んでるように思える
人によってはまだ死んでないのにというかもしれんが
この詩は臨終の時間の流れと同時にもうひとつ俯瞰から眺めている視線も感じるわ いや、だから賢治のその詩の中の儚い心意を、供物とか死に水とかいう世人の行為に当て嵌めてわざわざ味気のないものに当て嵌めようとするから苦笑されるんだよ。
賢治が法華経信者だから云々なんてのも実に片腹痛い。バカも休み休み言えよな。苦笑 賢治の心椀で掬いとったその真っ白な雪に、俗世の汚い息を吹きかけて徒に溶かしてしまうようなもんだ。
詩興というものがまるっきりわかっていない。失笑 供物、死水=世人の行為 ←これこそ俗人らしい短絡的な捉え方だな
まあ、まともに反論できないことは薄々予感していたがあまりにもお粗末で残念
426のような視野の狭い固定観念に囚われた俗物がはたして詩を理解できるのか疑わしいなw いや、どうみてもおまえが反論できていないわけだが。
それにおまえのその供物云々なんかに反論するもしないもないわな。笑
ただおまえの感性の乏しさ、下品な思考を指摘してあげただけだよ。苦笑 それを「供え物」にしてしまうと、この「永訣の朝」の瑞々しい透明な空気に、胡散臭い線香のにおいと木魚の滑稽なポクポク音が響いてきて、なんだか興醒めする。
供え物という儀式が悪いということを言ってるんじゃなくて、ただこの詩には相応しくないということ。 >>430
反論するもしないもないわな。笑
できないの間違いだろお馬鹿さんww
情けないw いや、だからどうみてもおまえが反論できてないわけだが。現実逃避も程々にな、哀れなチョンボ猿。 やっぱり知ったかチョンボ猿の大将だったかw
やけに頭の悪そうな書き込みだと思ったら案の定だな
知ったか大将はいつもそうだがまともに反論できた試しがない
作品自体を読めてないからそうなる ほんと哀れな恥知らずチョンボ猿だな。
どこへ行ってもチョンボ、何をしてもチョンボ、チョンボに生きてチョンボに死す。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ちーん(-人-) あ〜賢治の詩に仏教的要素をあまりイメージしたくない人ね。
通りすがりだけど気持ちは分かる自分も昔はそうだった。
まあ詩なんだから自由に解釈すればよいと思う。
若い頃は宗教的な要素が入ってる詩や文学が嫌いだったんだが
西洋の文学や詩にはキリスト教的なものがこれでもかというように入ってる
日本の作品には少ないなと思っていたが賢治の作品は
日本の作品の中では例外的に宗教色があって西洋の作品のような気がする。
日本の作品もよく読むと宗教色がある作品も多いし根底に流れてはいるんだけどね。 年齢をかさねると宗教や思想の背景がある作品も嫌いではなくなった。 いや、「供物(笑)」なんてのは宗教的要素云々以前の問題だからよ。苦笑
まあチョンボ猿にはそういうアホくさい解釈が実によく似合ってるからそれでいいと思うよ。苦笑 >>438←こいつは本物のバカだから相手にしなくていいよw
まあこいつの幼稚な発言をみればすぐに分かるが理解力はマジで小学生以下だからな と、供物(笑)の超絶低能恥知らず支離滅裂チョンボ猿がキイキイキイキイ喚いております。
※バナナは与えないで下さい。 チョンボ猿連呼厨は漱石スレから追い出されてこっちで暴れてんの? 「彼岸過迄」の宵子の死の描写は、漱石自身の5女、雛子の死の時のことなのだろうが、やはり鬼気迫るものがある。
漱石の精神力と筆力に感心するしかない。 >>405
ほんとうにそうですね。グスコープドリの伝説が、自爆テロや神風特攻隊と
混同されないことを祈っています。 >『銀河鉄道の夜』は賢治の生前には出版されず、死後に残された訂正や削除の多いかなり読みにくい原稿を、
遺族と研究者が解読して本文を作成した
>賢治が推敲の過程で削除したブルカニロ博士の挿話を、あえて本文に載せたものが出版され、
流通しました。賢治は『銀河鉄道の夜』の原稿に、何度も推敲を重ねているのですが、
現在ではブルカニロ博士の挿話を削除したものが決定稿とみなされています
>筑摩書房から出ている全集に、決定稿の他に、ブルカニロ博士が出てくるヴァージョンも収録されています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1219510282 風の又三郎、字面を追っただけではあっけない話で終わってしまうが、
何気ない日常生活で見慣れて見飽きているという現状と、不思議な転校生が
やって来た(転校生の側から考えれば何の矛盾もないのだけど)という
日常生活を彩る一つの事件と考えれば、なんと素敵な事件なんだろうか。
どんな時代のどんな場面でも彩を添える。普遍性がある。どの時代でも
ときめきを産み出す。賢治の童話が時代を超えて存在し続ける理由だろう。 >宮沢賢治さんは、一つの温泉宿をめちゃくちゃにしてその罪を旅館の主になすりつけた上、そのことを
>武勇伝として親友に嬉々として語るようなDQN
くわしく >>335
>「ふたつのかけた陶椀」と言ったり「雪のひとわん」と言ったり、
最後にはまた「ふたわんのゆき」と言っている
「ふたつのかけた陶椀」は、陶器でできた蓋と陶製の椀で、陶椀は二つある。一方が蓋でもう一方が椀。
「雪のひと碗」は、この碗のなかに雪が入っているもの
「ふたわんのゆき」は、二つのという意味ではなく、蓋碗のなかにはいっている雪 いや、それはないだろ
どう読んでも、二人が幼少期に使っていた二つのお椀のことだろう 病人が使う食器だから、すぐに食べるかどうかわからないので
蓋付きのものを使っていたのだろう。
その蓋に、小さな茶碗をつかっていたのかもしれないが。 「ふたつのかけた蓋椀」というときは、蓋椀は蓋がとられていて、二つ並んでいる
「ふたわんのゆき」とでてきたとき、蓋碗は閉じられていて、中に雪が入っている。
情景が浮かび上がってくるようだ。そこに心象風景も暗示され象徴も使われている。 いや、だから蓋椀なんていう微妙な描写を「ふたわん」なんて書くことはあり得ないって
このふたわんというのは二つのお椀ということだよ 「二つの欠けた陶椀」というのは、ふつうにそのまま、二人の欠けた陶椀ということだよ
そこに蓋なんかをこじつけるのはあまりに滑稽 まあおそらく宮澤賢治はその二つの欠けた陶椀によって、幼少期の二人の無邪気な心に罅が入っていtsことを比喩しているんだろう
実際、賢治は一時期、妹の普段の生活上の愚行に嫌悪を示していたし、また妹は賢治の言には聞く耳も持たなかったようだし
まあ、そのへんの賢治の心境は「手紙」などからも読み取れるだろう >>457
ありえないことはないだろう?
ふたわん=蓋椀 で別におかしくない。
雪をとりにいくのに、どうして二人の陶椀を持っていくんだ?
当然、椀と蓋を持って行ったんだろう?
雪をとるのも、すがすがしい香りの松の木からとっている。
当然茶碗だけじゃなく、蓋をもっていって、いるだろう。
妹のために細心の心遣いをしているというところが読めないのか? それに、家族の茶碗というのは、一人一人違ってた。
君の家はどうだかしらんが。
ジュンサイの模様の茶碗は妹の茶碗じゃないのか?
子供のときもそれをつかっていたのかもしれないし、現在もそれが妹のしるしなんだろう。
亡くなった人が使う茶碗は割るという地方もあった。 いや、蓋椀というのはだいぶ無理がある
どこからその「当然」が出てくるんだ?その根拠をまずは明確に示すべき
すがすがしい松の木から雪をとることが何故「当然」蓋付きお椀に繋がるんだ?
細心の心遣いとはなんだ?お椀に蓋をすることが細心なのか?あまり滑稽が過ぎるよ >家族の茶碗というのは、一人一人違ってた
いや、むしろおそろいの茶碗を使ってるのがほとんどなんじゃないか?
君は無駄に断言してるだけで、何の根拠も示していないわけだが、断言するならばそれ相当の根拠を示そうな 「青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」
どう読んでも、二つの欠けた陶椀だよな そもそも、お椀の蓋を蓋椀なんて呼ばないっての
椀は椀、蓋は蓋 蓋のついた椀で蓋椀。
「おまへがたべるこのふたわんのゆきに」
これが二椀というのが状況的におかしい。ゆきもひらながだし。
やっぱり「蓋椀の雪」ではないかと思う。
病人のために雪をとりにいって
茶碗ふたつを両手にもっているなんて状況はおかしい。
できるかぎり、清潔でおいしい雪をとるように細心の注意をはらうはずだから。
それが天上のアイスクリームになることを願う。
その状況を考えると、たいせつに雪をふたつきの食器に入れたと思う。
>「青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」
蓋付きの食器だから、同じ模様がついているのでは? >>467
>これらふたつのかけた陶椀
上下を分けて、一つずつに数えたということ? むしろ、ひとつの陶椀なら、
「青い蓴のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」
などという表現はしないだろう
この、「これらふたつ」を、何故、お椀と蓋と解釈するのか、その根拠をまずは示せ、とさっきから言ってるわけだよ
「おまえへがたべるこのふたわんのゆき」の二椀というのが状況的におかしい?
一体、どこがおかしいんだ?むしろ、蓋に盛った雪のほうが、状況的にもおかしいんじゃないか?
どう読んでも、ここでの「ふたつ」というのは、その後の「ふたつのこころ」に繋がってるだろう
「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない」
もう、わかるよな? >わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
>みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
とあるから日常の食器だったんだろう。
>(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
>青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
>これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
>おまへがたべるあめゆきをとらうとして
>わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
これからは>>452の言うように意識朦朧としたとし子に
賢治が無意識に幼い頃のままごとの食器のつもりで二つ持って飛び出した、が合理的か?
あるいはそうではなくなにか宗教的な背景があるかもしれない。 つまりだね、あえて賢治が「二つ」にしたのは、過去の二人の過ち、痼りを、その二椀の雪によって溶かそうとしたわけなんだよ
賢治がその雪を汲み、とし子がそれを口にする
それによって、過去のお互いの黒い罪を清浄しようとしたわけ 日本の食事の特徴として属人器や銘々器というのがよく言われる。
西洋や大陸では共用食器らしいからそういうのも関わってくるかも。 その二つに分けているところに、賢治の意思、思想の強み、信心が窺える
この時に於いても、賢治は
「ただわたくしはそれをいま言へないのだ
(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)」
と断っている
いもうとの死よりも、自らの「道」を優先しているのだよ だから、ふたわんを、蓋椀などと解釈するのは、とんだ見当違いなわけ
あくまでも、賢治は冷静だよ むしろこの場面では、その二椀の雪に、とし子が口をつける描写がないところに注目すべき
賢治は、詩的感興などから、その描写をあえて省いたのだろうか?
そうは思えない、これは意識的に省いている
でないと、その前の描写がまるで活きてこない、無意味だ
では、なぜかそれを省いたのだろう?ーーとし子がそれに口をつけなかったから?
ーー修羅をいく賢治のこころに、それがあんまりだったため?
ーー或いは? 或いは、賢治はそれが自分の一人合点だということを自認していたためでは?
それらが、詩的妄想でしかないということを、或いは詩的理想だということをあんじするためでは?
ーーあくまでも、賢治は冷静だよ ふたわんを蓋椀と解釈したというのは、「ふたわんのゆき」に対して
どうして二椀なのか?という疑問があるから。
そこに疑問を持たない人は、それでおわり。詩の解釈は幅があるからそのまま
そう信じておけばいい。自由だ。
しかし、私はあくまでどうして「ふたわんのゆき」なのかにひっかかる。
蓋と椀でもいいし、茶碗二つでもいい、一つは蓋として使ったと考えている。
雪を二つの茶碗にいれてくっつけて片方の茶碗をはずすと、アイスクリームの形になる。
「ふたわんのゆき」とはそういう趣向を暗示しているのかもしれない。
とにかく、私がいいたいのは、疑問を持てば自分の頭であれこれ想像したり考えてみるといいかも
しれないということだ。誰かの書いた説をうのみにしたら、そこで終わる。 えっと、日本語は読めるかな?
上にも書いたけど、それぞれの過去の罪を清浄すべく、それぞれのお椀に賢治が掬って
その二椀をとし子が口にすることで、賢治自身の償い、或いは慰めとしたかったんだろうと書いたわけなんだが
なんだか君は耳が遠いのか何なのか、あまりにも明後日のほうに突っ走っているから、どうにも噛み合わないね まあ、どうしても君が「蓋椀」としか解釈できなら、それでもいいんだろうけど、それじゃ身も蓋もないわな(苦笑) それと、「誰かの書いた説をうのみ」とは?
これらの説はまったく自分の説なわけなんだけど、大丈夫?
それともどこかにこの説に似たようなのがあったのかな?あったならそのソースを出してね >>477
疑問はもちろん自由だけど、気になることもある。
蓋椀だとしたら、なぜわざわざ蓋のほうに雪を入れるのかがわからない。
二つの椀なら、特に疑問は起きない。
ひとつずつに雪を入れても不自然さはない。
そしてもうひとつ。
蓋付の陶器の椀だと、思いつくのはお菓子の入れ物だ。
蓋のほうは底になってなくて不安定だから、置かないで直接手渡しをすることになる。
ちょっとどうかなあ、と思う。 蓋椀なんていう言語すらないのに、それを「ふたわん」と書いて蓋椀と読ませようなんて、いくらなんでもあり得ないわな
この作中で「ひとつ」「ふたつ」という表現をしてるんだから、そのままふたつのお椀と捉える以外にあるわけないよ
蓋椀じゃ、まるで意味が通じなくなるし、いくら賢治でもそんなバカみたいに、無駄に勘違いさせるような曖昧な書き方はしないさ 二椀に疑問をもったということ。
だからいろいろ考えた。二椀に疑問を持たない人はそれで思考停止。
どうして二椀なんだろうか?そこで蓋と椀なんだろうか。
それとも、茶碗ふたつならば、両方に雪をいれてくっつけてひとつの茶碗を
はずせば、アイスクリームの形になるわな、とか考えてみたわけ。
二椀に疑問をもたないひとたちは、そのまま思考停止。
どっちもありだよ。賢治の詩は未完成のままだったのだから。
でも私は、それだからこそ、賢治のイメージを追ってみたいそれだけのこと。 >>483
そうは言っても、言葉の合理性というものは無視できないんじゃないか?
作品が死んじゃうから。 >>484
二つの茶碗の雪をつめてくっつけて、一つの茶碗をはずして
アイスクリームの形にしたものを、ふたわんのゆきといっても
矛盾はないだろう? いや、疑問を持つべきところが君だけズレてるだけ
上に何度も書いてるが、「ふたわん」というのは、賢治ととし子のこころの比喩になってるわけ
君は「手紙」を読んだのかな?
それを読めば、「ふたつのかけた陶椀」の意味も自ずからわかると思うんだが
それでわからないなら、君には賢治の作品は読めないよ いや、君こそ読めてない。
>>485に矛盾はないだろう?
それならそれがひとつの解釈になるんだよ。
ふたわんが賢治ととし子の比喩になっているのかどうかの確証はない。
かもしれないという程度だ。だから可能性をつぶしてはいけない。
どうして君たちはそんなに頭が固いのだろうか? そのアイスクリームの形なんてのがすでに君だけの妄想でしかない
賢治は、「これが天上のアイスクリームとなって」としか書いていない
そのアイスクリームの形なんかには拘ってない
そんなとこに拘ってしまえば、興醒め、滑稽に落ちるだけだし >>488
妄想じゃなくて、実際まるいアイスクリームの形になるだろう?
わからないのかい? バカを意地でも突き通すそのバカっぷりは実に逞しゅうございますけど、あまりむやみに突き通しても、ますますバカを促進させるだけで、あまりいい事ないよ >>485
ああ、普通の茶碗を蓋に見立てて、ということか。
アイスクリームの形を想像するのは面白いけど、「ふたわん」と表現するのはどうかなあ。
普通ではない言葉を使うときには、詩の中で強いイメージを呼び起こさないといけないと思うんだけど。
それほど印象的ではないように感じるな。 >>491
悪いけど、お前がバカだよ。
詩の解釈には幅がある。だからどんどん矛盾のない解釈をだしていったらいい。
詩というものは、広がりがあるものなんだ。矛盾さえなければね。
そしてそれがいやなら語らなければいい。
ただそれだけ。 >>486
>「ふたわん」というのは、賢治ととし子のこころの比喩
そこまで決めつけていいのかなあ? いやぁ、しかしバカっているもんなんだな
おそるべし、2ちゃんねる みんな頭が固いなあ。
詩というのは、その精神=エスプリを読み取らないとダメだぞ。
賢治がそんなに頭でっかちの石頭だと思うか? >>497
けっこう頭でっかちの石頭だと思うけど? いくら賢治でも、「ふたわん」を「蓋椀」と読まれるとは思いもかけなかったろうな
それならはじめから「二わん」とでも書いときゃいいんだが、まあ字面を気にしたのか、単になんとなくひらがなで書いちゃったのかなんなのか、まあたいした話ではないだろう >>498
その辺の認識の差が詩の受け止め方の差になっているんだろうな。
詩の解釈には、矛盾さえなければ、幾通りもあるだろう。
君は君の解釈で理解すればいいんだと思う。 >>499
だからさ、本当のところはだれにもわからないってことさ。
サリンジャーの小説に、そういう時は作者に電話して聞いてみたいみたいな
ことが書いてあったけど、全く同意。でも、当然そういうのは不可能なんだよね。 >>500
>君は君の解釈で理解すればいいんだと思う
そう思うなら、議論しないほうがいいんじゃないかな。
>詩の解釈には、矛盾さえなければ、幾通りもあるだろう
でも、これは違うと思うよ。
本人の意図がある以上は、その本人の意図に近づける努力をするしかない。
だから文芸評論という専門分野が成り立つ。