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宮澤賢治
0001
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2010/09/17(金) 19:58:21
あらあら どうして この方のスレが ないのだろう 山猫は さっそく スレ立てに従事しました
0446吾輩は名無しである
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2013/09/18(水) 00:44:59.83
>>405
ほんとうにそうですね。グスコープドリの伝説が、自爆テロや神風特攻隊と
混同されないことを祈っています。
0447吾輩は名無しである
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2013/11/04(月) 19:01:52.94
で、結論からするとブルカニロ博士って誰なの?
0448吾輩は名無しである
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2013/11/08(金) 08:07:12.83
>『銀河鉄道の夜』は賢治の生前には出版されず、死後に残された訂正や削除の多いかなり読みにくい原稿を、
遺族と研究者が解読して本文を作成した
>賢治が推敲の過程で削除したブルカニロ博士の挿話を、あえて本文に載せたものが出版され、
流通しました。賢治は『銀河鉄道の夜』の原稿に、何度も推敲を重ねているのですが、
現在ではブルカニロ博士の挿話を削除したものが決定稿とみなされています
>筑摩書房から出ている全集に、決定稿の他に、ブルカニロ博士が出てくるヴァージョンも収録されています。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1219510282
0449吾輩は名無しである
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2013/11/18(月) 22:58:24.63
風の又三郎、字面を追っただけではあっけない話で終わってしまうが、
何気ない日常生活で見慣れて見飽きているという現状と、不思議な転校生が
やって来た(転校生の側から考えれば何の矛盾もないのだけど)という
日常生活を彩る一つの事件と考えれば、なんと素敵な事件なんだろうか。
どんな時代のどんな場面でも彩を添える。普遍性がある。どの時代でも
ときめきを産み出す。賢治の童話が時代を超えて存在し続ける理由だろう。
0450吾輩は名無しである
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2013/12/31(火) 10:03:17.04
>宮沢賢治さんは、一つの温泉宿をめちゃくちゃにしてその罪を旅館の主になすりつけた上、そのことを
>武勇伝として親友に嬉々として語るようなDQN

くわしく
0451吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 14:56:15.95
>>335
>「ふたつのかけた陶椀」と言ったり「雪のひとわん」と言ったり、
最後にはまた「ふたわんのゆき」と言っている



「ふたつのかけた陶椀」は、陶器でできた蓋と陶製の椀で、陶椀は二つある。一方が蓋でもう一方が椀。

「雪のひと碗」は、この碗のなかに雪が入っているもの

「ふたわんのゆき」は、二つのという意味ではなく、蓋碗のなかにはいっている雪
0452吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 15:36:06.57
いや、それはないだろ
どう読んでも、二人が幼少期に使っていた二つのお椀のことだろう
0454吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 17:44:16.60
病人が使う食器だから、すぐに食べるかどうかわからないので
蓋付きのものを使っていたのだろう。
その蓋に、小さな茶碗をつかっていたのかもしれないが。
0455吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 17:58:18.08
「ふたつのかけた蓋椀」というときは、蓋椀は蓋がとられていて、二つ並んでいる

「ふたわんのゆき」とでてきたとき、蓋碗は閉じられていて、中に雪が入っている。

情景が浮かび上がってくるようだ。そこに心象風景も暗示され象徴も使われている。
0457吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 18:19:56.39
いや、だから蓋椀なんていう微妙な描写を「ふたわん」なんて書くことはあり得ないって
このふたわんというのは二つのお椀ということだよ
0458吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 18:22:50.67
「二つの欠けた陶椀」というのは、ふつうにそのまま、二人の欠けた陶椀ということだよ
そこに蓋なんかをこじつけるのはあまりに滑稽
0459吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 18:31:01.90
まあおそらく宮澤賢治はその二つの欠けた陶椀によって、幼少期の二人の無邪気な心に罅が入っていtsことを比喩しているんだろう
実際、賢治は一時期、妹の普段の生活上の愚行に嫌悪を示していたし、また妹は賢治の言には聞く耳も持たなかったようだし
まあ、そのへんの賢治の心境は「手紙」などからも読み取れるだろう
0460吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 18:36:26.20
>>457
ありえないことはないだろう?

ふたわん=蓋椀 で別におかしくない。

雪をとりにいくのに、どうして二人の陶椀を持っていくんだ?
当然、椀と蓋を持って行ったんだろう?

雪をとるのも、すがすがしい香りの松の木からとっている。
当然茶碗だけじゃなく、蓋をもっていって、いるだろう。
妹のために細心の心遣いをしているというところが読めないのか?
0461吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 18:39:46.86
それに、家族の茶碗というのは、一人一人違ってた。
君の家はどうだかしらんが。
ジュンサイの模様の茶碗は妹の茶碗じゃないのか?
子供のときもそれをつかっていたのかもしれないし、現在もそれが妹のしるしなんだろう。

亡くなった人が使う茶碗は割るという地方もあった。
0462吾輩は名無しである
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2014/01/22(水) 18:53:14.54
いや、蓋椀というのはだいぶ無理がある
どこからその「当然」が出てくるんだ?その根拠をまずは明確に示すべき
すがすがしい松の木から雪をとることが何故「当然」蓋付きお椀に繋がるんだ?
細心の心遣いとはなんだ?お椀に蓋をすることが細心なのか?あまり滑稽が過ぎるよ
0463吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 18:56:27.85
>家族の茶碗というのは、一人一人違ってた
いや、むしろおそろいの茶碗を使ってるのがほとんどなんじゃないか?
君は無駄に断言してるだけで、何の根拠も示していないわけだが、断言するならばそれ相当の根拠を示そうな
0464吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 19:06:48.82
「青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」

どう読んでも、二つの欠けた陶椀だよな
0466吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 21:08:08.46
蓋椀ワロタage
0467吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 21:37:28.41
蓋のついた椀で蓋椀。

「おまへがたべるこのふたわんのゆきに」
これが二椀というのが状況的におかしい。ゆきもひらながだし。
やっぱり「蓋椀の雪」ではないかと思う。

病人のために雪をとりにいって
茶碗ふたつを両手にもっているなんて状況はおかしい。
できるかぎり、清潔でおいしい雪をとるように細心の注意をはらうはずだから。

それが天上のアイスクリームになることを願う。
その状況を考えると、たいせつに雪をふたつきの食器に入れたと思う。

>「青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」

蓋付きの食器だから、同じ模様がついているのでは?
0469吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 23:04:03.22
むしろ、ひとつの陶椀なら、
「青い蓴のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に」
などという表現はしないだろう
この、「これらふたつ」を、何故、お椀と蓋と解釈するのか、その根拠をまずは示せ、とさっきから言ってるわけだよ
「おまえへがたべるこのふたわんのゆき」の二椀というのが状況的におかしい?
一体、どこがおかしいんだ?むしろ、蓋に盛った雪のほうが、状況的にもおかしいんじゃないか?
どう読んでも、ここでの「ふたつ」というのは、その後の「ふたつのこころ」に繋がってるだろう

「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない」

もう、わかるよな?
0470吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 23:07:57.77
>わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
>みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも

とあるから日常の食器だったんだろう。

>(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
>青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
>これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
>おまへがたべるあめゆきをとらうとして
>わたくしはまがったてっぽうだまのやうに

これからは>>452の言うように意識朦朧としたとし子に
賢治が無意識に幼い頃のままごとの食器のつもりで二つ持って飛び出した、が合理的か?
あるいはそうではなくなにか宗教的な背景があるかもしれない。
0471吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 23:10:50.94
つまりだね、あえて賢治が「二つ」にしたのは、過去の二人の過ち、痼りを、その二椀の雪によって溶かそうとしたわけなんだよ
賢治がその雪を汲み、とし子がそれを口にする
それによって、過去のお互いの黒い罪を清浄しようとしたわけ
0472吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 23:15:17.47
日本の食事の特徴として属人器や銘々器というのがよく言われる。
西洋や大陸では共用食器らしいからそういうのも関わってくるかも。
0473吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 23:15:50.88
その二つに分けているところに、賢治の意思、思想の強み、信心が窺える
この時に於いても、賢治は
「ただわたくしはそれをいま言へないのだ
   (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)」
と断っている

いもうとの死よりも、自らの「道」を優先しているのだよ
0474吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 23:18:03.37
だから、ふたわんを、蓋椀などと解釈するのは、とんだ見当違いなわけ
あくまでも、賢治は冷静だよ
0475吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 23:38:34.43
むしろこの場面では、その二椀の雪に、とし子が口をつける描写がないところに注目すべき
賢治は、詩的感興などから、その描写をあえて省いたのだろうか?
そうは思えない、これは意識的に省いている
でないと、その前の描写がまるで活きてこない、無意味だ
では、なぜかそれを省いたのだろう?ーーとし子がそれに口をつけなかったから?
ーー修羅をいく賢治のこころに、それがあんまりだったため?

ーー或いは?
0476吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/22(水) 23:46:15.36
或いは、賢治はそれが自分の一人合点だということを自認していたためでは?
それらが、詩的妄想でしかないということを、或いは詩的理想だということをあんじするためでは?
ーーあくまでも、賢治は冷静だよ
0477吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:16:07.17
ふたわんを蓋椀と解釈したというのは、「ふたわんのゆき」に対して

どうして二椀なのか?という疑問があるから。

そこに疑問を持たない人は、それでおわり。詩の解釈は幅があるからそのまま
そう信じておけばいい。自由だ。

しかし、私はあくまでどうして「ふたわんのゆき」なのかにひっかかる。

蓋と椀でもいいし、茶碗二つでもいい、一つは蓋として使ったと考えている。

雪を二つの茶碗にいれてくっつけて片方の茶碗をはずすと、アイスクリームの形になる。
「ふたわんのゆき」とはそういう趣向を暗示しているのかもしれない。

とにかく、私がいいたいのは、疑問を持てば自分の頭であれこれ想像したり考えてみるといいかも
しれないということだ。誰かの書いた説をうのみにしたら、そこで終わる。
0478吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:22:56.53
えっと、日本語は読めるかな?
上にも書いたけど、それぞれの過去の罪を清浄すべく、それぞれのお椀に賢治が掬って
その二椀をとし子が口にすることで、賢治自身の償い、或いは慰めとしたかったんだろうと書いたわけなんだが
なんだか君は耳が遠いのか何なのか、あまりにも明後日のほうに突っ走っているから、どうにも噛み合わないね
0479吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:25:21.63
まあ、どうしても君が「蓋椀」としか解釈できなら、それでもいいんだろうけど、それじゃ身も蓋もないわな(苦笑)
0480吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:29:49.92
それと、「誰かの書いた説をうのみ」とは?
これらの説はまったく自分の説なわけなんだけど、大丈夫?
それともどこかにこの説に似たようなのがあったのかな?あったならそのソースを出してね
0481吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:34:18.04
>>477
疑問はもちろん自由だけど、気になることもある。

蓋椀だとしたら、なぜわざわざ蓋のほうに雪を入れるのかがわからない。
二つの椀なら、特に疑問は起きない。
ひとつずつに雪を入れても不自然さはない。

そしてもうひとつ。
蓋付の陶器の椀だと、思いつくのはお菓子の入れ物だ。
蓋のほうは底になってなくて不安定だから、置かないで直接手渡しをすることになる。

ちょっとどうかなあ、と思う。
0482吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:36:45.56
蓋椀なんていう言語すらないのに、それを「ふたわん」と書いて蓋椀と読ませようなんて、いくらなんでもあり得ないわな
この作中で「ひとつ」「ふたつ」という表現をしてるんだから、そのままふたつのお椀と捉える以外にあるわけないよ
蓋椀じゃ、まるで意味が通じなくなるし、いくら賢治でもそんなバカみたいに、無駄に勘違いさせるような曖昧な書き方はしないさ
0483吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:47:07.44
二椀に疑問をもったということ。

だからいろいろ考えた。二椀に疑問を持たない人はそれで思考停止。

どうして二椀なんだろうか?そこで蓋と椀なんだろうか。
それとも、茶碗ふたつならば、両方に雪をいれてくっつけてひとつの茶碗を
はずせば、アイスクリームの形になるわな、とか考えてみたわけ。

二椀に疑問をもたないひとたちは、そのまま思考停止。
どっちもありだよ。賢治の詩は未完成のままだったのだから。

でも私は、それだからこそ、賢治のイメージを追ってみたいそれだけのこと。
0484吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:50:23.71
>>483
そうは言っても、言葉の合理性というものは無視できないんじゃないか?
作品が死んじゃうから。
0485吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:53:22.70
>>484

二つの茶碗の雪をつめてくっつけて、一つの茶碗をはずして
アイスクリームの形にしたものを、ふたわんのゆきといっても
矛盾はないだろう?
0486吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:54:35.75
いや、疑問を持つべきところが君だけズレてるだけ
上に何度も書いてるが、「ふたわん」というのは、賢治ととし子のこころの比喩になってるわけ
君は「手紙」を読んだのかな?
それを読めば、「ふたつのかけた陶椀」の意味も自ずからわかると思うんだが
それでわからないなら、君には賢治の作品は読めないよ
0487吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:57:45.78
いや、君こそ読めてない。

>>485に矛盾はないだろう?

それならそれがひとつの解釈になるんだよ。
ふたわんが賢治ととし子の比喩になっているのかどうかの確証はない。
かもしれないという程度だ。だから可能性をつぶしてはいけない。
どうして君たちはそんなに頭が固いのだろうか?
0488吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 00:58:12.63
そのアイスクリームの形なんてのがすでに君だけの妄想でしかない
賢治は、「これが天上のアイスクリームとなって」としか書いていない
そのアイスクリームの形なんかには拘ってない
そんなとこに拘ってしまえば、興醒め、滑稽に落ちるだけだし
0490吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:00:33.65
>>488

妄想じゃなくて、実際まるいアイスクリームの形になるだろう?
わからないのかい?
0491吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:02:02.72
バカを意地でも突き通すそのバカっぷりは実に逞しゅうございますけど、あまりむやみに突き通しても、ますますバカを促進させるだけで、あまりいい事ないよ
0492吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:04:39.41
>>485
ああ、普通の茶碗を蓋に見立てて、ということか。

アイスクリームの形を想像するのは面白いけど、「ふたわん」と表現するのはどうかなあ。
普通ではない言葉を使うときには、詩の中で強いイメージを呼び起こさないといけないと思うんだけど。
それほど印象的ではないように感じるな。
0493吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:05:06.99
>>491

悪いけど、お前がバカだよ。

詩の解釈には幅がある。だからどんどん矛盾のない解釈をだしていったらいい。
詩というものは、広がりがあるものなんだ。矛盾さえなければね。
そしてそれがいやなら語らなければいい。
ただそれだけ。
0494吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:07:04.37
>>486
>「ふたわん」というのは、賢治ととし子のこころの比喩

そこまで決めつけていいのかなあ?
0496吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:09:59.84
いやぁ、しかしバカっているもんなんだな
おそるべし、2ちゃんねる
0497吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:10:12.95
みんな頭が固いなあ。

詩というのは、その精神=エスプリを読み取らないとダメだぞ。

賢治がそんなに頭でっかちの石頭だと思うか?
0499吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:15:16.22
いくら賢治でも、「ふたわん」を「蓋椀」と読まれるとは思いもかけなかったろうな
それならはじめから「二わん」とでも書いときゃいいんだが、まあ字面を気にしたのか、単になんとなくひらがなで書いちゃったのかなんなのか、まあたいした話ではないだろう
0500吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:16:17.44
>>498
その辺の認識の差が詩の受け止め方の差になっているんだろうな。
詩の解釈には、矛盾さえなければ、幾通りもあるだろう。
君は君の解釈で理解すればいいんだと思う。
0501吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:18:48.37
>>499

だからさ、本当のところはだれにもわからないってことさ。

サリンジャーの小説に、そういう時は作者に電話して聞いてみたいみたいな
ことが書いてあったけど、全く同意。でも、当然そういうのは不可能なんだよね。
0502吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:20:16.39
>>500
>君は君の解釈で理解すればいいんだと思う

そう思うなら、議論しないほうがいいんじゃないかな。

>詩の解釈には、矛盾さえなければ、幾通りもあるだろう

でも、これは違うと思うよ。
本人の意図がある以上は、その本人の意図に近づける努力をするしかない。

だから文芸評論という専門分野が成り立つ。
0503吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:20:26.50
はじめに「ふたつ」と書いてしまったからな
たしかにこの詩の雰囲気的に、なるべく数字は避けたい感じだし
「二つ」と書いてしまうと、何か少し嫌味っぽくなってしまう
だから「ふたつ」にしたんだろうけど、そのポーズがまさかの勘違いを生んでしまったね
咄々大笑
0505吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:24:06.98
>>502
作品というのは、いったん作者の手を離れたら、どうとでも解釈される存在になると思う。
作者の枠を離れたときに、真の評価を得る。
0506吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:24:24.17
まあこれはむしろ勘違いするほうに問題があるんだろう
まあ賢治も、そんな小細工しないで、もっと内容で表現すべきなんだがね
0507吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:27:08.89
>>505
それが違うと指摘してるんだけど。

根拠を自分の感性においた解釈ですませられたのは、小林秀雄までじゃない?
0508吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:27:18.06
縦読みにしてみたり、行をズラしてうねらせてみたり、無意味な小細工が多い
0509吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:30:07.34
>>506

意味不明。賢治は小細工などしていない。未完成なまま作品が発表されてしまっても、
その価値はそこなわれていない。日本には多くの目利きがいる。私も及ばずながら
賢治を語りたい。

連投規制がかかっているので、そろそろ終わり。
0510吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:35:54.16
いや、ことりが云々の縦読みの詩とか、行を調節して全体がくねるようにしたりしてるだろ
それが小細工だってこと
0511吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:41:52.52
あ、実際の詩集では横読みになってるのかな
まあどっちにしても同じことだが
0512吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 01:44:56.00
>>507
欧米の批判家は、自分の感性で批判しているようだけど、日本じゃだめなの?

探偵とかやとって、いやがらせするんだろうか?終わってるよね。
0513吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 08:00:28.29
推敲してアイスクリームにする前は天の資糧という聞きなれない言葉だったはず。
やはり宗教的なものが背後に隠されている印象。

賢治はとし子のみんなが葬式の準備をしているとき枕元で一人必死に詩の推敲
をしていた作品はどれも賢治が死ぬまで推敲に推敲を重ねている
ふたわんは蓋と碗です、などと大喜利のような解釈はたぶんない。
賢治の文にはどれも命をかけたというより、命を削るような研ぎ澄まされた感覚が常にある。
0515吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 10:46:47.04
>>512
自分の感性だけで批評をしても、その作品に対する理解の助けにならないし、文学としてその作品を超えることもできない。
ただ、書いた人の感性を披露するだけだ。
だから、その対象となった作品とその批評は極論すれば無関係だ。

欧米の批評家のことは知らない。
でも、欧米だろうと日本だろうと、作品と批評のかかわり方にそれほどの差があるとも思えない。

ひとつの作品はその著者の心に近づくことで、はじめてその作品が生き返ると思う。
0516吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 11:09:28.07
文芸や詩などに限らず、批評はなんにでも必要
あらゆる批評があってこそ、成り立つわけだからな
宮澤賢治にしても、批評がなされて、はじめて世に知られた作家だし
0517吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 11:14:03.93
そもそも、自分の感性、要するに主観でない批評なんかできるわけもない
0518吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 11:36:28.69
>>517
日本にも文学理論という分野があるけど、逍遥から始まって漱石がひとつの完成された姿を作り上げた。
自分の感性を基準とせずに、客観的な理論による文学の評価軸を設定しようとする試みだ。
現代では、そのひとつの到達点が吉本の「言語にとって美とはなにか」ということになる。

西欧のことはほとんど知らないが、少なくともヘーゲルの「美学」はそうした基準を設定する試みだとはいえる。
0519吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 11:43:58.30
客観的に、なんていうのがすでに嘘なんだよ
試みることすらできるものではない、できるとすれば、それこそ主観的な枠を拵えた盤上でだけだ
何故なら、客観的理論というものを自分の頭で理解しようとすれば、それがすでにもう主観的になってしまうわけだからね
0520吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 11:46:15.51
その盤上で、これが客観的理論だと嘯いてみても、誰も相手にしないさ
そんな押し付けがましい理論が成り立つものかね
0521吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 11:50:25.27
同じような思想の主観的頑固オヤジが寄り集って、口裏を合わせて策略的に自称客観を打ち立ててみても、それはやっぱり主観が醜く寄り固まったものに過ぎないわけだし
0522吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 11:54:35.14
>>519
すべてが主観というなら、誰かが指摘してるみたいに君が殴られても君の主観の問題だ、ということになる。
賢治の作品も、なぜか自然に活字に化けて君の目に入ってる、ということにもなりかねない。
そう言いたいならそう言ってもいいが、そこからはなにも生まれない。

世界には、客観的に物もあるし他者もいる。
そうでなければ、そもそも賢治の作品自体が私たちのまえに現れるはずもない。

客観的な物や他者の存在を認める以上、学問が成り立つし、客観的な文学理論の構築も認めるほかはない。
0523吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 12:06:36.33
いや、そんなことを言ってるんじゃないんだよ
他者の存在を認めていないなんてどこにも書いてないだろう?
客観的価値を、自分の頭で消化すれば、それはすでに主観的価値になってしまうと言ってるわけ
それを客観的価値だと言い張ることは、それこそ他者を眼中に入れていないことの証拠にしかならない
他者の存在を認めていれば、「客観的」などという観点なんか見出せないさ
0524吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 12:22:15.86
>>523
なんかいも同じことを書くことになるけど、そういう感じ方は、すべての学問の否定でもあるんだよ。
自然科学ですら否定される。

たとえば言葉の理論も、社会の理論も、自然科学と同じ客観的な学問として成り立っている。
その価値を設定したときの基準は、社会的なものは立場によって異なるが、言語、文学といった表現に関する理論については自然科学的な根拠を求めることが可能だということだよ。
0525吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 12:44:23.02
いや、極端に言えば、確かに学問の否定だよ
芥川は「侏儒の言葉」でこう言ってる

道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。
道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。

学問というものも同じこと
要するに、学問とは社会の統制に於いて便宜的であるから、それを義務化して、完全なる個性が芽生える前に、それを消滅させてしまおうとする一つの独裁なわけなんだよ
宮沢賢治の「注文の多い料理店」なんかもそれを諷刺している作品だ
0526吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 12:49:54.74
文学からどうやって自然科学的な根拠を引き出すんだ?
まさか、表現が理論から発せられものとでも思ってるのか?
だとしたら君には到底宮沢賢治の作品なんかは読めまい
0527吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 13:17:43.89
そもそも、文学と自然科学などでは客観的価値の基準が異なる
科学などように、物証で示せるものの価値は物証で示すことかできるさ
文芸などの場合は、その物証、根拠が作者の頭ないし心の中から発せられているから、
それを他人が読んでそこに客観的価値を求めることなどは、事実上不可能だということ
0528吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 13:19:40.31
>>525
それこそ君の自由だが、君の思いつきに過ぎない。

>>526
>表現が理論から発せられもの

君の感じ方が出てるね。
自然科学というのは、理論から生まれるのではなくて現実から生まれることを忘れてはいけない。
常に現実との整合性が求められる。
思い違いしてはいけない。

文学であれそのほかの表現であれ、自然の一部としての人間が自然の中で物としてなにかが表される。
心の中で意で思ってることにしても、自然としての人間としてみれば物としての化学変化だ。

その中で人間は客観的世界との相互関係の中で心の矛盾を表現という行為で解消し、さらに矛盾の中に入り込む。
この繰り返しが人間だ。

文学の批評は、その表現者の矛盾のありどころやその解決のしかたを追い、他の表現の世界との差異や共通性を検討して独自性や一般性を提示する。
歴史的、社会的な文学としての価値を問題としないことはありうるが、価値の基準の設定を妨げるものでもない。

文学の批評というのはそういうものだし、それが表現者自身の客観的な位置づけということでもある。
0529吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 13:51:30.28
いや、はなしにならんなこりゃ(苦笑)
>表現が理論から発せられるものとでも思ってるのか?

というのは、文芸で行われている表現が、ということだよ、自然科学云々にしても、現実から生まれることなんか当たり前さ
その自然科学の理論というのも現実の物証から成り立ってきたわけだから、なにもあえて自然科学が現実から生まれているなどとわかりきったことを無駄に威張って主張しなくてもいいさ

>文学の批評は、その表現者の矛盾のありどころやその解決のしかたを追い、他の表現の世界との差異や共通性を検討して独自性や一般性を提示する

だから、何度も書いてるけど、その矛盾のありどころなんかを、他者がどうやって客観的に検討できるんだよっての
解決のしかたを追う、とは一体なんだ?体裁のよさそうな空っぽの言語ばかり羅列して誤魔化してないで、具体的に話を展開してごらんよ
他の表現の世界との差異や共通性とは一体なんだ?支離滅裂というか、あんまり突飛だよ君は(苦笑)
文芸をその他の表現の世界と相互比較してそこに独自性や一般性を提示する?
何のために?具体的にどのような手段で独自性や一般性なんかを位置付けるんだ?
0530吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 13:58:06.53
>>529
大学へ行ったことがある?
自然科学と文芸が違うということは基本です。
そのために学問は分れたのだから。
0531吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:08:52.39
>>529
すべての事象はそれ自体見えたり聞こえたりするもの以外の、いわば背面を持っている。
その背面が意味を形成する、という考え方もある。

それはともかく、この議論は君には難しすぎたようだ。
少しでも文学理論や美学に触れたことがある人なら、>>528に書いたことは賛否は別にしてもたやすく理解できることだし、書いてあることが誰の理論を踏まえているのかもわかるだろう。
そうした知識も素養もない相手に書くことではなかった。

君がもう少し勉強をして、読むだけの読者から考える読者になってからあらためて議論しよう。
参考文献は、すでに挙げたものだけでも短期間で読みきるのはむずかしいかもしれないが。
0532吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:10:12.85
もし、作者が自作の小説などを自己評価して、そこから他者が客観的価値付けを試みるというならわからなくもないのだが、
散文詩などのように表現が作者の心理、心象からそのまま放り出されているものなどを他者が検討して、それを一般性の枠に当て嵌めたり
独自性なんかを読み解こうとするというのは、その詩の中に息づく生命を殺してしまうことにもなりかねない
そこに作者の焦ったさや不満などがある

「芭蕉雑記」芥川龍之介
三 自釈
 芭蕉は北枝(ほくし)との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云(いふ)がごとし」と作品の自釈を却(しりぞ)けてゐる。
しかしこれは当にならぬ。さう云ふ芭蕉も他の門人にはのべつに自釈を試みてゐる。時には大いに苦心したなどと手前味噌(てまへみそ)さへあげぬことはない。
「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)。此句、翁曰、心づかひせずと
句になるものを、自讃に足らずとなり。又かまくらを生(いき)て出
でけん初松魚(はつがつを)と云ふこそ心の骨折(ほねをり)人の知
らぬ所なり。又曰猿の歯白し峰の月といふは其角(きかく)なり。塩
鯛の歯ぐきは我老吟なり。下(しも)を魚の店と唯いひたるもおのづ
から句なりと宣(のたま)へり。」
 まことに「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」である。しかし芸術は頬がまちほど、何(なん)びとにもはつきりわかるものではない。
いつも自作に自釈を加へるバアナアド・シヨウの心もちは芭蕉も亦多少は同感だつたであらう。
0533吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:14:34.94
いやいや、理解するもなにも、理解するほどの内容を君はまったく示していないだろう(苦笑)
ただ単に共通性だとか一般性だとか独自性という言語を羅列してるだけでまったく内容がない
その内容を示せと言ったら、今度は理解できてないなどと嘯く
いやいや、とんだチョンボ猿を相手にしてたようだ(苦笑)
0534吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:21:04.47
たくさん示唆してもらっているのに、なんにも頭に入らないのだな。
0535吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:22:58.95
>>532
表現者というのは「ほめられたくて身悶えしている」ものだからね。

ま、それは冗談だとしても、どうしても自分の評価と他人からの評価は一致しないものだ。
0536吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:24:15.54
で、具体的な内容はどうした?チョンボなお猿さん
人の意見からパクってきた言語を羅列してるだけだから、その内容をなにも説明できないんじゃないのか?

自分の、頭で、ちっとは、考えてみることだよチョンボ猿さん
0537吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:29:35.43
「一致しない」のは、何故だか考えてごらんよ
つまるところ、客観というものが、実際は主観でしかないことを裏付けてるんじゃないか?
客観的にみて、そこに一般性を持たせることは、犬の自慰行為みたいなものさ
0538吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:36:31.38
人間の視覚は輻輳的だ。左右二つの目で見るからその誤差によってよりより現実認識が
できるようになっている。同じく状況を判断するのに、自分の視点だけではなく他者の視点が
持てるようになれば、より一層正確な判断ができるだろう。自他の判断が一致しないというのは
不条理ではなく真理だ。それはそうして失望してしまう問題ではなく、自他の判断の違いから
より客観的に自分を見ることができる手段なのではないだろうか?
0539吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 14:52:56.28
「他者の視点」を持つことなど人間には不可能だとさっきから何べんも繰り返し言ってるわけなんだよ
「客観的らしい主観」を持つことは、或いは可能かもしれない
が、それは主観を殺して客観を移植するのと同等のことで、自己の喪失にも繋がってしまうだろう
そんなところから、一体どんな正確性が得られよう?
0540吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 15:07:37.48
自分のパーソナリティのなかに他者をもつことは不可能だろうが、
自分の心が開かれて他者の意見を聞くことができるようになれば、自他を比べ
合わせることができるのではないだろうか?その場合の他者とは人間に限らない。
人はそうやって複層的な思考を手に入れているのでは?これは文学の話ではないがね。
そういうふうに自分の心を開いていく過程に他者として文学作品が助けになることがある。
0541吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 15:31:49.82
いや、だからその他者の意見を聞くこと、それを自分の経験に参照して、頭で消化するということ自体が
すでに一人合点でしかなくて、それは決してその対象の全貌を理解したことにはなっていないわけ
必ずどこかに飛躍があるわけで、自他を比較するにしても、その他者の姿というのは比較する段階で無意識におのずから主観に取り込まれてしまう運命にあるわけ
意味わかるかな
0543吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 16:45:01.37
論理のわからない人は、読解力もないから自分の主観に逃げ込もうとする。

読者としては、自由だけどね。
0544吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 16:50:37.34
その対象の全貌を理解することは不可能だよ。神じゃないんだから。
0545吾輩は名無しである
垢版 |
2014/01/23(木) 17:38:04.62
だから、「客観的」なんていうこと自体が成り立たないということを言ってるわけだよな
まあ、厳密に言えば、だけどね
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