もし、作者が自作の小説などを自己評価して、そこから他者が客観的価値付けを試みるというならわからなくもないのだが、
散文詩などのように表現が作者の心理、心象からそのまま放り出されているものなどを他者が検討して、それを一般性の枠に当て嵌めたり
独自性なんかを読み解こうとするというのは、その詩の中に息づく生命を殺してしまうことにもなりかねない
そこに作者の焦ったさや不満などがある

「芭蕉雑記」芥川龍之介
三 自釈
 芭蕉は北枝(ほくし)との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云(いふ)がごとし」と作品の自釈を却(しりぞ)けてゐる。
しかしこれは当にならぬ。さう云ふ芭蕉も他の門人にはのべつに自釈を試みてゐる。時には大いに苦心したなどと手前味噌(てまへみそ)さへあげぬことはない。
「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)。此句、翁曰、心づかひせずと
句になるものを、自讃に足らずとなり。又かまくらを生(いき)て出
でけん初松魚(はつがつを)と云ふこそ心の骨折(ほねをり)人の知
らぬ所なり。又曰猿の歯白し峰の月といふは其角(きかく)なり。塩
鯛の歯ぐきは我老吟なり。下(しも)を魚の店と唯いひたるもおのづ
から句なりと宣(のたま)へり。」
 まことに「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」である。しかし芸術は頬がまちほど、何(なん)びとにもはつきりわかるものではない。
いつも自作に自釈を加へるバアナアド・シヨウの心もちは芭蕉も亦多少は同感だつたであらう。