石川淳スレッド その3
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ゴミっぽいものを少しは読んだから、懲りたんだろう。 そういうタイプは大体、ちょっと見で見分けがつくようになったら、 近づかないと。 文学仲間の酒盛りといっても、先輩後輩や、力量などの点で、序列が 出来てれば、上席の者は支度を手伝わないこともままあるだろう。 >>119 わざわざ自分の過去の駄レスをひっぱってくるなぞ大変オシャレ(笑 傍で見てるほうが恥ずかしくなりますぜ(笑 この程度、探してコピペするより書いたほうが早いと思うが・・・(笑 2ちゃんへの自分の書き込みまとめて保存してあったりして(爆笑 ∩_ 〈〈〈 ヽ ____ 〈⊃ } /⌒ ⌒\ | | /( ●) (●)\ ! ! / :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l | |r┬-| | / こんな無芸無能でも齢とってジジイになれば \ ` ー'´ // 「重鎮・超一流」と2chで自演できるようになれます。 / __ / 長生きはするもんですよ、世の皆さん。(笑 (笑 (笑 (爆笑 (___) / /::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ . _ . /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ |三| |::/  ̄ ̄`7:::::::::::::::::::::::::::::l |二| |:l \:::::::::::::::r=:、:::| |三|. | , -‐べ  ̄ヽ:::::}´`l|::| rコr‐-、 L ` tッア l:::|l /:::! r‐ 「ニニづ} ヽ `} L! i ⌒', l Vニニ⊃`ll | r )、 / / ヽ /´ ̄| ̄|. | `´ヘ_ \__ , / / イヤな、、渡世だなあ。。。 `i | i. | l てニ} _,ィ / ヽ_ | l. | _} `ヽ__,ノ´ ',/ / .r'゙ `| i. | _. l / / / / `rー| l. | | / ,〃 / / l: | i. | | / l | / / | : | l. | レ '゙ | l /. / l : | i. r――- .._ 」 / / . ! :/´  ̄T ̄ ̄`ー--vー-- 石川淳の酒癖についてはいろいろ伝説になってるね。 テメーらなーっ!とかどなって、酒席に並んでいる銚子をかたっぱしからなぎ倒してあばれたとかww (酒が入ってたんだろうが)「芥川さんは学がなくてねえ」なんてポロリといったそうだが、 こっちのほうが、ありふれた酒席の醜態よりも石川淳らしい。 冗談でもそんなこと言える小説家は今はもちろん、当時でも数人しかいない。 (単なる博学はいくらでもいるけど・・・・) >>112 これは面白い。今度「弥勒」を読み直してみよう。 実際、「こまごま雑用などしている」人間なんて、小説家にはならないほうがいい。 まして、そんな小説家の書いた小説を面白がって読むなんてことは、文学とは縁がなさそうだ。 石川淳は答えてる、「何になりたいですか?」ときかれて、「すべての暴君」と。 これは冗談で言ってるのではない。次の言葉が背後に響いているのだ。 「われわれの完成の最も甘美なる手段のためにすべてを犠牲にするということにおいて、 われわれはおそろしくエゴイストである。」(クローデル) …ていうかさあ・・・なにがクローデルだよww この気取った半可通野郎がww >>128 うるせえ!! はったおすぞ、この野郎! >>129 あら、気に障っちゃったかなー あははははははははww >>130 いや、「はったおすぞ」って使ってみたかっただけなんだ。 ただね、クローデルなんて、石川の文章に何回も出てくるから、 おまえさんが石川を大して読んでないのがバレバレだね。 「すべての暴君」という言い回しというか、 これフランス語文脈で言ってるんだね。 ふつうの日本語ではこういう言い方しないものね。 第49回芥川賞(昭和38年/1963年上期)「少年の橋」 後藤紀一 石川淳が選考委員にいるが、評言がきついなw 「わたしはこれを取りこれを推す側にまわったが、通ったとたんに捨てることにした。 いろいろ文句をいうことがある。その文句の一つをいう。 この作者はなにがおもしろくて小説なんぞを書くのか。」 >>133 日本語的には何て言うんだ? 石川淳の独創的な語法はいろいろとあると思うが、観念的には正確なんじゃない 石川淳は日本語を上手に使う人だな。 石川がよく使うのは対句だ。 「面貌について」のような文法上、形式上、同じように文章を続けて並べて、 片方ともう一方を対比的に使うことができる現役の作家はいないだろ。 >>137 日本人が「何になりたいか」と聞かれて答えるなら「暴君になりたい」とは言っても 「すべての暴君になりたい」という発想は日本語では出てきにくいでしょう。 ふつうは出てこないと思う。 一方、je voudrais etre tous les tyrans.はフランス語としてふつうの言い方。 どうでしょ? >>138 ちょっと意味が分りにくいがどういうことですか? つまらん 東京タワーの下の三丁目でやれ 今ではただのナンセンスだw >>139 >ちょっと意味が分りにくいがどういうことですか? 「面貌について」を読めば分かる そんなもん読んだよ。 書くからには人にわかる言葉で説明できなきゃな、ぼうず。 >東京タワーの下の三丁目でやれ ↑ こういうイモっぽいのって勘弁して欲しいよね〜 笑いが凍えちゃうよね〜 >>139 そこは普通はunか冠詞なしとかでないかい。いづれにせよそういう事を言っているのではない。 フランス語を呟いたら小説になったという作品もあるくらいだからその辺りの発想はあったかもしれないが、 単にレトリックとして直訳したのではなく、「すべて」は文字通りの意味だろうという趣旨。 >>142 長くなるからレス2つで説明する。 「面貌について」をテキストにして 石川淳がいかに日本語を上手に使う人で、対比と対句がうまい人かを説明する。 「面貌について」一部抜き書き。 ↓ 「黄入谷のいふことに、士大夫三日書を読まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。 いつの世からのならはしかはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを気にする。 明の袁中郎に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのいけぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。 ほとんど軍令である。またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顔をもつて人間の顔を規定するやうに、 自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。」 続き 「ほとんど軍令である」というのは軍の命令。「ほとんど刑書」であるというのは法律書だ。 これは完全に中国的な対句だ。 その前にうまく対比が使ってある。 「自然の享受には式目あり監戒あるべき」と言っているのは、どちらかといえば、漢文調の雅語だ。 日常語ではない。ところがその前は「酒席の作法」「つらつきのわるいやつ」 「ことばづかひのいけぞんざいな」、これは俗語だ。 俗語のなかでも強い俗語、日本語として許される日常語から最も遠い漢文系の雅語と、 両方でコントラストになるわけだ。 一方では雅語による歯切れのいい格調がでるけれども、それだけでは読者から遠くなってしまうわけで、 他方で俗語を使って急に肉体的というか、身体に日常的にひきつける。 離れたようにみえて、不意打ちで急に引きつけるから、変化に富んでおもしろいわけだ。 突然「いけぞんざい」と言うのはよく効いている。 たとえば坂口安吾の小説ははじめからおわりまでそれで通すからあまり効かない。 それから森鴎外の『渋江抽斎』ははじめからおわりまで漢文調で格調が高い。 だから「いけぞんざい」なんて言葉は見えない。 坂口安吾と鴎外と両方くっつけると、そこに特殊な効果が出る。 いつも成功するとはかぎらないけれども、石川淳の場合には成功した。 石川淳は日本語を上手に使う人で、対比と対句がうまい人である。 現役作家で石川淳ほど日本語を上手に使い、対比と対句がうまい人はいないだろ。 西村賢太レベルなら、えらく感心するテクニック論議だな。 それほどに陳腐な(つまり時代が移れば単なる古拙だけでしかない)文章表現論。(笑) 私小説作家でも旅行記作家でもない創造作家が文章でつづる世界は、 「人類が地球上に出現してから今の今まで私しか見たものがいない世界」 なんですよ。 その「私しか見たものがいない世界」を読む誰にも私が見ていると同じように脳内で復元してもらう、 そのための「文章」をつづる、なんですよ。 >>146-147 さんの言うようなテクニックじゃ、その文章は書けないんですよ。 >>146 >>147 石川淳の文体の説明として読むと、よく分析して書けてるよ。 石川淳は、もともと漢文の素養がある人だからな。 それが文体に影響していても不思議じゃない。 石川スレがのびてると思ったらこれか…… 嫌な奴でも何でもいいんだよ。 天才的日本語芸術家なんだから。 >>147 の論法は石川淳っぽいね。ラブが伝わってくる。ただ石川は普通の弁証法とずらした弁証法を両方駆使するから、小奇麗にまとまらず文に迫力が出る。 これだけの事を説明するのにこれほど冗長になる人も珍しいね。 しかも見方が浅いし、用語もいちいち不適切で気分が悪くなるよ、まじで。 まあ、確かにラブはあるかな。少年の恋。 >>145 きみの初級文法ならここは単数の不定冠詞unでしょう。これをtous les roisとするフランス語独特の locutionがあって、そっから来た発想だろうという話。 用例ひとつ。a faire rougir tous les marquis de Sade(すべてのマルキドサドを赤面させるほどの) 紫苑物語の書き出しのエピソード(Il aimait la chasseだったか?)をたとえ知らなくても、立ち止まるとこだよ。 「すべての暴君になりたい」で「すべて」に違和感を持たないとしたら、かなり感度が鈍いぜ、おっさん。 横入りなんだが、とても気になったので調べてみた。 J'aimerais etre tous les rois. は本当に「普通の文章」なのか? 主語と補語の数があっていない。 「tous les +(複数名詞)」はごく普通の表現だが、やはり全体で複数扱いのようだけど。 >>157 宋の人です。蘇東波の同時代人。心情的には王安石に近いひとだったのではないかと 荒井健先生が書いています(岩波中国詩人選集二集7「黄庭堅」)。荘子の斉物論篇が 好きな人だったそうです。お役人としては、大名府國子監教授を長く勤め、官吏資格 試験審査官を歴任、のち秘書省校書郎。文部省や宮内庁書陵部の部課長クラスでしょうか。 晩年は地方の知事を勤めましたが58歳で書いた禅宗の本が因で筆禍にあい、国政を 謗った廉で著書は禁書指定。家族と別れ、こんにちで言う広西チワン族自治区あたりに 単身流刑となります。二年後に大赦令が出て、より故郷に近い流刑地への移動が 決まりましたが、発令の三週間後、出発を待たず61歳で孤独に亡くなりました。 夷斎が引いた「三日書を読まずば」云々というのは、黄山谷のものした詩や書にある 文言ではなく、明代の英雄文人逸話集で江戸時代のわがくににも多く輸入されて 流布していた「世説新語補」にある話のようです。 黄太史云、士大夫三日不読書、則理義不交於胸中、 便覚面貌可憎、語言無味。 お祖父さんは聖堂の学者だったそうですから、こどもの頃に読まされたのでしょうね。 日本語例文でござる (1)その痛ましい死体を見た瞬間、私はすべての暴君を憎む感情を知った。 (2)すべての暴君はへのこと腎水を人並み以上に愛するものである。 (3)その美しい子供には総ての暴君が宿っていた。 件のそれは(3)かいな 現実的人間としてではなくて暴君的なるものすべてというようなニュアンス 能書きはいいが、結論としては、 Je voudrais etre tous les tyrans. はフランス語の文としては、「不可」なんだろ?w Il etait comme tous les tyrans. ならまだ許容範囲かもしれないが、これも Il etait tout comme un tyran. のほうがよほど自然だろ。 なにを血迷っているのか…w 145だが……情況がよくわからないな。何時の間にかフランス語の話になってるよ。 160の文例は翻訳の臭いがするので適切かというとあれだが、主旨としては大体そんな感じ。 石川淳はヨーロッパ的な観念と漢文の言語の機械的な用法を、あくまで日本語として成立させる強引さに魅力がある……とおじさんは平凡な逃げを打っておきたい。この話はもう終わりにしよう。 >>161 Je voudrais etre tous les tyrans. フランス語らしい、立派なフランス文ですよ。 初級文法程度のかたが妙な断定をされるのはまずいです。 まったく話の筋がずれています。上の例文となんの関係もない。 ↓ Il etait comme tous les tyrans. ならまだ許容範囲かもしれないが、これも Il etait tout comme un tyran. のほうがよほど自然だろ。 老人ホームのカルチャー講座w この阿呆な老人たちが生きている間は愚の遺産としてこういったものは存在し続ける だからオマエら早く死ね、とは、しかしやっぱり言わないけどねwww でも、 よい子はまねをしてはいけません また大袈裟にフランス語のレッスンですかw どうしようもなく鈍い方々だw 石川淳の「すべての暴君になりたい」なんか、俺にはすぐに彼のジョークと 分ったがねw あまり石川を神格化しなさんなw 東電や三浦が面白いって言うから、何か買って読もうと思うんだが 何処にも売ってないw >>161 >>164 >>166 >>167 >>168 こんなにwwwwの連発じゃあばれちゃうよねえ(笑 もっとも、かまうほうにも問題はあるよ。 語学ができることと高学歴はコンプレックスを刺激しすぎること、心得てつつしまなきゃですよん(笑 >>169 こんなに無芸無能のレスじゃ即バレだよ、古井くんwww >>169 語学と高学歴で頭が固まっちまったかw 頭の鈍い人は文学なんか止めて実用書を読んでれば良いじゃないかw 殺 ,,,.. -‐''''''"" "'''‐- .,,, 伐 / "''-、 .と / ヽ .し / ヽ .た エ / ヽ _ .ス .チ | l / ヽ、 ..レ .ゼ ! l ( ,- 、 ヽ .に .ン. l _j___, / 」 、ヘ、 | . ク l __j__j-v'-‐"";:ヽ;;;^'''つ/ 「ク/`x />、ノ ラ ヽ __,,,n‐''i^::::::::::i:::::::::::|::::ー、| ̄''''" /〃川/ハ ゲ ヽ、_(;;;;;|:::::::::l :|: |::: ) ///ハノハ が | / | 巛::、ら、 //〃/ 」 ∠_、 `〜 、〃巛 lノ.}.} V -ヽヽ、 川゙ゝ))〈〈〈ヶ77亅(( 巛』)) 》タタ|》 )))(((}} ハ |) 巛 | 〉〉〉〃!'i" | | || |.l | | ハ | | | l| | | | | /l | | | | || | | || /| | | | | | || |.|. || | || | | | ト、 | | | | || | ト| |λ| l /| | l| |.| | 〈l | |.|| ||ハ |/|| || || || || || | l | l | | |. | | |、| | | | |. | | | | | | | 翻訳家の宮脇が石川のファンらしいぞw 俺が石川なら、がっくり来るよなw 馬鹿に好かれるのが嫌なら、本など書かなきゃ良いんだがw 宮脇が誰か誰か知らないが石川淳の本は消費物と見るべきだ、よ。 ファンという概念はこのスレには有り得ないのですきゅいんきゅいん。 >>175 その通りで背負う秘仏w 背負う秘仏にも程度の良し悪しがあるw 日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは、石川淳である。 その漢文くずしの短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、 また内容の緊密さにおいて、荷風を抜き、ほとんど鴎外の塁に迫る。 同じ世代、または以後の世代の文学者で石川に匹敵する者がないのは、いうまでもない。 『日本文学史序説(下)』加藤周一 P547 一代の碩学、加藤周一がべた誉めの石川淳だ。 石川淳の独特の傑作は、超現実主義的な短篇小説、いずれも他に比類が無いとも書いている。 ゴミ見たいな本など読まずに、石川淳を読んどけ。 あらためてここでいうまでもないだろうけど、 石川の散文観はアランの芸術論に影響されている。 ここでいう散文とは文学的情緒に浸るような文章のことではなく、 散文から詩や演説口調といった散文固有のもの以外を 排除したものをさす。 ルネッサンス以後、人類の歴史の中で近代を切り開いていったのは モンテーニュを代表とするこうした散文だった。 ミシュレは学問芸術のあらゆるジャンルの中で散文を「最も人間的な様式」だといっているが、 日本で方法的に散文を意識し実践したのは石川においてほかにいない。 簡単にいえば、最もすぐれた散文は市民による革命まで引き起こす力があると、 半ば本気で信じているフシが石川にはある。 (ちなみに、石川は同時代を「和朝」といっているとおり、石川の世界史の時間軸観において、 現代日本は市民革命以前の世ということになっている。) >一代の碩学、加藤周一 >他に比類が無いとも >石川の世界史の時間軸観 はいはい、たーくらこくのもそれで気がすんだでしょ? っつーことで、バカのバカによるバカのためのスレ ∧∧ ミ _ ドスッ ( ,,)┌─┴┴─┐ / つ. 終 了 │ 〜′ /´ └─┬┬─┘ ∪ ∪ ││ _ε3 ゛゛'゛' 美はことばのはたらきにあって、人間像の近似値には無い。 書かれた人間像と実在の人間との関係の上なんぞには、 じつに何の藝術的意味も無い。 「面貌について」石川淳 石川や 浜の真砂は尽きるとも 世の古井戸のバカは尽きまじ 藝術的意味(嗤) 古い文芸誌を見ていて、若き日の今上天皇の写真かと思ったら石川淳だった こーゆー(石川みたいな)人にする批評って、つまり、タメにする批評そのものなんだよね。 「これは素晴らしい(即ち、オレはいいんだよ(コソコソコソ姑息))」 の、批評する人の自賛のための批評。 だから最初からみっともない人の最後までみっともない批評。(嗤) >>183 どうして石川を褒めると自賛になるんだい? そこの論理的な筋道を説明してくれ。 183ではないが、印象としてはわかる気もするな。上で加藤周一の名前が出てたけど、マチネポエティック組はみんな石川を評価してたが、確かに追従っぽいところがあって気持ち悪い。 自分の作品は石川に評価されないってのがあるんだろうか。中村真一郎は頼山陽が取り上げられていたけど評論だし。 石川が同時代の小説家で積極的に評価した人が少なすぎるそういうコンプレックスとかあるのかも...とか全然論理的な話じゃなくてでごめんね。 >>185 ごめんじゃすまねえな。 1.加藤周一をマチネでくくるセンスが見当はずれ。 2.マチネ組はみんなってだれのこと?まさか加藤、中村、福永っていうんじゃないだろうけど、 マチネ組として石川を評価したってことはないでしょう。 3.石川は加藤の本は誉めたこともあるし、帯で提灯持ちをつとめたこともある。 4.戦後早い時期はともかく朝日の文芸時評のころ(70年代初め)にはにはすでに小説というものに あまり興味がなくなってたってことがある。 私の方針は、原作を読まずに研究書を読んで、その作品について書くということは、 いっさいやらないという原則なんです。 全部原作に当たらない限りはいっさい書かない。 場合によっては網羅性の犠牲においても、それでなかなか手が回らないということです。 その代わり、書いてあるものは原書に当たっています。 『二十世紀の自画像』加藤周一 p90 『読書術』には、相手との会話の中で読んだふりをする例は書かれているが、 作品について書くときは、原書を読んでから書いているということだな。 そしてその原書を読んでないものは語らないという姿勢は石川淳から学んだと言ってますよね。 石川淳が南画について書いたときに実物を見ていないものには触れなかったということ。 石川淳が亡くなって(1987年12月29日)、年明けの偲ぶ会(「石川淳と別れる会」1月22日)で 弔辞を読んだのが加藤周一だった。 最近は翻訳の価値とか主張する輩も増えた(そしてそういうことを言うやつに限って日本語能力すら低いのが多い、鴻巣とか)が、吉田健一も石川淳も加藤周一も原書絶対派なんだな。 絶対派っていうんじゃないんだよ。 翻訳には当然重要な意義があるんだ、単純な二元論にしてはいけない。 夷斎が好きでたまらない人ってのも決して多くはないと思いますが、夷斎が嫌いで 仕方ないって人もなかなかいないと思っていたので、この流れは新鮮です。 夷斎を褒めた文の書き手まで気に入らないとなると、これは相当な嫌いっぷりだ。 よほど癪に障るなにかがあったのでしょう。 自分がそれほど高くは評価していない石川の作品を 無暗に持ち上げる(と見受けられる)風潮が鼻につくのでしょう。 要するにファン心理に対するやっかみなのですが(たぶん) そういうのを抜きに作品を楽しめば良いだけの話なんですね。 いくら和漢洋の該博な知識に裏打ちされていようとも 小説なんてその程度の物に過ぎませんから。 >小説なんてその程度の物に過ぎませんから。 この言い方はよくないね。 つまり「楽しめば良いだけの」物にすぎないという意味になるのでしょうが、 それじゃあ、あんまり粗雑すぎる言い方。まぐな級。0点、失格。 しょせん娯楽だもの。 確かに書き手や読み手に一定の教養がないと愉しめませんが その教養を前面に打ち出す事は石川による荷風批判の言を借りるのなら お洒落じゃないの。 物事の考え方を検査して再編する作業って基礎的なものではないかな。 そういや石川淳は一時左翼に嵌ってたくせに見事に主知的観念論者だよね。 ところでお洒落はあった方がいいが絶対に必要なものではない。 教養が前面に出ることはそれこそ石川自身の言葉で言えば「体臭」程度のもの。 しかし教養は思考の根幹を支えるものであり、読書は教養と知性を通じて為される部分が本質である。 石川淳はこんな感じで読んで欲しかったんじゃないか。 分かる奴さえ分かれば良い、というスタンスで だから「私の読者は3000人だ」と言っているんですよ。 そしてそういう人間に対しては多言は無用なんです。 それが石川特有のダンディズム、すなわち“お洒落”ということでしょう。 まあ、都会育ちの粋人ですからね。野暮は言わないの。 >多言は無用なんです。 ↑ これなにかのシャレかなあ、お洒落じゃないことは確かw 石川淳の文体は江戸文学の文体だと思ってたんだが、全部漢文崩しだったのか。 てっきり漢文崩しは夷斎だけだと思ってた。 勉強になったよ。 >>201 がどういう意味なのかよくわからないんだが 江戸文学の文体でないという点はそうかもしれないが全部漢文崩しとは? 石川と夷斎が云々ってどういう意味?小説と評論とかそんな違い? どこで勉強した? 石川淳読んでる人が全員が頭脳明晰だと仮定せずもっと親切に書いてもらえると助かる >>202 石川淳の小説の文体は江戸後期の戯作の語り口をそのまま取り入れたものだと思ってたんだ。 たしか丸谷才一がそう語っていたし、石川淳の解説でもそんな事を書いてあるのを見た事あったし、実際戯作読んでみて似てるなとも思ったし。 それに対して夷齋を代表とする随筆とか評論(?)は漢文崩しか漢文の影響を受けて書かれているのはみんなの共通認識だと思うんだ。たぶん。 だけど、ここのスレを見る限りでは、と言ってもすべて見たわけではないが、小説の文体も漢文崩しか漢文の影響を受けているとうのがここの統一見解みたいだったから、 全部漢文崩しなんだと勝手に思っただけだったりする。 江戸文学の文体については一部の人以外ほとんど触れてなかったし。 正直「全部」とは言い過ぎた。 んー。エッセイの語り口も江戸的だといえばそうだしこのスレで言えばこの間 実はフランス語的な文章があるんだぜ激熱!という人もいた。 総合的にはあくまで和漢洋混合という通説に落ち着くように思える。 単に漢籍の知識のある人が小ネタがわかってちょっと嬉しいという程度で漢文に拘る必要はないが 『普賢』とか読んで漢文の色が無いと言い出したらそれは確かにおかしい。 まあ言ってることは分かったし、概ねその通りだと思う。 石川淳の文体が和漢洋混合というのは俺もそう思うけど、でも文体の土台となってるのは江戸後期戯作の饒舌体でしょ。 それに漢文とかフランス語の要素を掛け合わしたのが石川淳なんだと思う。 「普賢」は石川流饒舌体の典型だと思うだ。 同じ新戯作派でも太宰とか坂口とかは石川淳と違って独自の饒舌体を構築したみたいだけど。 石川淳先生のお言葉。「地女の盛装ほど全裸にちかいものはない」ありがとうございました。 老若を問わず男性諸氏よ。 着飾った好みの女を見つけたら、嫌な顔をされてもガン見しましょう。そうされるのもしかたないと、女はおもうらしいですよ。 蛇の歌を買おうかどうか迷ってるんだけど、誰か読んだ人いますか? 誰か読んだ人いますかって(笑 みんな読んでるにきまってるだろ。 選集をずい分前に買って読んだけど、 そこから洩れたものを読むのに、やっぱり新しい方の全集19巻揃を、買わなくちゃいけないわけね 14巻揃との値段の差が凄いなぁ 新しい方だって古書店の本棚の肥やしになってる風だけど・・・ 蛇、六道、狂風、座談は古本屋さんを探すと200円くらいの単行本があります。 天門、前賢餘韻も時々見かけます。背徳者と抜穴は100円で文庫本がある。 決定版17巻の癇癖や世間猿、宇比山踏、 18巻のモリエールやフランスあたりになると 趣味の世界ですから、夷齋好き具合による。個人的には、どうしても買って 持っていつでも読みたい、とまでは思いません。図書館で借りるか、17巻後記に 収録されている自叙自跋やあとがきの類いをチラ見して決めたらよいと思います。 随筆類でのうち、選集では抄録になっている小文の残りは14、15巻に多く収録 されています。また選集出版以後の随筆雑文は15、16巻に多いです。 19巻は持っていないのでわかりません。どなたか詳しい人の登場を待つか、 図書館へ行ってご覧になるのがよいと思います。 ネットの古本屋さんだと、決定版のバラってあまりないんですよねえ。揃いは高いし しかもかさばる。それこそあの岩波選集サイズ、9ポ二段組ででもあれば、エイヤっと 買い換える気にもなるのですが。 >>211 これはご丁寧に、アドヴァイス有難ふございます。 大変参考になりました。 安いのを、地道に捜して行こうと思ひます。 ファルスとかいう作品を読んだ。 これって素人時代の習作かなにか? タイトルのわりには内容が酷すぎて笑えなかった。 ファルスの意味がわかってないわけだ。 これって冬休みに入った子どもの書き込みかなにか? >>214 フランス語で笑劇とか道化劇の意味だろう? それがどうかしたのかよ。 ファルスというよりただのブラックジョークだよ、これは。 六道、狂風、と選集以降のものを読みましたが、何だか、入歯用のフニャフニャした食物を食したような物足りなさが 荒魂の系譜なんでせうが、荒魂は読後にちよつとシミジミした感じがあつてよかつたですが、後期のモノにはそうしたものが今ひとつ、でせうか ここのみんなは石川淳研究会に入ってたりするの? さすがにそこまでの石川淳好きはいないか。 石川淳研究会って、皆大学とかの研究者の人達ばかりじゃね? 一般人には敷居が高そう。 その研究会、先生の蔵書目録作ってるらしいね。 どんな本読んでたんだろう。個人的に興味がある。 目録だけでもネット公開とかしてくれないかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる