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石川淳スレッド その3

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0146吾輩は名無しである
垢版 |
2012/07/13(金) 23:20:55.67
>>142
長くなるからレス2つで説明する。

「面貌について」をテキストにして
石川淳がいかに日本語を上手に使う人で、対比と対句がうまい人かを説明する。
「面貌について」一部抜き書き。
  ↓   
「黄入谷のいふことに、士大夫三日書を読まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。
いつの世からのならはしかはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを気にする。
明の袁中郎に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのいけぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。
ほとんど軍令である。またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顔をもつて人間の顔を規定するやうに、
自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。」
0147吾輩は名無しである
垢版 |
2012/07/13(金) 23:21:56.57
続き

「ほとんど軍令である」というのは軍の命令。「ほとんど刑書」であるというのは法律書だ。
これは完全に中国的な対句だ。
その前にうまく対比が使ってある。
「自然の享受には式目あり監戒あるべき」と言っているのは、どちらかといえば、漢文調の雅語だ。
日常語ではない。ところがその前は「酒席の作法」「つらつきのわるいやつ」
「ことばづかひのいけぞんざいな」、これは俗語だ。
俗語のなかでも強い俗語、日本語として許される日常語から最も遠い漢文系の雅語と、
両方でコントラストになるわけだ。
一方では雅語による歯切れのいい格調がでるけれども、それだけでは読者から遠くなってしまうわけで、
他方で俗語を使って急に肉体的というか、身体に日常的にひきつける。
離れたようにみえて、不意打ちで急に引きつけるから、変化に富んでおもしろいわけだ。
突然「いけぞんざい」と言うのはよく効いている。
たとえば坂口安吾の小説ははじめからおわりまでそれで通すからあまり効かない。
それから森鴎外の『渋江抽斎』ははじめからおわりまで漢文調で格調が高い。
だから「いけぞんざい」なんて言葉は見えない。
坂口安吾と鴎外と両方くっつけると、そこに特殊な効果が出る。
いつも成功するとはかぎらないけれども、石川淳の場合には成功した。
石川淳は日本語を上手に使う人で、対比と対句がうまい人である。
現役作家で石川淳ほど日本語を上手に使い、対比と対句がうまい人はいないだろ。
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