坂口安吾 part6
>>159
安吾に「精密」って形容はどうかな?
俺ならその言葉は使わないな。
上のほうでも書いたけど、ぶれがないのは幹(精神あるいは姿勢)で、
枝葉(表現)はそれほど整理されてるもんじゃないと思うよ。 >>163
かつての日本ではおそらく、マルクス主義からの転向者は、
個という実存主義的なヴェクトルを持った(持たざるを得なかった)と考えてるよ。
サルトルなんかの場合だと政治へのアンガージュマンと
脱自としての個の実存とが共存するんだろうけどね。
シェストフは『悲劇の哲学』だけ読んだことがある。 >>164
だから「軸がぶれてないという意味で」精密だと言ったじゃないですか。それに精密という言葉は相応しくないのかも知れないけど。 >>166
わかってたけど、あえて突っ込んでみたw >>165
まあ、集団的運動から脱落すれば、個の実存に居場所をもとめる
その流れはわかりやすいというか、ある意味当然だな。
しかしまあ、人間生きてる限り、社会的存在たらざるえないんで
それは脱落後でも、変わらない条件だろうと思う。
それこそ、「堕落論」のテーマと重なるね。 もう読書会スレのテーマは、トカトントンにうつってるので、「堕落論」についての
続きはこっちでやるな。
【ケンカ乱闘】読書会スレ7【なんでもあり】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1312460718/
>>180
>安吾自身はぶれてないけど、ノリで結構いい加減なことを書くんだよこの人は。
俺もそんな印象もったな。鈴木は反対みたいだが。こうなると印象論同士の
水掛け論になっちゃって、話が終わらないな。>>182のアセンションの論も
ムーや俺の印象と同じようなレベルの印象論ってかんじだ。
つまり、この問題について論じても、水掛け論にしかなりえないというw >>183
>安吾は最初から文学者として政治に反逆していたんだと思います。
安吾が「堕落論」「続堕落論」以前に、政治と文学の関係についてなにがしか
語っているかどうかはよくしらないが、俺からすると、安吾が政治と文学の
関係について語ったこの部分は、小林秀雄からの影響受けてるようにおもえ
ちゃうんだよね。小林の「レオ・シェストフの『悲劇の哲学』」の影響受けてる
論のように俺には読めてしまうな。
あと、論の構成上の問題についても指摘しておくと、文学と政治の反逆的協力に
ついて語った一節は、「続堕落論」においては、論の一番最後のほうにでてくるんで
論の構成上、結論部分で語られるべき必然性があるというべきだろう。
>論全体を通してですが、前を向いて貪欲に生きる姿勢を感じています。
どこまでもまっすぐに前へ前へと生きていこうという姿勢はあるな。
ただし、そういう生き方すれば、どうしたって社会と衝突せずには
いられないからねw社会と衝突して、徐々に隘路へ追い詰められて
いくという、そういう運命が垣間見えるそんな生き方。 >>185
>こちらの制度の方がよい、とは言わないわけでしょう。
そうだね。結局、すべての制度を否定する道に追い詰められると思うな。
この論理をつきつめていくと。
>マッキーのような人間になる事だと思う。
マッキーって誰じゃ?
>その表現が矛盾しているとは俺は思わないんだなあ。
んじゃ、>>172の表現は矛盾してると思う? >>172
槇原敬之の「どんなときも」参照。あれはゲイ讃歌らしいけど、いい歌詞だと思います。172ってどれのこと? >>171
ぎゃぁ、小林秀雄がでてきちゃうと検証すらできない。無知ですみません!あくまで国語がちょっと得意だった一主婦なので、あくまでテクストを文面通り読み解くので精一杯なのです...。誰かヘルプ!
>あと、論の構成上の問題についても指摘しておくと、文学と政治の反逆的協力に
>ついて語った一節は、「続堕落論」においては、論の一番最後のほうにでてくるんで
>論の構成上、結論部分で語られるべき必然性があるというべきだろう。
これは、私の書いた構成についての反論、というわけではないようですね。付記でしょうか。最後の方だけれど、文学についてはまとめに値する段落ではないんですよね。これこそノリっぽいなぁ 俺も安吾の政治観は小林秀雄の影響を受けてると思うなあ。政治は常に個人に勝つ、だっけ?制度か社会だったかも。 >>175
それなら書いてありましたね。ただ、安吾が文学者として制度に反逆していたのでは、という私の反論の反論にはなり得ないような... 鈴木さんじゃないですよ。笑 紛らわしい書き方して、ごめんなさい〜。Nさんのは反論かなと思って。 ざっくりと端的に=印象論的に書こうw
安吾の姿勢や表現に「矛盾」があるとは俺も思わない。
俺が思うのは、違うヴェクトルを持つ2つの方向性が
安吾の「生存の美学」の中に孕まれてるってことだね。 179を例を挙げてちょいと補足しとくと、
たとえば、ひとつには、
無垢を希求するヴェクトルと堕落への意志のヴェクトルがそうだし、
徹底的に堕落せよというメッセージとそれは不可能だという認識の共存もそうだね。 >>178
いえいえ♪
>>179
いい事言ったね!一本! >>173
>槇原敬之の「どんなときも」参照。
なるほど、サンキュー
>172ってどれのこと?
【ケンカ乱闘】読書会スレ7【なんでもあり】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1312460718/
このスレの172。
>>174
>ぎゃぁ、小林秀雄がでてきちゃうと検証すらできない。
いや、別に検証してもらうために、小林もちだしたわけじゃないんでw
政治と文学についての安吾の意見って、小林の考えとちょっと似たところ
あるなぁという印象を語っただけ。
>これは、私の書いた構成についての反論、というわけではないようですね。
いや、別に俺もそちらに反論しようなどと思ってないよw 論がないのに、反論は
できないだろうしw
>最後の方だけれど、文学についてはまとめに値する段落ではないんですよね。
>これこそノリっぽいなぁ
まとめを導入するための前振りの一節だね。社会制度の欠陥をたださなければ
ならぬという意見を、ナンセンスなどと一蹴できるのは、文学者だけだろうw
結論部分と密接に関係した、結論を導入するための必要な一節であろうと思うなあ。
「政治と文学」について書いた安吾の一節は。 >>182
思いませんね。「正しく堕ちる道」って表現がキーポイントだと思います。
172 名前:アセンション ◆ZCAcNhb9dZs7 [sage] :2011/08/07(日) 17:16:52.48
「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。
そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。」
(堕落論)
「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。
何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。」
(続堕落論) 冷房の当たりすぎてお腹を壊したので使用済みタンポンに下痢便を塗って吸いました。気分爽快です。 佃煮みえこは本当にしつこいな!わざわざ別ブラウザで忍法帖焼いてまで粘着してくるとはさすがに思わなかった… >>183
「正しく堕ちる道」における「正しく」というのは、あってもなくても、文章の意は
理解できそうだけどねw 要するに、ひとは堕ちきらなければならないという
考えと、ひとは堕ちきることはできないという考え、これが矛盾するかどうか
ってことだ。表現においては食い違っているが、内容的にはそうでもないという
ところかなぁ。 堕落論の文庫本(人に貸したまま)を先に読んでて、倫理21から柄谷に入って、安吾を再読した感じかな。 「坂口安吾と中上健次」のほかは柄谷をよく知らないんだけど、
「探求」とか「トラクリ」なんかは読んだ? 探求は2まで読んだよ。トラクリは借りて読んだのか読んでないのかわからないまま返した。 柄谷の本よく読めるなあ。内容硬くない?
安吾論はまだいいとして、「探求」なんて哲学っぽいんじゃないの? えっ?でもなかなか面白いですよ。俺は哲学とか全然知らないけど、柄谷行人に対する興味だけで読み通せたよ。内容が頭に入ってるかはわからない。 >>182
そっか、172に安価だったので全体に反論かと思って、でも反論ぽくないから混乱しました。 なんか間違えた。読書会スレの私の発言に対してのNさんの発言だったから、反論?って思っただけです。気にしないで下さ〜い。
ちなみに私は堕落論では、堕ちよ、生きよ。続では堕落は制度の母体がキーだと思っています。
ではー、お邪魔かと思うので、この辺で失礼します。柄谷、小林はいずれ読んでみます。 ありがとうございますー。たまに見てみようかなって思います。 >>192
初めまして。柄谷さんの坂口批評がわからないといふ君の掲示をば拝読し、ふと拙者が思っ事を一つ。
拙者はただ今、東京市豊島群のすみかを離れ新潟市に於いて生活すること、早や二年にならふとしております。柄谷君の坂口批評を読み我がいを得たり、さふ所感いたしました。と、言ふのは と、言ふのは柄谷君が坂口君の美学として指摘しました風の音と風の中の廃墟の郷愁、そこに原風景を見いだし夏目先生のそれに極めて近しき不愉快の心情を看破し実にわかりやすく作文しているからであります。 なるべく簡潔に結論を急ぎましょう。坂口君のようにだらしないヒロポン中毒患者の意味不明な大衆読み物からでさえ柄谷君は理路整然と立派な知的エッセイをば書き起こしている所に感動すら覚えるのであります。 あのね、お前らはすぐヒロポンに結びつけて考えるけど、日本に今、数百万人のヒロポン中毒者がいるけど、安吾みたいになれる奴はいるか?いねえよ。 >>202
その通り。ヒロポンは余計だった。だが、近い所で中島らもは、かれの坂口的破滅志向にもかかわらず、その皮肉に満ちたユーモアのその洗練に於いて、捨てがたく文学的だ。だが評価の方は…。批評する評論家すらいない。当然だ >>203
鈴木創士がらもさんの話をよくしてるじゃないですか。 安吾ってやつぁ、必死になって、それこそ血眼になって
生きろ、と言ってるんだなぁ。
よくよく考えてみりゃあ、がむしゃらに生きろ、としか安吾
は語ってないんだね。
だーから、安吾を読むと元気になるんだね。
教祖の文学で、見るのは地獄じゃなく花だ、みたいな
内容があったけど、あれには救われた。 >>208
そうでしたか、、
小林秀雄と坂口安吾とでは根本的に異なるスタイル
みたいなものがあれば教えてください! 根本的に異なるって事はないと思います。基本的に通じ合ってるならこそ反発する事もあったという話だと思います。僕の印象ですが。 とりあえず講談社文芸文庫の「小林秀雄対話集」の冒頭の安吾との対談「伝統と反逆」をお勧めします。二人ともメチャかっこいいですよ。 >>212
対談集!
おもしろそうですね。読んでみます。 その対談だけを読むなら立ち読みでもOKですが、その対談集はとてもいい本なので買って損はないっすよ。 >>214
Amazonで注文しました
町田康作の人間小唄で、坂口安吾が小林秀雄に泣きついた、
というような箇所が出てきて非常に興味を持ったんですよね
いきなりで悪いんだけど「桜の森の満開の下」って買える?
アマゾン見てもなかったんだが。 今日8時から何かやるんでしょ。家帰って風呂入って用事済ませなきゃ。 家に帰って用事も済んだし、「教祖の文学」の再読も終わった。午前中に一回「伝統と反逆」を読み返した。
でも特に俺の認識を変容させるような発見はなかったな。
今からiPhone持って風呂に入りながら「伝統と反逆」を読もうと思う。
果たして彼は来るのかね?俺の認識を変容させてくれるのかね?期待age だからiPhone持って今風呂の中だよ。いつでもかかってきたらんかですじゃーい! 変なやつ。。
まーいいや。
とりあえず争点を確認しよう。
鈴木は、安吾の小林に対する<骨董趣味>批判は、「骨董(モノ)じゃなく人(文学)に向き合え」
という意味だと言った。
それに対し俺は、「文学を骨董化するな」という意味だと言った。また、骨董(モノ)ではなく人(文学)
に向き合っていたとしても、<骨董趣味>は存在すると言った。
ここまでいいか? >>236
骨董化された文学って事で言えばさ、メリメに関する安吾の見解は覚えてる?
小林が文学を骨董化するって意味がわからないけど、どういう事?小林の批評が骨董的価値を持つという事? モノじゃなく人に向き合えってのはさ、死んだ人じゃなく生きた人に向き合えとも解釈出来るよな。どこが違ってる? まず<骨董趣味>という言葉が「伝統と反逆」に出てくるのは、一か所だけだ。
引用してみる。
坂口 僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ。
講談社文芸文庫の『小林秀雄 対話集』でいえば該当頁は9ページの一行目。
だから、この<骨董趣味>という言葉が何を指すか?というテーマに限定して議論したいと思う。
ここまでおっけい? >>239
他にも「骨董品」や「骨董的」などいくつも出てきて、そこから「骨董」という言葉の意味を総合的に判断すべきだと思うんだけど、違うかな? まず結論から言う。
今の俺は、<骨董趣味>批判は、鈴木の言う「モノじゃなく人に向き合え」という意味ではない
ということを証明できる。
それと同時に、自説である
「骨董(モノ)ではなく人(文学) に向き合っていたとしても、<骨董趣味>は存在する」ことを証明することができる。
しかし、もう一つの自説である
安吾の<骨董趣味>批判は、「文学を骨董化するなという意味である」ことは証明できない。
これは近からず遠からずだが、証明することはできない。議論するうえで、証明できるかもしれないが。
鈴木の意見が間違っていること、俺の二つの説のうち、一つの説が正しいことだけを証明したいと思う。
これでいい? 「骨董」というのは「鑑賞の世界で、美を創り出す世界じゃない」というのが安吾と小林の共通見解だと思う。
そして、安吾の意見が最も直接的に現れるのがP31の「あんたは批評家として文学を生かした男だからね(中略)何か作りなさいよ」だと思う。 >>240
それは却下したい
なぜなら<骨董趣味>は何か?というテーマで意見が分かれたんだから。
そして「伝統と反逆」では<骨董趣味>という言葉は先の一箇所にしか登場しない。
この文脈で考えるのが妥当
てか、鈴木も<骨董趣味>で言ったら俺の解釈が正しいということが言いたい?
てか、鈴木の読みが具体的に間違っている箇所があるからこれから言うよ。 >>241
どうぞ。いちいち了解とらなくていいから続けなよ。
まず俺は「骨董(モノ)ではなく人(文学) に向き合っていたとしても、<骨董趣味>は存在する」という意見に反対なわけではない。
だから「モノじゃなく人に向き合え」という言葉と上の意見がどう違うかを証明して欲しい。もっと詳しく語ろうか?俺の意見を。 >>243
なんで?君は確か「安吾は何を言いたかったんだと思う?」って訊き方をしたよな。だったら総合的に「骨董」という言葉に安吾がどういう思いを込めているか探るべきだろう。 >>246
そういう訊き方はしていない
534 :吾輩は名無しである:2011/09/27(火) 20:25:03.89
ところで安吾厨の鈴木とムー大陸に聞きたいんだけど
安吾が小林秀雄と対談したとき、安吾が小林に向かって、小林の骨董趣味を批判した
じゃん。これってどういう意味?
俺はこの骨董趣味に対する批判は、織田作が「美術工芸品」とかいって心境小説を
叩いたのと同じ意味合いを有しているような気がする。なんとなくね。
そこでムーや鈴木に聞きたいんだ
質問はこれ まず、小林秀雄の批評が生きている「何をやらかすかわからない」人間ではなく、
死んだ人間(ゴッホやモーツァルト)を取り扱う事に不満があったんだと思う。
安吾はメリメを褒めているけど、小林秀雄に対してはさらに上の次元を要求してたんじゃないかな。
骨董趣味っていうのは、フェティシズムだよ。それが人間性に向かうなら、予め反応を想定しうる人間しか認めないという事になるよね。
その時点で彼は「人に向かっている」とは言えなくなる。「モノに向かってる」んだよ。意味がわからない? >>247
俺は安吾の意図を訊かれたものかと思って答えたんだな。今読んでもそういう風にしか読めないわ。
だったら「小林秀雄対話集」のP9にある「骨董趣味」ってどういう意味?って訊けばよかったじゃん。
あー、袋に入れてるとiPhone打ちづらい。体洗って出るわ。10分待っとき。願わくばそのうちに君の言い分を全部書いちゃってよ。 >>248
自分の<モノ>という言葉に後付けしたね。その後付けした考え方には賛成します。
しかし、ズルいですね。あの時は間違っていたと素直に言えばいいじゃないですか。
鈴木が俺にレスしたのはこの2個だよ
「それは俺が思うにね、安吾が言いたかったのは、小林はモノに向き合うんじゃなくて人に向き合うべきだって事じゃないかなあ。」
「でも要するに安吾は造形美術じゃなくて文学を語れって言いたかったんだと思ってたんだけど、それすら間違ってるかね?」
この二つのレスから、その<モノ>の意味を連想することはできないよ。
字面通り、「骨董なんかやめて文学に戻ってこい」というのが<骨董趣味>批判だ、という風に解して
いるというように受け取るのが当然だ。
>>250
まあ、後出しかなあ。でも結論はそうだよ。「骨董なんてやめて文学にもどって来い」って言葉を深読みすればそうなるじゃん。国語の試験じゃ落第だろうけどさ、ここは文学板だぜ? まあ、という事で、そろそろあなたの意見を書いて下さいよ。 <骨董趣味>という言葉に関わらず、安吾が一番言いたかったことは、
文学はいかに生きるか、っていう問いから発生しているんだ、ということだよね。
鈴木の238の言う通り。
坂口 僕が小林さんに一番食って掛りたいのはね、こういうことなんだよ。中略
ギャアギャアギャアギャアとジャズをやったりダンスをやったりするバカな奴の中に
実際は人生があってね、芸術というものは、いつでもそこから出て来るんじゃないかと僕は思うんですよ。
坂口 僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ。
この話は、「教祖の文学」の内容を受けてるよね。
だから、俺の説を展開するには「教祖の文学」の内容に移らなきゃいけないんだけど。
「教祖の文学」には、小林が骨董を漁っていることに関しての批判は一つもない。
ただ、骨董を小林がやるのは当然で、それは文学における彼の態度は鑑定人だからだ、と。
こういう文学における小林の態度が、骨董へと向かわせるのだと。
つまり、骨董漁りをやめたからといって問題が解決するわけではなく、この鑑定人的態度は文学に向き合う態度
には相応しくないから、やめろ、と言ったんだと思う。
なるほどねー。教祖の文学に「骨董」って言葉がないか調べてみるわ。 いくつもあるじゃねえか!たとえば
>花鳥風月を友とし、骨董をなでまはして充ち足りる人には、人間の業と争ふ文学は無縁のものだ。 「つまり教祖は独創家、創作家ではないのである。教祖は本質的に鑑定人だ。
教祖がちかごろ骨董を愛すといふのは無理がないので、」
たぶん「骨董」という言葉はここにしか登場しないと思うよ。
もっと詳しく見てみないとあれだけど いや、四箇所に出てくるね。skybookで検索した。 あとここもか
「人生はつくるものだ。必然の姿などといふものはない。
歴史といふお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、
自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。
仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、
自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらへて行くのだ。
小林にはもう人生をこしらへる情熱などといふものはない。万事たのむべからず、
そこで彼はよく見える目で物を人間をながめ、もつぱら死相を見つめてそこから必然といふものを探す。
彼は骨董の鑑定人だ。」 まぁ、骨董という言葉がいくつあってもいいんだけど。
俺が言いたいのは、これだから。
「つまり、骨董漁りをやめたからといって問題が解決するわけではなく、この鑑定人的態度は文学に向き合う態度
には相応しくないから、やめろ、と言ったんだと思う。」
正確に言うと、安吾の文学観とは合わない、ということだと思うが。 いや、小林秀雄ファンなんだよ坂口安吾は。「私は小林秀雄を尊敬している」って書いてるもん。