まず結論から言う。

今の俺は、<骨董趣味>批判は、鈴木の言う「モノじゃなく人に向き合え」という意味ではない
ということを証明できる。

それと同時に、自説である
「骨董(モノ)ではなく人(文学) に向き合っていたとしても、<骨董趣味>は存在する」ことを証明することができる。

しかし、もう一つの自説である
安吾の<骨董趣味>批判は、「文学を骨董化するなという意味である」ことは証明できない。
これは近からず遠からずだが、証明することはできない。議論するうえで、証明できるかもしれないが。

鈴木の意見が間違っていること、俺の二つの説のうち、一つの説が正しいことだけを証明したいと思う。

これでいい?