坂口安吾 part6
>>507
>戦争というのは軍隊と軍隊のあいだの戦闘行為が基本
そんな戦争があったためしはないよw
住民のいない離島かなんかならそうなるかもしれないが。 >>508
民間人が戦争に巻き込まれることとテロで主目的として民間人を狙うことを混同してる時点でもうね・・・・・ >>510
だからね、敵国民を殲滅するのが戦争の本当の目的なんだよ。
敵国民は殺すか奴隷にする。
テロも戦争も、どこも違わないよ。 >>512
そりゃ、個別にはいろいろあるだろ?
戦争の数だけ、テロの数だけ、大義と方法と結果があるさ。 単純に戦線の後方にちゃんと兵站部隊がいるのが戦争。いないのはテロ。
つまり戦略が点か線かの違いによる定義はどうか。
するとタリバーンの戦いは戦争だし、
特攻隊はテロだという帰結が導き出されるがw http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2014031000313
http://archive.is/zNmPD
関井光男氏死去(文芸評論家、弘前学院大客員教授)
関井 光男氏(せきい・みつお、本名山田光男=やまだ・みつお=文芸評論家、弘前学院大客員教授)
3日午後8時30分、虚血性心疾患のため東京都練馬区の自宅で死去、74歳。
東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻倫子(みちこ)さん。
著書に「資本文化としてのモダニズム」「坂口安吾と日本文化」など。
(2014/03/10-12:25) まあつまり、
「ちゃんと勝つこと」を目的としている戦闘行為が戦争であり、
「負けてもいいからとりあえず自己主張すること」を目的とする戦闘行為が
テロであろう。 「ちゃんと勝つこと」ってよりは「とにかく負けないこと」か。
まあベトコンは頑張ったわけやね 62 名前:吾輩は名無しである :2014/03/11(火) 09:33:29.82
<訃報>関井光男さん74歳=文芸評論家
http://linkis.com/yahoo.co.jp/Ok05E
63 名前:吾輩は名無しである :2014/03/11(火) 10:27:57.65
Moto Mochizuki @tinamoto17 13時間
僕の持ってるちくま文庫の安吾全集では、関井光男さんが全巻の解題を
執筆していた。評論家にありがちな無駄な薀蓄や自分勝手な思い入れを
完全排除し、ポイントを絞ってとことん述べ尽くす見事な仕事で、安吾
作品の理解に大きな一助となりました。御冥福をお祈りします。>RT >>511
国際法も知らない時点でもうね・・・・・ >>500
>日本人の多くは具体的な人ではなく、国という抽象的なものに対しての自己犠牲の存在を信じてしまう。
当時も誰も日本のためとか天皇のためとか思ってないぞ
みんな家族とか恋人とか身近な人間のことを思ってこその自己犠牲で
アホで無能な軍部の洗脳なんて誰も受けていなかった
だからクソの昭和天皇が処刑されようが知ったこっちゃなかった >>521
素朴な疑問なんだが、なんでそんな事知ってるの?
一人一人に聞いて回ったとか?
だとしたらあんたスゲー >>523
逆になんで日本人がお国のために自己犠牲に徹したと思ってるの?
一人一人に聞いて回ったの?だとしたらスゲー
コテ付ける恥ずかしさに耐えるよりスゲー いや、そんなこと一言も言ってないがw
国のためと自分に言い聞かせて死んだ奴もいれば、そうじゃない奴もいただろう。
それが、日本人は皆国のために死んだとか、いや、皆身近な人のために死んだとか、
そういうおおざっぱな印象論は単純に不誠実だし、なんの帰結ももたらさない。
つーかこれほど安吾とかけはなれた態度もない。 一般論として言えば、死に直面した時、さらにその死が完全な不意打ちではなく、
思考に十分な時間を与えるだけの準備期間があった時、
どんな形であれ、人は個人の死を超越した概念に縋りがちとなる。
その対象が宗教だろうと国家だろうと近親者だろうと、
実はそれほど大した違いはないのではないかと思う。
いずれにしても、既にその者の人生は、「自分の人生」ではなくなってしまっている。
そのこと自体が問題なのであり、そこにどうおとしまえをつけるかということは
「個人の問題」でしかない >>522
無理じゃね?正論だから
朝日や毎日も社説でさんざん発狂しつつも反論は出来てないからな >>529
言ってることが理解できてないのにとりあえずw付けとけって感じがもうね・・・・・ >>525
>そういうおおざっぱな印象論は単純に不誠実だし、なんの帰結ももたらさない。
>つーかこれほど安吾とかけはなれた態度もない。
>>526でお前自身が言ってることを否定してるじゃん
>その死が完全な不意打ちではなく、思考に十分な時間を与えるだけの準備期間があった時、
どんな形であれ、人は個人の死を超越した概念に縋りがちとなる。
その対象が宗教だろうと国家だろうと近親者だろうと、実はそれほど大した違いはないのではないかと思う
これなんてまさにお前のおおざっぱな印象論でしか語っていない
なぜ死ぬまでの間に十分な準備期間があった場合に限り個人の死を超越した概念に縋り付くようになるのか
もっと具体的に書かないとなんの説明もできてない
突っ込まれないと思って観念的に濁しても中味がないからボロボロだぞお前のレス ふむ、半分は当たっているね。
ただし俺は「一般論」という保留を付けた上で、「しがちである」という表現で
断定は避けているだろw
まあこれは俺の個人的な思索の過程であって、別に道中矛盾してようがボロボロであろうが構わない。
失礼ながら既に君のレスはあまり関係ない。
というわけで、さらにボロボロな思索を続ければ、
上に引用された安吾の特攻隊賛美も、国家論とは全く異なる次元でなされている。
ここには「夜長姫」や「桜の森」を書いた安吾と同じ安吾、
つまり死に魅入られた安吾がいるだけだ。
安吾は東京大空襲すら「破壊の巨大な愛情」だとしている。
つまり、地震や天変地異の類と同じ自然現象だとみなしているわけだ。
こうした視点からは、戦争とテロの相違など、出発点から霧散してしまうだろう。
そして、安吾自身は「死 」そのものに魅入られていたので、
俺が上に述べたような「死を超越した概念」を必要としない、
ごくまれな「強者」だった。
生に執着しながらも、なおかつ生き抜くという選択肢を放棄せざるを得なかった者には、
国家や近親者といった「超越的概念」が必要なのであるが、
結局それは弱者の思想に過ぎない。
一方安吾は、純粋に作家的な興味から、空襲に見舞われた東京に止まり続けたが、
真冬に水風呂に入ったりして、いざという時に生き抜く訓練をおさおさ怠らずにいた。
つまり安吾は、自分の生も死も、他人任せでなく、自分でコントロールしていた。
こうした特異な一種の怪物が戦争を見るとき、それは目にも絢な超自然的スペクタクルとなるのである。
これは我々凡人がそうそう近寄れる境地ではない。
一方漱石は凡人なので、逆なことを言っている。
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣にちらちらする唯の人である」 >>528
アメリカの大虐殺について正論じゃん
だからテレビも新聞も共産社民も誰も反論できてない
お前できんの?w みんなやってるから俺もってのは、幼稚園児と一緒だ。 テメエは腐った真似してる奴らに一方的に説教されて
黙っていると、そいつらはもっと調子に乗る。それも困る。 前の戦争でドイツと日本が負けてよかったと思う分、
あんまり強くは言えないな アメ公の原爆投下と大空襲は大虐殺だもんな
だからアメ公も痛い所突かれてヒィヒィ言ってやがるw >>532
自発的、かつ純粋な思索の結果としての「死」と
例えば石川淳が「マルスの歌」で恐懼し、
林達夫が「さかりのついた牡牛の行進」と形容した
集団的発狂状態の行きつく先としての「死」は違うということ。
坂口安吾が「真珠」で述べたのは前者の方であり、
戦時下という非常事態であっても、冷静に自らの死と向き合う事を指摘しているだけ。
そしてその真摯な態度には当事者たる「死者」ではなく、
生存者たる「他者」として敬意を表するしかないことを述べている。
逆に言えば大した覚悟もないのに無暗に死を賛美するな。
死はどこまで行っても個人的かつ内面的な厳粛なものである、とも受け取れる。
ここが坂口安吾の強靭な所ですよ。 いくらブサヨでもアメリカの大虐殺は認めるよね
これを否定したらもう右とか左とかネトウヨとかブサヨとかの次元を飛び越えてただの人間のクズだからねっ 東京大空襲は一般市民を対象とした無差別虐殺であり国際法違反だ、というのは地裁レベルでの判決が下っている。
この判決を下した裁判官は左寄りだったような記憶があります。
ただ、この法理と同じ論理で上海事変時の空爆が問題とされたのが
極東軍事裁判における広田元首相の有罪判決だったような気がしますが…。
同じ無差別虐殺なのに米国が裁かれないのは日本が無条件降伏をしたから。
国際法的にみてこの条約自体が無効だ、という説もあるのだけれど、
であるのなら連合国との停戦自体が無効になるし、
連合国が母体である国連の旧敵国条項の適用対象になる。
要するに占領はいまだに続いているのね。 >>543
国際法というのは条約などを締結するときの目安にはなっても、実態上の法的拘束力はない。
まして戦争での国際法の効力など、どちらが正義であるかの宣伝材料のひとつに過ぎない。
戦争を裁く法などない。
戦勝国が戦勝国の理念で相手を裁く。
それ以外の戦争があるなら教えて欲しい。
国際法などというものに実効性があるなら、戦争は起きないし、そもそも利害の対立するそれぞれの国家を実体のない国際法なるもので統制することができると思うほうがおかしいんだよ。 今頃アニメ見て原案の安吾捕物帖を青空文庫で読もうと
思うんですがこれって1〜20まで通して読んだほうがいいですか? 堕落論読んだけど大したこと言ってないな
これのどこが戦後の日本人に衝撃を与えたんだ 『街はふるさと』はイマイチ。
前半は良かったんだけどね、
終わりがダメだった。 >>549
それは国際法とは無関係な、強国による一方的な侵略行為のひとつ。 白痴は何で同じような表現を2度繰り返すわけだ
わざとか 俺も堕落論(も青春論も日本文化私観も教祖の文学も)は大したことないと思う。
白痴、戦争と一人の女、桜の森の満開の下が断然抜きんでている。
坂口を思想家・批評家・エッセイストとして理解する風潮が一部にある(と感じる)けど、
俺が読んだ限り文学のふるさとだけが彼の小説と肩を並べているだけで、
あの人は小説家として考えるべきだと思う。
ほかの文章は単なる売文、生活の糧、という理解で良いと思う。
今の作家みたいにデパートの文化レッスン二時間六回三万円とか、
ましてや大学の講師の口なんてゼロなわけだから。
だから、堕落論は駄目で良いと思う。ただ、敢えて言えば
戦争に負けて日本が「偽物」になったという理解をどう工夫して生きる力を持つかというと、
堕落というキーワードなら押せるし人の活力になるぞと、
浅田彰もベンヤミンの「貧困と経験」に比して小林秀雄の対抗馬に坂口を持ち上げていたけど、
闇屋になっても生きなきゃ行けないわけだから。
闇市に行かないで餓死した裁判官がいたけど、そういうのは文士としてなんとかせにゃいかんわけだから。
そういう意味で影響力があったわけで、
たぶん今の日本を坂口が見たらこんなに堕落したのかよって、良識派になるんじゃない? 生前の坂口は堕落論をはじめとする評論で名を馳せたので、
評論家として記憶されているだけです。
仰るように優劣をつけるのなら小説の方が上です。
大岡昇平などは「白痴」後の仕事には黙殺の態度です。 早速の御応答深謝です。
大岡先生のお名前が聞けるとは思いもよりませんでした。
(ファンなので敬称を略しますが)坂口が評論家として理解されていたというのは、
存じませんでした。事実なら読者のリテラシーも知れますが、本人も情けないですね。
昭和文壇の稚拙さへは情状酌量の余地があり、且つ多くの批判がありますが、
どうもヨーロッパ近代の怪物性に日本の私小説はすくみ上がってしまいますね。
それを読者も見通して小説一般が低く見られてしまうのでしょうか。実に残念なことです。 夜長姫と耳男は物語的に未完というか、逆に短編的美が中途半端というか。
二回目のはやり病の途中でストンと力が抜けた感じじゃない?
桜の森の満開の下や道鏡、つまり戦後1、2年の頃に比べて、
5,6年間で文体が非常にこなれたと思うけど、
それなら夜長姫でもっとヒューマニズム的な美しさが追求されて良いと思うんだよな。
俺は「風と光と二十の私と」が好きだから、そっち系と晩年の文章の巧さこそマッチすると思うんだけど、
とうも坂口は偽物のきらめきに惹かれちゃって微妙なんだよ。
どう思いますか? あれはあれでいいんだろう
なにしろ語り手が半端物の耳男自身なのだから
俺は好きだね 俺も好きだよ。文章上手いって褒めてるじゃん。
一押しにはならないと、ファンのはしくれとして言ってシマウマ。 戦後の小説は文章がタイトに絞り込まれているので
それで成功しているものもあれば失敗しているものもあるようですが
批評性が高いという所が特徴でしょうね。
初期の頃は自意識やその反映たる文の機構にもメスを入れるようなところがあり、
そこが「吹雪物語」の失敗にもつながっているような気がします。
ただ、非常に志が高かったとはいえるでしょう。
あの精度で小説を書いていたら精神的に追い詰められるのは当たり前です。 初めてこのスレ来ました。ここまでのレスざっと読んで、色々言いたい事もあるのですが議論するつもりは無いのでやめときます。
作品に対する評価、考え方は人それぞれとしか言いようがないので…
ただ一つだけどうしても言っておきたいのは、安吾は小説もそれ以外の文章も間違い無く常に全力で書いていたと思います。良くも悪くもそんなに器用な人では無いです。 …間違い無く常に…
文学に興味を持つ人が、単なる憶測にすぎないのが明白なことを、どうしてこのように断定してしまうのか、
気が知れない。
言葉に対する姿勢がいいかげんで、まあ、デリカシーがないと言うことなんだろうか。
問題は、彼一人ではなく、コテハンにもそういう人がいて、しかも一々指摘するのもバカらしいほどいる、と言うことだ。
これはミスなんてレベルの話ではない。
感情移入はかまわないけれど、拙くも論評だろう。
心して書いてほしいものだ。 ちくま文庫の安吾全集なくなったの?
横尾忠則の装丁ですごくよかったのに。
こんな重要な作家が手軽に読めないなんておかしい。
復活してほしい。 坂口安吾の私は海を抱きしめていたいって不感症で無感動な女を抱いて、自分の肉欲というのは孤独だから、もっと無慈悲で無感動な波に飲まれて孤独の肉欲が満たされればいいという解釈であってますか >>571
肉欲はずっと満たされることがないっていう確信 >>572
満たされてくれればいいと言いつつ満たされることはないという確信なんですね
ありがとうございます 安吾の義理の弟、美千代さんの妹の旦那さんはどなたですか? 社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。
口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、「老害」以外の何物でもないからね。
そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。
本田宗一郎 安吾論予告。 http://www.atarusasaki.net/blog/?p=1486
佐々木中先生の坂口安吾論!単行本が2016年春頃に発売!
安吾論予告。
2015/12/14
拙者悲願の坂口安吾論、やはり安吾先生の特攻賛美を始めとした文学的政治的なジダラク、ゴマカシ、アトヅケ、不埒千万にして断々乎として許さるべからず、徹底的にヤッツケざるを得ないですよ。
見逃してやれというのは無理だなァ。ギリギリまでネバリ、アガキ、長丁場を観念した由。本当です。
というわけで青鬼も笑う明けて1月発売『文藝』春号(河出書房新社)に載る安吾論は全体の約6割、さらに加筆した新安吾論は来年単行本になります。たぶん春頃。タイトルは『戦争と一人の作家–坂口安吾論』。乞うご期待。 佐々木中
安吾論予告。
2015/12/14
拙者悲願の坂口安吾論、
やはり安吾先生の特攻賛美を始めとした文学的政治的なジダラク、ゴマカシ、アトヅケ、
不埒千万にして断々乎として許さるべからず、
徹底的にヤッツケざるを得ないですよ。
見逃してやれというのは無理だなァ。
ギリギリまでネバリ、アガキ、長丁場を観念した由。
本当です。 あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?huluさん?
それともいくつですか?huluさん?
それともいくつですか?huluさん? 坂口安吾の未来 危機の時代と文学
出版社: 新曜社 (2015/2/16)
宮澤隆義
1978年生まれ。 >>586
安吾さんはアドルムの印象が強い。
飲むと気分が鎮まるのではなくて暴れ出してしまったとか。。。
檀一雄曰く「時化模様」。色々大変だったようで。 >>596
たぶん暴れても本人は暴れたこと覚えてないですよ。で、寝て起きてもボーッとして仕事にならないからシャブをやるわけですね。 アドルム中毒の時は狂乱状態になって奥さんが石川淳や壇一雄を呼んで精神病院にぶち込んだんだよな。 青空文庫に上がってるエッセイで読んだんだけど、安吾はおんぶして運んでくれる友人(男性。誰か忘れた)の背中でずっと激しくボッキしていたんだって(笑) 夏目漱石、森鴎外、川端康成、三島由紀夫、太宰治、以外の作品を読め! 今日図書館で夫人の回想録というかエッセイ集というかを借りてきた。
「当の本人は半分くらいしか覚えていないのである」だそうな。
滅茶苦茶な暴れっぷりもあれこれ書いてあるが
「私は坂口が暴れても憎いと思ったことは一度もない。
ただ可哀想にと思うばかりであった」とのこと。菩薩のような人ですね。 代りに用いていたものは、喘息の薬のセドリソと云う覚醒剤であった。朝から少量ずつ飲んで昼も少量飲み、それが蓄積されてやっと夕刻頃効いてくると云う薬だった。
疲れて休息したい神経をむりやりたたきおこす薬で、二日でも三日でも徹夜に耐えうる神経にするための薬だ。そう云う薬で無理無態に仕事をしようとしていた。
・・・睡眠薬と覚醒剤を交互に常用しているうちに、その性能が全く本来の姿とは異り、まるでアベコベに作用するようになっていた。
すなわち睡眠剤を飲めば狂気にちかくなり、覚醒剤を飲んでモーローとするようになっていた
もう大分以前から彼は人に逢いたがらなかったのだが、私も彼を人に逢わせたくなかった。あさましい位、彼の外貌は変り果ててゆき、人の言葉をまともに聞くことはなくなった。
すべては陰謀としか思えないらしく、私がそのあやまりを正すと悪鬼の如く、いかりたけると云うふうになり、当時の女中さんのしいちゃんは私の手下で、
私としいちゃんとはしじゅぅ陰謀をはかり奸計をめぐらしていると云うふうにとるようになった。私が彼に出来ることは、彼の云いなりになると云うこと以外には何もない。 読まれない新聞が、彼の枕元にうず高くつまれ、ふと気がついて、彼がその新聞をとりあげ、片目をつぶり、日付を見て、こんなはずはないと云い出す。
誰々が来て、それから三十分ほどねむっただけなのに、あれからもう一週間もたっていると云う法はないと云い出すのだった。
新聞の日付迄、私や女中が按配すると思い込んだりした。
彼はいかり狂ってあばれまわり始めると、必ずマッパダカになった。寒中の寒、二月の寒空にけっして寒いとも思わぬらしかった。
皮膚も知覚を失ってしまうものらしい。それで恥しいとも思わぬらしいのだが、私は恥しかった。女中さんの手前もあるし、私は褌(ふんどし)を持って追いかけていく。
重心のとれないフラフラと揺れる体に褌をつけさせるのは容易ではなかった。
身につける一切のものはまぎらわしく汚らわしくうるさいと思うらしかった。
折角骨をおってつけさせてもすぐにまた取りさって一糸纏わぬ全裸で仁王さまのように突っ立ち、
何かわめきながら階段の上から家財道具をたたきおとす。階段の半分位、家財道具でうずまる。「クラクラ日記」 困った時には友達にたのむに限る。私が二度目の中毒を起したとき、私は発作を起しているから知らなかったが、女房の奴、石川淳と檀一雄に電報を打って、きてもらった。
ずいぶん頼りない人に電報をうったものだが、これが、ちゃんと来てくれて、檀君は十日もかかりきって、せっせと始末をしてくれたのだから、奇々怪々であるが、事実はまげられない。
平常は、この人たちほど、頼りにならない人はない。檀一雄は、私と約束して、約束を果したことは一度もない。
たぶん、完全に一度もないが、本当に相手が困った時だけ寝食忘れてやりとげるから妙だ。
田中英光の場合は、友だちに頼めば、なんでもなかったのである。その友だちが居なかった。
私自身が田中と同じ中毒を起こしたことがあるから、よく分るが、孤独感に、参るのである。
ほかに理由はないが、孤独感から、ツイ生ききれない思いで、一思いに死にたくなる。その誘惑とは私もずいぶん、たゝかった。一度、本当に死ぬつもりになったことがある。
そのときは、女房が郡山千冬に電報をうって来てもらって、どうやら一時をしのいだが、それ以来、発作の時は親しい人をよぶに限ることに女房が気付いて、二度目の時には石川淳と檀一雄に来てもらったのである。
そして、渡辺彰、高橋正二という二人の青年を泊りこませ、その他、八木岡英治や原田裕やに、夜昼見廻りに来てもらうというような、巧妙な策戦を考えてくれた。
そうして私が気がついたとき、私は伊東に来ており、私の身辺に、四五人の親しい人たちが泊りこんでいるのを発見した。「麻薬・自殺・宗教」