【新感覚派】横光利一
大体明治以来の作家を、文章に於て、三大別することができる。独創的なスタイルを作つた作家と、体質的な
スタイルを身につけた作家と、人工的なスタイルの作家と三種類である。小説はスタイルばかりで値打が
決るものではないから、俄かにこの三種類の優劣を定めるわけにはゆかないが、第一類の総代が森鴎外で、
ずつと下つて、小林秀雄や堀辰雄がこの系列に入る。第二類の総代が夏目漱石で、武者小路実篤や丹羽文雄や
武田泰淳までがこの系列に入る。第三類の総代が、泉鏡花あるひは芥川龍之介で、横光・川端はほぼこの系列の
作家である。
しかし鏡花と龍之介を一緒に第三類にぶちこむには異論があるにちがひない。事実、この第三類はもつとも厄介な
問題を蔵してをり、人工的な天性をそのまま人工的文体に生かした鏡花のやうな、第二類の変種のやうな作家も
ゐれば、人工的な天性から逆の自然的なスタイルを生み出さうとして苦闘した龍之介もある、といふ風である。
横光はどちらかといふとこの龍之介型、苦闘型であり、川端は、鏡花型、人工的天性型だといへるであらう。
三島由紀夫「横光利一と川端康成」より (引用略)
「機械」のラストの文章である。
故意に句読点と段落を極度に節約し、文脈には飜訳調を故意にとり入れてゐる。すべてが、この小説の主題の
展開にふさはしいやうに作り上げられた文章である。これだけの引用ではわからないが、「機械」一篇を読了して
この結末に来ると、実際「機械の鋭い先尖がぢりぢり」読者を狙つて来るやうに感じられるのである。
われわれは日本人である以上、日本語の文章を書くわけだが、日本語の一語一語が持つてゐる伝統的ニュアンスと
いふものは否定しがたく、多くはそのニュアンスによりかかつて文章を書くわけである。手紙の候文などは
その極端なものであらう。
横光が「機械」の文章で試みた実験は、日本語から歴史や伝統を悉く捨象して、意味だけを純粋につたへるところの
いはば無機質の文章を書くことであつた。右の引用文でも、かういふ試みの極点に達してゐることがみとめられよう。
三島由紀夫「横光利一と川端康成 一 横光利一」より 横光こそ小説を小説として論じる文学者だったな。おれには師匠みたいな存在だよ。
>>68続き
明治の哲学者は、ドイツの観念論哲学の用語をそれぞれ飜訳して、該当する漢語を作りだし、それを組み合はせて、
今までにない抽象的な日本文を作つた。ところがさうして作られた言葉も、何十年かたつと、苔が生えるやうに、
日本語としての複雑なニュアンスを帯びてくるから、ふしぎである。
しかしさういふ意味では、「機械」の文章は、今日も日本の歴史の苔のつかないふしぎな乾燥した抽象的性格を
保持してゐる。それはまた題材乃至主題との幸福な出会ひでもあり、横光はかうして作つた文体でいくつかの
短編を書くが、それが彼の固有の文体にまではならないのである。
(中略)横光の到達しえた最もリアリスティックな文章は、したがつて、「機械」の文章――氏の技法上の冒険が、
人間性探求の冒険と、最も無垢に歩調を合はせたときに生れた文章――であるといへよう。
氏の晩年の作品では、「微笑」が傑作と思はれ、又その文章は、青春時代の叙情をよみがへらせたふしぎな
みづみづしさをもつてゐるが、紙数の関係で割愛する。
三島由紀夫「横光利一と川端康成 一 横光利一」より 横光と比べると、川端康成は自己批評の達人であり、どうにもならない自分の資質に対して、これほど聡明に
身を処して来た人はめづらしい。氏の文章も、それをよくあらはしてゐる。(中略)
氏の文章は、感覚だけでしか、外界とつながらうとしないのである。つまり自分の長所、得手によつてしか。
(中略)
氏の文章を、横光利一のやうに、段階的に分けて見ることはむづかしい。又その必要もなささうに思はれる。
芸術家としての氏にはかつて自己革命といふのがなかつたから、文章にもそれのあるわけがないのである。
かうした事情は、最も幸福な、又、最も不幸な芸術家の宿命である。氏の文章を初期から最近までずつと見て
来た者は、実際、真の芸術家には、自己革命なんてある筈がないといふ奇妙な逆説的確信にとらはれてしまふ。
なるほど、例へが突飛だが、スタンダールにはそんなものはなかつた。
三島由紀夫「横光利一と川端康成 二 川端康成」より 川端康成の文章の極意は、一行から一行への神秘な転調にあるので、構文そのものにあるのではない。構文
そのものには特色がないことが、私をして、決して独創的な文章ではないと言はしめる所以である。
(中略)
文章といふものには、どんなそつけない散文にも、内的な音楽といふものがある。氏の文章にはそれがない。
これは実におどろくべきことだ。ためしに氏の小説を朗読してみるがいい。たとへば永井荷風の小説などに比べたら、
朗読の快感といふものはほとんどない筈である。
しかし強ひて言へば、この世のものならぬ音楽性といふものはある。それは琴の絃が突然切れたひびきや、精霊を
よび出す梓弓の弾かれた弦の音のやうなものである。氏の小説にたびたび用ひられる頻繁な改行の技巧は、実は
かうした音の突然の断絶の効果ではあるまいか。してみればさういふ改行の配慮は、氏の音楽性に対する配慮と
いへるかもしれない。
三島由紀夫「横光利一と川端康成 二 川端康成」より 横光についての話とはいえ
毎度おなじみ三島狂信者のコピペは
三島スレ以外ではご遠慮願いたいなあ 小石の様に黙殺されてるスレとは思いたくない
利一さん久々に読み返してみるかな
横光の短編で短くて映像的な作品を選ぶとすれば何がいいだろう? なるほど〜「春は馬車に乗って」の冒頭部分。
「海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリヤが縮んでいった。」
横光の冒頭文はかっこいいのが多いなー。
「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」
(頭ならびに腹)
「Q川はその幼年期の水勢をもつて鋭く山壁を浸蝕した。雲は濃霧となつて溪谷を蔽つてゐた。」
(静かなる羅列)
「今日は昨日の続きである。エレベーターは吐瀉を続けた。」(七階の運動) 横光の作品で一番面白かったのは
裸の大将放浪記だと思います。美しいので引用します。
「清!てめえもわからねえやろうだ!口を開けばおにぎりおにぎりって
てめえの脳みそは腐ったおむすびかよ!次ここに現れたら殺すからな!」
清は黙ってうなづいた。
翌日清は村に現れた
「たかしさーん。ありがとうありがとう」
「ア、ア、アセンションは・・・ぼ、僕より
バイト先なんかでは活躍するかもしれないが、
実は、も、文盲で、小説が分からないのではないだろうか」 うんこは しっこと競争して勝った。
「ついにこの時が来た!」
うんこが表彰台に上り金メダルを受け取った。
歴史が変わった瞬間だった。 ある日、ゴリラが、人面犬のような暑苦しさで立っていた。
幻覚ではないかと思うのだが
「押しボタン信号押してくれ」とゴリラが言った。
僕が無視して行こうとすると追いかけてきた。 しまった!
油断してる間に超新感覚派に6レスも入られちゃったなw 清!てめえもわからねえやろうだ!口を開けばおにぎりおにぎりって
てめえの脳みそは腐ったおむすびかよ!次ここに現れたら殺すからな!
の一文は美しすぎる 裸の大将放浪記は
カフカくらいしか比べられそうな作家が見当たらない。 横光利一は川端康成が友達には優しかったから誉めてたんじゃないかなあ
と俺は思う。 7/22(金)20:05-21:55 NHKラジオ第1
「幻想図書館」かつての微熱少年少女が横光利一を朗読
出演・・・大槻ケンヂ、みうらじゅん、戸川純
ナレーション かとうけんそう
実況は↓ここ?
NHKラジオ(AM第1 第2 FM)合同スレッド 937
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/liveradio/1311145419/ >>90
ラジオ聞かなかったー
>>91
おもしろい ツモり?w
つーか、そこはポンじゃないだろw
わかってるよね、もちロン。
横光も麻雀をやったのかね〜 >>94
目の大きな蝿が、視点=カメラのような役割を果たしている
村上春樹の「アフター・ダーク」を読んだ時、横光のこの作品を思い出した。
>質量を持たない観念的な視点
>空間を移動し、物語の場面を捉えることが出来るが、介入することは許されない中立的な存在
http://tinyurl.com/3atod2e 「蝿」はまさにカメラアイの作品で、映画を意識したような感じが面白いなあ!
横光が「純粋小説論」で持ち出した「第四人称」という概念で語りたかった多くの要素は
カメラアイとしての非人称的な視点でいいのではないかと考えてたんだけど
どうなのだろう…。 もしかすると、横光はロブ=グリエを先取りしてたのではないだろうか!w 「火」や「笑われた子」のような、子どもが主人公の作品も好きだな 横光利一といえば伊賀上野。
伊賀上野といえば、横光利一の雪解の舞台。 寝園面白かった。
ヒロイン奈奈江に比べると、ご主人は存在感薄すぎるなあ・・・ 十年ちょっと前に出た全集と
1980年代に出たその前の全集と
何が違うのかご存じの方はおられないか 夜の靴はなんとか読めたと思うが、日輪の難解さに死んだwww >>109
うん・・・まあ、そこまで露骨には言わないけどwww
あの日輪って小説はいったいなんなんだwwwまったくわからんwww 「先生はどうしていつも髪の毛をそんなに長くしておられるのですか」という質問に、
「きみ、人生の傾斜面の下降を止めるには何か必要ですからね。それでないと一気に滑つて行つてしまいますよ」と答えた 機械の新潮文庫版だけほかの版とえらい記述が違うな
これはいったいどういうわけだ しかも変更点はどう見ても表現がおかしいところがある 冒頭から4000文字ほど見ただけでもこれだけ相違がある
これはなんか根拠があるのか
ここで調べても全く新潮社版の記述は出てこない
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?SID=kindai&searchWord=%E6%A9%9F%E6%A2%B0+%E6%A8%AA%E5%85%89
右が新潮社版
いつまでも = いつまで
仕事の部分に = 仕事に
軽部にしては = 軽部としては
ぐらいのことは = ぐらいのことを
あまりにも = あまりに
ために = ため
しかしまもなく = しかもまもなく
こんな自分=こんなに自分 新潮文庫が見つからないので
とりあえず新潮社版の「日本文学全集19」(昭36)を見てみると
おっしゃるとおり違いますね
初出(昭5、雑誌「改造」)と初収(昭6、白水社版?)で違うのかな
「定本」の編集ノートを見れば何かわかるかも
ついでに集英社版「日本文学全集38」(昭41)と
中央公論社版「日本の文学37」(昭41)を見てみると
集英社版が新潮社版と同じみたい
この手の全集物は底本が載ってないんだなぁ まあ普通に考えたら、雑誌に掲載したものを
単行本化する際に手を入れたんだろうなあ
というか校正しない方がいかがなものかとも思う >>120
>>118のリンク先にある白水社のが雑誌掲載時のものだろ
それ以外の版は手直しされているがそれらとも新潮社版は違う 蝿、日輪、春は馬車に乗って、機械、旅愁、頭ならびに腹、
高校時代愛読した
あの頃は川端康成の師匠で格上だったら ちなみに白水社版とそのほかの版の違い
これは冒頭から3000文字ほど
右が白水社版
今日は出よう明日は出よう = 明日は出よう今日は出よう
決心ばかり = 決心なばかり
生活の活計 = 生涯の活計
生涯の活計のままのほうが良かったな
生活の活計では二重表現 何を騒いどるんだ
雑誌・単行本・全集・文庫と
版を変えるたびに手を入れた
それだけの話じゃねーの?
順番で言うとどうせ新潮文庫は最後の方だろ?
横光本人が「いずれ機会があれば直したい」と
思っていた箇所が溜まってたんだろ >>122
> 白水社のが雑誌掲載時のものだろ
違う
単行本化の時点で、雑誌を元に新たに組んだゲラで
誤字脱字のチェックをやるんだ
(編集者がやって著者のOKを取る、というのが
普通のやり方だが、当時もそうだったかは知らん)
その際に、「改稿」と呼ぶほどではないくらいの
(つまり藤村の『破戒』みたいな大幅なのではない)
細かい加筆修正も「校正」の範囲内で普通にやるの
全集収録や文庫化の際にも同じことをやる
それを念入りにやる著者ならヴァージョン違いが
大量にあるのは当たり前の話
で、横光が執筆の段階から改稿に改稿を重ねまくりの
タイプだったことはよく知られている通りだ
『改造』と見比べてはいないが、もし初収の白水社版が
すでに大きく加筆されてたとしてもむしろ「やっぱりね」だよ
だから「どういうわけだ」「なんか根拠が」と言われても
横光がそう直したかったから、としか
変更したせいで表現がおかしいってのは
語源どおりの蛇足だからだろう
文庫化までの間に文体が変わってたとかもあるかもな 読点でせっかくのダラダラ文体が台無しのやつもあるよね そうか
初版の奴はあまりにも句読点が少なすぎてよみにくい この間のNHKの従軍作家の特番で
横光の動く映像と読み上げる音声まで聴けて感動 リーチはノーベル賞獲るべきだろうが!
追贈でも。当然そうあるべき!
川端某の1000倍の価値が!
あると思うの この番組ね
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0814/
そしてちょうど再々放送がまたあるよう
NHKスペシャル「従軍作家たちの戦争」
2013年10月23日(水) 26時15分〜27時05分
http://tv.yahoo.co.jp/program/78440424/
でも台風次第では潰れるかも・・・ なんで横光さんはカワバタほど読まれてないんだろう?
横光利一全集って高いから手がでんわ 新幹線乗ると、駅が石のように黙殺されてるって感覚わかる。 >>137
そりゃ川端康成と比べたら名声は見劣りするが
それでも有名なほうだろ 戦争協力に割合熱心で、終戦後弁明なり新しい活動を上手くできないまますぐ死んじゃったから、名を落としたというか無視された期間が長かったのもあるな ネトウヨさんには余り人気が無いみたいだね……。引用するのは三島ばかり。利一こそ愛国者だと思うがなぁ。 大学生になるまで名前すら知らなかった。
授業でも名前すら出てこないし、どう扱えばいいのかわからないんだろうな。
図書館に行けばひっそりと全集があるな。 戦前はすごく新しいものとして読まれていたらしいんだが…
そのあたりの感覚は今じゃよくわからない 横光の後妻は美人だね。彼女からアタックしたらしいが。 148
そうかもな。AMAZONで
RIICHI YOKOMITSU と打ちこんだら
英語で書かれた麻雀の本が出てきてたまげたわ。
ところで
リーチさんは、一時期なんであんな金田一耕助みたいな
風体してたんか?物凄く気になる。 補巻なしだが、定本・・・全集を安価で
ゲットした。
旅愁、物凄くBAKAにされていたな、それに戦後のバッシングの
物凄さ。どんな気持ちで亡くなったんだろう、気の毒すぎるよ。
旅愁は日本が凋落するばかりの今こそ読むべき作品。あの作品としっかり
向き合わなければならないと思う。 連投してすまん、お土産です。
これ、マジ?
横光利一(riichi)
http://blogs.yahoo.co.jp/masazumi_kenmochi/35899662.html
【立直(リーチ)】
麻雀において、聴牌(テンパイ)を宣言する行為、
および、その宣言によって成立する役である。1翻。立直の宣言を行うことを、「立直する」「立直をかける」のように表現する。
【雀友会ホームページ】
日本初のマージャン愛好団体、日本麻雀連盟が発足。
初代総裁は文藝春秋社社長・菊地寛。 直木三十五、「横光利一」らが.
参加。 麻雀誌を創刊、段位を発行するなど、活発な文化的活動が ... 報知新聞により、リーチ麻雀を認める「報知ルール」まとまる。 乃木坂46 白石麻衣 横光利一 春は馬車に乗って 【高音質PV】悲しすぎる物語(泣)
https://www.youtube.com/watch?v=b-m0XZFyAok 春は馬車に乗っては、涙を隠せん。小むずかしいけど、どれも読んだ甲斐があるように思う 『旅愁』が岩波文庫から刊行されている。文芸文庫よりかなり安い。
しかもGHQに検閲された部分を復元したというんだから岩波も変わったな。 売れ行きはともかく最近の岩波文庫は頑張っていると思う。
おそらく頑張らなければならない理由があるのだろうが。 昭和11年の欧州旅行の紀行文みたいなのでは比較的リベラルな記述がみられるのに
なぜそのわずか数年後ファシズムを肯定するようになったわけだ ファシズムは肯定していない。日本の文化伝統に傾倒した。 今年の12月で没後70年か
息子さんがご健在なのがなにより
長生きしていただきたい 同輩とか後輩の作家からは、滑稽な人物だと思われてたみたいだね。
「完全武装していたのに体はずたずたに斬られた可哀そうな人」っていうのが
死ぬ直前の三島の横光評だったよ。 へー息子さん健在なんだ・・・
確か20年くらい前に出版された有名な文豪の子息たちが親との思い出を綴った手記を
まとめた本を図書館で読んだ時に横光利一の息子さんの思い出手記もあって
昭和初期の話とか戦後間もない頃の利一の告別式に参列した写真とかあったから結構ご高齢だろうにそれは良かった
その本の手記にあった有島武郎の息子さん(森雅之じゃない)は20年近く前にとっくに亡くなったと知ったし
北原白秋の息子さんも結構前に亡くなったみたいだし 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 【夏の変電書フェア’14】「過渡期の横光」短編集『高架線』『機械』『薔薇』【気分はサンタ・ルチア】
http://hendensha.com/?p=2257 >>161
確かにどの作品からも憐れみが感じられるな
またそこがいいわけだが 後期の作品からはそこはかとなく伝統美というか封建主義的なものを感じるな