三島由紀夫の文って読みづらくないか?
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で、谷崎を嫁ねば三島は嫁ぬ、と逝った(笑)霊の阿呆(笑) はどこに逝ったので消化ねぇ〜(笑)間抜けマグ名では拉致は飽き増せん殻ねぇ〜(笑) >>350
チワワにとって軟派か硬派というのは政治的なものや社会的事件に関心があるかどうかで決まるのか。こりゃどうしようもないな。 >>352
ふむ。読んでいないな。乱歩はパノラマ島奇譚、孤島の鬼、少年探偵団、屋根裏の散歩者、人間椅子をはじめとした短篇を少しぐらいだ。それでもチワワよりは読んでいるがなw面白いのか? >>354
どうしようもねぇ糞コテはおみゃあずらあ >>355
いや、博士の新兵器がアメリカ本土を襲撃して日本が勝利するという、
どうしようもない戦意昂揚小説なんだw タイトルと新兵器の着想は
素晴らしかったのに、世におもねるとつまらなくなるのかな。あまり
あの作品の評論って無い気がしたから、マグナに語ってほしかったんだがw むしろ語彙は豊富だが読みやすいというのが三島の特徴だといわれ続けてなかったか
その逆は大江 主語述語など構文は理解しやすいが、単語の使い方が独特だったり、
(「精神」とか)美文的なのと本音的なのが交錯するときがある気がする。 川端康成が軟派って言う人が、本を読んでるとは思えない。
生きながら死人になったような人にそれは無いよー。
コロコロコミックでも読んで、自分、忘れようね。 川端康成=少女漫画説。昔「花のワルツ」を読んで笑ってしまった。読後の爽快感のなさも似ている(笑)。 川端康成を語るのにわざわざエロティシズム(バタイユ)を持ち出す人が、本を読んでるとは思えない。
少女漫画説で充分です(笑)。 三島の文章はレトリックを多用している。異論があるかもしれんが、
フランス文学なんかに近いものがある気がする。 よく小学校などで、
「あの子、イヤな子だよ。すぐ先生にいひつけるんだから」
などと一人がいふと、忽ち噂が伝播して、「あの子」はクラスぢゆうから爪はじきにされる。
かういふのは原始的な集団ほど甚だしいので、村八分なんていふのは、東京のまんなかでは行はれない。しかし
実際のところ、小さな集団の中では村八分はいつもあつて、丸ノ内の近代的なオフィスの内部にだつて、
一寸した悪い噂から生じた村八分の雛型は、いくらも見られる。
この間ある週刊誌の編集長と話してゐて、スキャンダルといふやつは、どのくらゐ迄、宣伝に役立ち、どのくらゐの
度を過ぎると、本人にとつて致命的になるか、といふ問題をいろいろ考へた。長嶋選手の女の問題などは、
明らかに前者に止まり、衆樹選手の悪評判は、悲しいかな後者に接近してゐる、といふのが編集長の意見だつたが、
これも編集長の主観的意見にすぎず、そこのところの境界は、時と場所によつて、又当人の人柄によつて
まちまちであつて、結局はつきりした客観的な目安はつかないといふ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より (中略)
さて、スキャンダルの本質は、社会的人気者や、社会で紳士淑女とみとめられてゐた人が、思ひがけなく露出する
馬脚にあるので、はじめから悪人ならスキャンダルにならない。前科七犯の強盗が、十人や二十人の女を
だましたところで、スキャンダルとはいへない。ニュース・ヴァリューとスキャンダルとは同一ではないのである。
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。当人は否応なしに、
「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、「彼は女たらしではあるが、
几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、親孝行であつた」とか、
さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より ――さて、スキャンダルは、人間ばかりでなく、食品にも起る。かつての原子マグロ事件以来の、最大の
食品スキャンダルが、このハウレンサウ事件であつた。
さつき、村八分は原始的な集団のなかで甚だしいと言つたが、マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、
十分、村八分を成立させるやうになつた。ハウレンサウはその哀れな犠牲者だつたのである。そしてハウレンサウは、
スキャンダルのあらゆる条件をそなへてゐた。
第一に、ハウレンサウは、これまで社会に有益な役割をしてゐると考へられ、紳士的な野菜と見なされてゐた。
彼ははじめからナラズ者や、殺人犯人だつたのではなかつた。はじめから青酸加里だの、ネコイラズだつたのでは
なくて、善良な食品だつたのである。おまけに、彼には隠れた善行の噂があり、しかもその善行は誇張して
伝へられてゐた。それがすなはち、有名なポパイの漫画である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より 誰も彼も、ハウレンサウ氏を信用してゐた。ハウレンサウ氏は、わづかな費用で、冬のさなかにも家庭を気易く
訪問し、みんなに愛されてゐた。その紳士が、実は、こつそりと、少量づつの毒物を家庭へ運び入れてゐたといふ
スキャンダルが出て、みんなびつくりしたのである。
昨年十月末から十一月はじめにかけて、一流新聞が一面全部の大記事を出したのは読者もよくご記憶であらう。
「ハウレンサウで大騒ぎ。
喰べすぎると“結石”に。
有害なシウ酸が含まれる」
(中略)
それ以来、ハウレンサウ氏は、善人の仮面をかぶつた陰険な悪人の代表にされてしまつた。(中略)
世間では急にハウレンサウを喰べなくなつた。それを私は、へんなこだはり方だと思ふのである。なるほど
結石が出来るのは不快にちがひないが、結石は死亡原因のランクに入つてゐるやうな病気ではない。キャラメル
自動販売機みたいに、上の穴からハウレン草を入れると、下の穴からコロリと結石がころがり出す、といふやうな
ものではない。もし病気や死の原因になることなら、われわれはもつといろいろ不養生を他にいつぱい重ねてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より (中略)
日本で放射能雨の被害が喧伝されてゐたとき、銀座に出てゐて、俄か雨でもあると、いい若者が、あわてて頭に
新聞やビニールふろしきをかぶつて駈けた。
そのころニューヨークへ行つた私は、雨が降つてゐても、平然と濡れて歩く人々におどろいた。ところが
ニューヨークでは、タバコが肺癌の原因になるといふ説が有力で、ふつうのタバコを吸つてゐる人はほとんどなく、
パーティーなどへ行くと、十人のうち八人までが、吸口のついた、ニコチン止めの、まるで味のないタバコを
吸つてゐた。私にはあんな味なしタバコは我慢できないので、平気でラッキー・ストライクなんか吸つてゐると、
みんな私の勇気におどろいた。
かういふふうに、人間の恐怖心は、万遍なくすべてに及ぶわけには行かない。もしさうなつたら、恐怖のあまり、
みんな発狂してしまふだらう。だから、大しておそろしくない一つの恐怖に集中して、ほかの恐怖をみんな忘れて
しまふ傾きがある。
ハウレンサウを怖がつてゐる人は、少くともその間だけ、原水爆の恐怖を忘れてゐられるのであらう。その点では
ハウレンサウは、やつぱり有益な食品といふべきなのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より 大学といふものが、看板どほり、真理探究の象牙の塔であるなら、よほどの変り者しか大学へ行きたがらぬ筈だが、
実際は就職と出世の必要な段階と考へられてをり、又今のところ世間の大体の仕組もさうなつてゐる。
さて、出世とは何かといふのに、私は京都の坊さんからこんな話をきいた。
江戸時代には名僧知識が多かつた。それは一般の平民にとつては、出世をする道とては坊さんになるほかなかつたので、
幾多の秀才が、仏門に入つたわけだが、明治時代になると、誰でも大臣宰相になれる世の中になつたので、
坊さんに秀才が出にくくなつたといふのである。
(中略)
明治以後、日本はうんと近代化し、うんと民主主義化したわけだが、同時に職能的社会の特色と誇りを失くして
しまつた。誰も彼も腕に何かの技能をつけるのを面倒がつて、ホワイト・カラーのサラリーマンになりたがる。
サラリーマンといふのは、技術者を除いて、腕に何の技能も持たない事務屋の集まりで、本当のことを言へば、
「誰でもつとまる商売」なのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より さうなると、学校の成績や出身校ぐらゐで人間の優劣を決めなければ、決めやうがない。もしこれが桶屋の試験なら、
桶を作らせてみて巧ければ、学歴もヘチマもないわけだが、目に見えない能力をためすには、学校以外に判断の
基準がない。そこで、いはゆる「いい大学」へ入つて「いい成績」をとるために、親も本人も狂奔するといふわけだ。
(中略)
しかし世間の親の九分九厘は親馬鹿で、親バカといふときこえがよいが、その実、子供はそつちのけで、親としての
エゴイズムと虚栄心にとらはれてゐる。有名校を何度も受けさせて、たうとう落第を重ねた子供がノイローゼになつて
自殺したなどといふのがこの手合で、こんなことなら、裏口入学に秘術を尽くし、ありたけの金とお世辞笑ひを
使つて、低脳息子を有名校へ入れる親のはうが、よつぽど立派である。よつぽどヒューマニスティックである。
ヒューマニズムとは、命をかける代りに金を使ふといふ精神だからだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より 資本主義社会では、金持のはうがトクに決つてゐる。金を持つてゐない親の子に生れれば、自分で自分の能力を
切りひらいて、社会の上層部へのし上るしかない。社会の生存競争の何十年にわたる激闘に比べれば、試験勉強なんぞ、
屁のカッパである。
子供に、こんな苛烈な生存競争を味はせるのは可哀想だ、などといふのは文明人の感傷であつて、未開人の社会の
成人儀式の苛烈さはものすごい。先頃シネラマで、高い高い櫓の天辺から藤蔓で体を巻いて飛び下りる成人式を
見た親は、これと試験地獄とどつちがましか考へてみるがいい。
社会には危険な株なら、いくらでもころがつてゐて安く買へる。安全で将来性のある株にばかり集中するから、
その株が高くなる。試験地獄もこの法則と同じで、子供のために安全で将来性のある株を買はうとするから、
子供も苦しむのである。しかし或る意味では、さういふ株を狙ふ代価として、多少の苦しみは仕方があるまい、
といふほかはない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より 世間には、変り者の親もゐて、子供のためにわざわざ危険な株を買ふ親がゐる。子供を天才画家や、天才
ヴァイオリニストや、第二の美空ひばりに仕立てようといふ親である。かういふ親に比べれば、試験地獄に子供を
かり立てる平凡尋常な親のはうが、よほど子供にとつて仕合せである。
私は永い目で見ると、試験地獄も緩和されるのではないかといふ楽観的意見を持つてゐる。(中略)
何世代かを経て、親がみんな高等教育を受けてゐるやうな世の中になれば、「子供に自分より高い教育を
受けさせたい」といふ夢もなくなるし、同時に、学士様も一向チヤホヤされなくなり、子供に同じ好い目を見せて
やらうといふ夢もなくなる。社会全体の幻滅がもつとひどくなれば、試験地獄も緩和され、再び職能制社会の
理想的な形ができてくるかもしれないのである。すでにその兆候は見えて来てをり、子供は正直なもので、
大臣宰相になることに出世の夢を抱く子供なんか一人もゐず、「えらくなる」とはプロ野球の選手になること
なのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より 大体私は現在のオウナー・ドライヴァー全盛時代に背を向けて、絶対に自分の車を持たぬといふ主義を堅持してゐる。
何のために車を持つか? 一刻も早く目的地へ到達するためだらう。ところが私の家から都心までは、ラッシュ・
アワーでも、バスと国電を使つて三十五分で確実に行くのに、車を利用すれば早くて四十五分はかかる。これでも
なほ車に乗るのは、どうかしてゐる。
こんな時間の問題を見ても、東京はますますニューヨークに近づきつつある。ニューヨークのラッシュ・アワーには、
地下鉄で十五分で行くところを、タクシーで四十五分もかかる。(中略)
もう一つばからしいのは、車の中で新聞や雑誌を読めば、動揺のおかげで忽ち目が悪くなり、気分が悪くなるが、
電車なら、推理小説だのスポーツ新聞だのに読み耽つてゐるうちに、あつといふ間に目的地へ着いてしまふ。
一切あなたまかせだからイライラすることもないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より 都会生活の真髄は能率とスピードだらう。車を持つこと、いやただタクシーに乗ることさへ、今や能率とスピードに
背馳しつつある。あとにのこる車の御利益と言つたら見栄だけだが、かう猫も杓子も車を持つやうになつたら、
一向見栄にもならない。見栄にも実用にもならぬことに、どうしてお金を使はなければならないのだらう。
(中略)
しかし時代の勢ひといふものは仕方がないもので、こんな駄文を草してゐるあひだにも刻々オウナー・ドライヴァーは
ふえつつあり、さなきだにせまい東京の悪路を身動きもできないやうにしつつある。(中略)
自動車はふえる一方、怖ろしき女性ドライヴァーもふえる一方、道路は減る一方、ときたま東京都あたりが発作的に
新道路を作つても焼石に水、といふのが実状であらう。こんなことは困つた困つたと言つてるうちに何とか
破滅的状態が来てやつと解決がつくのだが、それまで高見の見物を決めこむには、まづ自分が自動車を持たないことが
第一条件であり、それより何より、まづ人の車に轢かれないことが肝要なのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より 子供はみんな遊びの達人である。
「遊びをせんとや生れけん
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声をきけば
わが身さへこそゆるがるれ」
といふ古い今様があるが、子供の遊びの純粋さに対する大人の感動と郷愁がよく出てゐる。
大人の遊びは結局この子供の純粋な遊びをまねることであるが、子供の遊びも、チャンバラからお医者様ごつこまで、
結局すべて大人の真似事であるから、遊びといふ点では、大人と子供は別々にあそんでゐても、結局、お互ひの
マネを演じてゐるにすぎない。大人の遊び場所から子供は完全に閉め出されてゐるが、その中で大人のやつて
ゐることは、要するに子供に帰らうとする身振りである。賭け事も、ダンスも、性行為そのものも。
なぜ大人は酒を飲むのか。大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。子供なら、
何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より (中略)子供とちがつて、酔ふためには手続が要り、金がかかる。だから遊ぶためにアクセク働らかねばならず、
遊ぶために緊張過多にもなつてしまふ。これでは本末転倒といふものだ。折角レクリエーションと称して郊外へ
出かけても、混雑した電車や自動車ラッシュで、ヘトヘトになつてしまふ。
遊び人といふ人種がゐて、このごろの用語ではプレイ・ボーイといふ。私より二つ先輩の名高いプレイ・ボーイに、
この間久しぶりに銀座でパッタリ会つたが、あひかはらず上等な洋服を着て、一分の隙もない身なりで、きれいな
女の子を連れて歩いてゐた。(中略)この男は三百六十五日、ナイトクラブ通ひをしてゐる金持息子だが、よくも
飽きないものだと思つて、私はまづその体力に感心するのである。ヤキモチでいふのではないが、いくら女を
とりかへたところで、よほど想像力と空想力が貧しくなければ、三百六十五日ナイトクラブ通ひなんかできる
ものではない。ナイトクラブなんていふものは、映画の張りぼてのセットみたいなもので、ひたすら、高級めいた
セクシーな雰囲気をかもし出すために作られた造花にすぎない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より そんな造花的雰囲気がどうしてもこの男にとつて必要な点では、しかし、三百六十五日、縄のれんの呑屋に通ふ
をぢさんと大差ないかもしれないのである。
誰でも固有の、遊びの条件といふものを持つてゐる。ある人は金をばらまかねば遊んだ気にならず、ある人は
人にタカらなければ有効に遊んだ気にならない。これは貧富の問題といふよりは、気質乃至趣味の問題で、
ハリウッドの大スターでも、決して人の煙草しかのまないといふ「がめつい奴」がゐるさうだ。
大体日本人は家へ人を招く習慣が少ないが、これは日本の家の貧しさばかりでなく、日本料理が作る手数のかかる
ことと、人を招いたらムヤミと御馳走を並べなければならぬといふ旧習のなせるわざであらう。西洋人は自宅へ
人を招くのを最高の礼儀と考へてゐるが、日本では花柳界の料理屋へ招くのがもつとも手厚い接待だらう。
アメリカ人などは、大さわぎをして自宅へ招くが、ろくな御馳走を出しはしない。大ていお料理は一いろか二いろだ。
カクテルなどでは、よくまアこれでお客をするものだ、と思ふほど、ポテト・チップスと南京豆ぐらゐの肴で
すまして、ケロリとしてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より しかし自宅へ西洋人を招くとわかるが、彼らが実にたのしみ上手遊び上手だといふことである。知らない同士も
たちまち十年の知己のやうになり、少しも人みしりをしないでたのしく話し、たちまちたのしげな雰囲気を
作つてしまふ。
それを見てゐると、いかにも遊び上手のやうにみえるが、彼らが本当に内心たのしいのかどうかわかつたものではない。
たえず知つた同士で呼びつ呼ばれつして、家庭的なたのしみをくりかへし、いつも夫婦同伴で、単調な交際の外へ
出ず、ポーカアをやるにも、ダンスをやるにも、顔ぶれが決つてゐるやりきれない小市民生活は、アメリカ映画で
皆さんもよく御存知であらう。「ア・ロット・オヴ・ファン」(面白かった)とか、「エンジョイした」とか、
しきりに言ふが、どこまで口先のお世辞かわかつたものではない。アメリカ流のカクテル・パーティーの
せはしない附合は、私には、何だか浅い、中途半端な、悲しい遊びに思はれる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より 遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、散歩でも、
現在自分のやつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。この点でも日本人はテンション族で、
遊びにまで緊張過多なのは前にも述べたとほりだ。
プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の
判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、
「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より このごろデパートを一トめぐりしておどろくのは、いはゆる「グッド・デザイン」の大量進出である。手術室の
メスのやうなナイフやフォーク、紙屑籠のやうな椅子や、椅子のやうな紙屑籠、マナ板まで雲形定規みたいな形を
してゐる。ガス・ストーヴ一つでも、昔風なルネサンス様式模倣の古式ゆかしい形のガス・ストーヴなんか、
東京中探したつてありはしない。(中略)日本座敷にモダンなテレビが置いてあると、何とも醜悪な感じがするが、
さりとて仏壇形のテレビなんてどこにも売つてやしない。一体何を以てグッド・デザインといふか。日本間といふ
ものが消滅せぬ以上、日本間むきの、観音びらきの扉に紫の房なんかのついたテレビ・キャビネットこそ、
グッド・デザインといふものではないか。
こんなことを言へば、進歩的デザイナー諸氏に叱られるに決つてゐるが、私自身が、近来の「機能主義にあらざれば
人にあらず」といふ風潮に逆らつて、もつとも反機能主義的な家を建て、もつとも反機能主義的な家具を誂へた
人間だから、敢て言はせてもらふ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より 大体今のグッド・デザインといふやつは、古くさい様式だの、古くさい装飾過剰だのに反抗して生れたものである。
殊に、家具や生活器具は、様式や装飾にとらはれてゐれば、必然的に、使ひ心地のわるいものになつてゐる。
昔の人は、使ひ心地のよさや快適さよりも、様式や装飾のはうを愛してゐたから、前者を犠牲にして、お尻の
痛い椅子や、持ちにくいフォークを我慢して使つてきたわけである。
機能主義といふと、バカに働き者らしく威勢よくきこえるけれども、その実、現代人のナマケ性にマッチしてゐる
やり方かもしれないのである。三度の食事も、コソコソと、昔なら男子禁制の台所の一隅で、リビング・キッチン
とやらのおちつかない合成樹脂の棚の上で、大いそぎですませる。さういふと働き者みたいだが、私に言はせれば、
そんなやり方は、御飯のたべ方を怠けてゐるのである。むかしの人は御飯をたべるのにも、煩をいとはず、
全身全霊をこめて作り且つ喰べた。西洋人のはうが今でも昔流で、フランス人は昼飯も、晩飯も、ゆつくり
二時間ほどかけて喰べる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より グッド・デザインとは、生活に対する一生けんめいな、こまごました、わづらはしい意慾と関心が薄れて来た時代の
産物である。さういふ関心をみんな機械が代用してくれる時代の産物である。
ところで、西洋ではグッド・デザインも意味があるので、ルイ式の家具調度や、曾祖母ゆづりの食器一式に
飽きた人たちが、かういふ簡素なデザインに魅力を感じる意味もわかる。古くさい家具や食器に対する、離れがたい
なつかしさと同時に、不便な憎たらしさがつのつてくると、新デザインの家具や食器がほしくなるのもわかる。
はるかに快適で、便利で、使ひよい。明るく清潔で、手入れも面倒でない。
しかし日本では、そこらへんが微妙である。日本の家ほど機能主義的な家はないので、一間が寝室にも客間にも
居間にも茶の間にもなる。ナイフやフォークやスプーンの代りに、箸が二本あれば足りる。襖は、壁とドアを
兼用してゐる。作りつけのベッドの代りに、ふとんがあり、くたびれたらタタミの上へぢかに寝ころぶことも
できる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より ……機能主義やグッド・デザインの狙ひはとつくに卒業してゐるので、日本における西洋風とは、最新のモダン・
リビング、最新のグッド・デザインでも、旧来の日本風よりいくらか反機能的な生活形態をいとなむことに他ならない。
(中略)
日本人は、様式の統一といふことをやかましく云はない。スキヤ建築の座敷にテレビを置くなら、どうしても、
紫檀か何かの箱でなくちや納まらない箸だし、芸者屋の茶の間にテレビを置くなら、ツゲの箱かなんかでなくては
をかしいのに、平気で新式デザインのテレビを置いてゐる。日本座敷の縁側に、パイプを折り曲げた椅子なんかを
置いてゐる。かういふ様式無視は、明治以来の日本人の美意識欠如と進取の気象をよくあらはしてゐる。(中略)
(グッド・デザインは)あくまで商業的成功であつて、「革命」ではないのである。グッド・デザインの販路拡大を、
「革命」だと思つてるデザイナーがゐたら、よほど考へが甘いのである。何もないところを占領するのは
革命ではありません。
その上、その商業主義的成功は誤解を生む。西洋式生活は簡便で安いといふ誤解である。こんな誤解は戦前には
なかつた。あきらかにアメリカ占領後の現象である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』より 西洋人の生活は、見かけ以上にしきたりに縛られてゐる。その点では日本以上である。その上、生活における
様式の統一といふことを重んじる。手術室のメスみたいなナイフを使はうと思へば、まづ家全体を手術室風に
デザインしなければならん。コタツに足をつつこんで、メス式ナイフで、トンカツをちよん切るなんて器用な
ことは、西洋人にはできない。(中略)
早い話が、日本でも、デパートで一人前数百円でメス式ナイフとフォークを買ひ込んで来て、さて、それに
合はせてグッド・デザインのディナー・セット、グッド・デザインの椅子、家具一式、ベッド、それに
ふさはしい家、(中略)……と様式の統一を心がけたら、大へんな金がかかるのである。だから大部分は、
様式の統一をあきらめて、断片だけで我慢する。
貧乏して裏長屋に住んでゐる詩人が、タバコだけは英国タバコを吸ふ。これが日本式ゼイタクであり、西洋への
あこがれといふダンディズムである。裏長屋ならシンセイを吸ふはうが、様式的統一に忠実であり、かつ美的で
あるといふことが、どうしてもわからないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より そんな雑文より主要作品を頼むわ
あと9年の間に『仮面の告白』から
『豊饒の海』までめぼしい作品を
全部テキスト化しておいて
没後50年と同時に青空文庫に上げてくれ >>389
時間があれば俺がやりたいぐらいだなそれ >>1
三島は翻訳文の欧文脈の影響を受けて書いてるから、外国語を習得していない人には読みづらく感じられて当然だよ。
私どもの少年時代にも、「少年倶楽部」なら読んでいいが「譚海」は読んではいけない、といふのが、親の与へる
ひとつの基準になつてゐた。それだから「譚海」を親にかくれて読むのはたのしかつたが、それにはいつもながら、
「寄らば斬るぞッ」
とか、
「エーイッ! ギャアーッ!」
とか、
「やられたッ! ウ、ウーム」
とか、動物園の叫喚に似た擬音詞がいつぱい詰つてゐた。子供たちは擬音詞を好む。そして残忍殺伐は、遺憾ながら、
子供たちの重要な趣味の一部である。
ところで、このごろでは赤本漫画は姿を隠すどころか、大人の読者をも吸引してゐるらしい。(中略)
日本にも、この種の「大人」の激増しつつあるのが昨今で、赤本漫画、アクション漫画も、そのはうの需要を
充たしてゐるらしい。まさか学校を出て背広を着るやうになつて、路上でチャンバラもできないから、テレビや
映画のアクション物の見物から、ピストルの蒐集、射撃の練習にうつつを抜かしてゐる大人は増える一方である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より ここに男の大人の哀れな見果てぬ夢がある。女は、子供のころ夢みた、お嫁さんごつこや台所ごつこやお人形ごつこを、
大人になれば正々堂々と実現できるので、結婚して台所仕事をして赤ん坊を生めば、同時に子供時代の夢も
充たされる仕組になつてゐる。男はさうは行かない。そこで銀行につとめながら、銀行ギャングの映画に
熱中したりする妙なことになる。哲学を講じながら、こつそりチャンバラもの映画を見に行くやうなことになる。
男にとつては、幼児期の夢は、やがてその実現不可能を思ひ知らされ、夢としてのままに生き長らへる他はないことを
知らされるのである。これがすべての男の残酷な運命だ。
先頃私もアクション物映画に出演して、ピストルをふりまはしたが、このピストルといふものの持心地のよさと
云つたら、筆舌に尽しがたいもので、これでは自分の子供が成長してピストルいぢりをはじめても、とても
鹿爪らしい教訓などはできまいと思はれた。今もあのひやりと掌に重たいピストルの触感、弾倉をしらべるときの
手応へは、私の夢路に通ふのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より (中略)
それはそれとして、低俗、幼稚、残忍、粗悪、などと世間の最低の悪口を浴びてゐるこれらの赤本漫画は、
ひとたび子供に対する悪影響といふ問題を除けて考へれば、却つていろんな面白い問題を提起してゐる。
かういふものを一生けんめい読んでゐる大人の顔は(もちろん私の顔も含めて)、全然白痴的かといふと、
さういふものでもなく、カントの哲学書に読み耽つてゐる顔と、そんなに大差ないのではあるまいかと思はれる。
(中略)
ただ世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」
「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、
知つておいて損はなからう。男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものは
ありえない。「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より さて今回はカメラの悪口を言はせてもらふ。私はカメラを持つてゐないからである。国内の旅行はもとより、
二度の海外旅行にも、カメラを持つて行つたことがないといふのが、私のヘソまがりの自慢である。(中略)
私がカメラを持たないのは、職業上の必要からである。カメラを持つて歩くと、自分の目をなくしてしまふ。
自分の目をどこかへ落つことしてしまふのである。つまり自分の肉眼の使ひ道を忘れてしまふ。カメラには、
ある事実を記録してあとに残すといふ機能があるが、次第に本末転倒して、あとに残すために、現在の瞬間を
犠牲にしてしまふのである。
ゲーテの生きてゐたころは、カメラなんかなかつたから、彼は、
「お前は実に美しい! しばし止まれ!」
などと言つてゐた。こんなことは今ならお茶の子サイサイで、天然色フィルムを仕込んだカメラを向ければ、
その美しいものは、「しばし止まれ」どころか、永遠にとどまつてゐる筈である。
とどまつてゐる筈である。しかしさうではないかもしれない。
美しいものは、カメラを向けた瞬間に逃げ去つてゐるかもしれない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より まあ一例が、湖水のかたはらを歩いてゐて、白鳥が今正に飛び立つところを見たとしよう。これは実に美しい
瞬間である。思ふがはやいかカメラを向け、手練の早わざ、見事に白鳥の飛び立つ瞬間をとらへるかもしれない。
いよいよ現像して、友だちにも自慢する。アルバムに貼り込む。何度もくりかへして眺めては、
「ああ、よかつた。あのとき撮つておいて」
とたびたび自己満足の嘆賞を洩らす。
ところで、アルバム上の一枚の天然色写真には何が映つてゐるか。湖面から飛び立たうとしてゐる一羽の白鳥である。
なるほど写真としては美しい。しかし、それが本当に、その瞬間美しいと思つた印象と同じものかどうかと
いふと疑問である。
それから先は、われわれ文士といふものの考へ方だが、そこに写つてゐるのは一羽の白鳥にすぎない。しかし
美しさの印象といふものは、一羽の白鳥よりも大きなものである。写真は一羽の白鳥しか写さないが、われわれの
目は瞬間にもつと大きなものを写す。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より たとへば、撮影者が、その瞬間に、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の一小節を思ひうかべてゐたとする。写真には
そんなものは写らない。しかしわれわれの肉眼には、目に見えてゐる対象、一羽の白鳥以外に、音楽も写つてゐれば、
歴史も写つてをり、さういふものが渾然として美的印象を形づくつてゐるのである。
アルバムに貼られた一羽の白鳥の写真は、彼自身は美しいと思つて何度も眺めるかもしれないが、それは彼自身が
そのときの美的印象を思ひ出しながら見るからである。何度も見るうちに、その印象もだんだん忘れられて、
一羽の白鳥そのものしか目に映らなくなる。まして、ただ写真を見せられる人が、誰も彼も、それを美しいと
思ふかどうか疑問である。
われわれ文士は、実物の証拠よりも、そのときの印象のはうを大切にする。なぜなら、写真は万人にそのときの
私の印象同様のものを与へるわけには行かないから、文士としての私のやるべきことは、そのとき現在の私の
美的印象を心ゆくまで味はひ、その上で、それを強め、深め、分析し、言葉を通じて、何とか私の印象を万人に
伝へなければならないからである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より このとき、あわててカメラを向けて写真をとつたりすれば、美的印象はスルリと私の手から脱け出してしまふ。
飛び立つ白鳥はフィルムに残されても、それはもう私にとつては、ただの剥製の白鳥にすぎない。
――以上は、私の、小説家としての、写真不信の原則論である。
しかし写真にもいろいろな利点はあつて、その利点と限界をよくわきまへてゐれば、カメラきちがひも悪くないと思ふ。
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力がある。
みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど血湧き
肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい椅子が
誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より しかし写真といふものは、そんなものではないことは、さつきの白鳥の写真の話でもわかるとほりである。
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より 三島の文章読んでると「おいしんぼ」系料理漫画を思い出す
大仰な表現が似てる 公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」
「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」
などとお世辞を言ひ合ふが、どちらも肚の中では、
『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの赤ん坊の可愛らしいこと!
どこへ行つたつて、こんなにキリャウのいい子はゐやしない。誰でも《まア可愛らしい》つて言ふから、誰が
見たつて、きつとさうなんだわ。(中略)』と、自分の言つたお世辞はみんな忘れて、さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。なぜかといふと、赤ん坊の可愛さなどといふものは、あまりにも主観的で、あまりにも
エゴイスティックで、あまりにも普遍性のない感情だから、さすがの言葉も追ひつけず、写真ぐらゐが丁度
いいところだからである。しかしかへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に
見せるものではない、といふことである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より 冗長だ。しかも陳腐。
つまらなさをとことん突き詰めるような真剣味がもっとあれば趣もあっただろうに。 空にはときどき説明のつかぬふしぎな現象があらはれることはまちがひがない。それが大てい短かい間のことで、
目撃者も少なく、その目撃者の多くには科学的知識も天文学的知識も期待できないから、堂々たる科学的反駁を
加へられると、自分の見たものに自信がなくなつて、はつきりこの目で見たものも妄想のやうな気がして来るで
あらう。かうして葬り去られた目撃例は少なくないにちがひない。
或る日のこと、北村小松氏から電話があつて、五月二十三日の朝五時ごろ、東京西北方に円盤が現はれるかも
しれない、といふ情報が入つた。
(中略)
いくら待つても、空には何の異変もあらはれなかつた。飛行機一つ通らず、ときどき屋上をかすめて飛ぶ朝の
小鳥たちの、白いお腹を見るだけであつた。空がこんなに静かで何もないものだとは知らなかつた。
(中略)
五時二十五分になつた。
もう下りようとしたとき、北のはうの大樹のかげから一抹の黒い雲があらはれた。するとその雲がみるみる西方へ
棚引いた。
「おやおや異変が現はれたわ。円盤が出るかもしれなくつてよ」
妻が腰を落ちつけてしまつたので、私もその棚引く黒雲を凝視した。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より 雲はどんどん西方へむかつて、非常な速さで延びてゆく。西方の池上本門寺の五重塔のあたりまでのびたとき、
西北方の一点を指さして、妻が、
「アラ、変なものが」
と言つた。見ると、西北の黒雲の帯の上に、一点白いものが現はれてゐた。それは薬のカプセルによく似た形で、
左方が少し持ち上つてゐた。そして現はれるが早いか、同じ姿勢のまま西へ向つて動きだした。黒雲の背景の
上だからよく見える。私は、円盤にも葉巻型といふのがあるのを知つてゐたから、それだな、と思つた。
三、四秒、肉眼で追つたのち、私はあわてて双眼鏡を目にあてたが、妻も写真機のファインダーをのぞいてゐる。
私が双眼鏡から目を離したとき、すでにその姿はなかつた。妻はファインダーの中にキャッチしてゐたが、
シャッターを切る自信がないままに、出現してから五、六秒で、西方の雲の中へ隠れたのである。
――これを見て、われわれが鬼の首でも取つた気になつたのは言ふまでもない。
しかし周囲は意外に冷静で、父の如きは、夫婦が共謀してデッチ上げをやつてゐるんだ、と頭から信じない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より 肝腎な目撃者の妻も、
「あれ、きつと円盤よ。信じるわ、私も。でも一度見たから、又見なくてもいい」
とケロリとしてゐる。
日を経るにつれて、私の自信も何だか怪しくなつてきた。それが果して円盤だつたかどうか、科学的に証明する
方法はないし、北村小松氏も風邪で寝てをられて、目撃されなかつた。
日ましに私は、自分で見たものが信じられなくなつてゐながら、人が「そりや目の錯覚だらう」などと言ふと、
腹が立つのである。とにかくわれわれ夫婦が、ヘンなものを見たのはたしかである。それを誰にも信じさせることが
できないのは、妙に孤独な心境に私を追ひ込んだ。(中略)しかしもしあれが円盤だとしたら、乗つてゐた宇宙人は、
今ごろ私のあやふやな心境を、嘲り笑つてゐることであらう。「ここに俺がゐるのに、あいつは地球人の
つまらん常識にとらはれてゐる」といふ彼らの笑ひ声が耳にきこえてくるやうな気がする。
哲学的見地から云ふと、かうしてここにわれわれ人間が生存してゐるといふ事実も、宇宙人の存在以上に確実な
ものといへるかどうか、甚だあやしいのである。夏の星空がそのことを教へてくれてゐるやうだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より >>11
おまえの洞察力はその程度かよw
回りくどいのは認めるよー
だからって読みづらいやつは日本人じゃないとか。アホすぎだろw 去る六月二十二日のこと、読売新聞の「夫の注文」といふ欄に、「いい年をしてミーハー趣味」といふ題の
投書が載つた。その投書は、「テレビといへば鶴田浩二にうつつをぬかし、タンスの上の写真立てには仲代達矢が
ニンマリ笑つてゐる。茶の間のガラス戸には大川橋蔵があつちを向いたりこつちを向いたり。そんなミーハー趣味より、
少しは知性を高める本でも買つたらどうか。子供が大きくなるといふのに、おばあさんになつても石原の
ユウちやんはいいねなどといふことになるのではイウウツだ」といふ趣旨のものだつたが、その反響は俄然
ものすごく、百通近くの投書が来た。(中略)
こんなつまらないことに賛成したりムキになつて反対したりする投書族の心理はさておき、この種のミーハー
奥さんは、百通の投書を氷山の一角として、日本全国に無数にちらばつてゐると考へてよからう。ブロマイド
ぐらゐで満足してゐるあひだはいいが、若い映画俳優や歌手の後援会には、三十代以上の奥さんも、相当なる
パーセンテージで参加してゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より さて、ブロマイドを飾るのが低俗かどうかなどと論ずるより先に、ブロマイドといふものが何を意味するかを
考へたはうが早い。
鑑賞用美男などといふと体裁がいいが、ブロマイドは明らかに人気にもとづいてをり、その人気とは、悲しいかな、
芸よりもむしろ、その俳優の性的魅力にもとづいてゐる。だから、身もフタもないところ、女性にとつての、
男優の顔のブロマイドは、男性にとつての女のヌード写真とさしてちがはない意味を持つてゐると云つていい。
ただ女性にとつては、男の顔だけで十分なので、女性ヌードに対抗して、ハリウッドで、男優の水着姿の
ブロマイドを一杯売り出したところ、案に相違して、ちつとも売れなかつたさうである。
もし芸や人格や名声にあこがれてのことなら、乃木大将や坂東三津五郎や、毛沢東の写真を飾ればいいわけで、
ブロマイドの男優たちは、若くて美男であるといふことを、全然内容ヌキで買はれてゐるわけだが、顔といふものは
おのづから人間の気質を暗示するから、何とでも言ひのがれができる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より この「言ひのがれ」といふことが、女性にとつてのブロマイドの魅力の一つである。
「仲代達矢つて、孤独で、ニヒルで、どこか悪の漂ふ魅力だわ」
などとブロマイドを見ながら言つてるが、それは映画の作つたイメージにすぎず、仲代君が本当に孤独でニヒルで
悪党であるかどうか、本人にきいてみなければわからない。いや、本人にもよくわからないだらう。性格はよく
顔と反対の場合があるのである。しかしかう言つてる分には、
「仲代達矢の顔見てると、シビれて来るわ」
などと旦那様に告白するよりは無難である。旦那様も、どうにもシビれさせやうのない自分の顔は棚上げにして、
何とか奥さんの要望にこたへて、「孤独で、ニヒルで、悪の漂ふやうな魅力」を身につけようと努力するかもしれない。
その結果、旦那様が、本当に手形偽造や公金費消にでも手を出したら、それは奥さんの責任といふものだが……。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より しかしミーハー奥さんがブロマイドを飾り立ててゐたら、まづ旦那様は、自分の若さと性的魅力をすでに失つたか、
あるひははじめから持つてゐなかつたか、に気づかなければならない。そのくらゐの敏感さもなくて、
「少し知性を高める本でも買つたらどうか」
などと言つてるのでは、現代の亭主として落第である。
若い美男俳優のブロマイドは、奥さんよりも旦那に向つて、不断に、
「お気の毒ですなア。別に僕はお宅の御夫婦仲の邪魔をしてるわけでもなし、薄つぺらの無害の紙きれですが、
旦那よ、あなたの確実に持つてゐないものを、僕は全部持つてゐるんですからなア」
と話しかけてゐるやうなものである。亭主たるもの、豈(あに)奮起せざるべけんや。
しかし、深夜ひそかに亭主も耳をすまして、ブロマイドが何を独り言を言つてるか、ちよつときいてみる必要がある。
奥さんの鏡台の上で、あるひは茶ダンスの上で、かれらはかう言つてゐるのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より 「僕も商売だから、かうしてお宅のガタガタの鏡台や、安物の茶ダンスの上で、歯を見せて御愛想笑ひをしてゐるが、
あなたにして上げられるのは、これだけですよ、奥さん。もしあなたがヘンな気を起して、僕の家を突然訪ねてでも
来られたら、うちの玄関番が、うやうやしくお引取りねがふほかはないでせう。何しろ僕は、ひどく忙しくて、
ひどく疲れてゐるんですからね。今は僕も独身ですが、いづれ結婚するときは、十代か二十代はじめの、ピチピチした
若いきれいな娘をもらひますよ。奥さんと僕ぢやね、年もちがひすぎるし、生活感情も何もかもちがひすぎますもの。
くれぐれも己惚れてヘンな気を起さないで下さいね。僕たちの付合はこれだけにしておきませうね」
――もちろん知的な女も、美男俳優のブロマイドを見て、心を動かされることはあるだらう。しかし彼女が一切
その意志を表明せず、ブロマイドなんかを身辺に近づけないのは、右のやうな深夜のブロマイドの独り言を、
ちやんときいてゐるからぢやないかと思はれる。知的な高尚な女は、耳がとてもよく利くのだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より さて本題に戻つて、いはゆるミーハー奥さんは可愛らしい。彼女の耳にはそんな独り言は永遠にきこえないのである。
しかもきこえないから、暴走するかといふと、さにあらず、適当なところで止まつて、よそへ行けば亭主の
惚気を言ひ、年をとれば、それこそ孫を相手に「裕ちやんはいいね」などと言つてゐる。
ミーハー奥さんのブロマイド道楽は、女性が無意識に出してゐる小さな可愛らしい尻尾であつて、かういふ尻尾を
出してゐる女性は、無意識の美徳を持つてゐるから、永遠に可愛らしい。おばあさんになつても可愛らしい。
男性はこの尻尾に感謝すべきである。こんな尻尾のどこにも見えない知的で高尚な女こそ本当の魔物である。
しかし、男性もへんないたづらつ気を出して、奥さんのこんな無意識の尻尾を気にして、その尻尾をギュッと
引張つたりしないはうがいい。引張られた尻尾は忽ち九尾に裂け、おそるべき魔性をあらはし、目は怒り、口は裂けて、
女性の怖るべき本質をむき出しにするであらう。賢明な男とは、女をして、女の本質に目をひらかせないやうに、
いつもうまく誘導してゆくことのできる男である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より 私はこの世に生を承けてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、
赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る
おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に陶然と
することができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。
冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(中略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、
「あの人、ケチね」
などといふ。
「アラ、心臓ね」
「図々しいわね」
と言はれたこともある。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に
見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが
できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱に十円玉を投じてゐるものと思はれる。一体、
弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか? それなら、人に弱気や羞恥心を起させることを、
この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する人たちが
その大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良なやさしい魂を
脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。もつと弱気でない、
もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ脅迫するなら、そつちから
いただく方法を講じたらどうだらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』より 大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の
鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら
金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを
した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へコッソリ
お金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けようといふ気で
金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでもあるのに、
社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。藤原工大を建てた藤原銀次郎氏などは例外中の例外である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い羽根
なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと
獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふものである。
ところで、昔から、民衆といふものは、ちつとも悪いことをしないのに、神仏の罰ばつかり心配し、えらい人たちは、
悪いことをさんざんしてゐても、罰なんか心配しない。その上、民衆には濃厚なセンチメンタリズムや古くさい
相互扶助精神があつて、自分に金もないくせに人に恵みたがる。さういふところにつけこんで来る「愛の運動」式の
ものは、警戒しなければならぬ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より 社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を
ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、大金持だけに
慈善行為の権利があるとは何だ、われわれにも平等の権利を与へろ、といふ主張もある。助けられる立場にゐながら、
人を助けたい人もある。
赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。
さて、赤い羽根の審美的存在価値はあまり香しくない。あれは何に似合ふか。背広に似合はず、スーツに似合はず、
似合ふのは、還暦の赤いチャンチャンコぐらゐであらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より 一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、
かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと
クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうなハイカラな
風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、日本人が外国人なみ
(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな国民なら、とつくの昔に
一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する抵抗精神はなかなかのもので、
占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、今以てキリスト教徒は人口の
二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義のありつたけをつくした酒池肉林の
無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より 私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと
思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて
しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領される
おそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。
こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の舌足らずの
祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうになつたのは
もつともである。
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、どれほど
クリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、「ソーラン節」や
「おてもやん」程度には普及してきたのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より (中略)
一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、
デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの
つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて
よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ
行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。
クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。
(中略)
子供のころはクリスマスごろにいつも初雪を見たが、年々暖かくなるこのごろのクリスマスは、綿細工の雪ばかりで、
本物の雪に会ふチャンスはほとんどなくなつた。クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、
ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元して
しまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、
有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。
これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。
ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の祭の
ミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふハイカラな
お祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。日本にゐて外国の祭に
ウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と喜ぶのが何だか気恥かしい
のである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より (中略)
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、
クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。
そこのところが、どうしても私にはわからない。
多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードをかついで
ゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。
クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の祭には、
たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと苦しい
ものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、形のある重い
オミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる「苦シマス」が、
日本的クリスマスの本質なのかもしれない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より 私は本当のところ、恋愛結婚も見合ひ結婚も、本質的に大してちがひのないのが現代だと思つてゐる。
それをムリに区別して考へるのは、恋愛がタブーであつた徳川時代の常識に、いまだにとらはれてゐるのである。
つまりこの二つは、「禁止を破つた結婚」と「公認された結婚」といふやうな、相対立する概念ではなくなつて
ゐるのである。
禁止されてゐればこそ、恋愛(不義)の火も燃えさかるので、適当に理性的に恋愛してゐる若い世代は、結婚に
ついても全然理性的で、形だけは恋愛結婚、実質は、見合ひ結婚よりは、はるかに理性結婚に近い、といふやうな
例も多いにちがひない。
恋愛といつても、大都会でこそ、偶然の出会ひによる珍妙な一組も成立するが、その大都会でも、多くの恋愛は、
職場などの小さな地域社会から生まれる。浮気のチャンスはころがつてゐても、恋愛のチャンスはどこにでも
ころがつてゐるわけではない。無限の選択の可能性があるわけではない。みんな要するに、何かの形の生簀の中を
泳いでゐて、同じ生簀の魚と恋してゐるにすぎないのである。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より 外国の社交界ともまたちがつた、日本独特の見合ひ結婚の利点は、なまじつかな恋愛結婚より、選択の範囲が
かへつてひろいといふことである。だれかの口ききで、いろんな職業、いろんな地域の相手とも、見合ひにまで
進むことができる。
北海道の果ての娘と、九州の果ての青年とが偶然に出会ふ確率は少ないが、見合ひなら、さういふ結びつきも
十分にありうる。
アメリカのオールドミスが、日本の見合ひ結婚の話を聞いてうらやましがるのももつともで、アメリカの
(上流を除く)一般社会では、結婚自体が苛酷な生存競争であることは、「マーティ」といふあはれな醜男を
描いた映画で、皆さんもご承知であらう。
結婚生活を何年かやれば、だれにもわかることだが、夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、
結婚生活のかなり大事な要素である。性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史の
ちがひにすぎぬことが多い。
見合ひ結婚といふせつかくの日本特産物を、失はないやうにすることが、結局これからの若い人たちのしあはせで
あらうと思ふ。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より 女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。声に翳りがほしい。
いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、風が吹くたびに木かげと日向が
一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない木影のやうな声が私は好きだ。
寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の広告放送の声。
燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしくきこえるが、そこらで
自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、時折かういふ声を発見して、美しいなと思ふ
ことがある。
(中略)
時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。電話のむかうの声の
たゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別!
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、それをごまかす小さな咳の
可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと思ひ描かせることがある。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと声と言葉の関係に移る。
私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に見るやうな気持がして
きらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女のおしやべりには絶対にかなはない。女のおしやべりが
はじまると私はいかにも男らしく沈黙を守らねばならぬ。世の男女の役割は、習慣によつて躾けられ、かうなると
いやでも、男は男らしく、女は女らしくならねばならぬ宿命があるかに思へる。女のタイプライターのやうな
お喋りがはじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。
尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつてしかもおしやべりで
ない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性はいかにも優雅にみえるが、ともすると
細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より 女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない明るさ賑やかさ
快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方をするやうな女がいい。批判、皮肉、
諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、
男に委せておけばいい。何かなるたけ意味がなくて洒落れたことを言つてゐればいい。若い女性の存在価値は、
何も意味がなくてありさうにみえるところにあるのであつて、これは若い男性の存在価値が頗る意味があつて
しかもなささうにみえるところにあることと対蹠的である。
(中略)
私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を踏むやうに、「ことよ」と
早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院に
ゐた時からで、聖心では何でもかんでも、行住座臥すべて「ことよ」である。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より 「そんなこと知らないことよ」
「そこまで行つてさしあげることよ」
「いいことよ」
「さうだことよ」
あまり「さうだことよ」がつづいてうるさい時は、軽くかう言つて逆襲する。
「さうだことか?」(中略)
女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、カアテンごしにきこえる
姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界のふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ
滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることが
つまらない。襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。
「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」
「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな感覚的な没論理的な
主張は……」
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より 尾崎紅葉の「金色夜叉」の箕輪家の歌留多会の場面は大へん有名で、お正月といふと、近代文学の中では、まづ
この場面が思ひだされるほどです。
(中略)
三十人あまりの若い男女が、二手にわかれて、歌留多遊びに熱中してゐるありさまは、場内の温気に顔が赤くなつて
ゐるばかりでなく、白粉がうすく剥げたり、髪がほつれたり、男もシャツの腋の裂けたのも知らないでチョッキ姿に
なつてゐるのやら、羽織を脱いで帯の解けた尻をつき出してゐるのやら、さまざまですが、
「喜びて罵り喚く声」
「笑頽(わらひくづ)るゝ声」
「捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き」
「一斉に揚ぐる響動(どよみ)」
など、大へんなスパルタ的遊戯で、ダイヤモンドの指輪をはめた金満家のキザ男富山は、手の甲は引つかかれて
血を出す、頭は二つばかり打たれる。はふはふのていで、この「文明ならざる遊戯」から、居間のはうへ逃げ出します。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より ――むかしの日本には、今のやうなアメリカ的な男女の交際がなかつた代りに、この歌留多会のやうな、まるで
ツイスト大会もそこのけの、若い男女が十分に精力を発散して取つ組み合ひをする機会がないわけではありませんでした。
紅葉がいみじくも「非文明的」と言つてゐるやうに、かういふ伝統は、武家の固苦しい儒教的伝統や、明治に
なつて入つてきた田舎くさい清教徒のキリスト教的影響などと別なところから、すなはち、「源氏物語」以来の
みやびの伝統、男女の恋愛感情を大つぴらに肯定する日本古来の伝統に直につながるものでありました。百人一首の
歌の詩句は、古語ですから柔らげられてゐるやうだが、どれもこれも、良家の子女にはふさはしくない、露骨な
恋愛感情を歌つたものばかりでした。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より お正月といふと、日ごろスラックスでとびまはつてゐるはねつかへり娘まで、急に和服を着て、おしとやかに
なるのは面白い風俗ですが、今のお嬢さんは和服を着馴れないので、たまに着ると、鎧兜を身に着けたごとく
コチンコチンになつてしまふ。必要以上におしとやかにも、猫ッかぶりにも見えてしまふわけです。
私はさういふ気の毒な姿を見ると、ちかごろの日本人は、「日本的」といふ言葉をどうやら外国人風に考へて、
何でも、日ごろやつてゐるアメリカ的風俗と反対なもの、花やかに装ひながらお人形のやうにしとやかなもの、
ととつてゐるのではないかといふ気がします。
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、ロックンロール的要素も
あるのです。たださういふ要素が今では忘れられて、いたづらに、静的で類型的なものが、「日本的」と称されて
ゐるにすぎません。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より 実際、地球上どこでも、人間が大ぜい集まつて住んでゐるところで、やつてみたいことや、言つてみたいことに、
そんなにちがひがあるわけはなく、たまたま日本が鎖国のおかげで孤立的な文化を育て、右のやうな要素までも
すべて日本的な形に特殊化して、表現してきたのは事実ですが、今日のやうに、世界のどこへでもジェット機で
二十四時間以内に行けるほどになると、「日本的なもの」の中の、ツイスト的要素はアメリカ製で間に合はせ、
シャンソン的要素はフランス製で間に合はせ、……といふ具合に、分業ができてきて、どうにも外国製品では
間に合はない純日本的要素だけを日本製の「日本趣味」で固める、といふ風になつてくる。
それでは、一例がお正月の振袖みたいな、わづかに残されたものだけが、純にして純なる本当の「日本的なもの」で
あるか、といふと、それはちがふ。そんなに純粋化されたものは、すでに衰弱してゐるわけで、本来の
「日本的なもの」とは、もつと雑然とした、もつと逞ましいものの筈なのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より (中略)
今年はいよいよオリンピックの年ですが、今から私がおそれてゐるのは、外人に向つての「日本趣味」の押売りが、
どこまでひどくなるか、といふことです。振袖姿の美しいお嬢さんが、シャナリシャナリ、花束を抱へて飛行機へ
迎へに出ること自体は、私はあへて非難しませんが、一例が次のやうな例はどうでせうか?
日本の服飾美学の伝統はすばらしいもので、江戸の小袖の大胆なデザイン、配色など、今のわれわれから見ても、
超モダンに感じられます。日本人の色彩感覚はすばらしく、それ自体で、みごとな色の配合のセンスを完成して
ゐます。この感覚の高さは、決してフランス人にも劣るものではありません。しかし一方、先年、フランスから
コメディー・フランセエズの一行が来たとき、舞台衣裳の配色の趣味のよさ、調和のよさ、(中略)カーテン・
コールで、登場人物一同が手をつないで舞台にあらはれたときは、その美しさに息を呑むくらゐでした。しかし、
突然、日本のお嬢さん方の花束贈呈がはじまり、色彩の城はとたんに、見るもむざんなほど崩壊しました。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より 色とりどりの振袖姿、色とりどりの花、わけても花束につけた俗悪な赤いリボンの色、……これで、今まで
保たれてゐた寒色系統の色の調和は、一瞬のうちにめちやくちやにされ、劇の感興まで消え失せてしまひました。
かういふのを「日本的」歓迎と思ひ込んでゐる無神経さ、私はこれをオリンピックに当つてもおそれます。本当に
「日本的な」心とは、フランスの衣裳美にすなほに感嘆し、この感嘆を純粋に保つために、かりにも舞台上へ
ほかの色彩などを一片でも持ち込まない心づかひを示すことなのです。そこにこそ「日本的な」すぐれた色彩感覚が
証明されるのです。右のやうな仕打は、決して「日本的」なのではありません。
「日本的なもの」についていろいろと心を向ける機会の多いお正月に、今年こそ、ぜひ、本当の「日本的なもの」を
発見していただきたいと思ひます。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より 三島は文章が上手になる以前に作家デビューをして、
訓練をつまずに作家になった。
だから、文章が下手だったりする。
しかも、一番脂が乗る時期になる前に自殺した。
744 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:34:17.32
>>737
下半身パイナップル腐れまんこ臭気プンプンババア、部屋中むせ返るほどパイナップルの臭いさせまくりやがって、きたねえだよ、さっさと出てけ。
パイナップル色に黄ばんだパンティ何日着てれば気が済むと思ってるんだ。
このパイナップルオリモノ糞ババア、パイナップル腐れまんこババァ!
754 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:39:27.49
>>737
パイナップル腐れまんこは哲学板でも汚いおばさんだと、文学板にまでベタベタきたねえパイナップルマン汁、を滴らせてやがるからな。
ジャネットの様なパイナップル汁が好きなやつは、深いに思わんのだろうが、その腐れ汁ベタベタが心底いやでいやでたまらんのだよ。
パイナップル膿まんこオリモノドロドロクソババア! オリモノパイナップルウジムシクソババア! 1000:吾輩は名無しである:sage:2012/01/17(火) 23:57:20.96
>>991
744 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:34:17.32
>>737
下半身パイナップル腐れまんこ臭気プンプンババア、部屋中むせ返るほどパイナップルの臭いさせまくりやがって、きたねえだよ、さっさと出てけ。
パイナップル色に黄ばんだパンティ何日着てれば気が済むと思ってるんだ。
このパイナップルオリモノ糞ババア、パイナップル腐れまんこババァ!
754 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:39:27.49
>>737
パイナップル腐れまんこは哲学板でも汚いおばさんだと、文学板にまでベタベタきたねえパイナップルマン汁、を滴らせてやがるからな。
ジャネットの様なパイナップル汁が好きなやつは、深いに思わんのだろうが、その腐れ汁ベタベタが心底いやでいやでたまらんのだよ。
パイナップル膿まんこオリモノドロドロクソババア! オリモノパイナップルウジムシクソババア!
1001:1001 ::Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。 格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の
形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて失つてしまつたものではないかと思はせるとき、
その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在のありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
三島由紀夫「踊り」より なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。
これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののためなのである。自由意思が、
われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。のみならず、何らかの制約のないところでは、
無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識で
みたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
三島由紀夫「踊り」より 踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、無意識の
力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、純粋な生命の
よろこびを妨げてゐる。
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の肉体に
音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すものだといへる
だらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる別様の法則と
秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
三島由紀夫「踊り」より といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。
(中略)ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、新春の
よろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。新しい年の抱負などと考へだした途端に、
われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影でみたしてしまふ。未来のことなどは考へずに
踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りは
たちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久によろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。
三島由紀夫「踊り」より ノーベル賞の候補にはならなかったが、太宰の文章は三島よりも上だ。
翻訳不可能なほどのレトリックの嵐。
三島が過大評価だとは言わないが、太宰はもっと評価されていい。 文章のうまさじゃ芥川がダントツだろ
三島は次点でもいいけど、太宰だけはねぇよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています