三島由紀夫の文って読みづらくないか?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
皆さん、芸術家なら自分の作品をエラボレートするのは当り前だろう、といわれるかもしれません。しかし、この国ではそうじゃないんです。エラ
ボレートする作家は──文学でいうならば──じつにまれで、たとえば安部公房のように特別な人なんです。かれの小説の初出と、全集におさめて
あるものを比較すればあきらかですが、安部さんはいったん発表したものも、なおみがきあげずにはいられない作家でした。
三島由紀夫の文体は見事だ、というのが定説ですが、あれはエラボレートという泥くさい人間的な努力の過程をつうじて、なしとげられた「美しい
文章」ではないのです。三島さんは、いわばマニエリスム的な操作で作ったものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がって自分に対立して
くるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。三島さんのレト
リック、美文は、いわば死体に化粧をする、アメリカの葬儀屋のやっているような作業の成果なんです。若い作家でそれを真似ている人たちがいま
すから、ここでそう批判しておきたいと思います。(大江健三郎) 的外れw
用語も比喩も間違いだらけ
雪国もそういう印象の文体だが
実際は複雑な成立過程
俺はこの大江の屁理屈を広く
投入堂理論と読んでいる ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ること
に終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそ
う空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。(浅田彰) 金閣寺も酷いよな
最後が生きようと思っただもんな
金閣炎上場面もう少し書けないと詐欺師みたいなもんだろ。
小林秀雄ならずとも『何で生きようと思ったの。』と183の一つも言いたくなる。
叙事詩としてなら書くような素材じゃないし。
三島は小説のつもりで書き始めたけど小説にならず小説家としての自分に絶望した記念碑的作品かな。
松本清張に嫉妬するのも無理ない。
>>579
ずいぶんパクリもやってる大江が偉そうに、あかん。 小林の亜流てだれだろ
そういう言い方あるけど
じゃあ誰だよ
そもそも小林は作品単位じゃなくて
作家と合体して同一化するだろ この対談に載った三島由紀夫特集(『新潮』一九八八年一月号)の時点で依然として、三島は本気で死んだのだ、「神」なき日本近代において逆説的に
「神」を希求すべく最後の侵犯行為を行ったのだ、といった論調が見られた(たとえば富岡幸一郎「仮面の『神学』」)のには、率直にいって唖然とし
た。三島のなかにそういう意図がまったくなかったわけではないとしても、そんな単純な図式で割り切れる人間でないことは明白ではないか。三島
をバタイユらと論ずるのも適当ではない。三島がバタイユよりはるかに小心であり、同時に、はるかに頭がいいことは、これまた明白ではないか。(浅田彰) >>577
三島は開高健との対談で開高が「小説は生き物で最後はどうなるか作者もわからない」
と言えば三島は「僕は最後の一行が決まらないと書き出せないと言ってるね」
対して開高は「三島さんそれは小説じゃなく評論じゃないんですか」と言い
それに対して三島は「そう僕は一に評論家二に評論家三に小説家だよ」って言ってる 佐藤愛子は三島さんが小説家だったか文筆家だったか、まあその手の全才能と180cmの身長と交換できるとしたら
タメライなく交換したと思うと喝破したが、評論、戯曲はともかく、小説はすべてその証明のようなもんだな
中村光夫が三島に嗅いだ私小説臭
三島解読のキーワードは同性愛などではなく身長なのだな、
三島とチビについて考えた事のない考えられない人間がいくら三島語っても全く無意味。 >>586
これは三島の小説が「本当の小説ではない」理由としてよく言われるのだが、
実はそうではないのではないかといつも疑問に思う。
単に手順の違いに過ぎないんじゃないかと。
大江とか春樹は0から書き始め、まさに先が見えない状態で初稿を書き、
それを5回ぐらい書き直すという。
一方三島は非常に綿密なノートを作り、それを完成させてから
実際に原稿を書き始めて、あとはほとんど推敲などもしない。
これは登場人物がどう動くかわからないという段階を
ノート作成の中ですでにやっているからだけのことで
本質的な小説の性質の違いとは関係ないのではないか
ちなみに中上もノート派だったらしい
なぜか遺族がそれを公開しないということがあるらしいけど 話としてまとめると、誰でも飲み込めそうな話なんだよね。
あの世で起きた神の相談。
エバは、イナンナだった女性でモーゼに旧約聖書の作者になってもらうことをお願いして
自分はイシュタルとして身を潜める。
イシュタルは、マリアとイエスが親子だという話を広める為に
イエスにメシアの役を務めるようお願いする。
イシュタルは、マリアや中国の妲己や天照大御神とグループを形成し、
お稲荷さんを始める。※お稲荷さんには重要な仕事があり、悟りを開く前の人間に対し、
誘惑を仕掛ける。また、人間の秘儀参入時の霊界の審査もお稲荷さん中心で開催される。
それが、稲穂を実らせる前の荷物という意味。
此処重要。重要なのに日本人は誰も字の意味を解いてない。
お稲荷さんとは悟りそうな人をそのまま進ませるかどうかを
判定してくれる存在。
現在の課題。
イエスが中心の世界だけれども、イエスはお稲荷さんに呼ばれてメシアになった人で
メシアはお稲荷さんが引き連れている地縛霊に憑依を依頼し、輪廻を終えるカルマが
無くならないように働きかけ、霊界からの支配が継続するように見張っている。← この点を言及してほしい。
王路(引き寄せの法則) おまえらの力が必要だ!
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/atopi/1512118999/ 「金閣寺」は、文字に依ってビジュアル化を試みた実験的な作品だと思った。主人公の網膜に写し込んだ金閣寺の細部の体現を、できるだけありのままに読者が知覚し、主人公の心情に近づけるか?と。
言葉足らずはもちろんのこと、読者の経験値に任せるとか、読者の感性に委ねるなどの、甘えや余地を許さず、厳格に作者の意図を伝えるために、多弁に緻密に説明を羅列した結果、読みづらくなってしまったのかなと。
また、それが三島作品の個性と面白さかな。 野坂昭如が金閣寺以降の三島はダメだとどこかに書いてるか、発言しているが、全く同感。金閣以降は才能はあるが、初期と比べて天才性が希薄。それでも、あれだけの文才は同時代には稀であることには違いないけど。(金閣はよい) 書体だけで論旨を抜き取れるのが多いな。難易度はBランクぐらいと思う。
開口の方がいいんじゃないの?生徒会長でさ。 >>596
「永すぎた春」いいですね
わたしは「夏子の冒険」が好きです(´・ω・`) >>1
何を言ってる 三島ほど明晰な文体はないのに特に評論なんて
明晰の手本だよ
だから論理的な海外で評価されてるんだよ 三島さんって文体自在で本によって違う
「お嬢さん」っての読んだけど
どうでもいい物語に難解でないけどゴテゴテした文体かつ
くどい表現でとても読みにくい
ようは主人公の人間性やら女ってのを文体で皮肉ってんだけど、こんなの
初めに読んだら三島由紀夫は読みにくい、となりますよね 三島の小説からレトリックを割り引いたら無味乾燥な論証だけになるよ >>609
「潮騒」わたしも好きです
三島さんの作品は、「仮面の告白」のような正統的(?)なものは、修飾語句や表現がゴテゴテしていて、
読みづらく感じます。反面、「夏子の冒険」「幸福号出帆」のような娯楽系は読みやすくておもしろい(´・ω・`) 三島由紀夫の埋もれた超短編作品「恋文」 文芸誌掲載へ
https://www.asahi.com/articles/ASP4575XHP44UCVL001.html
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20210405002847_commL.jpg
作家の三島由紀夫(1925〜70)が、新進作家として歩み出していた20代半ばに「恋文」と題した掌編小説を残していたことがわかった。全集や単行本には未収録で、専門家にも存在を知られていなかった。7日発売の文芸誌「新潮」に掲載される。
「恋文」は、宴会に出ていた男がハンカチを取りだそうとして、知らないうちに入っていた手紙を見つける場面で始まる。「明日五時PX前でお待ちします。X子」。匿名の恋文に隠された秘密が米占領下の日本の状況を暗示するような短い物語だ。 恋文/三島由紀夫(ちくわ金玉文庫41)
恋さんは菊座みたいな人だ……。
そう云ってコインロッカアを開いた先に広がる膣内世界
ああああああ本物の写生だ、おおお
ほんとにほんとにほんとにほんとにちんぽ汁だ
出しすぎちゃってどぉしよお、、 三島さんの小説の多くが判決文みたいだ
三段論法を駆使してます ○o。―y(´▽`*)スパスパ(*´▽`)y-。o○ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています