「わたし(たち)」とか「じじつ」とか「さしあたり」とかいうどうでもいいような吉本フレージングを少年たちは濫用した。
「新左翼」ムーヴメントの総破産の流れの中をよろけながら歩く政治少年の索漠たる心情と
吉本の言葉遣いはおそらくなじみがよかったのだろう。

そして吉本文体固有の「べたつき」に人々がいささかうんざりし始めたころ、廣松文体が出現した。
はじめて『世界の共同主観的存在構造』を読んだときの衝撃を今でも私は忘れることができない。

吉本隆明の文体にあった何となく暑苦しい生活感が、廣松の文体にはみじんもない。
吉本は怒り、罵り、せせら笑い、説教し、ときどきは「涙のしみこんだ」パンを食べたりする人間くさい思想家だったが、
廣松は怒りもしないし、罵りもしないし、泣きもしないし、笑いもしない。
廣松は読者にただひたすら思考の「エクササイズ」を要求するハードコアな思想家であった。

おそらく廣松は「脳は筋肉で出来ている」と信じていたのであろう。
彼が読者に求めたのは「脳の筋肉」を強化するためのトレーニングであった。

「認識の過程は、本源的に、共同主観的な物象化の過程であり、しかもこの共同主観性が歴史的社会的な協働において存立する以上、
認識は共同主観的な対象的活動、歴史的プラクシスとして存在する」というような文章を私たちは読まねばならなかった。
そしてその文章の意味するところが「要するに、『赤信号みんなで渡れば青信号』というようなことだわな」
と瞬時に察知するようになるまでには多年の修練を要したのであった。

「廣松文体」の利点は情緒的べたつきがないことだが、
欠点はなんと言っても「頭の悪いやつが書くとぜんぜん意味が分からない」ということにある。
そして恐ろしいことに廣松以外の人間の書く「廣松文体」は案の定ぜんぜん意味が分からないのであった。

柄谷行人にかすかに名残をとどめつつ、「災厄の廣松文体」は80年代に入る頃に静かに消えて行った。
そして、あの「群れ立ち上がる言葉たち」の蓮實重彦文体に覇権は移るのである。
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