柄谷行人の晩年をひっそりと見守るスレ
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
交叉いとこ婚をすることではなく、並行いとこ婚の禁止が問題なのですよ。
交叉いとこ婚をする社会でも、交叉いとことだけ婚姻関係を結ぶわけではない。
相手が遠縁や他人のケースもあるのだ。
ようするに、並行いとこ婚をインセストだと認識しているということが重要なのです。
インデスとタブーの存在が、家族(または親族)集団の成立根拠だというならば、それはそのとおりだが、
しかし名無しさんの書き込みの内容はそういうことではないだろう。 だいたい、乱婚制というのは、婚姻制度がなく,どの異性とでも性的交渉をもてる ということだ。
しかし、レビ=ストロースは、インセストタブー によって文化が成立し。親族構造が形成されるという。
これは婚姻関係が人間社会の成立の基礎だということである。
≫国家の成立根拠を原始共産制に求めたのがエンゲルスで
レヴィ=ストロースの考えは、名無しさんのいう↑のようなこととは、まるで逆なのです。 853の訂正
×≫国家の成立根拠を原始共産制に求めたのがエンゲルスで
〇≫エンゲルスの国家の起原というのは、家族が乱婚によって拡大するという論理。 >>853
そんなことは国家の成立になんの関係もない。
ちなみに、乱婚自体に人間社会としての問題があるなら、婚姻制度も確立していた、日本の平安貴族の非常に狭い範囲での乱婚の説明がつかない。
レヴィ=ストロースなどの乱婚や近親相姦の否定をもとに組み立てる論理は、どうしても宗教的な色合いが抜けない。
初期国家の成立が家族の拡大だという諸氏の論点の中では、乱婚による家族の拡大という視点が一番適切だろう。 柄谷と浅田彰が共同編集していた「批評空間」の発行元の福武書店と統一教会との関係が
噂されているが、もしそれが本当ならば、批評空間でデビューした東浩紀が統一教会を擁
護したのは、東の正直さが出てしまっただけだったのか。
柄谷のNAMと統一教会の関係にもマスコミは注目すべきような。 1993年の柳美里の文芸誌デビュー作「石に泳ぐ魚」(1994年9月号「新潮」)の同年の僅か数か月後に
柳は文壇バー「風花」で柄谷の子分絓秀実と偶然出会い、彼から顔や頭を触れるなどのセクハラを受けて
トラブルになっている。その彼女のデビュー作に登場するカルト団体は統一教会だったのではという噂だ
が、絓秀実が批評空間の同人でもあり、NAMにも参加してたことからして、このトラブルと柄谷や統一教
会との関係が疑われておかしくない。さらに批評空間の重要な寄稿者だった蓮實重彦は「石に泳ぐ魚」を
激しくこき下ろしている。絓秀実と蓮實の関係も非常に密接なものだ。
批評空間と統一教会がズブズブだったのか、興味ある人はかなりいるだろ。 柄谷行人のグループは、左翼のポーズをとりながら
まじめな左翼的な活動をしている人たちの足を引っ張るということをずっとやってきている。
統一教会と仲がよかたっとしても、それほどふしぎではない。 「まじめな左翼的な活動をしている人たち」て誰のこと?
名前を出さないと分からないよ。 >>861
そのものずばりを言うのは難しいので、取り敢えず、
柄谷を好みそうな党派を挙げると、ブントや革マルの
連中ではないか。
彼ら以外の中に真面目な左翼はきっといるだろ。
柄谷の話し方が特にスタイリッシュで、軽薄な意味のファン読者を
引き付けるというのがあると思う。それが柄谷カルトの秘密ではな
いか?
そういう人物には大衆操作の道具として使えるメリットがあるので
統一教会が目を付けてもおかしくない。柄谷の談話がそのまま活字になったことがあって、その時に柄谷は
激怒したらしいが、テープの文字起こしに柄谷が手を入れてスタイ
リッシュな物言いにすることが柄谷的に絶対に必要だったのではな
いか?。 実践より理論中心
何かやっても学級会さながらちょっと揉めて終わり
実家は大金持ち
どうにもならんね >>864
そういう生活が一番いいね。
マルクスさんだって言ってるじゃない。
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。食後には議論を。」 海運の貨物の殆どがコンテナ化されてしまって、そろそろコンテナ化から、バラ荷化への
逆戻り現象が始まったのがここ数年の現象。
海運のコンテナ化が貿易貨物の輸出輸入の相互性を強めたことは間違いないだろう。そし
て、それによって相乗的に貿易量は増えて行ったが、これも頭打ちになりそうだ。
何万個もの荷物入りコンテナを中国からアメリカ西海岸まで運んできたのを、中国へ返す
際の帰り荷の確保は困難さが極限に達し、ついに帰り荷ゼロが通常化。
お隣りへのお裾分けの場合、器ごと持ってきたら、器に何かを載せて返すのが礼儀とされ
たが、その習慣も廃れ、香典返しの習慣も廃れたというが。
>>866
統一教会の信者やNAMの元会員は買うだろうな。 >>867
儀礼への返答品は半額が基本だから、そもそも互酬にならないね。 >>868
儀礼自体の相互性があって、香典を渡した側の人間が亡くなった時に、
前に香典をもらった側はその時の香典額を記憶していて、同額の香典を
返すというのはあると思う。
そういう香典額をよく記憶したり、香典額を書いた香典袋をきちんと保
管するのが昔の主婦の役目ではないか? >>869
なるほど。
香典返しなどではなく、次に相手に渡す香典か。
葬儀にしろ結婚にしろ、そんなにうまく同数にはならないけどね。
そもそも儀礼の贈答は、その時の付き合いの深さによるものだから、縁が薄ければ(たとえば会社の同僚などは)その時一回限りということも珍しくない。
長期間縁が続く地方の親戚などでは互酬にもなるだろうが、短期間の縁で終わる会社の同僚(利益共同体)では互酬にはならない。
互酬は社会的な一般性を持たないのではないだろうか? >>870
>>葬儀にしろ結婚にしろ、そんなにうまく同数にはならないけどね。
俺の母は昔の家計簿や香典袋を律儀に保管してて、それをよく見てから、
夫の同僚関係の香典とかは決めてたよw
そして大体は精確に額を記憶していた。
俺の母だけでなく、親戚や父の昔の同僚関係の家族の顔なども夫よりも正
確に記憶していたのが、昔の女ではないか?
葬儀があると、どこの老夫婦でも「あれは30年前におとうさん(義父)の
葬式の時に来られたあなたの従兄弟の息子さんよ、子供の頃の面影が残っ
てるわ。」夫「お前、そんなことまでよく覚えてるな!」とか、やってた。 >>871
親戚づきあいが女中心になるのは、昔は女が家庭にいたから、というそれだけの理由。
でも、そんなことが互酬の基礎になるなら、互酬概念自体無意味じゃないの?
そういう時代に権力を持つ(振るう)のは男だから。 話は飛ぶけど、NHKで「鎌倉殿の13人」というドラマをやってる。
吾妻鑑をベースに書かれた脚本で、女たちが政治の方向すら動かしている。
そして、北条政子が政治の中心になるわけだが、そこには互酬など影も形もない。
某映画のセリフじゃないが「所詮は利害の関係」だ。
ちなみに、承久の乱で北条が天皇支配を打ち破ったわけだが、それでも天皇制は維持した。
WW2後のアメリカ支配を彷彿とさせる。 放送も電気や水道と同じように使った分だけ払う仕組みにするべきでしょ 09/17 12時49壺 人類史初期の狩猟採集社会には、富の余剰がなく、
階級支配もない。食物や衣服などが共有される共産主義的な社会であった、
というのが、エンゲルスの言う「原始共産制」である。
富の余剰がない、というのは、ようは生産力が低く、
「階級支配もない」とうのは、その生産力と生産関係にみあった
社会のありかただったということである。
柄谷行人「交換様式論入門」
「未開社会において、互酬交換が社会構成体を形成する原理であったことは疑 いがありません。しかし、それは最初からあったのではない。人類が狩猟採集 遊動民であった段階では、B・C だけでなく、Aも存在しなかった。そこでは、 生産物は均等に分配されたと見てよいでしょう。遊動しているため、蓄積する ことができないからです。(中略)このような状態を、私は原遊動性 U と名づけます。 その状況が変わったのは、グローバルな気候変動のために、彼らが各地で定住し始めてからです。以後、集団の中に、対人的な葛藤、富の格差が生じるようになった。」
柄谷が言うのは、定住によって生産力があがったことにより
「支配」のある社会がしょうじた、ということなのだから、
エンゲルスの「生産様式論」による説明そのままではないのか。
交換様式が変化をその原因として人類は定住するようになり、
…そして「支配」のある社会がしょうじた、
といえば「交換様式論」による説明と言えるだろうけれども、
柄谷行人はそのような論法はとっていない。 >>858
スガは元からセクハラガイジだから
女性の前で「do you like sex?」と連呼するジジイ
重力02の角田光代のエッセイに書いてある >>880
スガのセクハラは自分がセックスするのが目的じゃないところが微妙なんだよな。 柄谷行人の「交換様式論」では、人類は農耕牧畜ははじめてから定住をするようになり、
その結果、生産力の増大し、階級支配がしょうじた、という通俗的な「新石器革命」説を否定して、住のほうが農耕牧畜に先立つといういわゆる「定住革命」説をとっている。
そして、柄谷は、そのような「新石器革命」説は、マルクス・エンゲルス主義的な「生産様式論」の考え方によるものだというのである。
しかし、エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」においては、柄谷がいうような通俗的な「新石器革命」説が唱えられているものではない。
大雑把に言うと、エンゲルスは、人類は土器の製作に象徴されるような新たな技術を取得し、そして、素朴な住居をしつらえて定住生活をするという中間段階を経たうえで、初期的な農耕牧畜段階の文明へ移行する、としているのである。 池谷和信「人類にとって定住化とは何か」
国立民俗博物館 民博通信
「熱帯に暮らす狩猟採集民の環境史研究のなかで、人類の定
住化という事象を無視することはできない。これまでの研究
では、先史時代における熱帯の狩猟採集民は遊動民(ノマド)
であったことが広く知られている(池谷 2014)。これは、中
緯度や高緯度の狩猟民にも当てはまることである。また、西
アジアのような中緯度に暮らす狩猟民が定住化した後に、農
耕や牧畜を開始したといわれる。これは、人類の歴史のなか
では「農業革命」といわれ、その後の人類の社会に影響を与
えてきた。」
「狩猟民が定住化した後に、農
耕や牧畜を開始したといわれる。これは、人類の歴史のなか
では「農業革命」といわれ、」
このように池谷氏のような専門家も、
定住化の後に農耕牧畜がはじまったといい、
それを「農業革命」と呼んでいる。 世界史の窓
「打製石器、骨角器を主な道具として狩猟採集生活を送り、獲得経済にとどまっていた人類が、穀類や根菜類を栽培し、家畜を飼育して食糧を生産する農耕・牧畜という生産経済に移行した。その変化は磨製石器と土器の出現となって現れており、この新しい文化を旧石器文化に対して新石器文化という。また、狩猟採集生活を基本とした旧石器時代に対して、新石器時代という。
その変化は、約紀元前7000年紀のメソポタミア文明に始まったと考えられているが、人類最初の大きな変革であった。その変化が新石器革命であり、食料生産革命とも言われている。あるいは、農業革命という場合もある。」
上の引用文にあるように、「新石器革命」と「農業革命」とは、同じ意味で用いられる。 哲学板の「柄谷行人を解体する」スレで柄谷カルト残党が柄谷の新刊本チカコ―で盛り上がってる。 >>889
柄谷批判をしている人が哲学板にいるようならば、
その人をここに連れてきたらいいのではないですか。
こちらのほうが、いくらかはまともな話ができるでしょう。 文芸批評家を辞めて
哲学者になったんだから
残党はこのスレの住人ですよ 柄谷交換様式論の良さが分からないなんて
お前らはオードリー・タン以下の
鳳啓介の痰だ。ポテチン!カー、ペッ! >>890
俺は哲学板に書き込めないんだよ。
哲学板を見れば、カルト信者以外いないこと、そのぐらい分からんか? >>891
お前はどうしようもない馬鹿だな。
柄谷は時に応じて、「僕は元々、文芸評論家だから」とか、
言ってるよ。柄谷の信者だからお前が救いようのない馬鹿阿保なのはしょうがないがw ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」
「モースが経済活動を含む原始社会の人間関係の基本を《贈与交換》に求めたのに対して、ニーチェは《負債》こそがその基本だと考えた。
(中略)ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、ニーチェの『道徳の系譜』の影響を受けつつ、原始経済は
(中略)《負債》から説明すべき(と)言っている。
負債という概念があることによって、人間は「道徳的な存在」になったと(ニーチェは)いうのである。というのも、「道徳的な存在」になるということは、要するに「約束を守る存在」になるということであるが、そのためには「記憶を持つ存在」にならなければならない…(負債があることによって)「借りたものは返さなければならない」」という意識植えつけ、「借りたものをきちんと返せる」ことによって、人間を「約束を守る存在」にしたのである…「約束を守ること」「責任を持つこと」(といった道徳の基礎を)(中略)《負債》はその観念を育て、鍛えたのである。 柄谷行人「交換様式論入門」
「氏族社会の社会構成体に関して、画期的な考察を与えたのは、
マルクス主義者ではないマルセル・モースです。
彼はそれを生産力や生産手段ではなく、交換から考えた。
それは商品交換ではなく、贈与―お返しという互酬交換です。私はそれを交換様式A
と呼び、商品交換(交換様式C)と区別します。この交換は、贈与しなければ
ならない、贈与を受け取らねばならない、贈与に対してお返しをしなければな
らないという三つの掟によってなされます。この掟は、人が作ったものではな
い。人がそれに従わざるをえないような「呪力」(ハウ)に強いられているので
す。氏族社会のような社会構成体は、この交換原理によって作られています。」 柄谷行人「交換様式論入門」
【それに関して、私はフロイトの理論を参照します。といっても、それは、彼
が『トーテムとタブー』で書いたこととは異なります。そこでは、彼は、未開
社会を「兄弟同盟」たらしめた原理を、兄弟による「原父殺し」から説明しよ
うとしました。しかし、「原父」は、ダーウィンがゴリラ社会などから想定した
仮説であり、また、国家の段階で成立した家父長制を太古に投射したものにす
ぎません。フロイトの仮説は、今日ではまったく否定されています。しかし、
私はフロイト自身が活用しなかった彼の理論にもとづいて、互酬交換の起源を
説明できると思います。それは「死の欲動」を導入した後期フロイトの理論で
す。
死の欲動とは、有機体(生命)が無機質に戻ろうとする欲動です。《生命実体
を保存しこれを次第に大きな単位へ統合しようとする欲動のほかに、それと対
立して、これらの単位を溶解させ、原初の無機的状態に連れ戻そうと努めるも
う一つの別の欲動が存在するにちがいない》(『文化の中の居心地悪さ』、フロイ
ト全集 20、岩波書店、p30)。私は、これは個人よりもむしろ社会構成体に関
してあてはまることだと思います。人類は遊動的であったとき、「無機的状態」
にあった。定住後に生じたのが、「有機的状態」です。そこに、不平等や葛藤が
発生する。
そのとき、「無機的状態」を取り戻そうとするのが死の欲動であり、それは先
ず攻撃性として外に向けられる。が、フロイト的にいえば、それが内に向けら
れるとき、超自我として自らの攻撃性を規制するものとなる。贈与の互酬交換
はそのようなものとしてあらわれた、といえます。人は贈与しなければならな
い、贈与を受け取らねばならない、贈与にお返ししなければならない。その場
合、贈与された物に付着した霊的なものが、人々を強制するように見えます。
しかし、Aの「力」が反復強迫的であるのは、それが定住によって失われた U
の回帰であるからだといってよいでしょう。それが、階級や国家の発生を阻止
する観念的な力として働いたのです。】 【「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。(「マゾヒズムの経済論的問題」
『フロイト全集18』岩波書店)
フロイトのこの見方は、憲法九条が外部の力、すなわち占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものです。先ず、外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらにそれが戦争の断念をいっそう求めることになったのです。】
(柄谷行人「憲法の無意識」) 柄谷行人は、交換様式Aの段階における「良心」
(ニーチェ「道徳の系譜」では負債の意識であるところの「やましい良心」であり、モース「贈与論」では霊的な力「ハウ」にあたる)の成立に関しては、
「彼(フロイト)の理論にもとづいて、互酬交換の起源を説明できると思います。」
としているにもかかわらず、
「憲法の無意識」のときとはちがって、「外部の力による強制」(フロイト)について何を言っていない。 「道徳の系譜」における「道徳」というのは、ニーチェがいうには奴隷道徳である。
マウリツィオ・ラッツァラートによると、金融資本主義というものは、
「負債」(の意識)によって、人間を奴隷化し、支配するシステムだということである。
ラッツァラートのような見方をすれば、ニーチェのいう「疚しい良心」は
人間の奴隷化の大元ということになるだろうが、
柄谷「交換様式論」のようなものでは、金融資本主義のイデオロギーにしかならないであろう。
ネオリベ・イデオローグ柄谷行人のことであるから、それも当然なのかもしれない。 ×金融資本主義のイデオロギー
〇金融資本主義をけっきょくは肯定するだけのイデオロギー ヨーロッパのエネルギー源での自立やアメリカ人の中国製品離れの機運が高まり、交換から自立の時
代にしばらくは向かうだろう。
日本国内でも、都市の中心部の人間が郊外にグルメ探しに出かけて行くことの無駄が認識されるだろ
う。郊外に美味しいものなど滅多にあるものではない。 柄谷行人は、原遊動性Uの段階の集団内には、狩猟採集による所得物は、かならず寄託されたといっている。
交換様式Aの互酬交換、交換様式Bの再配分、このいずれもなかったという原遊動性Uの段階においても、その寄託なるものはあったというのだ。
この寄託というのは、文化人類学では、ふつうプーリングといわれるものにあたるだろう。
ロバート・ネッティングなどによれば、プーリングとは、バンド内における互酬性の関係の表れだということである。
プーリングというのは、いわゆる「一般的互酬」のことだといえて、給付したものと等価とみなされるものを直ちに受けとる関係にある「均衡的互酬」とちがい、
即座の反対給付を期待しない一見しては一方的にみえる贈与のことであるが、しかし、「一般的互酬」の場合は、贈与の行われるその時には返礼を受けとらないにしても、相手方は将来に反対給付を行う義務を負ったということになるのだ。
柄谷は、原遊動性Uの段階には、互酬交換はないが寄託はあった、
という。だが、このような寄託というのは、一般的互酬というべきところを、たんに自説に都合に良いように言いかえたに過ぎないと思われるのである。 「遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には
大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。
他の集団と出会ったときも、簡単な交換をしただろうが、戦争にはならなかっ
た。このような状態を、私は原遊動性 U と名づけます。]
(柄谷行人「交換様式論入門」)
柄谷行人によれば、原遊動性Uは、「無機的状態」なのだそうである。
これは換言すれば「自然状態」ということになるだろう。
柄谷説では、その「無機的状態」=「自然状態」はいかにも和気あいあいとしたものになっているが、
マーシャル・サーリンズなどは、モースにしても、ホッブズと同様に、
社会の下部構造であるような「自然状態」は、戦争状態だと認識していたという。 [(交換様式)Aの「力」が反復強迫的であるのは、それが定住によって失われた U
の回帰であるからだといってよいでしょう。]
(柄谷行人「交換様式論入門」)
905の引用にあるような和気あいあいとしていたものの「反復強迫」というのは、
そもそも言葉遣いとして実におかしいだろう。 ナショナル・ジオグラフィック 2017・4・11
考古学者は、少なくとも80万年前の初期人類が人肉を食べていた証拠を発見している。人骨を切断したりかじったりした痕跡だけでは、人肉を食べた理由まではわからないが、古代の遺跡からは、人類進化の歴史を通じて共食いがどのくらい広く行われていたかを知るための手がかりが得られる。
例えば、スペインのグラン・ドリーナ洞窟のホモ・アンテセッサーと呼ばれる初期人類の遺跡からは、バイソン、ヒツジ、シカを解体した骨と一緒に、少なくとも11人の人間を解体した骨が見つかっている。骨はすべて子供か若者のもので、食べられた形跡があった。骨には肉をこそげとった痕跡があったほかに、脳を食べた痕跡もあった。
解体された人骨は、洞窟内の10万年分に相当する地層から見つかっていて、住人が定期的に人肉を食べていたことを示唆している。 解体された人骨は、同じ方法で処理されたほかの動物の骨と混ざっていた。そのため、この洞窟に住んでいた人々は、食料がなくてやむにやまれず人肉を食べたわけでも、儀式として食べたわけでもないと、一部の人類学者は考えている。 おそらく、反復強迫があるとすれば、↑のようなおぞましいことだ
と考えるほうがフロイト的だろう。 人間は共喰いをしない、と考える理由のほうがわからない。 旧石器時代のほうが新石器時代よりも人間同士の戦闘によって受傷したとみられる人骨の出土する割合が高いという説もある。
ただし、もちろんそれにたいする反論もある。
しかしなににせよ、柄谷行人が、そのような考古学研究上の議論などに目を通したとはとうてい思えない。
何らその種の論文等を読むようなこともなく、
ただの勝手な思い込みで、905のようなことを言っているのだろう。 『力と交換様式』 第3部第1章 経済学批判 270ページ
[あらためていうと、物神(フェティシュ)とは、人と人の交換において生じる、霊的な「力」である。
実は、マルクスは、『資本論』第一巻でそれについて述べた後、物神という言葉を二度と使わなかった。
しかし、事実上、さまざまなかたちで、霊的な「力」を見ようとしたのである]
柄谷行人「交換様式論入門」
「氏族社会の社会構成体に関して、画期的な考察を与えたのは、
マルクス主義者ではないマルセル・モースです。
彼はそれを生産力や生産手段ではなく、交換から考えた。
それは商品交換ではなく、贈与―お返しという互酬交換です。私はそれを交換様式A
と呼び、商品交換(交換様式C)と区別します。この交換は、贈与しなければ
ならない、贈与を受け取らねばならない、贈与に対してお返しをしなければな
らないという三つの掟によってなされます。この掟は、人が作ったものではな
い。人がそれに従わざるをえないような「呪力」(ハウ)に強いられているので
す。氏族社会のような社会構成体は、この交換原理によって作られています。」 柄谷行人「霊と反復」
「交換から生じる霊(観念的な力)というとき、先ず私の念頭にあったのは、『資本論』のマルクスである。《机は、やはり木材、ありふれた感覚的な物である。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう》。超感覚的≠ネもの、すなわち霊的なものが、交換から生じるのだ。マルクスはまた、交換において生じるこのような「力」を物神(フェティッシュ)と呼んだ。
しかし、マルクス主義者は一般に、これを冗談だとみなした。(…)そのことが『資本論』の意義を見失わせた。マルクスがここでなそうとしたのは、資本という霊が、商品交換(…)から生じることを解明することであったからだ。
とはいえ、霊的な力は、資本に限られるのではない。それは、贈与交換(…)においてもある。マルセル・モースがハウと呼んだ霊がそうだ。霊はまた、国家(…)にもつきまとう。のみならず、霊は、それらを揚棄する力としてもあらわれる。すなわち(…)霊的な力としてあらわれるのだ。 ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」
「モースが経済活動を含む原始社会の人間関係の基本を《贈与交換》に求めたのに対して、ニーチェは《負債》こそがその基本だと考えた。
(中略)ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、ニーチェの『道徳の系譜』の影響を受けつつ、原始経済は
(中略)《負債》から説明すべき(と)言っている。 ラッツァラート「借金人間製造工場」
[金融資本主義とは、“負債”によって、私たちを奴隷化し、支配するシステム] ニーチェ「道徳の系譜」
「負い目」「良心のやましさ」という意識は、「負債」という物質的な概念に由来している。
「犯罪者は刑罰に値する。というのも、彼は別様に行為することもできたからである」という発想は、極めて近代的である。人類の長い歴史を通じて、悪事の首謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、責任者のみを罰するといった刑法もなかった。
むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対する怒りから刑罰は行われたのである。
この怒りは、損害には等価物があり、たとえば被害に対する報復がある、という発想へと次第に変容した。
損害と苦痛の等価というこの発想は、どこからその力を得てきたのだろうか。それは、債権者と債務者との契約関係からである。
この契約関係は、およそ「権利主体」なるものと同じ古さをもつ。この「権利主体」という概念は、売買・交換・交易といった行為を可能にする。
この債権者と債務者との契約関係において、初発の約束が為される。債務者は、自らの返済力を相手に信用させるために、また自らもうっかり返済を忘れないように、自分が占有する何かを抵当に入れる。たとえば自分の身体、自分の妻女、自分の自由、自分の生命などを抵当に入れる…。 負債の意識である「疚しい良心」(ニーチェ)は、
柄谷行人によると、呪力・霊的な力によって植えつけられるものということになる。 柄谷「力と交換様式」
[信用とは、契約・取引と決済との間に時間的乖離があるときに不可欠となる、
当事者間の信頼である。だが、それはたんなる信頼ではなく、
人を強いる観念的な力であり、その意味で物神的である。] 物がスカスカになるように唯物論者もスカスカになるがマナーや交渉倫理が大事。
性欲の面も年齢制限の面も、同性愛ヴォケしない面も。 だから二元論というより三元にすると逃げやすい。魂イデア予後。 だから二元論というより三元にすると逃げやすい。魂イデア予後。 実行犯と思想犯では思想犯のほうが悪いね予後も。
しかし自分のために自分で考えるというのも孤独だ。 俺は唯物論のほうがネトネトネット粘着しないから有利だと思う。
しかしエゴなのか対加害につまり被害敏感になるのが妄想でなく現実だとしたら。 心を作り替えたり、物の背後を補給したり、予後を対応保険かけとく。 柄谷はそういう文学問に向くだろう。赤いドレスのほう。 カラタニコフ。いろいろ考えたら銃器で撃たれて咳喀血をすると似合う。何の赤。 903
×直ちに ×即座の
〇できるかぎり決った期限内に ドゥルーズ=ガタリやルネ・ジラールだけでなく、
サーリンズ、グールドナー、ピーター・ブラウなど多くが、
一見しては見返りを求めない贈与的給付(サーリンズの言う(「一般化された互酬」の行為である)が植え付ける受給者側の「負い目」や「負債」の意識が、
反対給付を強いること、そして、その果たすべき反対給付の義務の履行ができなかった(いわば負債を弁済できなかった)者の
相手方にたいし自ずと従属的になってしまうことで、権力関係が生じるということを指摘している。
これらはニーチェ「道徳の系譜」のラインの論説といえるだろう。
また、モースやレヴィ=ストロースにしても、似たような指摘はところどころでしていた。
ところが、柄谷行人は、霊的な力または呪力によって反対給付が事実上強いられるということはいいながら、
未開社会、そして原始時代にあっては、そのような呪いの力というものが、
心底から恐れられるものであったであろうことについては、
あまりふかく考えていないようである。
原始時代においてはおそらく、呪われるということが、死ぬよりも恐ろしいことではないのか。
そのうえで、柄谷は↓のような温いことを書いている。
「遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には
大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。
他の集団と出会ったときも、簡単な交換をしただろうが、戦争にはならなかっ
た。このような状態を、私は原遊動性 U と名づけます。]
(柄谷行人「交換様式論入門」) >>939
受給者側の負い目だの負債の意識だのって、ただのバカじゃん。
ジャン・ジュネが正しいよね。 負債だなんだのってのは西欧的な感覚ってだけだろうね、そこに引っかかって敵視する側も然り >>941
意味不明。
普通の日本語で書いてほしい。 >>939
>>「遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には
大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。
狩猟のために必要な規模の遊動的バンドの具体的な規模を言わないと話にならんだろ。
の規模について、柄谷が度々言及してるのならともかく、柄谷が素人として発言するのなら、
誰かの研究を引用するべきだと思うが。
柄谷が自分で現地調査をしたこともないのにおかしい。
現代の狩猟民族のピグミーは何百人単位で移動するが。
柄谷の読者は明らかにカルト教信者。 柄谷の新刊などボケ老人の読迷いごとに過ぎない。それを読まなくても分かる。 ほんとうのところ、柄谷行人の書いたものについて、
まじめに批判すること自体がばかばかしいのです。
たんなる口から出まかせですから。これは昔からそうです。
故アントニオ猪木の格闘技戦をリアルファイトの格闘技の試合だとおもっているプロレスファンは、
いまはいません。
しかし、柄谷行人の「哲学思想」のようにみせかけた雑文のほうについては、
「学問」だと思っているような人がいまだにいるのが驚くべきことなのです。
思想愛好者は、たぶんプロレスファンよりもおめでたい、騙されやすい人たちなのでしょう。 >>945
猪木のも、アリとかウィリーはリアルだよ。 柄谷行人がいう原遊動性Uの歴史的段階における共同寄託ー再配分にしても、
バンド内でその差配をする立場の者はいただろう。
たとえ当番制で交代交代に務めたというようなことであっても、
その時々には誰ががやったいたには違いない。
おそらく呪術師のようなものがやったのではないかと私は思う。
ちなみに、ラスコーの壁画にも
獲物になる動物たちとともに呪術師ではないかといわれる鳥のような頭をした人物が描かれている。
「定住革命」の後に生産力があがったことで、余剰が生じ、
その差配役の役得が大きくなった、それに伴い権力の集中もおこった、
というのが、柄谷行人のいう交換様式Bの発生の要因だと考えるのが
自然な推論ではないだろうか。なお、これは学問的にも有力な説である。
シュメールでもどこでも、原初の国家というのは、神権政治体制だったとされているわけでで、
いうなれば、呪術師兼酋長が、その王様ということなのだ。 記憶違いの訂正
ラスコー壁画の呪術師らしい人物は、
鳥の頭ではなく、鹿の頭をしているのだった、 >>947
ガチとプロレスをわざと混同させることによる秘教化ですな
バカはそこになぜか感動する
柄谷ファンも同じ
自分のアイドルが欲しいだけ 1分配(sharing)、 2贈与交換(giftexchange)(柄谷の言う交換様式Aにあたる)
3再分配(redistribution)(交換様式Bにあたる)
4市場交換 (market exchange)(交換様式Ⅽにあたる)
柄谷としては、原遊動性Uの段階における分配は、
1のシェアリングのことであって、Bとは異質なものだ、といいたいのだろう。
わたしとしては、3は(「定住革命」を待たずに)バンド社会の拡大に伴って1の変化したものだと思うけれど、
柄谷が言うような説が、似たことを唱えている人類学者もいるように、成り立たない考え方ではないとは思う。
ただし、柄谷は、定住革命の前には、1しかなかった、といっているわけで、
それは到底信じがたい。さらに、信じがたい、というか、理解しがたいのは、柄谷が、
2は1の反復強迫によって生じたものだ、ということである。
1は、フロイトが「トーテムとタブー」や最晩年の「モーゼと一神教」でいっていたような
「原父殺し」と違ってべつに忌まわしい事ではないだろう。
「原父殺し」の「(集団的)記憶」にかかわるようなことならば、
反復強迫ということもあるだろうが、もめごともなく仲良くしていたという記憶にかかわる反復強迫
ということはいったい何のことだ、と思うのである。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。