【小説】1984【ジョージ・オーウェル】
原作小説版専用スレ。
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原作小説関係のスレは過去ログ行きになってるみたいなので、再び立ててみた。 今の日本もこの小説そっくり。
空気を読み、言葉の意味は二つあり、
相反する人格を有する人々。 日本はある意味旧東側諸国を超えた管理社会を実現してるからな >>74
ん?
それは聞き捨てならんな。
その情報の出所はどこかいな?
管理社会というものは、支配者が神格化、乃至は神秘化されて
いないと成立しない。
オカルトめいた陰謀論者は、管理社会に協力してる奴ら。 人間は弱いんだ。宇宙の果てまで出掛けても、
死ぬまで探し回っても、神に会えるわけじゃない。
それが怖い。 死よりは奴隷であることを選ぶ者は、不安から逃れるために、
この世界に偽物の神を刻まずにはいられない。 >>74
7年ほど前再読したとき俺もそう考えた。
避妊具も満足に用意しない中、度重なる情交の果てにウィンストンは
ジュリアを孕ませてしまった。
生い立ちや日頃の生活姿勢からして彼には到底父親になる覚悟も意志もない。
至極当然ながら男は子供を堕ろすよう女に命じた。
反逆を気取る小心者の常として、おのれの不行跡を糊塗し
自己正当化の暗示の為に、やくたいもない作り話をこしらえ
自らに言い聞かせた。
第2部終盤のウィンストンの述懐とジュリアの台詞に注目。
そして第3部の収監と拷問は全くの妄想である。
物語の終わり近く再会する二人。
ジュリアは明らかに堕胎のショックから心を病み、手術を要した。
それ以上に手の施しようなく壊れてしまったウィンストン。
すべてを悟った女は…それもまた受け入れるしかない。
骨董屋の店先ではチャリントン氏が突如来訪が途絶えた二人の身を案じ、
正義の人オブライエンは実在する兄弟同盟を拠点に今日も孤独な戦いを続ける。 カネの力で動くだけの腐った現実の狡猾さを神話化する思考は
陰謀論にも共通するな。 というのは、誰にでも他人の信じる神話を戯言、乃至は妄想と
して笑い飛ばす自由があるからだ。 パリ、ロンドンどん底日記を読んでます。面白いです。
他の作品もこんな感じなのでしょうか? 日本語訳あったから張っとく
[一九八四年(Nineteen Eighty-Four, 1949) 日本語訳]
http://blog.livedoor.jp/blackcode/archives/1700656.html ブリューソフ『南十字星共和国』ザミャーチン『われら』ハクスリー『すばらしい新世界』の模倣。 書簡欲しいけど高いな
日記より欲しいから多分買うけど尻込みしちゃう
どっちもせめて五千円ぐらいならよかった 1984に、真に良い本とは、自分が知らなかったことを教えてくれる本ではなくて、既に知っていることを認識させてくれる本であるみたいなことが書いてあったと思うのですが、辺でしたっけ? 訂正
1984に、真に良い本とは、自分が知らなかったことを教えてくれる本ではなくて、既に知っていることを認識させてくれる本であるみたいなことが書いてあったと思うのですが、どの辺でしたっけ? >>93
p.308二行目のことかな?
九章の、
ゴールドスタインの本の三章を読んで止めたあと >>94
ありがとうございます。
版によってページは違うかもしれませんが、9章を探してみます。
どこにしまったか思い出せないのですが、たしか赤い表紙のやつだったとおもいます。 今度ロンドンに行くんですけど、ロンドン周辺でオーウェルゆかりの地なんて、あるんでしょうか?文学観光もちょこっと取り入れたいんですわ。 五輪のせいでロンドン、すでに人混みになってんだろうなぁ 読後、これだけ背筋の凍る思いのした小説は他にない。
北朝鮮が今なお存続している理由もわかったような気がした。 >>108
「チョコレートの最後のひとかけらを奪い去られた時、
母は妹を両腕に抱き締めたのであった。それは役にも
立たない行為であり、なんの変化ももたらしはしなかったし、
チョコレートが新たに出てくるわけでもなかった。
そうしたからといって、子供や自分の死を回避できる筈もなかった。
しかし彼女には、そうすることが自然のように思われたのだ。
ボートに乗っていた避難民の女も幼い子を腕でかばったが、
それは弾丸に対して紙一枚ほどの役にも立たなかった。」 >>109
レスdd
母親の行為は不合理だったけれど、ウィンストンにとっては
2+2=4 と同じように自明のことだったんだろうね
理由はいらないんだ、と >>110
ご存じだと思いますが、妹の分のチョコレートを奪ったのは
子供の時のウィンストンで、母親の行為を理解していたとは
思えません。
しかし、振り返ってみて、その意味ー党が奪い去ろうとしている
人間的な愛情ーの大事さに気づいたということでは
ないでしょうか。
党 「プロレと動物は自由の身」
はたして キタ だけの話だろうか?
1984年、日本では新自由主義の津波が押し寄せつつあった。 村上龍『愛と幻想のファシズム』は1月に連載開始か。ふ〜ん… お、これは映画で大ヒットするぞ?
あらすじ
カナダで狩猟を生活の一部としていた鈴原冬二は、日本帰国
の直前に寄ったアラスカの酒場で飲んだくれていた日本人の
ゼロと出会う。トウはゼロに誘われ、日本に帰国し独裁者と
しての頭角を現す。 出来ましたよ。
ファシズムは
遠くにありて
想うもの >>124
どっちかってえと、エヴァンゲリオンの元ネタになるくらいな話か… バブル期がテレビの時代ってイメージがあるのはテレビ業界人が
教祖面し始めたせいか? 60年代から「一億総白痴化」は言われてたのが80年代に完徹
されたわけだな。 / ̄\
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偉大なるオプーナがあなたを見守っている 「群集心理」は精神を剥奪された集団に発生する。主体性を
抑圧されているからだ。
ポストモダンはファシズムの温床だろ? 主体抜きに自由などあるはずがない。文字通り隷従への道だ。
1984は1984に始まったと言える。 ファシズムはまず道徳的無感覚から始まる。ポストモダンは
ファシズムの先駆であるのは自明の問題だ。 主観を持たない人間に思考が可能か?
無理に決まっている。お目出度い日本人は主体と主観が別の
概念だと信じているがなw 言葉遊びごっこを延々とやってりゃ思想だ批評だってあんたが「お目出度い日本人」の典型なんだわさw ピーターパンだけが歴史のない世界にいられる。
歴史は地獄絵図だからだ。 「主体の後には何が来るのか」って八重洲BCの四階に平積みに
なってなかったっけ? 「主体の後に誰が来るのか?」だった。
http://liberalarts.nobody.jp/so-nancy.html
主体の復権が何故か異端の排除になるから否定されて、インター
ネット全体主義が肯定されてしまうw 主体のないところにネットワークなんか成立するかよ。
挽き割り納豆は正統派は歓迎されない。 主体なきネットワーク主義は有機的全体主義になる。
飽きもせずにベルグソン=ナチズムを復元させるのが関の山か。 ネット商売で一山当てたひょうろく玉みたいな野郎しか見当たら
なくなっちまった。 遺伝子キチガイだのインターネットキチガイだのってアメリカ
由来の流行りもの思想が次から次へとバカ騒ぎを引き起こす。 末人よ、汝らは自由であることから自由であることを欲する。 白人のおとぎの国にむさ苦しいアジア人たちが大量に吸い込
まれて行く… 当事者たちの脳内ファンタジーを余所に、ニュースカメラは
冷酷なコントラストを捉えて離さない。 文化を喪失した民は、かくも下等な姿を世の面前に投げ出す
のであった。 ヨーロッパ人に同じ真似させると尚更、痛々しいけどなw 人間は運悪く生きることが無意味な世界に生まれてしまうことは
あるのだ。 世の中に価値ありと見なされる何事も、生きることの重みに
釣り合わない。そういう世界に間違って生まれてしまう不運
はある。 光の届かない海の底にだけ、遠い昔に世の中が捨てた言葉が
沈んでいる。 全ての価値を相対的であると断じる世の中はこれを全否定する
のも自由であり、良心の疚しさを感じる理由もない。
神は信じる者の神であって、信じない者の神ではない。 いやしくもニヒリズムを肯定するなら人間的共感も同情も期待
しないはずだ。非難されても受け付けるつもりはない。 他人に無視されて騒ぎ立てるニヒリズムというのはないんだぞ?
そんなバカな連中に差し向けてやる関心は持ち合わせてない。 人類全体への帰属意識とは、ラッセルのパラドクスのような
ものだ。
「それ自身を要素として含む集合」は要素が全体を吸収して
しまう。
「私」の「人類全体」への帰属は、それが達成された瞬間、
「私」は人類そのものになり、「他者」としての人類は解消
される。
「私」は相変わらず何物にも帰属されないまま取り残される
ことになる。人類への帰属意識とは、「私」が人類全体に対
して疎外され、従属的な状態にある時にのみ意味がある。
これは全体主義につきまとう共通の症状だ。 全体への帰属とは、何物への帰属もしないことだ。
ナショナリズムは常に他国との衝突で燃え上がる。帰属対象
としての国家とは、それが全体ではない、断片的集団である
ことによってのみ有意義になり得る。 他者は他者なままであればこそ、自分を救う可能性を持ち得る。
誰かを仲間にするとは、その者を自分の延長にすることであり、
自ら譲歩しない限りは自分を救う可能性のある他者を消去し
てしまう以上の結果にはならない。 何が言いたいのかと言うと、「全体主義の豚どもは死ねよ」と
いうことだ。 「君子は水の交わり」とは良い言葉だ。
モラトリアム世代は友達ばかり欲しがる。